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一二章
自然は自然のもの

            ケンの家のまわり 家は人民のもの 「自然は自然に返そう」運動
            家賃・税金・役人がない国 ケンの読書 第二の仕事

 早朝の新しい光にまぶたをくすぐられて、ぼくは目を覚ましました。ケンがゆうべ雨戸をしめのこしたところから朝の光がそそぎこんでいました。百年の眠りからさめたような気持ちのよい目ざめ……夢がはいりこむすきもないくらいぐっすり眠ったせいか、からだのすみずみまで新しい力がみちわたっているのが感じられました。ぼくはバネにはじかれたようにベッドから飛び起きました。
 静かな……静かな朝でした。ケンはまだ眠っているとみえて、となりの部屋はひっそりと静まりかえっていました。ぼくは音をたてないようにそっとカーテンを引き、雨戸をあけました。庭の木立のなかから小鳥が数羽とびたちました。庭ではもう、みずみずしい光が木木の緑とたわむれていました。
 あいているほうのベッドの上には、きれいになったぼくのシャツやズボンやくつ下がきちんとたたんで置かれてありました。ゆうべのうちにおばさんが洗たくしておいてくれたのでした。ぼくは感謝の気持ちをもって服を着替えながら、これからは自分で洗たくしようと決心しました。――そして、じっさいそうしたのですが、しかし、ケンはそんなことはもう幼8のときからやってきていることをあとで知ったのです。
 ぼくは夜具をきちんとたたんでベッドのすみにおき、――こんなことをしたのも生まれてはじめてのことでしたが――そっと部屋をでて洗面所へゆきました。まだみんな寝ているのかと思っていたら、台所のほうでコトコトというかすかな音がしました。顔を洗って居間へいってみると、おばさんが台所で朝食の支度をしていて、みそしるのいいにおいがただよいはじめていました。
 ぼくは居間からおばさんに声をかけ、朝のあいさつをかわし、そして洗たくのお礼をいいました。
「ぐっすり眠れてよかったね」とおばさんはいいました。「ゆうべは疲れていたとみえてねむそうだったよ。眠りは食べものと同じに大切なものだけど、食べすぎはからだをこわしても眠りすぎにそういうことはないからね」
「ケンは朝寝ぼうのようですね」とぼく。「やっぱり、うんと眠らないとからだが大きくならないもんなんでしょうね?」
 おばさんは声をたてて笑い、そしていいました。
「ケンはヒロシといっしょに草刈りにいってるよ。もうぼつぼつ帰ってくるころだろう……」
 ぼくは両手をひろげて肩をすくめました。
 おじさんたちの帰りを待つ間、ぼくは家のまわりをぶらぶら歩いてみました。
 ケンの家は広びろとした敷地のほぼまんなかあたりに大地から生えでたようにどっしりと立っていました。南側は庭で、おじさんとおばさんの部屋の前には夫婦の部屋の広さほどの池があって、きれいな水のなかをコイが群れ泳いでいました。そのほかの大部分は果樹園とも林ともつかぬ、あまり手入れのよくない庭で、ウメやカキやナシや、サクラ、クルミ、クリなどが思い思いに枝をのばし、地面にはハコベだのツユクサだのオオバコだのの雑草がはびこっていました。通りにそった一部は、ヨモギやアザミのまじった花畑で、ヒマワリとカンナがいきおいよくのび、燃えるような黄と赤の花であたりを明る
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くしており、そのむこうには、リンゴ並木の通りをへだてて、ケンの家と同じような広い庭をもつ屋敷がならんでいました。東側と西側は――前の庭のつづきでまばらに木が生え、そのむこうは両どなりの庭となっていて、木立をすかしてケンの家に似たような家が見られました。北側は――これもあまり手入れのよくない野菜畑で、サトイモ、ナス、キュウリ、トマトゴボウ、ニンジンなどがつくられていて、そのひとすみの雉草のなかに、物置らしいかなり大きな木造の小屋がありました。畑のおわりは生けがきのようになったクコの茂みで、そのむこうには北どなりの家の野菜畑がひらけ、そのさきの木立のすき間に灰色の低い家が見られました。そして――ケンの家の平たい屋根の上には、大きな、がっしりした太陽熱温水器がすえつけられてありました。これが温泉のような豊かな湯を供給していたのです。
 ケンの家の敷地は長方形で、南側の一辺は約五十メートル、奥行きはそれよりやや長めでした。農家ですから敷地が広いのは当然のこととしても、横浜のぼくの家の近所でこんなに広い敷地をもつ農家を見ることはめったにないことでした。しかも、ケンの家だけでなく、まわりの家家も同じように広びろとした敷地をもっているらしいのにおどろきながら、ぼくは居間へもどってきました。
 台所にいたおばさんに声をかけて聞いてみると、ぼくが予想していたとおり、ケンの家の敷地は間口が五十メートル、奥行きが六十メートルでした。
「とすると面積は三、○○〇平方メートル……約九○○坪ですね」とぼくはおどろいていいました。
「となり近所の家もみんなそうなんですか?」
「そうだよ。村じゅうみんなおなじさ」とおばさんは答えました。
「ほかの村や町でもそうなんですか?」
「まあ、だいたいはね。この村は最低のめやすにしたがって屋敷がつくられたのさ。だから、もっと広い土地をもつ村では、もうすこし広い屋敷がつくられているね」
「では、国じゅうのどんな人も、こうした屋敷に住んでいるんですね?」
「ほとんどぜんぶがね」といっておばさんは笑いました。「もっとも……不便をしのんでもみんなからはなれて暮らしたいというもの好きはべつだよ。それから……まだ何十年ももちそうな、背からのりっぱな屋敷に住んでいて、そこをはなれたがらないような人たちもべつさ。こうした人たちはわずかだけど、どこの村にも町にもいるもんさ」
 そのときぼくはふとカンさんから、いまこの国では住みかのことでなやまされている人民はひとりもいなくなったと聞いたことを思い出しました。
「それではこの村でも」とぼくはききました。「あの『大飢餓』が終わったあと、『まず良い家をつくろう』というあい言葉で家を建てたんですね?」
「ああ、そうだよ。あのときはヒロシもわたしも張り切って働いたもんさ」おばさんはテーブルの上に朝食をはこびながらいいました。「あれは二回目の『大会議』のあとのことだったね。国じゅうで村づくり町づくりがはじまったのさ。『土台からつくり直そう』とか『根本からやり直そう』というあい言葉もあったっけ。この村でも村じゅう総がかりで十年あまりもかけて村づくりをやったのさ。だからいまの村は新しい村なんだよ。新しい村ができあがってゆくにつれて、あっちの谷底やこっちの山かげにへばりついて散らばって住んでいた人びとが――もっともそまつな家に住んでいた人たちから順ぐりに――新しい家に引っ越してきたのさ」
「では、この家もとなりの家もみんな村のものなふですね?」とぼくはおどろいてたずねました。
「そう、村のもの……そして州のもの、国のもの」とおばさんは答えました。「新しい村づくりには州や国からずいぶん応接してもらっているからね。だからけっきょく全人民のものといってもいいだろうね」
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「で、家賃や税金はどこへ、いくらくらい払っているんですか?」
「家賃だって※[#!?] 税金だって※[#!?]」といっておばさんはハトのように目をまるくしたかと思うと、声をあげて笑いました。「どうしてそんなケチなことをしなきゃならないんだね? どうしてそんなややこしいことをしなきゃならないんだね? みんなは一人のために、一人はみんなのために、だれでもが必要なものをつくったというのに!」
「では、家賃も税金も払わなくていいんですか※[#!?]……」ぼくはますますおどろいて二の句がつげませんでした。
 そこへおじさんとケンが草刈りから帰ってきて、朝食となりました。食後、ぼくはさっそくおじさんに、この屋敷が全人民のものというのはどういうことなのかとたずねました。おばさんは笑いながら、かのじょとぼくとの間での話のあらましをおじさんに話しました。
「うーん」とおじさんはうなって、馬のような大きな目をしばらくぱちぱちやっていましたが、やがて持ち前の静かな声で話しだしました。
「もとはといえば……」とおじさんは考え考え、ゆっくりいうのでした。「やはり、あの『人間戦争』と『大飢餓』までさかのぼらなけれはなるまいね。……きみはカンさんから、その話をきいたといったね。……それがみなもとなんだよ。わたしたちの代表者らはそこから学び、そこから真理をみつけ出した。その真理というのが根本法に定められている自然に対する謙抑、人口の抑制、欲望の節制という三つの原則なのさ。……きみはJDIたちからその話もきいたといったね。……カンさんの話やJDIたちの話は肝《きも》にめいじて忘れないようにしてもらいたいね。ここからものごとを考えてゆけば、いろいろなことは自然にのみこめてくるはずなんだから……。自然に対する謙抑ということも、それはすべての生きものにとって恵みであると同時に、きびしく、冷やかで、むごたらしい自然を知ることからはじまったのだよ。自分の欲望を中心にしてそのまわりのちいさな自然を知ることではなく、大洋のなかの一つの故に浮いた一つのあわつぶにもくらべられないほどちいさくはかない人類の運命をふくめた大自然を――その法則を知ることからね。そして、真理はあの戦いと飢えのなかで――鉄と火と血のなかでさがしもとめられ、とり出されたのだ。だからそれは、わたしたちの肉体のいのちのように……いやそれ以上に大切に守りぬかれ育てられなければならない……」
「ぼく知ってるよ」とケンがちいさな声でひとりごとのように口をはさみました。「だから四つの州の一つが真理州と名づけられたんだってね」
 おじさんは横目でケンをちらっと見て片ほおで微笑し、そしてつづけました。
「最初の真理のカギが与えられた。万人のためになけれはならないものが一人の手に、大多数のためになけれはならないものが少数の手ににぎられているということに対する無知と迷信と偏見の厚い鉄のとびらが開かれた。それはわたしたちの知る限り、五千年以上にもわたってわたしたちの頭を暗くとざしてきた迷いのとびらだった。だがそれが開かれてからわたしたちが見たものは、荒涼たる砂ばくや雪原だった? 肥えふとった一人とそれにかしずく万人にかわって、飢えてやせさらばえた万人の姿があらわれた。めいめいの皿のパンはちいさく、しかも日日にちいさくなるほかないものだった。わたしたちは大急ぎでこの砂ばくと雪原をとおりぬけなければならなかった……」
 おじさんはしばらく言葉を切って馬のようなやさしい目でぼくの顔を見、そしてケンの顔を見ました。
「それは悪い平等だね」とケンがいいました。「いつかサトル先生からその話をきいたことがあるよ」
「それは人口問題でしょうね」とぼく。「JDIのサンエモンさんから似たような話をききましたよ」
「どちらも正しい」といっておじさんはにっこりしました。「悪い平等はなくさなければならない。人類は正正堂堂と働いて繁栄をきずきあげてきたといいながら、どれだけ悪い平等をつくりあげてきたこ
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とだろうか。善い平等がなければ平和はないのだよ。めいめいの皿のなかのちいさなパンは、他人の皿のなかのパンをちいさくすることなしに大きくしなければならない。ある国の人民の皿のなかのパンは、べつのある国の人民の皿のなかのパンをちいさくしたものであってはならない。そうでなければ決して人類の平和はこないだろう。平和にしてみたところで、悪い平和もあれば善い平和もある。ただ鉄と火が飛びかっていないというだけでは平和とはいえない。カネと物を飛びかわせていても人を悲惨な運命におとしいれ、人を殺すことさえできるんだからね。では、善い平等や善い平和へのとびらをひらくもう一つのカギはなんだろう?……」
(其理……平等……平和……)という言葉がぼくの頭のなかをひらめいてとおりすぎました。(とすると、のこるのは一つ)
「わかった! それは友愛ですね!」とぼくはケンに出しぬかれないようにいそいで叫びました。「だからここが友愛州と名づけられたんですね!」
「そう、友愛……」とおじさんは片ほおでほほえみながらいいました。「つまりは……思いやりの心だ。それは徳の根本、最高のもの……これがなければ平等も平和もなりたたないだろう。だが、友愛は弱弱しい、あいまいなものであっては役に立たない。それは略奪者である本能にうち勝たなければならないものだからね。友愛は、断固たる勇気にみちたけだかい精神を必要とするものだよ。人類の歴史が教えてくれているように、他人の皿のパンを奪いとることは、自分の皿のパンを他人に分けあたえることよりもはるかにやさしいことだから。さて、そこで……大自然の法則にしたがって、もっとさきを見よう。奪いとるパンがなくなったり、非常に少なくなったらどうなるのだろう? 他人に分けあたえるパンさえもなくなったらどうなるのだろう? そうなれば友愛さえも死んでしまうのだよ! では、そうならないまえに、友愛ほなにをしたらいいのだろう?……」
「人口抑制!」とケンがいうのと同時に「欲望の節制!」とぼくが叫びました。
「そう。それこそほんとうの友愛の精神のあらわれ、けだかい友愛なのだ」といっておじさんは大きくうなずき、そしてつづけました。「さあ、大きな道がひらかれた。とつレンズが光をあつめて焦点をつくるように、真理、平等、平和、友愛の光はあつまって焦点をつくった。『自然は自然に返そう』という声が燃えあがり、その運動が燃えひろがった。そして自然は自然に返された。日の光や空気と同様に、海も川も山も野も、そしてそこから生じるすべてのものは、もともとの主人である自然の手に返されたのだよ。で、国じゅうのだれひとりとして一センチ四方の土地も、一本の木も、一本の草も持たないことになった。当然の成りゆきとして、建物とか金銀宝石というような昔から重要な財産と考えられていたもの一つまり多くの人びとのよろこびや悲しみのもとになったものは国へ返された。というのは、自然はもうそうしたものに関心をしめさなかったから、全人民に返すよりしかたがなかったのだ。で、人びとは持ち運びできるくらいの身のまわり品しか残さないことになり、シャカやソクラテスやキリストのように質素でさっばりした身の上となってしまった。あのけちくさい、しみったれた、罪つくりの、血と汗でよごれ切った『所有権』という古ぼけた衣はきれいさっぱりと脱ぎすてられてしまったのだよ。わたしたちは考えかたを――持つという意味をかえたのだ。わたしたちはこの国の陸と海を、より大きな大自然に返し、あらためて大自然からこの国の土と水から生じるありとあらゆる生きものを代表して自然を預かることにしたのだ。人民が――国が――州が――最終的には町や村が自然の預かり人となったわけなのさ」
「へーえ!」ぼくはおどろいて、息わず口をはさまずにはいられませんでした。「では、この家も敷地もみんな村のものなんですか※[#!?]」
「そう。村が預かっているもの、そして州が、国が、人民が大自然から預かっているものなんだ。こう
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いってもいいだろうね。大自然の名においての――人民による、人民のための、人民の財産の管理とね。こうして、わたしたちはわずかを失い、すべてを得たのだよ。そして善い平等と善い平和が実を結んだ。……こういうわけで全人民が全人民のために屋敷をつくったものだから、家賃だとか税金などというケチなものはとらないことになっているんだよ。きみの国だって国とか県とか市町村が所有し使用している土地や建物からは賃料や税金がとられていないのではないかね? だったら、それらよりも弱いものから税金などをとることをいっそやめてしまったほうがいいね」
「なーるほど!」とぼくは感心していいました。「文明ってのはものごとを簡単にすることだってレイがいってました。家賃や税金をとらなければ、ずいぶん役人の手間がはぶけるわけですね」
 おばさんは大声をたてて笑い、おじさんの微笑は両ほおにひろがり、ケンはにやにやしました。
「ほんとに……この子はおもしろいことをいうね」おばさんは両手を胸にあてて息をはずませながらいいました。「ゼンマイ村には――ほかの村や町でもそうだが――役人なんてものはひとりもいないんだよ、平四。それでもちっとも困らないのさ。わたしらは自分たちのことは自分たちでやってるんだからね。ムダなものはおいてないのさ」
「でも!」とぼくはおどろいていいました。「JDIは……あれは役人の一つじゃないんですか?」
「あれは群れの先頭に立って走る馬のような役目をしているだけ。……JDIが自分でそういってるんだからたしかだよ。かれらは村びとの先頭に立って指導する役目にあるひとたち。その役目をべつにすれば、あとはただの村びととちがったところはなんにもないのだよ。JDIのほかにもいろいろの委員がいるけど、これも村びとたちが村の仕事を手分けしてやってるだけのこと。わたしだっていくつも委員をやったことがあるんだよ。こうして自分たちで自分たちをおさめてみると万事かんたんになって、政治家向きの仕事なんぞほとんどないも同然だということがよくわかるよ。だから、ムダな仕事もムダな費用もなくなるってわけさ。だから、税金なんてものもいらなくなったのさ」
「いつかゴロイチじいさんが――じいさんはこの村の古い指導者の一人だった自由人だが――いったことがあった……」とおじさんがいいました。「たしかこうだった。『役人を飼うよりブタを飼え』ってね」
「ブタじゃなくてニワトリだったよ」とおばさん。
「ああ、それでもよかろう」とおじさんはつづけました。「ゴロイチじいさんの考えでは、むかしから役人というものは高い給料をとりたがり、いばりたがり、そのくせ楽をしたがる動物で、人民の利益に反する性質をもっているものだそうだ。かれらはガン細胞のようなもので、もとはといえば人民からでてきた何のへんてつもないものなんだが、おさえがきかなくなって増長すると、主人を食い殺してしまうものなんだそうだよ。そしてかれらは、どうでもいいような仕事をむやみにつくり出してそれを人民に押しつけ、とほうもないカネを人民からしぼりとってムダ使いをするものなんだそうだ。……だから役人一人を飼うよりはその手間でニワトリを五千羽飼ったほうがましだというわけさ」
「ひどいことをいったもんですね!」とぼくはあきれました。
「なあに、あたってないこともないさ」とおじさんは片ほおで微笑しました。「きみの国を見てもおよその見当はつくよ。――これはカンさんから聞いたことだが――きみの国では公務員とやらの名のつく役人が四百万人もいるそうだね。そのうえに半公務員といってもいいものがざっと百万人もいるということだ。とすれば、その家族が平均三人としても二千万人というものが税金で養われていることになる。そのうえ役人をやめた後も、ふつうの人民がもらう年金よりはるかに高い、その二倍も三倍もの年金をもらっているということだね。とすれば、うぶ声をあげたばかりの赤んぼうから、棺おけに片足をつっこんだ老人までをふくめて五人が、役人またはその家族の一人を養っていることになる勘定だよ。だから役人天国なんていわれてるそうじやないかね? つまり人民地獄ってことだね」
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「………」ぼくはそのようなはなしをはじめてきいたので、黙っているよりほかはありませんでした。
 そとでは――きょうも力強い夏の一日が始まっていました。
 ぼくらは、思い思いの時をすごすために、めいめい自分の部屋にひきこもりました。ぼくはカンさんからもらったノートとペンを取りだして机に向かいました。そして、横浜の家を飛びだしてからもう七日、……日没国に一歩足をふみいれた――というよりはからだごと落ちこんでから、もう四日もたっていること、……サーチライトの光、機関銃の音、かげろうにゆらめく草原、密林、アキラの顔、赤地に白丸の旗のはためき、カンさんやJDIの老人たちの顔、のんびり汽車……そのほかの数知れないあれこれに静かに想いをめぐらしました。
 ぼくは辞書の活字のように小さな文字で――というのは、そのノートがとても貴重なものに思われたので――一行を二行に使って、ノートをうめてゆきました。生まれてはじめての熱心さでもって、記憶をたどり、考え、そして書きつづり、時のたつのを忘れていました。しばらくしてようやく疲れると、庭へ出て庭木の茂みで鳴くセミをさがしたり、池のふちへいってゆうゆうと泳ぎまわっているコイの群れをながめたりして、ほてった頭を休ませました。
 庭からケンの部屋を見ると、青い網戸ごしに、机に向かってじっと頭をたれ、熱心に読書にふけっているケンの上半身が見えました。ケンはぼくが庭をぶらぶらしているのにすこしも気づかないほど本に気をとられていました。
 日は白く燃えさかりながら、うす青い天心に近づこうとしており、ぎらぎらする光の熱い矢ほ庭木の葉を射ぬいて地面の雑草にふりそそぎ、おどりはねていました。涼しい部屋へもどろうとしたとき、前の通りの遠くのほうでおおぜいの歌声がわきあがりました。歌声はだんだんケンの家のほうへ近づいてきました。それはとても明るい――その日の空のように底ぬけに明るい行進曲で、ちょっと、スーザの『ワシントン・ポスト』に似た感じのものでした。ぼくの心はうきうきとはずみ、足は自然に通りのほうへ急ぎました。
 リンゴ並木のむこうから、男女二人の青年に引率された五十人ばかりの少年少女の一隊が自転車をゆっくり走らせてくるのが見えました。かれらは少4か少5くらいで、二組にわかれ、元気よく声をはりあげてかわるがわるに一節ずつ歌っていました。
 先頭の一組が歌いました。

   ゆこう さあゆこう
   ラ ラ ラン ラン ラ ラ ラン
   われらの
   そうだよ われらの
   山へ 森へ
   川へ 谷へ

 うしろにつづく一隊が歌いました。

   友は 待つよ
   ラ ラ ラン ラン ラ ラ ラン
   野に 里に
   牧場に 泉に

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 先頭の自転車には赤地に白丸の旗がひるがえっていました。いくにんかがぼくを見て、青地にホタテ貝がえがかれた三角旗を打ちふったり、手をふったりしてとおりすぎました。
 昼食には、おじさんがつくったソバをごちそうになりました。ぼくほ手打ちソバというものを生まれてはじめて食べたのですが、それは見かけは黒くて太くてへんなものでしたが、味はすばらしいものでした。
「こんばんは区の晩さん会だったね」ソバをつるつるとすすりこみながらおばさんがいいました。「ホタテ村の子供たちがくる日だから」
「ああ、そうだ」おじさんは日本のソバ屋で出す一人前くらいのソバをひと口ですすりこんでからいいました。「さっき、連中がとおっていったようだね。……いい機会だ。こんばん、平四もみんなに紹介できるね」
「ホタテ村というのは、真理州にあるホタテ貝がたくさんとれる漁村でね」とおばさんはぼくに話してくれました。「その村の少4の子供たちが二週間の予定でこの村に休みをすごしにきたのさ。ことしは四区の家家に分宿することになっていてね。こんばんはその歓迎の晩さん会が区の食堂でひらかれることになっているんだよ」
「ぼくらはきょ年の夏、ホタテ村へ自転車旅行して二週間泊まってきたんだよ」とケンがぼくにいいました。「友だちがたくさんできて楽しかったね。その前の年はホヤ村、そのまた前の年はイカ村へいったっけ……」
 ぼくは、ぼくらのみみっちい修学旅行のことを話す気になれませんでした。
 おばさんは、ひる休みをすませたら、ぼくを連れて運動がてらに四区をひとまわりしてきたらどうかとケンにいいました。そうしようかとケンはいってくれましたが、ぼくは午前ちゅうだいぶかせいで油がのっているところだったので、もうすこし仕事をしてひと区切りつけてからにしてほしいとたのみました。
 午後、ぼくはずいぶんかせぎました。くたびれると庭へでてぶらぶらしたり、他のコイをながめたりしました。ケンはあいかわらず机に向かって、化石化したかのようにじっと頭をたれ、読書にふけっていました。そのしんぼう強さにぼくはあきれてしまいました。自分の仕事にあきてしまったぼくは、とうとうがまんしきれずにケンの部屋にはいって話しかけ、かれの読書のじゃまをしてしまいました。
「なにを読んでるの? ずいぶんおもしろそうだね」とぼくはききました。
「『ファーブルの昆虫記』」ケンは静かに本をとじて、こちらに顔をふりむけました。「ほんとにおもしろいよ。いまカミキリ虫のところを読んでいたのさ」
「昆虫学者にでもなるつもり?」
「かもしれないね」とケンはこともなげにいいました。
 ぼくはちょっとおどろいていいました。
「だって、この国では学者になるには研究所にはいらなければだめなんだろう? 天才かそれに近い人でなければそこにはいれないそうじやないの? レイがそういってたよ」
「研究所にはいれないから学者になれないってことはないさ。だれだってまじめにこつこつ何かをやってれば学者になれるんだ」
「それはまあ、そうだろうけど、……そういうのはしろうと学者で、趣味でやってるようなもんだろう?……第一、博士とか何とかの資格をとらなければ尊敬されないだろう?」
「そんなことはないよ。研究所の学者たちは『わたしたちは、あることについて、みなさんよりほんの
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ちょっぴりよけいに知ってるだけだ』といってるんだから。それから……『わたしたちの学問もみなさんたちによく知ってもらわなければ役に立たない』っていってるんだからね。かれらに近づこうとするものはみんな学者なのさ。……いつかヒロシはそういってたよ」
「でも、やっぱり、自分は学者だなんていばることはできないだろうね?」
「いばるひとは悪いひと!」そういってケンは肩をすくめました。そしていいました。
「ぼくはらい年青年学校にはいったら、土の研究をしてみようかと考えていたんだよ。だってサトル先生からおもしろい話をきいたからね。――サトル先生ってのはぼくの学校の先生なんだ。――スプーン一杯の土のなかには、この地球上の人間の数ほどもバクテリアがうようよ棲《す》んでいるってね。その世界を研究したらとてもおもしろいだろうと思ったよ。だけど『ファーブルの昆虫記』を読みはじめたら、虫の世界のほうがおもしろくなってね。ハチやアブラムシやミミズのことを研究したくなったんだよ」
「青年学校ではそんな虫の学問も教えてくれるのかい?」
「ああ、なんだって教えてくれるよ。みんなのために役立つことなら」
「ああ、そういえばレイがなんでも自分のいちばん好きなことを学べるといっていたね。じゃあ、新聞記者か小説家になるための勉強もできるんだね?」
「もちろんさ、りっぱな第二の仕事だもの」
「第二の仕事?」
「第一の仕事は百姓の仕事さ。そのほかの、めいめいがやりたい仕事を第二の仕事っていうのさ」
 ぼくは、受験勉強の苦労もなければ就職の苦労もなく、らい年から自分のほんとうにやりたいことのできるケンの身の上がつくづくとうらやましくなりました。そして、ちょっとゆううつな気分になって自分の部屋へもどってきたのでした。


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