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一八章
キムじいさん

            マメ台風の訪れ ゴロイチじいさんの棺おけ キムじいさんの話――
            強制連行・強制労働・脱走・「人間戦争」参加など

 その朝は、セミや小鳥の声でではなく、風と雨の声でぼくは起こされました。長い日照りつづきのあとだったので、庭の草木は雨に打たれてよろこびにふるえ、風に吹かれてうれしそうに身をよじらせているように見えました。風はひとしきりザアーッとはげしく雨を降らせてはひと休みし、またおなじことをくりかえしていました。ぼくは、この雨をよろこびで迎えているにちがいない牧場や森や田畑のようすを想像し、ずぶぬれになってでもそこへいって見たいと思いました。
「雨の女神の軍勢はいま友愛州の空を通りすぎつつあります……」と朝のラジオはのんびりした調子で台風ニュースを告げていました。「かのじょらの射そそぐ矢はめぐみの水となりました。わざわいの知らせはなにもありません……」
 そして『カモシカの歌』を流しました。
 朝食後、おじさんはゴロイチじいさんから頼まれた仕事をしなければ、といって裏庭の物置小屋へゆきました。おばさんは、ボタモチをつくるからキムじいさんとゴロイチじいさんにとどけてほしい、とケンにいって台所にはいりました。もちろんぼくはケンといっしょにゆくことにきめて、自分の部屋に
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引きこもりました。
 かれこれ二時間も読書をしたらあきたので庭をながめると、雨の女神の軍勢の主力は真上を通りすぎたのか、風のいきおいはいくぶん弱まり、ザアーッと降る雨も間遠になってきたようでした。
 ぼくは裏の物置小屋へいって、おじさんの仕事ぶりを見たくなりました。で、またケンの読書のじゃまにはいり、かれをさそいました。ケンはすこしもめいわくがらずに「ああ、いいよ」といって『ファーブルの昆虫記』をとじました。
 裏庭へ通じる廊下では、すりつぶされたゴマのいいにおいがぷんぷんしていました。おばさんは台所でゴマだのアズキだのキナコだののボタモチをせっせとつくっていました。
「キムじいさんのひるに間に合うように行ってほしいね、ケン」とおばさんはケンに声をかけました。
「いいあんばいにあらしも弱まってきたしね」
「ああ、いいよ」とケンは通りすがりにボタモチをす早く目でなめまわしていいました。
「いっしょに食べる分もつつんでおくよ、ケン」とさけぶおばさんの声が裏口まで追っかけてきました。
「ああ、いつものようにたのむよ」と答えてちょうど雨が小やみになった裏庭へケンはかけだしました。
 小屋は、――十畳間を二つ合わせたくらいの広さの、物置を兼ねた仕事台で、いっぽうの壁には丸太や角材や原板などが立てかけられてあり、なかほどにはピンポン台ほどの大きさの仕事場やカンナ台がおかれてありました。反対側の壁には明かりとりの小窓がついていました。床には板切れやカンナくずが散らばっていて、けずられた板が放ついいにおいがうす暗い小屋のなかにこもっていました。ケンとぼくとは小屋のすみに置かれてあった大きな木の根っこにならんで腰をおろし、おじさんの仕事を見物しました。
 おじさんは大きな細長い白木の箱を熱心につくっていました。それはまだ見たことのない妙な箱だったので、ぼくはおじさんにその使いみちをたずねてみました。
「これかね……」おじさんは箱をさすりながらいいました。「これはひつぎだよ」
「ヒツギって、あの……」
「棺おけさ」おじさんはおごそかな口調でいいました。「ゴロイチじいさんのね」
 ぼくはおどろいて息をのみ、うす暗い小屋のなかに白く浮かぶ箱をうす気味悪くながめました。
「棺おけつくりも……」としばらくしてぼくはたずねました。「おじさんの第二の仕事のなかにはいっているんですか?」
「まさか。こういう仕事を好きで選ぶ者はあるまいよ」とおじさんはいいました。「これは、しいていってみれば第三、第四の厳粛な仕事ということになるだろうね。……もっとも、きみの国では棺おけづくりは第一の仕事として立派な商売になっているということだがね」
「この国に棺おけつくりを商売にする人がいないとすると……、だれがだれのために?‥…」
「わたしがゴロイチじいさんのためにこうしているように……」とおじさんがいうと、ケンがあとを引きとっていいました。
「ぼくもヒロシやイネのためにそうするよ」
「わたしたちはそういったやりかたをしているのだよ」とおじさんがいいました。「だから知らない人のために棺おけがつくられることはないし、知らない人がつくった棺おけにはいることもない」
「できることなら……、それがいちばんいいことでしょうね」とぼくは感心していいました。「たしかに、知らない人に売るために――それも高級品から安物まで何段階もの値に分けてつくられた棺おけにはいらなければならないなんて味気ないことですね。……でも、この国では生きているうちから自分の棺おけつくりをだれかにたのんでおかなければならないんですか?」
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「そんなことはないよ」とおじさんはフタづくりに取りかかりながらいいました。「なにごともきちんとやっておかなければ気がすまない人はそうするが、ほとんどの人たちはそんなことを気にしないね」
「ぼくのおじいさんもおばあさんも気にしなかったよ」とケンがいいました。「おじいさんはキノコ取りにいって、キノコがはいったかごをまくらに死んでいたそうだし、おばあさんはゼンマイ取りにいって、ゼンマイをひとたば握ったまま死んでいたそうだからね」
「そのときの棺おけもわたしがつくったのだが……」とおじさんがいいました。「みんなはそんなふうにして死ぬことがすきなので、まあたいていあとでつくられる。さきにつくるのはどうも気がすすまないものだよ」
 おじさんは、ヤマザクラの花が咲くころゴロイチじいさんから棺おけつくりをたのまれていたのだといいました。しかし気がすすまなかったので、ちょっと手をつけただけでほうっておいたら、きのうじいさんからさいそくされたということでした。
「だが、きょうの午後にはできあがるから」とおじさんはケンにいいました。「ゴロイチじいさんのうちにいったら、そう伝えておくれ」
 ぼくはもちろん棺おけのそばでの長居はご免こうむって、ボタモチのほうに移りました。おばさんは、二つの立派なウルシ塗りの重箱にボタモチをつめていました。そしてべつに、ぼくらが食べる分のボタモチを竹の皮につつんでくれました。
 ぼくらは桐油《とうゆ》紙づくりのカッパを着て出かけました。雨も風もずっと弱まってきていましたが、さすがにぼくらのほかにはそとを歩いている人は見あたりませんでした。
 リンゴ並木をゆくと、通りや土手の上に風に落とされたリンゴの実がころがっていました。そのほとんどはまだ青い実でしたが、なかにはほんのりと赤みをおびたものもまじっていました。自然の力で落とされたリンゴはだれでも自由に拾って食べていいことになっているとケンはいいました。そして、みやげにもっていってあげるといって良い実を選んで拾い、カッパの両方のポケットをふくらませました。
「まだ酸っばくて食べられないんじゃないのかな。青いし小さいから」とぼくはケンに声をかけました。
「それに、黒いぶつぶつがあるのは虫食いじゃないのかい? 気味が悪いな」
「虫食いならしめたものさ」といってケンは大き目の青いのを一つえらんで拾い、道ばたの小川で洗いながらいいました。「つまり、虫めが毒味してくれてるわけなんだから、もうそろそろ食べられるってことさ。ちょっとは酸っぱいにしてもね」
 ケンは青リンゴをばかりと三分の一ほども食い欠き、皮やしんごとむしゃむしゃやりました。それがいかにもおいしそうだったので、ぼくも一つ拾ってかじってみましたが、こめかみが痛くなるほど酸っぱかったので投げすててしまいました。しかしおどろいたことに、ケンはキムじいさんの小屋に着くまでに、ウジ虫のようなリンゴの虫を何度もはき出しながら三つもたいらげました。
 キムじいさんは、土間つづきの八畳ほどの広さの部屋のイロリを前にしてあぐらをかき、長いキセルでタバコをふかしていました。
「雨来タ、けん来タ、へいし来タ、ヨク来タ」とキムじいさんは顔じゅうをしわにして笑いながらいいました。そしてイロリばたに坐るようにと身ぶりでしめしました。
「リンゴ来た、ボタモチ来たよ」といいながらケンはあがりこみ、イロリのそばにあぐらをかいたので、ぼくもそれにならいました。
 ボタモチはキムじいさんの大好物だったのでじいさんは大よろこびし、秋になったらキノコをどっさり取ってとどけてやろうといいました。それから、風変わりなイロリにかけられたまっ黒い鉄びんに湯をわかし、これまたへんてこなお手製のお茶をいれてぼくらをもてなしてくれました。というのは、そ
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のイロリは、――さまざまな色かたちをした大小の石をおもしろく組み合わせて円形にならべてつくられたもので、適当な場所にはめこまれた平たい大きな石は、茶わんやさらなどの食器を具合よくのせられるようになっていましたし、お茶はといえば、――キムじいさんが野山をかけめぐってあつめてきた、何十種類もの草木の実や葉や皮や根を蒸したり干したりしてまぜ合わせたのをせんじたもので、甘く苦く渋く酸っぱい、何ともいえない妙な香りと味のする、漢方薬といったほうがよいようなかっ色の飲みものだったからです。
 ケンはキムじいさんのお茶をおいしそうに飲み干して、おかわりをしましたが、ぼくは閉口してなめるようにちびちびやりました。
「ソレ飲ム、カラダ、ジョウブナル。オオキクナルネ」とキムじいさんはぼくにいいました。ゴロイチじいさんもそれを飲んで長生きしているのだし、牛や馬だって病気にかかったとき、それを飲ませると治るのだとかれはいうのでした。
 ぼくはそのクスリをありがたくなめながら、キムじいさんがいつどうして日没国にやってきて、こんな山奥に住むようになったのかきいてみました。
「オオ、ソレダヨ」といってじいさんはキセルのがん首でイロリのふちの石をたたきました。「ワシ、ソノコト、日本ノ子ニハナシタカッタヨ」
 鉄びんの湯気のむこうでじいさんの目が光りだしました。それから、かれがキセルや火吹き竹までも使って身振りゆたかに話してくれたことを翻訳すると、――というのは、じいさんの日本語はかなりわかりにくいものでしたから――ざっとこんなふうになるのでした。
 ……一九四三年の秋、日本が第二次世界大戦の後半の絶望的な戦いを死にものやるいでつづけていたころのこと。まだ若かったキムじいさんは、ふるさと南朝鮮のある村で父母といっしょに百姓をやっていました。貧しいながらも平安なまい日が流れていました。ところがある日、それがつい三十年前のこの世のなかで起こったことだとはまったく信じられないような災難――日本人によるドレイ狩り――強制連行と強制労働――が突然かれにおそいかかったのでした。
 その日、若いキムは一人で畑に出て働いていました。すると役場の者がやってきて、ちょっと用事があるから来てくれというので、スキをおいて役場へいってみると、かれと同じようにして呼び出された十四、五人の若者たちがあつまっていました。そこへ威張りかえってごう慢な日本人が二、三人現われたのですが、かれらがずる賢く残忍なワシだとすれば、若いキムたちなんぞはまるで小スズメ同然だったそうです。で、小スズメたちはたちまちワシのつめにひっつかまえられ、おどされ、だまされて、むりやり村から連れ出されたのでした。キムじいさんの言葉によると、そのころのかれらがあまりにも「バカデ、イクジナシ」であったために、かれらは逃げることはおろか自分の家へちょっと立ちよったり、家族の者と口をきくこともゆるされず、野良着姿のままで汽車に乗せられてしまったのでした。それから、長い船旅……そしてまた汽車の旅……。こうして最後に連れてこられたところが、いまの平和州の山奥の鉱山でしたが、ここには若いキムたちと同じようなやりかたで連れてこられた朝鮮人が一、五○○人もいたということでした。いやそれどころか、旧東北地方だけでも強制連行されてきた朝鮮人が約十万人もいたというのでした!
「戦争で人手が足らんのだ」とえらい日本人が命令を下しました。「だからお前たちは兵隊と同じように死んだ気になって働かなくてはならん!」
 ところが、そこでの生活が兵隊と同じものならまだしも、――囚人とドレイとコジキの生活を合わせたものよりももっとひどいものだったので、キムたちはこれがこの世の地獄というものだろうと話し合いました。
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 あわれなキムはくる日もくる日も、まい日十六時間、暗い穴のなかで三メートルあまりの重い丸太ん棒を背なかにかついで運ぶ仕事や土運び仕事などをやらされました。疲れ切ってもどってきて、からだを休めるところといえば、壁にはうすい板を張っただけ、床は板張りにムシロを敷いただけというバラックで、ここにキムは大勢の仲間たちとともにかん詰のイワシのように詰めこまれていたのです。バラックのそとには有刺鉄線が張りめぐらされ、日本人の見張りがついているので逃げることはできませんでした。食べ物は牛や馬よりもひどいもので、ジャガイモやダイコンを塩じるで煮たものばかり。おコメがいくらか配給されることにはなっていても、それは日本人の監督とか頭《かしら》とかのえらい人たちがピンはねしてしまうので、キムたちの口にはほとんどはいりませんでした。で、ジャガイモの茎や道に落ちていたシブガキの実まで拾って食べて飢えをしのがなければなりませんでした。着るものもくれなかったので、キムたちは朝鮮を出てきたときのままの夏の野良着がボロボロになったのを細い針金でつくろって穴をふさぐというしまつでした。こんなありさまで零下一○度をこえるきびしい冬をすごさなければならなかったのです。
(ここまで話を聞いてきて、ぼくは思わず「信じられない!」と叫んだのですが、キムじいさんは「ウソツクヒト悪イヒト。ワシ、ウソツキキライ」といい、話はまだまだこれからなのだといってあとをつづけました)
 あわれなキムたちは、飢え疲れて幽霊のような姿になっても働きつづけなげればなりませんでした。ちょっとでも仕事の手を休めると、日本人の監督やその手下にカシの棒で気絶するまで殴られました。病気になって寝こんでも殴られて仕事に追いたてられ、起きあがれない者はモッコにのせて仕事場まで運ばれ、仕事にかかれといってほうり出されました。こうしてほうり出されて、その場で息が絶えた者もありました。バラックからだまって外出したととがめられ、三日間カシの棒で殴りつづけられて死んだ者もありました。こんなふうにしてまい日、一つのバラックから一人か二人ずつ死んでいったのですが、その死がいは葬式もされずに、まるでネズミの死がいでも捨てるように土捨て場にうち捨てられていたのでした。
 苦しさにたえかねて逃げ出す者も続出しましたが、すぐつかまってしまい、見せしめのために広場に集められた仲間たちの前で殴られました。気絶すると、水をかけて息を吹き返させられてはまた殴られました。それでも逃げ出す者は後を絶たず、キムもその一人でした。そこで働かされていたのでは、やがて間違いなく殺されてしまうと思って逃げ出したのです。はじめの二回はすぐつかまりましたが、三回目は何日もつかまらなかったので、うまくいったと思ってよろこんだとき、ある町で警官につかまってしまいました。さすがは拷問の本家の警察のことだけあって、その取り扱いには若くてがんじょうだったキムも骨身にきつくこたえたそうです。さすがのキムも、一週間も留置場というろう屋に入れられて棒を両足にはさんだままで正座させられ、その合い間あいまに引っぱり出されてはからだじゅうが紫色にはれあがるほど竹刀《しない》で殴られるなどの拷問をうけ、とうとう「これからは絶対に逃げない」と誓わされてしまったのでした。そして警官がつくった誓約書に指を切った血で判を押させられ、やっとのことでもとの鉱山に連れもどされたのでした。
 けれども、逆境にきたえられて強く賢くなってきたキムは四度目の脱走をこころみました。それは一九四四年秋の台風の夜のことでした。バラックのまわりの森や野山は荒れ狂う海のようにわきかえっていました。キムじいさんの言葉によると木木が「サイケエレー(最敬礼)」を繰りかえしているさわぎにまぎれ、かれはバラックをぬけ出して山にはいることに成功したのでした。
 あらしの去ったあと、赤、黄、緑、かっ色と色とりどりでニシキのように美しくなりつつある山のなかを、自由になったキムはクリや山ブドウの実で命をつなぎながら西へ西へと七日もさまよいつづけま
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した。西へ――というのは、日本海側へ出れば、ひょっとしてふるさとの朝鮮が見えるかもしれないので、それを一目なりと見てから死にたいと思ったからだそうです。だが、かれはそんなに悲観しなくてもよかったのです。コジキもあきれるほどのボロボロの身なりになってゼンマイ村にたどりつき、山里のカキの大木の根もとに倒れていたところを、通りかかったゴロイチじいさんに救われたからでした。
 そして戦争が終わるまでゴロイチじいさんにかくまわれていたのでした。
 カキの木の根もとで救われたときのことを語ったとき、キムじいさんの両眼から大つぶの涙が岩をつたう清水のしずくのようにしたたり落ちました。
「友よ。どこからきて、どこへゆくのか?」というのが、あわれなキムを見つけて一目でその身の上を知ったゴロイチじいさんが最初に発した言葉だったそうです。そしてそれは、キムじいさんにとっては最初に聞いた優しい日本語であり、一生忘れることのできない言葉となったものでした。
 ぼくは、ぼくとおなじ日本人が、ヒツジのように柔順であったあわれなキムたちに――しかもその当時おなじ「日本人」であったかれらに――加えたおそろしい暴虐非道の話をただおどろいて聞いているばかりでした。それは信じたくないものでしたが、じいさんの話を聞いていると信じないわけにほいきませんでした。
「けれども……」とぼくはかれの話がひと区切りついたときにちいさな声でいいました。「そうした話をぼくはひとかけらも大人たちから聞かされませんでしたよ」
 こうした出来事は日本じゅうどこでも――いや、日本の軍隊が占領した土地ならどこにでもたくさんあったことだとキムじいさんはきっぱりいいました。ゴロイチじいさんや村のJDIたちから教えてもらったのだから間違いないというのです。
「タクサン日本人ソレヤッタ。タクサン日本人ソレ知ッテイル」キセルのがん首でイロリのふち石をたたきながらキムじいさんはいいました。「ソシテ、知ラン顔シテル。カクス、ヨクナイ。知ラン顔スル、悪イヒト」
 それからキムじいさんの話は「人間戦争」のときのことに移りました。その戦いがはじまったとき、かれはゼンマイ村の娘と結婚したばかりでしたが、ゴロイチじいさんが村の「善良軍」の隊長になったので、さっそく夫婦でその隊に参加しました。キム夫婦は、ゴロイチじいさんが考え出した赤地に白くがい骨を染めぬいた旗のもとで、村びとのだれにも負けずに勇敢に戦いました。キムの若い妻はある戦いで重傷を負いましたが、それがもとで十年前になくなってしまいました。キムは同志であり戦友であり妻であった人のなきがらを、かれが旗のなかでいちばん敬愛している日没国の国旗でつつんで葬り、その墓の上にヤマザクラの木を植えてやりました。かれがその旗を敬愛しているわけは――かれの考えによれば、それは「人間戦争」のときに活躍したがい骨旗をもとにしてつくられたものだからです。
「真ンナカノ白イ丸、タクサンノガイ骨アツメタモノ」とキムじいさんは言い張るのでした。「マワリノ赤、タクサン流サレタ血……」そして、そういうわけなのだからとケンに強く念を押すようにしていうのでした。「ワシ、死ヌ。アノ旗デカラダツツム。ワシノ墓ニクリ[#「クリ」に傍点]ノ木ウエル。ワカッタカ、けん……」
「わかってるよ」とケンは答えました。「もう二十ペんは聞いてるからね。ヒロシもよく知ってるよ」
 キムじいさんはとても満足そうにうなずき、しわのなかでにっこり笑いました。じいさんに笑顔がもどったので、ぼくはさっそく、あと二十年たって日没国が世界に解放される時がきたら、ふるさと朝鮮へ帰ったり日本へ行ってみたくないかときいてみました。
 ふるさとのことを思うと、牛に踏みつけられたように胸が痛むとキムじいさんはいいました。あの朝鮮戦争のとき、かれのふるさとの村も戦場にされて焼きつくされてしまったので、親類や知り合いに会
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うことほもうほとんど期待できまいが、それでもあのなつかしい山や川はぜひもう一度見たいものだというのでした。とはいうものの、朝鮮にせよ日本にせよ、そこに住むのはむろんのこと、物見遊山の旅行にいって見たいとは思わないといいました。なぜかというと、――キムじいさんは苦虫を一度に百匹もかみつぶしたような顔をしていったものです。
「警察アル国、悪イ国。軍隊アル国、悪イ国。役人イル国、悪イ国。金持チイル国、悪イ国。日本、朝鮮ムカシトオナジ」
「そりゃあ、現代の文明国ですもの、警察もあれば軍隊もあり、役人もいれば金持ちもいますが」とぼくはじいさんのけんまくにおどろきながら反論しました。「でも、第二次世界大戦前にくらべると、なにもかもものすごく改善され進歩し、まるっきり昔と変わってしまっているんですよ」
 しかしキムじいさんは、かれがいまあげた悪いものを日没国のようにまるっきり、あるいはほとんどなくしてしまわないかぎりは昔とちっとも変わっていないとがん固にいい張ってゆずりませんでした。というのは、じいさんの意見によると、金持ちや役人や軍隊や警察などの勢力が強くて威張っている国ほど、人民がだまされ、しぼりとられ、しいたげられている野蛮国、悪い国なのであって、それらの勢力が弱くて足りれば足りるほど文明国で良い国なのであり、そんなものが全くなくなってしまった国が最も良い国ということになるからです。その考えはたぶんにゴロイチじいさんの感化をうけてできたものと思われましたが、いまではかれのがんじょうなからだにふさわしく、単純でがん固な信念になっているようでした。
 こんなふうに、キムじいさんにはとてもがん固なところがありましたが、他面とてもやさしいところがありました。たとえば――かれが村の人びとからはなれて山のふもとでひとり暮らしをしていることを寂しくないかときいたとき、「牛、馬、ミンナ友ダチ。サミシクナイ」と答えたものです。「ワシ、ココハナレル。友ダチ、ミナサミシガルヨ」。そればかりでなく、こうして村の子供たちが遊びにきてくれるし、村びとたちといつもいっしょに働いたり、晩さん会で楽しみを共にしたりできるのだから、すこしも寂しくはないというのです。で、らい年は自由人になるのだが、そうなってもまだ元気だから働きつづけるとほこらしげにいうのでした。「ワシ、仕事ヤメル。牛、馬サヨナラスル。友ダチカナシイ。ワシモカナシイ。サヨナラデキナイ」
 そして、何にもましてキムじいさんには、もうじき六十になろうという人とは信じられないほどの、子供のような純真さがありました。タバコをすこしばかり買うほかには使い道がないので、労働券がたまって困るという自慢もその一つでした。
「カネ、タクサンタクサンタマル。ワシ、ウレシイネ。トテモトテモウレシイネ」キムじいさんはいたずらっぽく片目をつむって笑いかけました。「ワシ、金持チ。コノ村イチバン金持チ……」
「それ、ほんとうのことだよ」とケンがおどろいているぼくにいいました。「キムじいさんほど、この村の学校に笛や太鼓なんかを寄付してくれる人はいないんだからね。キムじいさんの働きはみんな楽器になって、こころよい昔をひびかせてくれるって村の人たちはいってるんだよ」
「ワシ、子供ノ楽隊イチバン好キ」とキムじいさんは顔じゅうをしわだらけにして笑いながらいうのでした。「アレ、タマラナクカワイイ。アレ天使ノ楽隊!」
 キムじいさんは子供たちの楽隊が演奏するマーチや小曲がとても好きなんだ、とケンが話してくれました。
「『キムじいさんマーチ』ってのもあるんだよ」
 それは去年、幼年学校の子供たちと教員がキムじいさんに感謝をささげるためにつくったマーチで、すてきな曲なのでラジオで放送されたり、国じゅうのあちこちで演奏されているということでした。
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「ねえ、キムじいさん。敗戦記念日にはぜひ野外劇場へおいでよ」とケンがいいました。「たぶん、じいさんのマーチが聞かれるからね」
「オオ、イクトモ」じいさんの細めた目がかがやきました。「アレ、トテモイイ曲。ワシ、ナンドデモ聞キタイ」
「敗戦記念日というと……あの……?」とぼくはケンに顔を向けました。
「そう、あの八月十五日。日本が戦争に負けた日さ」とケンは答えました。「つまり、この日没国にとっても戦争に負けた日さ」
「昭和二十年の八月十五日のね」
「そうだよ。一九四五年のね」
 日没国では「昭和」というような年号はとうのむかしに廃止されているとケンはいいました。(そのわけはときいたら、――ケンはにべもなく、ヒラガナを廃止してカタカナをのこしたよりももっとわかりきったことじゃないかといいました)
「その日のことを日本では終戦記念日っていっているんだよ」とぼくは教えてやりました。「戦争が終わった日なんだからね」
「それじゃあ、戦争が勝って終わったのやら、負けて終わったのやらわからないね」とケンがいいました。
「日本人、ゴマカス。ヨクナイヨ」といってキムじいさんが顔をしかめました。
 日没国では、八月十五日は戦争に負けた日なので、ありのままに敗戦記念日といっているそうですが、解放記念日ともいっているということをぼくは知りました。それは、古い考えかたと生きかたからすっかり解放されるきっかけとなった記念すべき日だからというわけなのです。
「終戦記念日」などともってまわった名をつけるくらいなら、いっそ「平和記念日」とでもしたほうがましだったろうに、というのがキムじいさんの意見でした。
 ゴロイチじいさんの家にゆくため、さよならをしたとき、キムじいさんは「コレ、隊長ニ」といって、かれがつくった自慢の長生き薬の紙包をケンに渡しました。キムじいさんはいまでもゴロイチじいさんのことを「隊長」と呼んでいるのでした。
 キムじいさんの小屋をあとにしたときは、引きあげつつある台風がひと息いれているところで、風はくたびれたように吹き、雨は煙るように降っていて、はるかかなたの西の雲間にはひとすじの青い空がのぞいていました。キムじいさんの家畜小屋では、あらしがなごんできたのをよろこんでか、牛どもがモウ、モウと鳴きかわしていました。

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