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日没国物語
原秀雄



         人生は食、衣、住、性、遊、夢――その混沌と坩堝《るつぼ》、
        その行きつくところは無、あるいは空《くう》。
         その生のほとんどを食に終える者もあれば夢に終える者もある。
        夢にも――一片のパンから人類救済までの無数がある。
         この書はすべての夢を追って書かれたものである。

一章
日没国に入る

            国境の石壁越え  日没国の起こり  国境の密林に迷う
            日没国人に救われる  山里の農家に泊められる

 夜明けのうす明かりと、おびただしい小鳥の鳴き声でぼくは意識をとりもどしました。(生きていた!)と感じると同時に「やった!」と叫んでしまいました。
 ぼくは日没国《にちぼつこく》にはいることに成功したのです!
 ぼくの目の上には幾重もの青葉がかさのようにおおいかぶさっていて、そのすき間からしらしらとした夜明けの空がのぞいていました。
 ぼくはあおむけに倒れていたのです。起きあがろうとしたとたんに、からだじゅうにはげしい痛みが走りました。目の上の木の枝が何本か白い折れ口を見せていました。で、ぼくはゆうべ、国境線の高い石壁から茂みをやぶって落ち、気絶していたことを知ったのです。痛みで起きあがれないので、ぼくはじっとしていることにしました。
 目をとじると、きのう一日の冒険が頭のなかに浮かびあがってきました。
 ぼくは幅八キロメートルあるといわれる無人の国境地帯の草原を、国連軍の監視兵の目をかすめてネズミのように走ったり、地虫のようにはいまわったりして、傷だらけになって国境線の石壁にたどりつ
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いたのです。もし運悪く監視兵に見つかっていたら、たちどころに自動小銃でからだをハチの巣のようにされていたでしょう。
 ぼくは石壁のそばの低い茂みのなかにもぐりこみ、息をころして夕暮れを待ちました。夜のとばりがおりたので、ぼくは茂みからはい出し、石壁の下に立ちました。そして、用意してきた、カギをはしにくくりつけた細いロープを石壁の上に投げかけたのです。それは、ぼくがはじめに考えていたよりずっとむずかしい仕事だったことを間もなく思い知らされました。何度やってもカギがうまくひっかかってくれないのです。ぼくは場所をかえたり投げかたをかえたりしていろいろと工夫をこらし、ぼくがそのときまでにやってきたどんな仕事よりも根気よくロープ投げを続けました。国境の石壁は高さが八メートルから十メートルくらい、厚さがところによって一メートルから数メートルくらいときいています。そしてそれは、岩石とコンクリートで固められていて表面がでこぼこなので、ばくの投げるカギが向こう側の岩のわれ目かくぼみにひっかからないはずはないのです。
 おそろしいじゃまものがあらわれました。それは監視しょうから照射される目もくらむようなサーチライトの光でした。それは死の光、巨大な悪魔の燃えかがやく目でした。そいつはコウモリ一匹も見のがさないぞとばかりに草原をなめまわし、石壁を青白く浮かびあがらせました。が、ぼくはそいつが気まぐれ屋でのろまなことに気づいたので、そいつがパトロールしてくると、すばやく草むらやくぼ地に身をふせて仕事の手を休ませました。
 夜はふけてゆき、ぼくは汗だくになり、あせりました。何百回目かにカギのツメががっちりと石壁をひっつかんだときには、ぼくはもうへとへとに疲れはてていました。ぼくは残ったぜんぶの力をふりしぼって石壁をよじ登りました。やっとのことで石壁の上までたどりつき、その幅広いてっぺんに腹ばいになってひと休みしようとしたそのとき、いきなり悪魔の光が横なぐりにぼくをおそってきたのです。
 ぼくはとっさに反対側の石壁のふちに両手をかけてぶらさがりました。目もくらむ光の大波が一瞬のぅちに通りすぎたかと思ったら、すぐ逆もどりしてきてピタリととまりました。一連の銃声、つづいてもう一回、石壁が弾丸をはねかえす音! ぼくはただもう無我夢中で指さきに力をこめてぶらさがっているばかりでした。
 悪魔の光は去りました。暗やみのなかで、ぼくは片手をはずしてカギをさがしましたが見つかりませんでした。それはサーチライトをかわすとき落としてしまったのでした。ぼくの背の高さは一メートル六○センチですから、地面までは六メートル以上もあると考えられました。ぼくは足の下がどうなっているのか、なんとかして知りたいと思いましたが、下はまっ暗やみです。しかも、両手の指はもうからだの重みをささえきれなくなっていました。……とうとうぼくは日没国の暗やみのなかへ落ちてしまったのでした。
 明るさが増してきました。きのうとおなじような真夏の一日が始まろうとしていたのです。……それにしてもなんというおびただしい小鳥どもの鳴き声だったことでしょう。
 ぼくは両手をかわるがわるそっとあげてみました。いくつかのかすり傷には血が黒くこびりついていました。腕時計はこわれていました。首を左右に動かしてみました。それから足や腰などをすこしずつ動かしてみました。全身に痛みがあって、すぐ起きあがることはできませんでしたが、幸いなことに、とくにひどい傷はないようでした。ただ、もうれつにヤブカにさされ、まぶたがあがらないほど顔がはれあがってはいましたが……。
 安心すると同時に空腹を感じました。ぼくの小さなリュックサックが二、三メートルはなれたところにころがっているのを発見したので、ゆっくり時間をかけてそこへはってゆき、なかからビスケットやチョコレートを取りだしてかじりました。残りすくない水筒の水を半分飲みました。
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 空腹がおさまり、元気をとりもどすと、こんどは新しい恐怖におそわれました。幅八キロメートルあるといわれる日没国側の無人の国境地帯がまだ目の前にあるのです。そこは地雷原となっていると聞いていますし、そのむこうには監視兵や警備兵がいるはずだからです。むかし、この国境線の石壁の両側で、国境突破をこころみた何万という人びとが国連軍と日没国軍によって射殺されたり爆死させられたことがあるという話です。……しかし、もうぼくは引き返すことはできないのです。(進むだけだ、進むだけだ!)とぼくは自分に強くいいきかせました。
 ぼくは夕方のうすやみがおりてくるまで待つことにしました。厚い青葉の層が、真夏の太陽と、おそらくは監視兵の目からぼくをまもってくれました。ぼくはリュックサックをまくらにして横たわっていました。いろいろな種類のセミが天地いっぱいにやかましく鳴きたて、草むらの虫の声もその合唱に加わっていました。ときどき、そよ風が木や草の葉をそよがせ、むせるような草いきれを運んできました。ぼくはうとうとまどろんだり、いろいろなことを思いうかべたりしていました。
 ぼくの家出に横浜の父母や姉はどんなにおどろき、とまどい、悲しんでいることでしょう! 中学校の先生や同級生、それに学習塾の友だちもどんなにおどろいていることでしょう! でも、きのう国境の村から出したぼくの手紙がとどいたら、ぼくがどんな気持ちからこんなことをやってしまったか百分の一くらいはわかってもらえるでしょう。(わかってくれなければ、それでもかまわないや)とぼくは自分にいいきかせました。
 しかし、ぼくの思いはすぐ日没国のほうに引きもどされるのでした。
「日没国」――といっても、それが正式の国名というわけではありません。それは日本人が、失われた領土の一部に対する悲しみの気持ちと、いまもって祖国にむかって何の呼びかけもしてこないそこの人びとのガンコさに対するいらだちとけいべつの意味なこめて勝手につけた呼び名にすぎないのです。かれらは自分の国をどう呼んでいるのでしょうか? そして、かれらはどんな生活をしているのでしょうか? ぼくらはこの国のことについて、ほとんど何も知っていないといってよいのです。ぼくらが知っていることといったら、つぎのようなわずかなことだけです。
 一九四五年。第二次世界大戦で日本軍が連合国軍に大敗北したとき、連合国は日本からその領土の一部を切りはなしました。その区域はほぼ北緯三八度線より北、津軽海峡より南の旧東北地方の大部分で、領海は十二カイリとされました。地つづきの国境地帯には日本軍の捕虜百万人が送りこまれ、住民はおっぱらわれ、山はくずされ、谷は埋められ、木は切りはらわれて、幅十六キロの無人地帯がつくられました。そしてそのまんなかに国境線の石壁がきずかれたのです。連合国は文明と進歩、民主主義、人類の生存の仕方などの偉大な実験のために、この区域を今後五十年間、日本はもとより世界各国から完全に分離し閉鎖して、カンヅメにすると宣言しました。それからのちも国連軍によって、この閉鎖は厳重にまもられてきているのです。で、一九七四年のいまから二十一年後の一九九五年にならないと、このいわば地球上の真空地帯に閉じこめられてしまった人びとの運命を世界の人びとは知ることができないというわけです。このカンヅメのやりかたは、当時、世界じゅうの多くの人びとから原子爆弾にもおとらない残酷な実験だとごうごうたる非難をあびせられたそうですが、連合国側は、もしかれらが救いを求めてくれば、いつでも必要とみとめる援助をしてやる用意があるからよいのだと答えていたそうです。ところがどういうものか、日没国の人びとはいまもって何ともいってこないのです。
 人工衛星から写した写真でみると、その国は一面に緑でおおわれており、都会らしいものは一つも見られないそうです。しかし、そのほとんどを占める森林のあいだに、田畑や草地や、わずかな鉄道や道路がみとめられるので、かなりの人間が住んでいることはたしかだそうです。で、日本では日没国の人びとは百年も前の貧しい生活にもどってしまったのだろうと想像しているのです。
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 日本からもっとも近くてもっとも遠い国、月よりも知られていない国、この地球上にのこされた、たった一つの未知の国! その国にいまやぼくは足を一歩ふみいれており、その国の様子を自分の目で見ることができるのです! そしてうまくゆけば、ぼくはその国のことを日本――いや、世界じゅうの人びとに知らせてやることができるかもしれないのです!が、すぐ(ばかをいえ)とぼくほ自分をわらいました。たとえ、この国の様子を見ることができたとしても――いや、その前に、ゆうべそうされかかったように、犬ころのように撃ち殺されるかもしれないのです。
 ぼくはゾッとしてあたりを見まわし、頭をそっともちあげて草原をながめまわしました。ところどころに低い木木の茂みをもった草原がはるかむこうの森までひろがっていました。国連軍側の草原にくらべると、日没国側のそれはもう何年も人が手入れにはいったことがないようで、自然のなすがままにまかされているといった感じでした。夏の光はさんさんとしてふりそそぎ、ときどき小鳥が飛びかい、草原はかげろうにゆらめいているばかり……平和そのものといった風景でした。
(だが、油断できないぞ)とぼくは考えました。(こっちは国連軍のように派手にやらないだけで、ゲリラ式に陰険にやってるにちがいないんだ)もし油断してのこのこ出かけていったら、どこかの茂みから一発でやられてしまうかもしれないのです。そう思うと、平和な風景がよけいにおそろしくなってくるのでした。
 ぼくはまたリュックサックをまくらに寝ころびました。(殺されたってどうってことはないや)とぼくは自分にいいました。父の言葉が思い出されました。父にいわせると、ぼくはくだらない漫画や小説ばかり読みふけっている怠けもので、かんじんの学校の成績が悪いので、ろくな高校へも、ろくな大学へもはいれる見こみがないそうです。したがって、この人間がいっぱいで生存競争のはげしい日本ではろくな仕事にありつけないそうです。ぼくの父は弁護士で、ろくな仕事にありつけたほうだと自分でも認めていますが、しかし、どちらかといえば気苦労ばかり多くて貧乏だそうです。すると、ぼくの将来は絶望的で、あまり楽しいものではなさそうですから、日没国で消されてしまってもたいして惜しいことではないわけなのです。
 夕やみがおりてきたので、ぼくはリュックサックを背負って注意深く立ちあがりました。からだじゅうのふしぶしはまだ痛み、びっこを引きましたが、木の枝を折りとってつえにするとどうやら歩くことができました。草地は監視兵に発見されやすいし、地雷原になっていそうに思われたので、茂みをさがしてそれを伝いながら、うすれてゆく日の光と競争で汗だくになって森を目ざして急ぎました。
 ふらふらになって倒れそうになったころ、目の前に黒ぐろとした大きな森がのしかかっているのに気づきました。ぼくはまっ暗なその森にのめりこむようにたどりつくと、太い木の根もとに倒れるように横たわりました。ついに危険な国境地帯をだれにも発見されずに突破したと思うと、張りつめていた気がゆるんで、もう一歩も歩く気になれませんでしたし、森の暗やみは進むことをゆるしませんでした。
 で、ぼくは木の根っこをまくらに、そこで一夜を明かすことにしました。

        ☆ ☆ ○ ☆ ☆

 高いこずえで鳴きかわす小鳥の声で目をさましました。早朝のうすら赤い日の光が斜めにしま模様をえがいて森のなかへ射しこんでいました。起きあがってみると、まだからだの痛みはあちこちに残っていましたが、きのうよりずっと軽くなっていました。ぼくははるか草原のかなたを白く区切っている石壁をながめ、それと直角になる方向をとって森の深みへ深みへとはいってゆきました。それはもちろん監視兵の目からのがれるためです。
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 その森は何百年も人がはいったことがないと思われるような針葉樹の密林で、すばらしい隠れ場所でした。ひとかかえもふたかかえもありそうな太い幹が果てしなく広がり続いているので、見まわすと幹のつい立てにかこまれているような感じをうけるのです。その上、生い茂ったササやシダがからだの半分を隠してくれるのです。ちょっと幹のかげに隠れたり、ササのなかにしゃがみこめば、どんな猟師だって見つけ出すことはできないと思われました。ぼくはすっかり安心して森に感謝し、下草をかきわけかきわけ奥へ奥へと進んでゆきました。が、森はいきなり足もとから大きな鳥を飛び立たせたり、ネコほどの大きさの動物を跳びはねさせたり、高いこずえの上で小さなけだものを矢のように走らせたりしてぼくをおどろかせました。はじめ、ぼくはぎょっとして血の凍る思いで立ちどまったものです。しかし、それがキジや山ウサギやリスのような森の平和な住人だとわかって安心し、(やあ、こんにちは)と心のなかであいさつをおくるようになりました。
 ずいぶん歩きつづけましたが、森はますます深くなるばかりでした。ふりあおぐと、高く厚い葉の層をとおして、太陽がちょうど頭の上にさしかかっていることがわかりました。ぼくはシダの葉の上に腰をおろし、乾パンをかじりながら考えました。(うまくやった。もう監視兵に見つかることはないだろう……)しかし、そのつぎにはろうばいしている自分に気づかなければなりませんでした。ぼくはすっかり方角を見うしなっていたのです。森はほほえみを引っこませ、気むずかしい表情に変わっていました。うす暗く、ひんやりと冷たく、朽ち葉やコケのにおいのする青い空気。海の底のような密林の底。考えてみると、ぼくはこんな深い深い森のなかに一度もはいったことがなかったのです。(いったい、ぼくはどこをどう歩いているのだ※[#!?] もし、この森から出られなくなったらどうなるのだろう※[#!?])背すじを恐怖が走りました。(ぼくは森の捕虜……そして……)ぼくは朽ち葉の上にころがっている自分の白骨を想像しました。
 ぼくはがむしゃらに低みへ低みへと歩きつづけました。流れを、そして谷を見つけ出し、それにそってくだってゆけば人家にでくわすにちがいないと思ったからです。森はきびしい表情に変わりました。巨大な倒木がなんども行く手をさえぎりました。その木の死体に巣くっている奇妙な色や形をしたキノコの群れがぼくをあざわらいました。毒毒しい大グモの網もいやなじゃまものでした。ぼくはつえにしていた木の枝で、しょっちゅうこの網を打ち破らなければなりませんでした。すると大グモはすばやく退却しながらぼくをにらみつけるのでした。
 うす暗い密林の切れ目に明るくかがやく落葉樹林を発見したとき、ぼくは息わず大声で「ばんざーい」と叫んだほどのよろこびに満たされました。もうここまでくれば監視兵に見つかりしだい撃ち殺されるようなことはないだろうと思いました。
(密林よ、ありがとう! そして永遠にさようなら!)ぼくは黒ぐろとした森に手をふって別れを告げ、明るく陽気そうなアカマツまじりの落葉樹林によろこび勇んではいってゆきました。イバラにこっぴどくひっかかれはしたものの、たしかにそこは明るく陽気な林でした。小鳥どもは枝から枝へ飛びかいながらさえずり、セミどもはただもう一心不乱にうるさく鳴きたてていました。ナラやクヌギの幹には、甘ずっぱい香りのする白い樹液にスズメバチ、コガネムシ、カブトムシといった連中が頭をよせあつめて群がり、ま昼の宴会をやっていました。そして、ぼくが通りかかると、臆病もののコガネムシは根もとまで墜落して落ち葉のなかに身を隠し、勇敢なノコギリクワガタはノコギリ剣をふりあげて身がまえるのでした。なんとかわいらしい虫ども!
 ぼくはとうとう林のなかのくぼ地に流れを見つけ出しました! コケむした岩のあいだのちいさな流れ、水晶のようにきらめき動く流れ、かすかな涼しいしらべ、救いの流れ! ぼくはそのつめたい流れに足をひたし、顔を洗い、のどのかわきをいやしました。おどろいたことには、両手にすくった水のな
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かにもちいさなちいさな、針の先でつっついた点ほどの森のいきものの仲間がたくさんいて、くるくると目まぐるしく泳ぎまわっていたのです。けれども、ぼくはかまわずに飲みほし、最後に残っていたチョコレートを食べました。
 流れにそって長いことくだりました。日がかたむきかかり、足が棒のようにいうことをきかなくなったころ、人里ちかくにきたと見えて、大きな切り株がたくさんある林にはいりました。そこを通りぬけたところはかなりの広さの谷あいで、はるか下のほうに四、五軒のわらぶき屋根が緑の木木に埋もれているのが見られました。(あそこで一晩でも二晩でもかくまってもらおう)とぼくは考えました。ともかく、見つかりしだい射殺されるときいていた国境地帯は通りすぎたように思われたので、あとは運悪くこのへんにいるかも知れない国境警備隊につかまらないかぎり、そうひどい目にはあうまいと考えられたのです。ぼくは最後の力をふりしぼり、わらぶきの家を目ざして谷あいを降りてゆきました。
 ヒグラシゼミの鳴きしきるなかでぼくは一軒の家の戸口に立ち、声をかけましたが答えがないので戸をあけてみました。うす暗い家のなかはがらんとしていて、長らく人の住んでいた様子がなく、ところどころにクモの巣が張られていました。つぎの家も、そのつぎの家もおなじでした。そういえば、どの家の庭も荒れはてて雑草の生い茂るにまかせてあったのです。
 最後の廃屋の入り口でぼくが失望して途方にくれていたとき、遠くから犬の鳴き声と人の話し声がきこえてきました。全身の血がさっと引いてゆくのが感じられました。(軍用犬※[#!?] 警備隊※[#!?] とうとう捕まる! 隠れようか? いや、いけない、だめだ。どうする?……)ぼくはどうしてよいかわからず、入り口のあたりをうろうろしただけで、あとは庭に立ちつくしてしまいました。
 夕日にからだを赤く染めた五、六人の男たちが林から姿をあらわし、ゆるやかな下り坂の小道を降りてきました。かれらは軍隊の戦闘帽のようなものをかぶっていました。夕日になにかの刃物がきらめきました。(警備隊だ!)とぼくは思いました。が、兵隊たちに注意をはらっているひまはありませんでした。ぼくを見つけた赤犬が二匹、猛烈ないきおいでぼくを目ざして突進してきたからです。赤犬どもはすさまじいいきおいでぼくにほえかかり、とびかかってきました。ぼくは恐怖に動転し、無我夢中でつえをふりまわして防ぎました。男たちがやってきて犬をしずめにかかりました。
「ぼくを撃たないで!」と夢中でぼくは叫びました。「殺さないでください! 助けて! ぼくは日本人です! きのう国境をこえてきたんです!」
「ホウ!」「ホウ!」と男たちはおどろきの声をあげ、目を丸くしてぼくを見つめていました。
「いや、心配せんでもいい、こどもさん」とひとりの男がいいました。「わしらはそんなことをしやしないから」
 ほっとして男たちをよく見ると、かれらのだれひとりとして銃や刀などの武器を持ってはいなかったのです。男たちは腰に山刀のようなものをつりさげたり、のこぎりを持っていただけでした。かれらは山の人夫かお百姓らしく、だれもかれも人の好さそうな顔つきをしていました。ぼくはすっかり安心しました。すると、急に噴火がはじまったように言葉がふき出しました。何しろ、まる三日間というもの人と話をしてなかったのですから。ざっとこんな具合でした。
「ぼく、名前は森平四というんです。モリ・ヘイシ。日本――ヨコハマ市に住んでいます。中学三年生、十五歳です。父は弁護士をしています。あまり景気はよくないそうですが、つまりまともな商売なんです。父がそういってたからたしかでしょう。ぼく、日本にいちばん近くていちばん遠い国のことを知りたくてやってきたんです。(これは半分はうそですが)国境警備隊にぼくを引き渡さないでください。スパイはすぐ銃殺でしょう。ぼく知っているんです。ぼくはぜったいにスパイじゃありません。信じてください。もし、ぼくをどこかに引き渡すんなら警察にしてください。けど、ぼくの考えでは新聞社の
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ほうがはるかにいいと思います。ぼく、総理大臣か大統領にじかに会いたいんです。(これはそのときとっさに思いついたことです)そしてこの国にしばらく置いてもらうようにお願いしたいんです。だめなら県知事でも村長さんでもかまいません。……」
 男たちはあきれたような顔をしてぼくの演説をきいてくれてから、ひたいをよせあつめてしばらく小声で何か相談しました。そのあいだにぼくはようやく落ちつきをとりもどして、かれらの様子を観察しました。かれらはみんなたくましいからだをしていましたが、服装はそまつなものでした。戦闘帽だと思った帽子は、むかしの日本軍の戦闘帽と鳥打ち帽子のあいのこのようなへんてこなもの、服は労働者の作業服のようなものでしたが、あちこちにツギが当たっていたのです。
 ぼくはかれらに連れられて下のほうの村にゆくことになりました。かれらは持っていた道具を廃屋のなかにしまいこんで身軽になり、ぼくをまんなかにはさんだ一列の隊形で細い山道をくだりました。道は曲がりくねった急な坂で、木の根や岩が突き出ており、うす暗がりのなかを歩んでゆくのはひどく骨が折れました。おまけにぼくは一日じゅう密林を歩き通してきて疲れはて、腹ぺこだったのです。で、ぼくはすこし歩いたと思ったらふらふらして泳ぐようになり、とうとう何かにつまずいてころんでしまいました。すると、ぼくのうしろにいた男が黙ったままぼくを助け起こし、アメリカン・フットボールの選手のような背なかに軽がると背負ってくれました。けわしい山道でしたが、男たちはすごい速さでずんずん進んでゆきました。やがて平地となり、黄色いともし火が遠くにぽつんぽつんと見えるようになりました。もうすっかり暗くなっていてよく見わけがつきませんでしたが、両側は田んぼらしく、カエルどもが合唱をしていました。
 村はずれのある家のそと庭にぼくは二人の男といっしょに残され、ほかの男たちはその家にはいってゆきました。家のなかから電話のベルの音や話し声がきこえてきました。ぼくは不安になり、警備隊か警察にぼくのことを報告しているのかどうかを連れの男たちにききました。
「そんなものはいないよ」と連れの男は笑って答えました。「きみが今夜泊まるところを心配しているんだよ」
 ぼくは警備隊も警察官もいないへんぴな村に自分が首尾よくはいりこんでいたことを知り、幸運を神に感謝しました。やがて二人の男はぼくが一晩泊めてもらうことになった家にぼくを連れていってくれ、よくお休みといって立ちさりました。
 その家は古ぼけた木造の大きな百姓家でしたが、おじいさんとおばあさんだけしか住んでいませんでした。そのおばあさんがぼくの世話をしてくれたのです。かのじょは、大きながっしりしたからだをもった女で、いかめしい顔つきをしており、ぶあいそうでした。しかし、とてもてきぱきと仕事をかたづけてゆく性質のひとでした。かのじょはぼくのあいさつには軽くうなずいて答えただけで、さっそくぼくの身体検査をし、「よろしい、かすり傷だけだ」とまるで軍医のような口調でいいました。
 おばあさんはぼくを奥のほうの古ぼけた畳敷きの部屋に案内してくれました。それはちいさな木机が一つおいてあるだけの何のかざりもない八畳間でした。それからかのじょは、お茶――かと思ったら、薬草みたいな香りのする妙な飲み物をもってきて「飲みなさい」と命令するようにいいました。ぼくがいろいろ話しかけても、かのじょは必要なこと以外はしゃべるまいと決心しているかのように、ほとんど口をききませんでした。(そうだ、ぼくは国境やぶりの重罪人なんだ)とぼくは自分にいいきかせました。(おばあさんは重罪人と口をきくことを禁じられているにちがいないんだ。手錠をかけられないだけでも感謝しなければならないんだ)
 おばあさんが運んできてくれた夕食をぼくは地獄の餓鬼のようにむさぼり食いました。それはぼくが生まれてはじめて食べた黒いムギめしというものと、みそしる、魚の干物といった献立でしたが、これ
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ほどおいしい食事をしたことはそれまでに一度もありませんでした。腹いっぱい詰めこむと、こんどはごろりと横になって眠りたくなりました。しかし、おばあさんは断固として入浴しなければいけないといい、ぼくを家の裏手にあるふろ場に案内するのでした。
 低い小屋のなかにふろ場があり、たなにろうそくが一本ともされていて、あたりをうす明るく照らしていました。分厚い板でつくられた四角な湯船から湯気が立ちのぼり、薬草の香りをただよわせていました。湯船の横では、丸木をくりぬいてつくられたかけひ[#「かけひ」に傍点]から、ちろちろとかすかな音をたてて木おけに水が流れ落ちていました。(この村の人びとは貧しいくらしをしているんだな)とぼくは考えました。(むかしながらの生活をしているようだ。やっぱり百年前の生活にぎゃくもどりしたんだ)しかし、湯に沈んでふろのふちに頭をもたせかけ、手足をのばしていると、なにもかも頭からはなれ、静かな、なごやかな気持ちになってゆきました。ろうそくの火のまたたき、ちろちろという水のささやき、たき口でときどきたき木がはぜるぱちぱちという音、うっすらとただよってきて目にしみる煙、薬草の香り、遠くから風にのって高く低くよせてくるカエルの歌声……。(殺されなくてよかった)……ぼくは国境の石壁とサーチライトの光を思いうかべました。
 ふろからあがると、ぼくの服は持ちさられていて、かわりにさっぱりしたゆかたが置かれてありました。部屋にもどると、もう布団が敷いてありました。おばあさんは、あすの朝、早く起きなければならないからすぐ寝るように、といって電燈を消して去りました。
 静かな夜でした。庭で虫が鳴いていました。(あした、憲兵か警察官がぼくをつかまえにくるだろう)とぼくは想像しました。(それとも村びとに連れられて自首することになるのかしら)……たのしそうなカエルどもの歌声……。(でも、きょうは幸運だった……みんないい人たちだったから……あしたはあしたのことさ……)やがてぼくは死んだように眠りこんでしまいました。

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