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一五章
『小人民行進曲』・谷川の泳ぎ

            谷川へゆく道 フライパンのなかのいりマメ ヤマユリの咲く切り通し
            『小人民行進曲』を聞く 村の養魚池 ケンの泳ぎ 早瀬くだり

 昼食後、ぼくはめずらしくひる寝をしました。めずらしく――というのは、ぼくはもう何年もひる寝などしたことがなかったからですが、早起きして運動したせいか、それともケンの家ののんびりした空気になじんできたせいか、ごく自然に一時間ばかりもベッドで眠ってしまったのでした。
 目を覚ますと、ケンがぼくのために水泳パンツを用意して待っていました。
「きみはどのくらい泳げるんだい? 平四」とケンはパンツを渡しながらたずねました。
「うん、まあクラスではかなり泳げるほうだったよ」とぼくは大きくのびをしながら答えました。「ぼくの学校には二十五メートルのプールがあるんだ。クロールで五十メートル、平泳ぎで百メートル泳いだことがあるよ。ぜんぜん泳げないやつだっているんだぜ」
「きみたちはまだプールで泳いでいるのかい?」とケンはふしぎそうな顔をしていいました。
「ああ、ほとんどね」とぼく。「海へいくこともあるけど、ひと夏に二、三回くらいのもんだね。ゼンマイ村にはプールはないの?」
「村の中心にあるけどね。あそこへはちいさな子供たちしかいかないよ」
「どうして?」
「ぼくらはいつも川へいくんだ。そのほうがずっと面白いからね」
「きみはどのくらい泳げるんだい? ケン」
「きみよりは泳げるだろうけど」といってケンはにやにやしました。「どうくらべたらいいかわからないよ」
 川は近道を通っていっても、五キロも北のほうの村ざかいを流れているということでした。それをまあ、ケンは五百メートルさきにあるかのような調子でいうのでした。
 ぼくらは並木道の涼しい木かげづたいに歩いてゆき、広場をとおってまっすぐ北へ向かいました。そよとも風のない、めっぽう暑い午後で、村びとたちはみんな穴ごもりをきめこんでしまったのか、がらんとした広場には人影一つ見あたりませんでした。まわりの木立ではセミどもの大軍勢が夏を占領したかちどきの声をあげており、野外劇場の石の座席はいまにも音をたててひび割れそうに白く焼けており、ステージのわきの国旗は犬の舌のようにダラリと赤くたれさがっていました。
「きょうは、ものすごい人出だろうなあ……」とぼくは江の島や鎌倉の海水浴場に押しよせるイナゴの大群のような人波を思いうかべてひとりごとをいいました。
「なにがものすごいんだい?」と先に立ってさっさと歩いていたケンがふりむいて、のんびりした声で聞きました。ぼくはケンの鼻の頭にたまった汗の玉を見たとき、ふと、ケンのどぎもをぬくような話をしてやり、ついでにかれの足をもうすこしおそくさせようと思いました。
「スゴーイのなんのって、そりゃモノスゴーイんだよ!」
「だから、なにがだい?」
 ケンはぼくの計略にひっかかって歩みをゆるめました。
-----P218-----
「こういう暑い日に海や山へくり出す自動車や人間の波さ。ぼくの国のね」
「人間が多いから、にぎやかだってことかい?」
「にぎやかなんてものは通りこして、お祭りそこのけの、ごったがえしの大混雑なんだよ。よく殺人的って言葉が使われるんだ」
「サツジン?」
「つまり、こういうことさ。町と海や山をつなぐ電車やバスは人間でざゅうぎゅうづめ、道路はカタツムリのようにのろのろ進む自動車でぎっしり。海水浴場ははだかの人間や物売りの店やビーチパラソルで砂地が見えないくらいいっぱい。海にはいればイモを洗うような混雑でろくに泳げないところへもってきて、モーターボートだのヨットだのが走りまわっているしまつさ。山はといえば、ふもとからてっぺんまでの登山道はアリの行列のように切れ目なくつづく人間の行列。もし、てっぺんの一人がころんだとしたら、ふもとまで将棋倒しに倒れてしまいそうな具合さ。こんなふうに海も山も、年寄りから子供までの人間でいっぱい。まごまごしていると押しつぶされ、踏み殺されてしまうんだよ」
「なるほど、すごいんだね!」
 ケンはおどろいたとみえて、目をぱちぱちやっていました。ぼくはちょっと大げさにやりすぎたかなと思いましたが、ケンがおどろいたのを見てすっかりいい気持ちになってしまいました。で、あの赤アリ村のほら吹き駅長のような調子でもうすこしやってやろうと思いました。
「でも、どうして……」としばらくしてケンはいいました。「そんなにむきになって海や山へどっとくり出さなきゃならないんだろうね? ヒロシたちのように穴ごもりしていたほうが楽だろうに」
「きみは都会の生活ってものを知らないからそんなふうに思うのさ」ぼくはちょっと得意になっていいました。「日本人の半分以上はせまい都会に住んでいるってことなんだぜ」
「ああ、そんなことを聞いたことがあるよ」
「でも、夏の都会の生活ってどんなものだかわからないだろう?」
「うん。想像もつかないよ」
「そうだろうな……それはつまり……」ぼくはふと頭にひらめいた思いつきをいいました。「フライパンのなかのいりマメさ。それもフタをかぶせられたね」
「えっ?……」ケンはまた目をぱちぱちやりました。
「都会は鉄やコンクリートやアスファルトやガラスや……そんなようなものでつくられているバカでかいフライパンのようなものだとぼくは思うんだ。森や草地や田畑はつぶされてしまって木や草がろくすっぽ生えていないから、まあ砂ばくとおんなじさ。そこに人間がうじゃうじゃと集まってきているんだよ。東京とそのまわりだけだって一、二○○万人もの人間が住んでるってことだぜ。その人間が折り重なって暮らし、とんだり、はねたり、はじけたりしているありさまはいりマメみたいなもんさ。そこへもってきて夏になると光化学スモッグのフタがかぶせられることになるんだ」
「その何とかスモッグってなんだい?」
「ぼくにもよくわからないけど……なんでも自動車の排気ガスや工場の煙がまざってできた霧のようなものに、熱い夏の光があたるとできる毒ガスらしいんだよ。それにやられると目やのどがいたくなったり息ができなくなって倒れるんだ」
「なるほどね。それでみんな海や山へ逃げ出すってわけなんだね」
「そうだよ。病人や気ちがいにならないようにひと息いれるためにね」
「でも、どうして町の大混雑をそのまま海や山へもちこむんだろうね?」
「遊びにいく場所がそんなにたくさんないからさ。電車やバスを利用しなければ速びにいけないんだ
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よ」
「町の近くの川や海へ歩いて泳ぎにいけないのかい?」
「ボウフラ一匹棲めないまっ黒いドブ川やダボハゼ一匹もよりつかないコーヒー色の海へかい! 東京湾だってドブのように汚されてしまってるんだぜ」
「じゃあ、もっと遠くの海や川へいったら?」ケンがつぎからつぎにそういった質問をくり出すのにぼくはほとほと閉口してしまいました。ぼくは、きれいな海があるにはあっても、そうしたところは急に深くなったり、潮の流れが強くて危険で泳げない場所であることや、川が流れこむあたりの海はみんな汚されてしまっていることや、川は山奥へいっても人家の下流にあるかぎりは、食器や衣類を洗うのに使われる化学洗剤や農薬のために汚されて泳げるようなものではないことなどを説明してやらなければなりませんでした。
 ケンはぼくの話にじっと耳をかたむけながらゆっくり歩いていましたが、しばらくしてほこらしげにいいました。
「ぼくの国にはきたない海や川は一センチ四方もないよ。自分で自分の海や川へ毒を流すような者は一人もいないからね。それから、きみが話してくれたような混雑なんて起こりっこないね。というのは、人間が少ないし、大きな都会というものがないんだから……」
 こんな話をしながら歩いているうちに、四区の人家はなくなり、涼しい並木道も終わりました。そこからさきは、踏んづけられたオオバコがほこりをかぶって生えている白っぽいせまい道で、それは草地や雑木におおわれた低い丘のすそをまがりくねってながながとのびていました。
 日ざかりの太陽に照りつけられた、むきだしの白っぽい道はかげろうにゆらめき、草いきれでむんむんしていました。緑色の羽をひらめかせてバッタが行く手を横ぎり、オニアザミが道ばたで赤紫の大きな頭をたれ、ホタルブクロが雑草のなかからうす紫のちょうちんを突き出し、そしてぼくらは汗をふき出しながら歩きました。ふりあおぐと、太陽は目がくるめくほど白く燃えさかっており、空はうす青く、遠い山の端《は》から立ちのぼっている入道雲の群れは銀色にかがやいていました。
「ほんものの夏だ!」とぼくほムギワラ帽子をほうりあげて叫びました。
 早く水に飛びこみたくなって胸がわくわくしてくるのでしたが、道は岩山までながながとつづきました。
 岩山のすそは切り通しになっていて、なかは日陰でした。ぼくはかなりくたびれていたので、そこでひと息いれるつもりでわざとゆっくり歩きました。さらさらとかすかな音をたてて、がけから砂が流れていました。不意に強く甘い香りにおそわれて見まわすと、がけの岩の間のあちこちにヤマユリの大きな白い花が束になって咲きみだれていました。
 切り通しのなかほどにちいさな水飲み場があって、そのまわりはひんやりとしたコケくさい空気につつまれていました。水飲み場といっても、それは洗面器ほどもくりぬかれた岩のなかに、青ゴケをぬらして清水がしたたり落ちているだけのもので、その下にだれかが水を飲むのに使ったらしい山フキの葉っぱが何枚か落ちていました。で、ぼくらもフキのちいさな葉っぱをとってアサガオ形のコップをつくり、清水を飲んでかわきをいやしました。
 切り通しをぬけたところは、大きな岩がごろごろしている間にゼンマイがはびこっている草地で、道ばたにはミルクのように白い茎と葉裏をもった気味の悪い草がケンの背たけほども高く生い茂り、黄色っぽいこまかな花を咲かせていました。それは――ケンから聞いて知ったのですが――タケニグサといぅ毒草だそうで、ケンが片手をヤッとばかり水平にふってその草の頭をなぎはらうと、茎の切り口からいかにも毒らしい黄色いしるがにじみ出るのでした。
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 道が急な下り坂にかかると、ケンはぼくの歩みにあわせてゆっくり歩いてくれました。坂道は、だんだんになってはるか下のほうまでつづく青田の間を、ヘビのようにまがりくねって見えかくれしながらだらだらと下っていました。そしてそのさきはくぼ地の茂みで、そのまたさきは山でした。青田では、たくましく育ちつつあるイネが無数の緑の剣先を突っ立てており、道ばたの土手では、ヤブカンゾウの花が二回の緑のなかに点点とだいだい色をまき散らしていました。そのちいさな谷間も盛んな夏をむさぼり食べていたのでした。
 ケンは立ちどまって土手のエノコロ草の茎を一本引きぬき、口にくわえました。そして目を細めて、ずっと下の青田のほうに視線をそそぎました。そのほうを見ると、一列になった白いコメつぶが青田と茂みの間を虫の行列のように動いていました。前と後ろに空色の三角旗がひるがえっていました。
「ホタテ村の連中だ」とケンは前歯の間にはさんだエノコロ草をぶらぶらさせながらいいました。「近道を通ってぼくらを追いぬいていったんだよ。すばしっこい連中だ」
「おーい、おーい……」とぼくは大声をあげて、かれらに呼びかけました。しかし、白シャツの一隊は気がつかなかったらしく、茂みにかくれてしまいました。
 すると、ぼくのさけびにこたえるかのように、後ろの切り通しのほうで歌声がわき起上りました。ふりかえって見ると、タケニグサの茂みの上に赤い三角旗が二、三本ひるがえっており、まもなく若い女性に引率された十人あまりの子供たちの一隊が姿をあらわしました。
 ケンが土手にあがって腰をおろしたので、ぼくもそれにならって、かれらがやってくるのを見ていました。
「幼8のチビさんたちだ」とケンがいいました。「リンもいるよ」
 しかしぼくには、リンがどこにいるのかわかりませんでした。
 かれらは行進曲を歌いながらやってきました。それは、その日の空や光にかがやく地上の緑のように明るく力強く、そのうえ思わずおどり出したくなるような陽気な曲でした。……汗をふき出した赤い顔と一生懸命にあけたりとじたりしている口の行列が規則正しいテンポで近づいてきました。赤い三角旗のなかでゼンマイのにぎりこぶしがおどっていました。リンが横目でぼくらをにらんでゆきました。行列は草いきれをかきまわし、汗のにおいをのこして通りすぎました。あとについて歩きたくなるようなすてきな行進曲でしたが、しかし、切れ切れに聞いた歌の文句は、なんだか風変わりで奇妙なものでした。やたらに感心できない言葉が出てきて、どうやらそれは悪人のことなのです。
「へんてこな文句だね」とぼくは幼8の一隊が土手のかげにかくれるのを見送りながらいいました。
「メロディーにまったくふさわしくないよ。悪人行進曲かい?」
「そうかね……」ケンはエノコロ草む吹き出し、スカンポの茎を一本折りとって土手の上に立ちあがりながらいいました。「あれは『小人民行進曲』といってね。子供たちが行進するときによく歌われる歌なんだ。ぼくもよく歌ったものさ。ぼくはちいさな時から歌っているから、ちっともへんてこだとは思わないね」
 そして入道事に向かってスカンポをふりながら歌いだしました。

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   悪いひととは どんなひと
   うそをつくひと
   ねたむひと
   らんぼうするひと
   いばるひと
-----P224-----
   かげぐちいうひと
   なまけるひと
   えこひいきするひと
   へつらうひと
   うぬぼれるひと
   むさぼるひと
   めいわくかけるは 悪いひと
   …………
[#ここで字下げ終わり]

 ケンは入道雲もゆらぐほど声高らかに、力強く、みごとに『小人民行進曲』を歌いました。ぼくは、はじめはびっくり、しまいにはうっとりしてケンの歌声に聞きほれていました。
「きみはすばらしい歌い手なんだね、ケン」とぼくは土手をおりながらいいました。「きみが歌うのを聞いていると、この歌はなにもかもとてもすばらしくなるよ」
「そんなにほめられるのははじめてだよ」といってケンは肩をすくめ、てれくさそうにエノコロ草の茎を引きぬきました。
 道みちケンが話してくれるには、『小人民行進曲』は平等州の幼年学校の教員がつくって、自分の生徒たちに歌わせていたそうですが、いい曲なので国じゅうの子供たちに歌われるようになったということでした。そして、幸福にいたる道が富を得ることにあるのではなく、悩みや苦しみをさけることにあるのと同じょうに、正しい人になる道は、善いといわれることをすることよりもむしろ――そんなことは悪人ほどうまくやっていることですから――悪いことをしないようにすることにあるという考えからこの歌がつくられたそうです。ケンはこの話をサトル先生から聞いたといっていました。
 青田の終わったところから谷川を隠す茂みまでの間に、うす緑色の水をたたえたたくさんのプールが茂みにそって連なっているのを見かけたとき思わず、ぼくはおどろいて目をみはりました。それは、自然の地形や大岩をそのまま利用したり、大小の石をたくみに積み重ねてセメントで固めたりして、はるか上のほうからはるか下のほうへ段段につくられた大きな美しいプールの行列だったのです。しかし、ここで泳いでいるものは一人もなく、遠くのほうの水ぎわの大岩の上に腰をおろして水面を見ている人が一人いただけでした。
「すばらしいプールだね!」とぼくは石橋の上に立ちどまっていいました。「広いし、天しい。みんなはどうして川のほうへいってしまったんだろう?」
「ここは村の養魚池だよ。コイを飼っているのさ」と答えてケンはエノコロ草の穂を水面へフッと吹きとばしました。すると、たちまちたくさんの黒い影が水中にひらめいて、いくつもの白い口がその穂をつつきました。
「ほらね」とケン。「もっと山奥の村へいくと、こんなふうにしてヒメマスとかヤマメとかイワナを飼っているんだよ」
 そればかりではなく、コイやマスを飼えないようなところでは、フナやナマズやドジョウはもちろんめこと、シジミやタニシまでも飼っているとケンはいいました。というのは、この国の人びとは牛や馬や豚などのけだものを殺して食べるのがかわいそうで、だんだんイヤになってきたので――自分たちが食べるものは自分たちの手で殺さなければなりませんから――そのおぎないを魚や貝でつけなければならなくなったからだそうです。
(なるほど、もっともだ!)とぼくはその話を聞いて考えました。(ぼくだって、もし自分が飼ってい
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るんだとしたら、ウサギ一匹だって殺して食べる気にはなれないだろう。だれかがどこかで殺してくれるから平気で肉を食べられるんだ)
 こんなふうに水が使われているので、国じゅうどこへいっても、湖や川はもちろんのこと、どんなちいさな流れまでも農薬や洗剤といった毒物で汚されることが全然ないというわけなのでした。
 間もなくぼくらは、茂みのなかのけわしい細道をたどって谷川におり立ちました。それは岩にはさまれてせばめられたり、河原をつくって広がったりしながら流れている大きな谷川でした。上流に滝があるそうで、地をゆるがすような重おもしい水音が谷川の流れの音のペースとなっていました。その音を聞くと、ぼくは胸がわくわくしてきて、早く水に飛びこみたくなりました。
 茂みではセミどもが水音に負けまいとするかのように鳴きたて、岩の上ではセキレイがせわしげにしっぽをふっていました。下流の河原の砂地ではリンたちが赤い水着姿になって体操をしたり、からだに水をかけたりしていました。ずっと上流のほうからは、ときどき滝の音をぬって、ホタテ村の連中のものらしいかん高い叫び声やはしゃぎ声がきこえてきました。
 ぼくらはオニグルミの木の下で着がえをしました。ぼくはパンツだけのはだかになったケンのからだが見事に日焼けして黒びかりしているのを見て、思わずヒューと口笛を鳴らしました。
「すばらしく焼きあげたもんだね!」とぼくは感嘆しながらいいました。「まるでひと夏、泳ぎ暮らしたみたいだよ」
「なんて白いんだ、きみは!……」といってケンも目をまるくしてヒューとやりました。「まるで三年も病気で寝ていたみたいだぜ」
 くらべてみると、なさけないことに、ぼくは銅像のそばに立ったろう人形みたいな具合でした。
「ことし、ぼくはプールで一回泳いだだけなんだ……」とぼくは岩から岩ヘピョンピョンととびはねて滝のほうへゆくケンの背なかに声をかけました。
「なあに、すぐ黒くなるさ」といってケンは二メートルもはなれた岩の上へひらりととび移りました。
「ゼンマイ村にいて、ぼくといっしょに泳いでいればね」
「リュウ(竜)が滝」と呼ばれているその滝が意外に堂堂として美しかったので、ぼくは思わず息をのんで立ちつくしました。滝の高さは二十メートルほどでしたが、豊かな水が緑色にかがやくコケやシダをまとった巨大な岩の上のくぼみから銀色の水けむりをあげてなだれのようにとどろき落ち、滝つぼをわき立たせていました。そして、むかしリュウが住んでいたという伝説のある広いふちでは、いかにもその怪物の住みからしく、青黒い水がうねり、もりあがり、うずまいており、やがてそれは陽光をうけてあい色の絵の具をとかしたような色にかわり、下の早瀬へと流れ去っているのでした。ぼくはリュウの伝説を知りたいと思いましたが、ケンはそんな話にはまったく興味がないようで、なれない者がはじめから早瀬で泳ぐのは危ないから、ここで泳いでみないかというのでした。そして、ふちのあちこちを指さし、あのうずまきの下の深さは何メートル、そのもりあがりの下には大きな岩があるなどと教えてくれました。
 ぼくらは水ぎわにおりて、からだを水でぬらしましたが、その水の冷たさにぼくはびっくりしてしまいました。水に手をひたしただけで暑さがいっぺんに吹っ飛んでしまうほどだったのです。しかし、ケンは平気の平左で水に飛びこみ、イルカのようにゆうゆうとふちのなかを泳ぎまわりました。ぼくははしっこのほうでちょっと泳いでみましたが、水の冷たさに閉口してすぐ岩にあがってしまいました。そして、日をうけているなめらかな大石の上に腹ばいになって甲らを干しました。大石は冷えたからだを気持ちよくあたためてくれました。(早くケンに負けないように黒くなろう)そう思いながら、ぼくはからだの裏表を日にさらしました。
-----P228-----
 間もなくケンも水からあがってきて、ぼくとならんで腹ばいになりました。ケンはひと休みしながら、むかしそこのふちに住んでいたリュウが美しい女に化けて村びとにいろいろめいわくをかけたという伝説を二つ三つ聞かせてくれましたが、「なんとつまらないつくりごとだろう!」といって舌打ちして話を打ち切りました。そして立ちあがって、ふちが早瀬にかわろうとしているせまいところを指さしていいました。
「平四。あの向こう岸までもぐっていかれるかい?」
 水ぎわの岩の間に何やら白い草花が咲いている向こう岸まで二十メートルくらいありました。
「プールならゆけないことはないけど……」とぼくは首をひねりながら答えました。「だけど、水は冷たいし、流れているし……底に岩があるんだろう? それに……リュウのひげにひっかかるかもしれないから…ぼくはごめんだね」
 ケンは笑って「ぼくがやってみるから見ててくれ」といい、近くの大岩によじのぼりました。そしてその岩の三メートルほどの高みから、きちんとそろえた二つの足裏を見せて滝つぼのほうを目がけて飛びこみました。
 青黒い水はケンをのみこんでしまうと、もとどおりにうねり、うずまき、もりあがっていました。ぼくはふちの水面や向こう岸をかわるがわる見張っていましたが、かなりの時間がたったのにケンが頭を出さないのでだんだん不安になり、じっとしていられなくなりました。
(もしかしたら……)とぼくは水ぎわへゆくために大急ぎで岩の間をすべるようにおりながら、胸をドキドキさせて思いました。(水底の岩の間にからだを突っこんで動けなくなったんではないだろうか? それとも、水が冷たいので心臓マヒでもおこして川底を流されてしまったんではないだろうか?……)
「ケーン、おーい、ケーン……」
 ぼくはあちこちを見まわしながら、繰りかえし繰りかえし力いっぱいの声で叫びました。しかし「ぼくの叫び声はすぐ滝のとどろきに吸いこまれて消えてしまうのでした。ぼくはさっと血が引いてゆき、顔が早瀬の水のように青くなるのを感じました。
「ケーン、……ケーン……」ぼくはほとんど泣きだしそうになりながら、あらんかぎりの力をふりしぼって叫びつづけました。
「おーい、ヘイシー」というかすかな声を下のほうに聞いたときのうれしさといったら! ぼくはよろこびにからだをふるわせながら、岩づたいに三十メートルほどくだってゆきました。
 ケンは大岩の切れこみの間の、水から頭をもたげている岩につかまって胸を大きくふくらませたりへこませたりしながら休んでいました。
「おどろかすなよ、ケン」ぼくは手をさしのべながら、半分怒り声でいいました。「どうかなってしまったかと思って心配したんだぜ」
「ごめん、ごめん」といってケンは口にはさんだ白い花をプッと吹き出しました。「向こう岸までずっともぐりっきりでいってきたんだ。……だいぶ流されたなあ」
 そして大きく息をつき、ぼくがさし出した手につかまって岩にあがってきました。
 ちょっと休んだだけでケンは元気をとりもどし、滝の上の早瀬へいこうといってさきに立ちました。滝の上の泳ぎのできない危険な場所を通りぬけたさきはちょっとした河原になっていて、そこの砂地にはホタテ村の三角旗が二、三本立てられてありました。しかし、ホタテ村の連中は二百メートルも上流のほうにいっていました。かれらは二十人ばかりの男子で、青いパンツをはき、ケンをもしのぐような見事な赤銅色のからだを光らせながら岩の上に一列にならびはじめていました。
「もう、あそこからやろうってのかな?」とケンは目を細めてかれらを見ながらいぶかしげにいいまし
-----P230-----
た。「いってみようよ、平四」
 ケンにいわせると、そこの早瀬は流れがとても急なので、少4だとずっと下のほうから泳ぎはじめないとあぶないということでした。
 ぼくらは岩づたいに上流へ向かいましたが、なるほどその早瀬では、両岸から張りだした岩にせばめられた細い水路を、急流が波立ち、しぶきを吹き散らしてごうごうと突進しているのでした。
 先頭の一人が急流におどりこんだとき、ぼくは「やったぜ!」とさけびました。つづいて一人、また一人……。黒い頭が波間に見えかくれしながら矢のように泳ぎくだってきました。
「すごいなあ!」ぼくは息をのんで、つぎつぎに足もとを流れ去ってゆくちいさな泳ぎ手たちを見送っていました。
「さすがだね……」とケンもほめました。「かれらは荒海できたえているからね」
 かれらの最後の一人が流れに飛びこんだとき、ぼくらはかれらがいた岩に着きました。ぼくは流れの強さをためしてみたくなり、すこし上流のゆるやかな流れにおそるおそる足をふみいれました。しかし、だんだんなかへはいってゆくにつれ、そこでさえも手ごわい流れであることがわかりました。
「水ばかり見ないで!」とうしろについてきたケンが注意してくれましたが、目の前の流れからほかに目を移すゆとりなどありませんでした。流れはももに当たってさけ、しぶきをあげ、うずをまき、ぼくをさらおうとしてつかみかかってくるようでした。
(深いりしすぎた!)ぼくはぞっとし、目がくらみ、もう一歩も進めなくなりました。あとずさりして引き返そうとしたとき、川底の石をふみはずして倒れかかりました。
「あっ!」と叫んだとき、ケンがぼくの片手をつかんで引きよせてくれました。
「ここはきみにはちょっと無理だね、平四」と岸にもどってからケンはいいました。「下のやさしい早瀬で練習してから、ここでやるほうがよさそうだ」
「下の早瀬って、あのリンたちが泳いでいるところかい」
「うん、あそこだってけっこうおもしろいぜ」
 そこへ、ホタテ村のカッパたちが岩から岩へとリスのようにとび移りながらもどってきました。
「やあ!」「やあ!」とぼくらはあいさつをかわしました。
「やってみるのかい、平四」とかれらの一人がいいました。「とってもおもしろいぜ!」
「平四はここへはじめてきたんだよ」と肩をすくめたぼくにかわってケンが答えました。「川で泳いだことがないんだそうだ。だからすこし練習してからやるんだよ」
「二、三日練習したらやってみるよ」とばくは無理していいました。
「じゃあ、待ってるぜ」とホタテ村の連中は口ぐちにいいました。
「じゃあ、こんどはぼくがやるから見ててくれ、平四」といってケンは岩の上にのぼり、そこからむぞうさに急流に飛びこみました。
 ケンは矢のように流れ去り、たちまち見えなくなってしまいました。急いで岩をおりたりのぼったりしてケンのあとを追っていってみると、ケンはもうスカンポをくわえて河原の砂地に腹ばいになってぼくを待っていました。
 滝の下のほうの「やさしい早瀬」は、ところどころに砂地や入り江のようになった浅瀬をかかえた広びろとした河原のなかにあって、泳ぎくだるのにかっこうな五十メートルほどのコースをつくって、さざ波を立てて流れていました。幼8のちびっこが一人、二人と気持ちよさそうに早瀬くだりをやっていました。リンたちはそこの早瀬や浅瀬に散らばって笑いさざめきながら進んでいたのです。
(いい練習場だ)ほっとしながらぼくは思いました。(ここなら平泳ぎでらくにくだっていけるだろう)
-----P232-----
 で、ぼくはよろこび勇んで早瀬の上流へずんずんはいってゆきました。しかし、――流れは岸辺で見たものとはまるっきり違っていました。なかにはいってみると、岸辺で見たときの、あの光にたわむれていたやさしいさざ波の顔つきは、キバをむき出した意地悪な三角波に変わっていました。そう気づいたときには、ぼくはもう三角波に包囲され、打ちたたかれて倒れそうになり、しぶきのなかであわてていました。ケンの姿がちらっと目にうつりました。かれは下のほうの砂地に立って手をふり、泳げという合図をしているようでした。そのとき、リンがぼくの近くまできていて、横目でちらっとぼくを見て流れに飛びこみました。つぎの瞬間、ぼくはまるでリンの磁石に吸いよせられたかのように流れに身を投げこんでいました。
 それからさきはまったく無我夢中でした! 波にもみくちゃにされ、めった打ちされ、目もあけられず、浮いたり沈んだりして水をがぶがぶ飲みながら、どんどん流されてゆきました。平泳ぎもクロールもあったものではなく、ぼくはただむちゃくちゃに両腕をふりまわすばかりでした。……気が遠くなり、おぼれ死んでしまうのかと感じたとき、意外に近いところからのケンのさけび声が耳を打ちました。
「もういいんだよ! ついたよ!」という声を聞いたとき、指さきに砂がふれ、水が急にあたたかくなったのを感じました。目があき、足が川底の砂地にふれました。生きかえった思いで立ってみると、なんとそこは本流からはなれて入り江のようになった水たまりで、ももほどの深さのところでした。ぼくはいつの間にかそこに流れつき、夢中になってもがいていたのでした!
「とっくについてるってば!」とケンが顔じゅうを口にして笑いながらどなっていました。「陸《おか》まで泳いであがる気かい!」
 ぼくの大奮闘ぶりは、ケンのまわりにあつまっていた幼8のちびども七、八人をわきたたせていました。かれらは手をたたき、おどりあがり、腹をかかえ、からだをよじって笑いこけながらぼくを迎えてくれました。で、ぼくはゲエッゲエッと二リットルばかりも水をはいてこれにこたえ、てれ笑いをしながら砂地にあがりました。
「あんなふうに笑ってごめんよ」と、ならんで砂地に腹ばいになったときにケンがまだくっくっと思い出し笑いをしながらいいました。「だがね。ぼくらはあんなすばらしい泳ぎをまだ見たことがなかったんだよ」
「ゲエッ」とのどをならしてぼくは答えました。「そうだろうな。ぼくだってきょうはじめて発表したんだから」
 しかし、目をつむってじっと背なかを焼いているうちに、なんともいえない満足感と自信がわきあがってきて心をみたすのが感じられました。
(とにかくぼくはやったんだ)とぼくは自分にいいきかせました。(なんてことはなかったさ。ちょっと水をのんだだけだ。こんどはうまくやれるぞ)
 午後おそく帰ると、おじさんとおばさんが大きなスイカを用意してぼくらを待っていました。
「川の泳ぎはおもしろかったかね?」とおじさんはぼくにたずねました。
「ええ、とっても。三回もやさしい早瀬くだりをやりましたよ」とぼくは答えました。「もっとも、一回目はおもしろいというところまではいきませんでしたがね」
「最初のときがいちばんすばらしかったよ」といってケンはにやにやしました。
「じゃあ、もうじき上の早瀬で泳げるよ」とおばさんは受けあってくれました。
 おじさんたちの話では、むかしはリュウが滝のふちやその近くの早瀬は気持ちよく泳げるような場所ではなかったそうです。で、村の大人たちが子供たちを愉快に遊ばせるために、たくみに手を加えていまのような早瀬やふちにつくりかえたということでした。
-----P234----
 その夜、赤く焼けてひりひりする肩の痛みにこころよい満足をおぼえながらベッドにはいって目をつむると、頭の奥で浅瀬の音がさらさらと鳴ったり、滝の音がどうどうととどろきはじめました。まぶたのスクリーンにつぎからつぎへと、底の石をすかして流れるあい色の水や、河原を走りまわるはだかのカッパたちや、日をうけて白く光る大石や、緑の風にゆれる赤や青の三角旗が映しだされました。……そして、うずまきに浮かんだタケニグサの葉っぱやヤマユリの花がくるくるとまわり……やがて深く深く沈んでゆきました。

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