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八章
日没国根本法についてのJDIの講話

            第一原則――自然に対する謙抑 第二原則――人口抑制
            第三原則――欲望の節制 いちばん貧しかった村へ

 静かなお茶のひとときでした。
 開けはなたれた窓のそとはクリやカエデやヤマザクラの深い林で、その空間は濃い緑色と無数のセミの声でみたされていました。セミの声はちょうど遠い彼の音のように高く低くリズムをとって林の呼吸を部屋のなかへ伝えてきました。「ことしはセミがよく鳴くから豊作だろう」とジロベエさんがポツンとひとりごとをいったあとは、お茶をすする音ばかり。二人の老人はじっとセミの声に耳をかたむけているようで、その二人を見ていると、ふと、仙人《せんにん》とはこんなふうな人だったのではなかろうかと思われるのでした。
「さて、平四くん……」という遠くからの声でぼくはわれにかえりました。サンエモンさんが茶わんをそっとテーブルにおきながらぼくに話しかけていたのでした。
「根本法――きみの国でいう憲法の話をすこしばかりしようかね。だがそのまえに、もしきみが教わったことがあるのだったら思い出してもらいたいのだが、きみの国の憲法の背骨となるような主な原則は何だったかね?」
「はい、社会科で教わっていますから……」とぼくはちょっとまごつきながら答えました。「えーと、三本の柱……国民主権、平和主義、……それに基本的人権の尊重……その三つだったと思います」
「ああ、そうだったね。思い出したよ。それは大敗戦から生まれた三つ子だったね。いや、大敗戦でいただいた三つ子といったほうがいいだろう。ところで、わたしらの日没国ではいただきものはなかったので、自分たちでやはり三つ子を生んだよ。それはあの『大飢餓』の地獄のなかから生まれてきた三つ子だ。きみの国の三つ子はアメリカのミルクで育ったが、わたしらのはアワがゆで育った。おなじ三つ子でも生まれも育ちも違うように、顔かたちはまるっきり違っているよ」
「その根本法の三原則というのはどういうものですか?」とぼくは待ちかねてききました。
「よろしい。はじめよう。だが、もう一つそのまえに……」といってサンエモンさんは首をかしげました。「ちょっとむずかしい言葉を使うかもしれないが、だいじょうぶかね。たとえば、謙抑《けんよく》とか抑制とか節制といった……」
「その心配はいりません」とカンさんがいってくれました。「平四はかなりのものを読みこなしています。国語の力はたしかなようです。ただ、数学とか英語のほうは……」
「そっちのほうはまるっきりダメなんです」とぼくはいさぎよく白状しました。
 サンエモンさんは笑ってうなずくと、目をなかばとじてゆっくり話しだしました。
「わたしたちは人間である前に、地球上の無数の生きものの一種、人類であるにすぎない。すべての生きものは、太陽と地球――その自然のめぐみによって、つかの間の生命をさずけられているだけのものです。で、わたしたち人類は何よりも自然に対して謙抑でなければならないとわたしたちは考える。これがこの国の根本法の第一原則なのだよ。これから第二、第三の原則がみちびき出される。人口を抑制しなければならないこと、これが第二原則。生めよふえよ地に満ちよという言葉は、いまでは人類に対

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するのろいの言葉となったから。欲望を節制しなければならないこと、これが第三の原則。ひとりひとりが思い思い自由気ままに幸福を求めるということは第一、第二の原則からしてゆるされないことになるのだから。こういうことが人類の最後の日まで不変で最高の真理としてわたしたちの根本法にかかげられているのだよ。そのつぎに、自由だとか平等だとか平和だとか、民主主義だとか人権だとか――つまり、人間と人間とのあいだの問題がくるとわたしたちは考えるのです……」(やっぱり思ったとおり! ……奇妙キテレツな憲法だ!)ぼくはおどろきながらペンを走らせました。
(そんなことを憲法にかかげるなんて、いままでだれからも聞いたことがないし、どんな本ででも読んだことがない!)
 サンエモンさんは、ぼくのペンさきに足なみをあわせるかのようにちょっと言葉を切っていいました。
「もうすこし、くわしく話してみよう。まず第一原則から……」
 そしてまた、ゆっくり話をつづけました。
「どんなに科学を発達させようとも、わたしたち人類は地球以外の星に住むことはできないね。わたしの国の学者たちは、月や火星へゆくまでもなく、それを見きわめている。わたしたちは、自分たちの手で日いちにちと小さくしているこの星に住みつづけなければならないのだよ。人間は自分たちをすべての生きものの王、この星の主と考えているが、それは一瞬のまぼろし。たれが人類のあとに来るもののことを知ろうか。人間は太陽のもとでいのちをあたえられ、うごめき、動きまわるすべての生きもののなかのケモノにすぎない。他のケモノとおなじように、空気を吸い、水を飲み、ものを食べ、産み、ふえるケモノ、太陽と大気と土と水によって生きるケモノにすぎない。他の生きものと違っていることは、火を使い、罪ふかいおこないができるサルであるということだね。だから人間は自分を生かしてくれているものに対して、おそれ、つつしみ、ひかえ目にしていなければならない。いばってはいけない。おごってはいけない。むさぼってはいけない。こわしてはいけない。かきまわしてはいけない。よごしてはいけない。それは自分たちをほろぼす道なのだから。ところが、思いあがった、この小知恵にたけたサルどもは、自分たちの先祖が百万年かかってやってきた罪ふかいことの何層倍ものことを、この百年のあいだにやってのけた……」
 ぼくはサンエモンさんがとほうもなく大きなことをいい出したのにおどろき、ペンをおいてその顔をながめました。しかし老人は大まじめでつづけるのでした。
「大気――この星をつつんでいる恵みの膜、その恵みとても厚くはなく、無尽蔵でもないのだよ。大気のなかの酸素は何十億年もかけてプランクトンや草木がつくりだし、たくわえてきたもの。ところが人間は、これなしには一分間も我慢していられないほど大切なこの酸素を、石炭や石地やガスを燃やしたり、焼き畑のために森林を焼きはらったりしてめちゃくちゃに浪費し、とほうもなく大量の炭酸ガスを放出している。こんな調子でやっていくとするなら、何十年かさきには全動物の命に危険を感じると思われるほどのひどい浪費なのだ。そのため最近の百年の間に大気中の炭酸ガスは、一四パーセントも増加してしまったということだ。こんなことをしていると、このガスの膜が地上をつつんで熱をためるため、二十一世紀にはいるころには地球上の温度が何度かあがり、北極と南極大陸の氷がぜんぶとけて、世界じゅうの海沿いの都会が海に没してしまうという学者がいる。かと思うと反対に、火を使うことなどで出されるケムリやチリやホコリが、大気中にたまって太陽熱をさえぎるため、地球が冷えこんで、あの天明の大飢饉のような冷害がくるという学者もいる。どっちにしてもおそろしいことだと思わないかね?
 ところで平四くんよ。きみの国の空気はおいしいかね? この国のようにおいしい空気を吸うことができない人たちがたくさんいるんではないのかね? スモッグとか大気汚染とかいう問題がやかましく
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なってきたことをきみはきいたことがなかったかね?」
 ぼくは黙ったまま、首を横にふったり、うなずいたりしていました。サンエモンさんの話がだんだんわかってきました。ぼくはふたたびペンをとりました。
「わたしの国の人びとが海や森や草地をかけがえのないものとして大切にしている理由の一つは、いつまでも大気をきれいにしておきたいからなんだよ。
 大気でさえもおそろしいほど浪費され、汚染されているのだから、大地がめちゃくちゃにいたみつけられていることはもちろんだね。たいへん残念なことに、文明国だとか先進国だとかいっていばっているきみの国が世界じゅうでいちばんそのひどいことをやってのけた。しかも、最近のたった二十年間に!
 なんと、追いはぎのようにすばやく荒っぽく大地の緑の生皮をひんむいたことだろう! 山はけずられ、森の木は切られ、田畑はつぶされた。むかしからのよき友――鳥やけだものは追っばらわれ、かわいらしい小さな友――昆虫たちやカエルやドジョウやタニシたちまでもほとんど根だやしにされかかっている。そしてそのあとは、コンクリートや鉄やアスファルトで固められ、工場や鉄道や道路や商店や住宅や遊び場所にされてしまったのだよ。おまけに、残り少なくなった田畑は、農薬と化学肥料で息もたえだえというていたらくだ。
 こんなありさまなんだから、水がひどいあつかいをうけていることも当然だろうね。まず、天の川の底をぬいたような大浪費がある。ことに大都会はさながら永遠にかわいている巨大な竜のようなもので、雷神も舌をまく飲みっぷりだ。やがて水は不足し、巨大な竜はのたうち苦しまねばならなくなるだろう。そのうえに、浪費された水は商工業や家庭の廃液、汚水となり、これに田畑に大量にまきちらされた殺虫剤が加わって川や潮や海へと流れこみ、その大地の心臓や血管をどす黒く腐らせているというわけなんだよ。
 わたしたちは、あの日本のチベットといわれる長野県の四つの川さえ汚されて魚が食べられなくなり、そのまんなかにある諏訪湖さえほとんど死にかかっているということを知っているよ。日本じゅうの数えきれない大小の川や沼が窒息死してしまったことも、東京湾や瀬戸内海や不知火《しらぬい》海などが死の海となってしまったことも知っている。そして、川や海からイタイイタイ病とかミナマタ病とかいう世界に類のないおそろしい病気が生じたことも知っている。文明国とか先進国とかいわれる国はみんなおなじようなことをやっているが、なかでも日本がいちばん先頭を走っているのはなぜだろう?……」サンエモンさんは言葉を切って目をみひらき、「どう思うかね、平四くん」ときいてきました。
「でも、日本はGNP世界第三位の経済大国になったそうですよ」とぼくは自分の国のために精いっぱい弁解しました。「いまの日本国民は、第二次世界大戦前にくらべると、比較にならないほどよい生活ができるようになったと父がいってました。いまではどんな家庭でも電気洗たく機や電気冷蔵庫やカラーテレビをもっていますし、四人に一人が自動車や電話をもっているんです。中学卒業生のほとんどは高校にはいりますし、高校卒業生の三分の一は大学にはいっているんです。その気にさえなれば、国民の半分は世界じゅうへ観光旅行にでかけることだってできるんです。こういう豊かな生活を楽しむために、空気や大地や水が汚されたり、いためられたってしかたがなかったんだと思います。どうせ人類は自然を征服して進歩してきたんです。これからさきもそうでしょうからね。ただ、あんまり自然をこわしすぎるのは反省しなければなりませんが……それは、これからうまくやればいいでしょう」
 二人の老人とカンさんはたがいに顔を見あわせてほほえみました。
「きみがそういうのもむりはないね。きみはとても若いし、おまけに日本の繁栄のなかで生まれ育ってきた子だから」といってサンエモンさんは自分の話にもどりました。「だが、その繁栄は、わたしたち
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の祖先がこの大地でハマグリを食べて生きていた一万年前からこのかた、たったの二十年ぐらいのものでしかないということを忘れてはいけないよ。
 ところで、ゆうべ聖書を読んでいたら、伝道の書というところに『光はこころよいものである。目に太陽を見るのは楽しいことである』という言葉があった。青い空、緑の草木、清らかな流れを見るのはなおさら楽しい。わたしたちは、きみがいったような道具や遊びのためにすこしでも自然をこわしたいとほ思わないね。またこういう言葉もあったよ。『片手に物を満たして平穏であるのは、両手に物を満たして労苦し、風をとらえるのにまさる』とね。わたしたちは、だれも片手にもてるくらいのものしかもっていないが、そのかわり、みんなべつの手に平穏をもっている。それから、自然の征服ということだが、わたしたちは、自然に従うことなしに、それとともに生きることはできないと考えているんだよ。またその書物に『人は獣にまさるところがない』という言葉もあったが、そういわれる人間がおのれを生じさせた自然を征服したり支配したりするなどということは決してできることではない。そうできたと思っていてもそれは大きな間違いで、じつは自然を一時よごしたり、ゆがめたり、こわしたりしているだけのことなのだよ。しかも、自然を支配し征服したと思っているその分だけはかならず自然から仕返しされることになるのだが、人間はそのことをさとろうとしないのだ」
 風をとらえるようなむずかしい話になってきましたが、その風に吹かれているとこころよいので、ぼくはつつしんできいていました。
「さて、第二原則にはいるとしようかね」サンエモンさんはまた目をなかばとじて、ゆっくり話しだしました。「人口の無秩序の増加――これこそ人類が身のほど知らずにも大自然を破壊し、せっせと自分の墓穴を掘っている最大の原因、人類の最大の不幸と悲惨にかんする問題なんだよ。それは原子爆発よりもおそろしいこと――人口爆発とさえ呼ばれている問題です。さあ、いっしょに考えてみよう……。
 一九七四年のいま、地球上の人口は三八億九、○○〇万になった。あと二年たらずで四十億をこえるだろう。日本は百年前の四倍ちかくふえて、いま一億二○○○万となっているから、二年たつと地球上に日本一国ぶんの人間がふえることになるんだよ。こうしてふえてゆくと、二○○○年には七十億をこえるだろうといわれている。
 さあそこで、かんじんの食糧のほうはどうだろうか。……全世界の陸地の三分の一の農地は人類が何千年もかけて血と汗でつくりあげてきたものです。それはたがやして天にいたるというところまで利用されているので、これ以上に大きくふやすことはたいへんむずかしい仕事なのだよ。わたしたちは百姓だからそのことをよく知っている。赤んぼうのほうがトラクターより足が速いのだ。だから、いまでも世界の人間の半分は飢えになやまされており、まい晩すきっ腹をかかえてベッドにはいっているのだよ。もう、とうのむかしにこの地球は人間で満員になっているのです……」
 風をとらえるような話がふっとやんだと思ったら、「きみはマルサスの『人口論』という本を読んだことがあるかね?」という質問がぼくに向かって吹きつけてきました。残念ながらぼくはそんな本のにおいもかいだことがなかったので、「いいえ」と答えるほかはありませんでした。
「そうかね」とサンエモンさんは意外だというような調子でいいました。「この国ではきみくらいの年ごろになると、学校でその本のことを教わっているんだが……」
 かたわらでカンさんが大きくうなずきました。
「その本はいまから百七十年も前に書かれたものだが、おそろしい真理を語っている」とサンエモンさんはぼくのためにその本へまわり道をしてくれました。「その真理はたえず人類の上に重苦しくのしかかっている黒雲で、わたしたちは片ときもそれを忘れてはいけない。人間は十五歳にもなれば、この真理を知らされなければならないとわたしたちは考えているのだよ。マルサスはこういっている。
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 ――人口は制限されないばあいには二十五年ごとに倍増しつづけ、一、二、四、八、十六という割合でふえてゆく。ところが、これを養う食糧をこれとおなじ割合にふやすことは絶対に不可能で、それは一、二、三、四、五という割合でしか増加させることができない。で、人口はつねに生活物資――つまりは食糧の水準に制限されていなければならない。その制限としてはたらいているものをひと口にいうと、不幸と悪徳。それには、家族を養えない心配で結婚をひかえることや、結婚していても貧しさのために子供を死なせてしまうことからはじまって、病気や戦争などたくさんのものがあげられる。それらが制限しきれないときには最後に飢饉がひかえていて、そのおそるべき力の一撃でもって、いっきょに人口を食糧とおなじ水準にしてしまう……。
 どうだね、平四くん? よく考えてみればあたりまえのこと――これが大自然の法則です。このことを知っていないと人類の不幸と悲惨が理解できないのです。わかるかね」
「チュウショウ的なお話ですから……」とぼくは正直にいいました。「半分くらいしかわかりません。でも、その人のいうように人口がふえてゆくものなんでしょうか?」
「よろしい。では身近でわかりやすいから、きみの一家の人口のことを考えてみようかね」とサンエモンさんは自信に満ちた調子でいいました。「きみのひいおじいさん、ひいおばあさんが生まれてこのかた、約百年間のことをみよう。この二人が結婚してからいままでに、その血をうけた人たちは何人になっているか計算してみてごらん。まず、きみのお父さんのほうから……」
 ぼくはその妙な質問に興味をそそられたので、ノートに家系図を書いてみました。ひいおじいさんもひいおばあさんもぼくの生まれる前に死んでいたので、写真で顔を見たことがあるだけの人たちでしたが、おじいさんの代からのちの人たちはみんな知っていました。
「ひいおじいさんもひいおばあさんもとっくに死んでしまいましたが」とぼくは図を見ながら答えました。「その子は七人です。むかしはずいぶんたくさんの子をつくったんですね! その七人のうち結婚した人が四人で、三人は独身ですごしています。なぜ結婚をひかえたのかぼくにはわかりませんがね。ぼくのおじいさんをふくめて三人死んで四人が生きのこっています。結婚した四人から十二人の子が生まれ、みんな元気でいます。ばくの父はその十二人のうちの一人ですが、父の代になると、一組の夫婦の子供は二人から三人になっていますね。十二人のほとんどが結婚していて、その子供たちはぼくをふくめて二十人になります。そうすると、三十九人の子孫ができて、いま生きているものは三十六人。ほんとに、ずいぶんふえたものですね!」
「すると、四代で百年の間に、二人が七人になり、七人が十二人になり、十二人が二十人になって、現在三十六人が生きていることになるね。マルサスのいった割合よりもいい成績だね。で、きみのお父さんの代からあとだけだとどうなるかな?」
「父のきょうだいは五人です。ぜんぶ結婚していて、その五人の子はぼくをふくめて十二人になります。子供たちはまだだれも結婚していませんが、もしみんな結婚して二人ずつ子供をつくったとしたら……」ぼくはおどろいて叫びました。「ぼくの子やおいやめいは二十四人ということになりますね!」
「で、きみのお母さんのほうは?」とサンエモンさんはほほえみながらききました。
「母のきょうだいも五人です。みんな結婚していて、その子供たちはぼくをふくめて十一人います。ところが、こっちのほうは、もうそのつぎの代のちっちゃなのが五人生まれています。いま生きている人は二十二人になりますね。こっちもりっぱな成績です」
「それでよくわかったろうね。そういうふうにふえてきて、日本はこの百年間に四倍の人口になったんだよ。で、その結果、百年前までは食糧をはじめ生活物資ぜんぶを自給自足していたのに、いまではかんじんの食糧は三○パーセントしか自給できないようになってしまっている。そのほかの主な物資はも
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っとひどいもので、なかでも石油や鉄は九九パーセントを輸入によってまかなっているというありさまです。なんという不幸な国になってしまったのだろう! 世界の歴史上、食糧の自給率が五○パーセント以下にさがった文明国は、ほろぶ寸前のローマ帝国といまの日本だけだといわれているのだよ。わたしたちの目からみると、経済大国とやらの日本の将来は絶望的というよりほかにいいようがないね。もしいま、日没国が三十年前に世界から切りはなされたように、日本が輸入を完全に絶たれたとしたら、おそらく一億一、○○○万の日本人のうち七千万人は餓死することになるだろう! 日本はなんという不幸な国、危ない国、希望のない国になってしまったのだろう! 日本のいまの繁栄は花びんに盛られた根のない花のつかのまのはなやかさのようなもの。国としてのほんとうの安全も幸福も威厳もないのだよ。おおむかしの十三世紀に、聖人トマス・アクィナスがすでにいっているではないかね。『食糧をはじめとする生活物資を自給自足できる都市は、それを貿易にたよらなければならない都市よりは威厳があり、安全ですぐれている』と。マルサスもいっている、『安全が富より重要である』と。また、十九世紀の哲学者ショウペンハウエルは『輸入のほとんどあるいは全然ない国がいちばん幸福な国である』といっているのだよ。
 一つの国民が不幸と悪徳を根だやしにし、威厳をもって安全、幸福に生きてゆくためには、大自然の法則をすなおにうけいれて人口を抑制してゆくこと以外に道はないのだよ。わたしたちはあの『大飢餓』と『人間戦争』からそのことを学びとった。この真理を無視し、食糧をはじめとする生活物資が許す線をこえてむやみに人口を増加させていったなら、一国民、一民族は発狂し、大きな不幸とわざわいにうちのめされなければならないのです。日本が無謀にも第二次世界大戦に突入していったのは、まさにその狂気がなせるわざ。また、日本がいま貿易戦争に死にもの狂いになっているのもその狂気がなせるわざです。いま人類の半分は飢えになやまされているのだから、この貿易戦争もやがてはみじめな敗北におわることになるだろうね。飢えた人びとの口にはいるべき食糧をいつまでも横どりしてゆくことはゆるされないことだし、いま食糧を輸出しているわずかな数の国も、自分の国の人口の増加をおさえてまでも輸出を続けてゆくことはできないだろうからね。……わたしの国が根本法で人口の抑制を第二原則としてかかげているのは、こういうわけからなんだよ。どうだね? こんどはのみこめたかね?」
「はい、どうやらだいたい……」
「まるのみでいいんだよ」とサンエモンさんは満足そうにいいました。「若い胃袋はちゃんとあとで消化するものなんだから」そしてつづけました。
「だからわたしの国の人口はあの『大飢餓会議』以来わずかふえただけで、十年も前に四百万人でとまり、その後かわっていない。夫婦は子供を一人もつことがふつうとされている。二人もつのは例外で、一人ももたない夫婦もたくさんいます。人びとは根本法にしたがって人口の抑制につとめることが平和と幸福を保つ道だということをよくわきまえています。一つの国の幸福は、国民が自動車やテレビをもっているかどうか、世界各地から輸入したぜいたくなものを食べているかどうか、世界じゅうへ遊びにゆかれるかどうかといったようなことにあるのではありません。それはせんじつめれば、その国で生産される食糧で、その国民を人類滅亡の日まで養いつづけられるかどうかということにあるのです。すべての生活物資を自給自足できる安全と安心こそがほんとうの豊かさであり、他のどんな繁栄や富にもまさるとわたしたちはかたく確信しているのです。これがわたしたちの哲学です。
 わたしたちの国の人びとはぜいたくな生活はしていない。けれどもみんな健康に暮らしている。むかしあったような凶作が五年つづいても困らないだけのたくわえも用意されている。飢えているものはもちろんのこと、飢えのおそれのためにはたらいているものはひとりもいない。わたしたちは人類の最後の日までそうありつづけることができるだろう……」
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 サンエモンさんは話を終えたという身ぶりをして、ジロベエさんをかえりみました。ジロベエさんはうなずいて腕ぐみをとき、ちょっとからだをのりだしました。
「では、かわってつぎをわたしが話そう」とジロペエさんはのんびりした調子で話しだしました。「第三原則、欲望の節制ということについてだったね。
 ところで、ことわっておくが、わたしは話がへたでね。しゃべるよりは聞くほうが性にあっているんだよ。だがまあ、なんとか話すとしよう。ああ、それから……わたしの話はわたし流の考えでね。つまり、みんなの考えとはだいぶちがっているかもしれないよ。さて、そこでと……この間題はたいへん古いが、それでいてつねに新しい問題で、おまけに進歩のない問題だった。
 わたしが思うには、かつてこの地上に生じた生きもののうちで、人類ほど欲深いものはなかったようだね。この欲が原罪というものだろう。なにしろ永遠に若くて長生きしたいなんて真剣に考えるしまつだし、できるものなら地球をも一人じめにしたいなんて本気に考えるほどだからね。どうも人間の欲望というやつは、限りなく広がりふくれあがってゆくばかりのようだ。で、それはたとえていえばガン細胞のようなものだ。もともと細胞はなくてはならない大切なものなんだが、限度をこえてはびこりはじめると、とたんに害悪に性をかえ、ついにはその主人をくいつぶしてしまう。だから個人も人類もその欲望の節制につとめないと、ついにはそいつにくいつぶされてしまうというものだ。
 さて、そこでと……■間の本能は自己保存のためのものと種族保存のためのものの二つといわれるが、ここからいろいろな欲望が流れでる。たとえば、前のほうの代表が食欲、後のほうの代表が性欲というように。欲望は生命の要求なのだ。だが、いずれにせよその根元は生命を宿した人間のからだです。で、わたしの考えはここから出発する。
 わたしが思うには、自然は人間のからだにその欲望をもっともたくみにつくりつけている。目、鼻、耳、舌、皮膚――この五官と呼ぶものは欲望のシンボルだね。生命はこれらの器官をあやつり、自己とその延長である種族の存続のために必要なものを求めて働き、休み、害となるものに刃向かい、それからのがれようとする。わたしはこうした欲望を三つのものに分けて考える。その第一は自分のからだを養い、保つためのもの――呼吸やかわきや食欲などがそれだ。その第二は自分のからだを安らげ、まもるためのもの――休息や睡眠や衣服や住居の求めがそれだ。衣食住という言葉はこの二種類の欲望を簡単にあらわしたものだね。そして第三の欲望は自己の延長、再生のためのもの――性欲や子を育てるのに必要ないろいろの欲望がそれだ。
 この欲望は自然が万人に平等にあたえたもので、自然の目から見れば王さまもなければコジキもない。人間がみな平等だという考えはここからでてくるのだよ。だから、この自然の欲望はそれが正しく満たされているかぎり、万人平等に尊重されなければならない。だが、三つの欲望の重要さは、いまいった、順序になる。つまり、それが欠乏すれば生命がおびやかされる度合の高いものに対する欲望ほど重要なものなのだ。だから、他人の存在そのものを否定することはもちろんのこと、空気や水や食べものをうばったり、汚したりすることがもっとも強い非難にあたいする。そのつぎに、他人の休息や睡眠をさまたげたり、うばったりすることが強く非難される。これらにくらべると、他人の性欲のじゃまをしたり、おさえたりすることはずっと少ない非難にしかあたいしない。終身の懲役刑を受けて監獄に入れられている囚人から第三の欲望がうばわれていても、人は平気でいられるが、第一、第二の欲望をうばうことがゆるされないと考えるのはこうしたわけからなのだよ。……退屈したかね?」
「いいえ、いいえ」とぼくは答えました。「おもしろいお話です。いままでこういう話をきいたことがありませんでした。わからないところはまるのみにしますから、どんどん話してください」
 ジロベエさんはうなずいてつづけました。
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「人間の欲望はそとに向かってはたらきかけ、求め、とりいれ、うばい、殺し、満ち足り、そしてまた同じことをくりかえす。だが、自然のままの人間の欲望はもともとそう大きなものではなかった。腹いっぱい食べて腹つづみを打ち、ぐっすり一晩ねむって日の光を楽しみ、かわいい子孫をふやすことができれば満足していられた。だが、人がふえ、生活物資がたやすく手にはいらなくなるにつれ、欲望と欲望との衝突がはじまった。そして……わたしが思うには、三つの欲望を母体として第四の欲望が生まれでた。
 第四の欲望――それは自分の欲望と衝突する相手をだしぬいてさき取りし、押しのけ、打ちのめしてうばい取る競争の欲望だ。それは発達して征服欲となり、姿をかえて支配欲となった。さいきん使われだした管理という新しい言葉は支配という言葉の親類といっていいだろうね。この支配欲はたくさんのきょうだい――所有欲、権力欲、名誉欲といったものを引きつれている。この一族はもともと物の不足と、不足に対するおそれから生まれ出たものなのに、それが満たされてもあくことを知らない化けものとなってしまった。かわいらしい卵がケムシに変わり、毒ヘビに変わった。競争相手は敵になり、征服や支配の相手は敵でなければドレイにされた。むかしドレイは鉄の鎖でつながれ、剣でおどされて働かされたが、いまではカネでしばられ、失業でおびやかされて働かされている。
 いまや第四の欲望は物質文明という名の怪物に成長し、その一族は地球上にくまなく根をおろし、はびこっている。それは人間の支配欲がつくり出した巨大な恐竜で、石油を飲み、鉄を食い、火と煙をはき、毒の排せつ物をまきちらし、人間をけちらし、押しつぶし、飼いならし、ドレイにしている。だが、その怪物はきらびやかな衣装を身にまとい、お上品にふるまい、ネコなで声で語りかけてくるので、人間はそのおそろしさに気がつかない。そしてこの怪物は人間の心にさまざまな悪徳の花――いつわり、むさぼり、ぜいたく、おごり、みえ、へつらい、ねたみ、うらみといった花花を咲かせた。五官さえも第四の欲望の忠実なしもべとなってしまい、本来の働きのほかにみにくい働きをさせられている。目は日を見るよりも黄金を見るのを好み、権勢にかがやき、ねたみに燃え、耳は利権にそばだち、かげ口にびくつき、鼻はおごりにうごめき、あらさがしにかぎまわり、口はいつわりの舌をたたき、へつらいにゆがみ、皮膚は見栄にかざりたて、みだらなふれあいに度をすごす。第四の欲望は自分が生まれてきた母体である三つの自然な欲望のいとなみ、人類の自然にかなった生活を食いつぶしているのだよ。とはいえ、三つの自然な欲望からさえも、たわむれやなぐさみや暇つぶし――一言でいって遊びが生まれ出たように、第四の欲望からも、ちょうどみにくいケムシが美しいチョウに変わるように善いものも生まれ出た。それはその欲望を否定するもの、それに対立するもので、救い、希望、願望、理想といったもの――一言でいって夢といってよいものだ。で、わたしは人間の一生を六つの簡単な言葉であらわせると思う。いわく――人生は食、衣、住、性、遊、夢。善い夢の少ない人生はあわれなるかな! いや、もう一つの言葉――無か空《くう》をつけ加えたほうがいいかもしれない。そうすれば人生はとどのつまりはあわれでも、しあわせでも、なんでもなくなってしまう!……だがいまは話をわき道から人類のあわれな欲望のことにもどすとしよう。
 第四の欲望が発展して人類のガン、その不幸と罪惑となったのは、人類がそいつにまどわされ、引きずりまわされて気が狂い、聖人たちが教えてくれた道徳にしたがわなかったからだ。欲望は深ければ深いほど大きな罪悪をつくる。だから老子は『罪は欲多きより大なるはなし』といっている。第四の欲望をまったくなくしてしまうか、またはきびしく節制することは道徳にかなう道、平和と幸福にいたる大きな道だとわたしは思う。また、こうもいうことができるだろう。道徳の根本は同情心――いつくしみや思いやりやあわれみの心にあるが、それは他の生きものや他の人のなかに自分の姿を見ることなのだ。他の生きものを自分と同じものだと見たならば、どうしてそのものの不幸をほうっておいたり、つくり
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出したりすることができよう。自分の欲望を節制することは、他人を自分と同じように大切にすることにもなるのだ。だから孔子は『おのれの欲せざるところは人に施すことなかれ』といい、イエス・キリストは『なんじら人にせられんと思うごとく人にもしかせよ』といったのだよ。ところが第四の欲望は反対の道をつき進む。この道を進んでゆくと、あらゆる物も生きものも征服するためのものとしか見られなくなるし、ゆくさきざきででくわす人間は競争相手か敵でなければならなくなる。それは滅びにいたる道だ。
 わたしらの国の根本法が欲望の節制ということを第三原則にかかげたのはこういうわけからなんだよ。もしこの原則をなくしてしまったなら、第一、第二の原則はたましいのぬけたものとなってしまうからね。……わたしの話はざっとこんなものだ」
「どうだったね。わたしらの国で生まれて育った三つ子のかおかたちは?」というサンエモンさんの声でぼくはわれにかえりました。ぼくのたましいは五十億年このかたの地球や人類の上をさまよっていたのです。
「とても大きすぎてよくわかりませんが」とぼくはまだ雲をふんでいるような気持ちで答えました。
「でも、とてもおもしろかったです。この目で土の上からその三つ子の顔をしっかり見たいと思います」
 二人の老人は顔を見あわせてほほえみました。
「そりゃあ、いちばんいいことだ」とジロベエさんがいいました。「それはどこへゆこうが、よく見ることができるだろう。カンさんにきみの好きなところへゆかせてもらうがいいね」
 正午まぢかになっていたのでJDIたちに別れをつげ、カンさんといっしょに森の小道をとおってもどってきました。日は真上にあり、森ぜんたいが緑色と黄金色に燃えていましたが、すこしも暑さは感じられませんでした。それよりもJDIたちから変わった話をきいた興奮で、ぼくの頭のなかのほうが熱くなっていました。
(どこへいかせてもらおうか?)とぼくはあれこれまよいながら歩いてきました。(横浜で育ったんだから都会のことはよく知ってるし、……この国にろくな町はなさそうだし、……それに夏の都会なんてまっぴらだ。海だってよく知ってる、……まい年海水浴や魚つりにいってるんだから……)
 ぼくは山奥の村へゆかせてもらおうかしらと思いました。すると、さいきん新聞やテレビで見た「過疎の村」のことが頭に浮かんできました。あの貧しい、カラッポの山奥の村村――若い人たちがみんな都会へ出ていってしまい、おじいさんやおばあさんたちだけが残って、さびしく、ほそぼそと暮らしている日本の山奥の村村が思い出されたのです。
「ああ、平四よ」とカンさんが思い出したようにいいました。「いまごろ、きみのことがラジオで全国に知らされているはずだよ。きみはどこへいっても歓迎されるだろう」
 カンさんの建物の玄関さきに、ゆうべ食事を運んできてくれた少年が立っていました。かれは白い歯を見せてにこにこしており、ぼくが近づくが早いか「きみ、平四? おひるのニュースできいたよ!」と叫びました。ぼくはよろこびとともに手をさしだし、少年と握手しました。「歓迎!」とかれははにかみながらいいました。
 昼食をとりながら、ぼくは自分のゆく先についてカンさんと相談しました。かれは、二、三日首都の様子を見てから町をまわり、それから村へいってみたらどうだろうといいました。
「首都といったって大きな村というだけのものでしょう?」とぼくは反対の意見をのべました。「それに、ぼくは都会育ちですから、ちいさな町には興味がありませんね。山奥の村へいかせてください。それも、この国でいちばん貧しい村へ……」
 いちばん貧しい村ときいてカンさんは肩をすくめ、ハシをおいて両手をひろげました。-----P114-----
「貧しいといえば、どこもおんなじに貧しいんだが……」
「では、いちばん貧しかった村へ……」
「よろしい、考えてみよう。で、いつ出発したいかね?」
「できるだけ早く、……この国で育った三つ子の顔というのをいっときも早く見たいんです」
 カンさんは承知してくれました。そして、いったところがつまらなくなったら、いつでも、どこへでも自由にゆくことができるようにしてくるといってくれました。
 食後、カンさんは通信室へいってくるといって席をたち、ぼくのための事務を十分でかたづけてもどってきました。
「おのぞみどおりにしてきたよ、ちいさなお客さん」とカンさんは笑いながらいいました。「いちばん貧しかった村をよく見てきておくれ」

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