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パルチザン伝説
桐山襲


  第一の手紙

[#地から2字上げ]1982年4月

 霧に閉ざされたような、ひとつの風景がある。……海の朝、長い砂浜。季節は夏の終りのはずだが、その風景は妙に寒々しい。
 渚をたどると、浜は前方でちいさな砂洲をつくりながら、海の方へと迫り出している。砂洲の突端に染のような黒い点が在り、近づいていってみると、それは脱ぎ捨てられた一足の黒い革靴なのだ。それは丁度「秋が靴のなかにはいり込んだ」とでもいえるようないかにも空っぽな風情で、満ちてくる潮に危うく持ち去られようとしている。そして霧、海と砂浜をつつんで、白い膜のような霧があたり一面を支配している……
 これが、僕が自分の記憶であると信じている一九五一年の風景――つまり僕たちの父が、僕たちの前から失なわれていった時の風景であるのだ。

 兄さん――
 僕たちが最後に出会った時からほとんど十年ののちに、こうして兄さんに手紙を書くことは、奇妙といえば奇妙なことなのだけれど、そして、この手紙が、アジアの果の最悪の国の首都に棲む兄さんに届くかどうかも確かであるとはいえないのだけれど、どうしても書き伝えておかねばならない、そういうせきたてられた気分で、僕はいまペンを執っている。
 どうしても書き伝えておきたいこと、それは一九五一年の秋に一足の靴だけを残して死んだ(或いは、消えて行った)僕たちの父にかんしてであることは言うまでもない。大井|聖《ひじり》という名を持つ僕たちの父は、何故一九五一年の秋に消えて行ったのか? 僕が二歳、兄さんが四歳のときに忽然として消えた大井聖とは、いったい何であり、誰であったのか? ――この父にまつわる謎を、僕たちは一向に解くことができないでいたわけなのだが、僕はあること[#「あること」に傍点]によって、ようやくその謎に手を触れることができたと、とりあえず兄さんに言っておかねばならない。そしてまた、その父の謎に触れることによって、兄さんや僕があの時代[#「あの時代」に傍点]に為そうとしたことの意味を見定める端緒も、同時に発見したと言うことができるような気がする。言ってみれば、既に三十歳という年齢を越えた僕は、父・大井聖の謎に触れることによって、ようやく自分たちの時代を俯瞰する眼を、獲得できたように思えるのだ。……
 しかし、僕がいませきたてられた気分≠ナいるのは、それだけではない。僕が急いでいるのは、僕の肉体にとって、残された後数週間ほどが、兄さんに手紙を認《したた》めることのできるほとんど最後のチャンスだと思えるからにほかならない。
 というのは――いまから五年ほど前、僕は片目と片手を失なって≪昭和の丹下左膳≫とでもいうべき風情になって生き続けているのだけれど、運良く残されたもう片方の眼球も、その時片方に受けた傷が拡大していった結果であるのか、或いは、僚友を失なったのちの孤軍奮闘がもたらした疲労のためであるのか、急速にその力を失ないつつあるからなのだ。せきたてられた気分≠抑えて、まず僕が≪昭和の丹下左膳≫とでもいうべきものとなった顛末を、ここで簡単に物語っておかねばならないが――勘のいい兄さんのことだから、既に大概は承知しているだろうとは思うけれど――五年前、つまり一九七〇年代の終りがそろそろ見えてきた年に、それほど大きくない新聞記事が社会面にのっていたのを憶えているだろうか?
 僕の記憶によれば、Y新聞の見出しは、確かこうだった。
≪O市でアパート爆発若い男逃げ去る爆弾グループ残党か?≫
 このY新開の記事によれば、「一人の血まみれの若い男」が、「アイテテ、アイテテと叫びながら逃げて行った」ということなのだが、そして、その若い男は、アパートの管理人の話では「楠下幾太郎」(クソシタイダロウ!?)というなかなかに風雅な名前であったわけなのだが、その「アイテテ、アイテテと叫びながら逃げて行った」若い男こそ、ほかならぬ五年前の僕であったことは、もうお分りだろうと思う。
 そののち僕は、何とか傷の手当をしながら、この手紙の差出元にあるとおり、亜熱帯の海洋のなかにぽつんと浮き出た孤島にまで辿り着いている。――言うまでもなく、逃亡者にとっては、ひたすら都市の奥へ逃げ込むこと、都市の夜へ、密林にも似た都市の夜の底へ逃げ込み、都市の汚濁を自らの保護色として潜み隠れることこそ、身の安全を図るための常道であり、逆に、人間関係の稠密な田舎――そこではいかなる他所者《よそもの》も共同体の凶暴な蜘蛛の巣に手足を奪われてしまう――は逃亡者にとって最も危険な場所なのだから、僕がこの島、過疎の中の過疎ともいうべきこの南の孤島に流れとどまっていることを、兄さんは訝しく思うかも知れない。けれど、人口が三桁に足りないというこの極端な過疎の島では、人々は異形な姿の僕を、単なる他所者ではなく、海のむこうから流れ着いた聖なるマレビトの如くに扱い、不思議な安全を保障してくれている。警官は舟で二時間ほどの所の少し大きな島に駐在しているのだが、この島を巡回して僕に出会ったときでさえ、制帽の下の二つの目を同情と驚きでいっぱいにして、僕の肉体上の不自由に気を配ってくれたほどだ。
 だから僕は、広がり尽している珊瑚礁の海と、灼熱と、亜熱帯の旺盛な密林とに囲繞されて、草葺き屋根の小屋に、まるでひとりの〈神人《カミンチュ》〉のように穏やかに坐っていられる。それというのも、ひとつには僕が〈大和人《ヤマトンチュ》〉ではなく、〈沖縄人《ウチナンチュ》)だと島の人々から思われているからかも知れない。というのは、兄さんは僕が少年時代から天才的ともいえる語学の能力を持っていたことを憶えていると思うが、逃亡の最中、沖縄本島で半年ほど暮した僕は、その本島の山原《ヤンバル》地方の言葉をほとんど完璧に自らのものとしてしまっているのだから――。この孤島に生きる人々にとっては、沖縄本島というのは大和と違った意味でのひとつの異世界――いわば〈身近な異世界〉――ともいうべきものなのだが、僕はその〈身近な異世界〉から流れ者いた異形な聖《ひじり》とでもいうべきものとして、彼らの警戒の網にとらえられることを免れているのだ。
 ――この島から眺められる南の海、うすみどりに澄みながら波一つなく広がっている珊瑚礁の海を見たら、兄さんは何と言うだろうか? もっとも、凍てついた北の都市のマンホールから広がっている地下道や、その街の上に吹く暗い風、街路樹の冷たいざわめきなどを自らの心の風景として愛してきた兄さんのことだから、光と、そして光のつくりだす影までが輝いているこの眩《まばゆ》さに満ちた風景は、兄さんには深い違和感だけしか与えないかも知れない。しかし、無人の浜と無人の海、その灼熱の世界を支配する驚くべき真昼の静謐ともいうべきものに、僕はいま深く魅せられている。あたかも、この海辺の真昼、輝く光のなかでの静謐な真昼が、人間がこの地上から失なわれたのちの美しくも静やかなる風景ででもあるかのように――。

 さて、ここでもう少し溯って、O市での大失敗によって僕が≪昭和の丹下左膳≫となる以前の、僕の政治的な軌跡について、おおよそのことを伝えておかねばならないだろう。
 兄さんも知っているとおり、七人の男女から成る僕たちのグループが、〈M企業〉に対する歴史的な攻撃によって最初の戦果を挙げたのは、一九七四年のことだった。
 一九七四年というのは、六〇年代の後半から開始された学生たちの社会的叛乱の波頭が既に過ぎ去り、その輝きの最後の余光までが消え沈もうとしていた、そういう時代だったのだが、大衆的叛乱の敗北が疑いようもなくなった一九七〇年代初頭から――あたかも急ぎ足で自分たちの青春と訣別していくかのように――早々と地下に潜り始めていた僕たちのグループは、大衆的叛乱から生まれ出た最も根柢的な叛逆者のグループとして、強大な爆発力をもった武器による〈M企業〉への攻撃を敢行したのだった。
 ――ここで、男女七人から成る僕たちのグループについて、簡単に語っておかねばならないが、僕よりも二つ年長である兄さんたちが≪党≫を、ひたすらに≪党≫をめざしたのに対して、孤立した叛逆者のグループとでもいうべき僕たち七人の男女は、≪党≫とはまた違ったひとつの結合をつくりあげつつあった。この兄さんたちと僕たちとの違いは、兄さんたちが腐敗せる前衛党との訣別と新たなる前衛党の創出ということを自らの出生地とし、常に共産主義の世界的正統ということを意識していたのに対して、あの風の日々の首都において、ざらざらとしたバリケードの手ざわりのなかで夏の夜明けを迎えた僕たちは、≪党≫を媒介としない直接的なかくめい[#「かくめい」に傍点]に身をまかせていたということに由来しているのかも知れない。
 勿論、兄さんたちが創出しようとした党といえども、最も先鋭な武装を獲得するための党であり、いわば自らを軍に溶解させることによってその使命を果すような党であるという点で、市民社会の内の安全な一装置であるようなあれやこれやの党とはおよそ位相を異にしていたのだけれど、その紙一重あとの世代ともいうべき僕たちのグループは、綱領から党を生み出そうとするのでなく、綱領から戦闘だけを生み出そうとした点で、兄さんたちとは大いに性格を異にしていたということができよう。だから、兄さんたちの≪党≫が、善かれ悪しかれ、最後まで≪党≫のメンバーをふやすことに腐心していたのに対して、僕たちは、現に在るメンバーだけでグループを完結させ、ただちにそのグループの全力をもって戦闘に突入して行った。あたかも、爆弾の威力を増すことによって、兵士の数を増すことに代行させるかのように――。
 さて、こうして生まれた僕たちのグループは、先に述べたとおり、一九七四年の〈M企業〉爆破によって、日本国全体への宣戦を布告するのだけれども、その〈M企業〉への攻撃は、周知のとおり、僕たちの予想だにしない否定的(と考えられた)事態をひき起こしてしまった。つまり、強大な威力を持った僕たちの武器は、〈M企業〉本社の建物を見事に破壊したのみならず、爆破された建物の窓という窓から降り落ちてくる大量のガラスの破片によって、百人を越える一般市民≠フ死傷者を出した(或いは、出してしまった)のだった。この事態は、社会全体にただならぬ衝撃を与えたのみならず、それを全く予知し得なかった僕たちのグループの内部にも、少なからぬ動揺をひき起こした。
 市民社会全体の敵意と、開始された公安の追跡の中で、僕たちは幾晩にもわたって、この事態をめぐる総括討議を続けた。そして、その結果はといえば、七人のグループのうち僕ひとり[#「僕ひとり」に傍点]を除くメンバーの全員が、死傷者を出したことへの自己批判という方針をうち出すことに賛成したのだった。もっとも、死傷者が多ければ多いほど良いと僕が考えたのでないことは言うまでもないのだが、彼我の力関係と、ここに至る自分たちの情念ともいうべきものの出発点を考えるならば、死傷者に目を奪われての作戦計画はきわめて危険が大きいことを、僕としては主張し続けたのだった。しかし、僕たちのグループは、僕ひとり[#「僕ひとり」に傍点]を除いて、爆発物の小規模化及び分散設置という今後の戦術方針を決定し、それ以降、周知のとおり一九七五年の警察による一斉逮捕に至るまで、〈H企業〉コンピューター室爆破の勝利を頂点とする連続企業爆破戦闘を闘っていくことになるのだった。
 一方、僕はといえば、次の三項目、すなわち――
 @小規模爆発物の分散設置反対
 A声明文の中止(戦闘のみがわれわれのメッセージである)
 B企業爆破戦から××攻撃の再開[#「再開」に傍点]
 ――ということをメンバーに訴え、そしてそれが否定されたことによってグループから離脱し、そのために一九七五年の一斉逮捕を免れながら、この国に残された唯一人の武装装線兵士として、獄中のメンバーの闘いに拮抗すべく、唯一人の作戦計画転突入して行ったのだった。……
 兄さん。
 ここまで書いてくれば、語学の才能には恵まれているものの、幼ない頃から手先の仕事には決定的に不向きである僕が、0市において「血まみれのまま逃げて行った若い男」として新聞紙上に現れ、そしてまた忽然と姿を消したこともお分りになると思うが、僕について書くことはここで中断して、兄さん! あなたについて僕の知っていること、知ろうとしたいことをこれから記しておかなければならない。

 兄さんが逮捕されたのは一九六九年の秋、つまりあの佐藤訪米阻止闘争を目前にした闘いにおいてだったが、同時にそれは、僕たちの母の死ぬ直前のことでもあったわけだ。僕たちの母は、兄さんの逮捕を知ると冷たく押し黙ったまま部屋に籠り、それからみるみる痩せ衰えて、二週間もしないうちに、(まるでコップの中の水が蒸発するように)死んでしまったのだから――。そして、兄さんが拘置所から出てきたのは、それから二年余りのちの一九七二年、つまり兄さんと入れ替るように僕が地下に潜行を始めるひと月ほど前のことだったが、もはや決して口を開くことのない≪唖者≫として兄さんが僕たちの前に現れたとき、僕は或る異様なものを感じて、僕たち兄弟の不吉に触れてしまったような思いにとらえられたものだった。というのは、これは後にゆっくりと書かれねばならないが、僕たちの失なわれた父――僕が二歳のときに海辺から失なわれた父・大井聖もまた、≪唖者=或いは口を開かない者≫であったということを、僕はほかならぬ兄さんから聞いていたのだったから――。
 決して大柄なアジテーターではないが、きわめて緻密かつ巧妙な論理を積みあげていくタイプである兄さん、特に法廷闘争のなかでは、階級意識で武装されたアルチュール・ランボウとでもいうべき風情でありとあらゆる黄金の言葉を放ちながら、時として検察官や裁判官を完全に沈黙させてしまうほどの弁舌の天才であった兄さん、その兄さんが、何故、拘置所を出ると同時に口を開くことを止めてしまったのか? ――この謎について、僕の仲間や兄さんの友人たちは様々な憶測をめぐらせたものだった。だが、兄さんが痴呆症などに陥ったのでないことは、変ることなく澄んでいるその眼を見れば誰にでも分ることだったから、僕たちの憶測は、兄さんが≪決意した唖者≫とでもいうべきものであろうということを確認し合っただけで、それ以上に進むことはできなかった。ただ、ひとつの「事件」――いや厳密に言えば二つの「事件」が、兄さんが口を開かなくなったことと関係があるのではないかという疑問を、僕はひそかに抱きつづけていた。
 ――それは、兄さんが拘置所を出る直前、つまり一九七二年の厳冬に起った「事件」と言えば、既にお分りと思う。すなわちその「事件」とは、兄さんが所属していた最も急進的であることをめざした党派――僕たちの六〇年代が生み落した党派のなかの党派[#「党派のなかの党派」に傍点]――が、雪深い山岳地帯において近代日本史上初めての十日間にわたる不屈の銃撃戦を貫徹し、(そして、銃撃戦ののちに明らかになったことなのだが)銃撃戦に至る山岳ベースの夜と昼のなかで、自分たちの仲間=別の言い方をすれば≪党員≫または≪兵士≫十四人を処刑したという事件だった。
 その「事件」は、自分たちの党の半ばを粛清してまでも銃撃戦を貫徹しようとする、そうした強固な党派がこの国に生まれ出たことによって、公安の犬どもを大いに震撼させたのだけれども、同時にまたその「事件」は、僕を含めて一九六〇年代からの闘いを闘ってきた者たちを、≪党≫に対する劇甚な判断停止の状態に落し込んだ。そして、兄さんが一九六九年に逮捕されたときに被《かぶ》っていたのは、ほかならぬその〈党派のなかの党派〉の名を記した燃えるような紅のヘルメットだったから、あの衝撃的な「事件」が兄さんの≪唖者≫になったことと関係していると考えるのは、まずは自然なことのように思える。
 しかし、それだけでは兄さんが≪口を開かない者≫となった十分な説明とはなっていないのだから、さらに僕の知っていること、おそらくは兄さんが否定するにちがいないことを、どうしてもここで書き足しておかねばならない。――
 それは、もし兄さんが一九六九年に逮捕されなかったとしたら、あの雪深い山岳ベースの中で処刑された十四人の兵士のひとりであったかも知れず、或いは、処刑した者のひとりであったかも知れないという状況のなかで、処刑された十四人に含まれていたひとりの女性が、兄さんの〈恋人〉とでもいうべき存在ではなかったかということだ。僕がただ一度だけ紹介されたことのあるその女性は、あの時代には多くいた若い女性たちのひとり――つまり、切れ長の真直ぐな眼を持ち、敗戦後の家庭の中で育てられてきたという雰囲気をブラウスの襟のあたりに漂わせている感じの人だったのだが、その初々しい頬が印象的だった女性が、粉雪の舞い散る夜の山岳で、自分の爪で掘った暗い穴ぼこの中に埋め殺されていくという想いは、僕を苦しめたのとは比較にならないほど、兄さんの精神の最も奥深い所へ打撃を与えたのではなかったろうか? 勿論、〈絶望〉などという言葉を安易に使うことは、およそ兄さんの状態にふさわしくないのは言うまでもないことなのだが、党や運動などに対する安易な絶望などではない、≪殺し殺される者としての絶望≫が、兄さんを奥深い唖者の森へ導いて行ったと考えるのは、余りにセンチメンタルに過ぎるだろうか。――兄さんが拘置所の乾いた門から出てきたとき、もはや決して開かれることのなくなった兄さんの口元を見て、その奥に広がっている恐るべき空洞と、その虚空のなかを乱れ散る暗い粉雪をイメジしたこと、それ故、季節は春であったにもかかわらず激しい寒さを感じたことを、僕はいまでも忘れることができずにいるのだけれど。……

 さて兄さん。
 こうして僕は、一九六九年以来の僕と兄さんの足跡を辿り、僕が≪昭和の丹下左膳≫となり、兄さんが≪決意した唖者≫となった顛末を記してきたのだけれど、ここでこの僕たち二人の兄弟を産み落した父と母について語る前に、もう一度前に戻って、僕たちのグループが一九七四年八月の〈M企業〉爆破戦を成功させる直前に為そうとしたあのこと[#「あのこと」に傍点]について、いまから書いておかねばならない。
 一九七四年に僕たちが為そうとしたあのこと[#「あのこと」に傍点]――それは、いまや実際に存在したかどうかさえ確かめることが困難なものになってしまっている。というのは、あのこと[#「あのこと」に傍点]は、その一年ほど後に無念にも一斉逮捕された僕たちのグループのメンバーが、捕虜となったゲリラ兵士の鉄則である完全黙秘を敢て破棄してまで、繰り返し自白≠オているにもかかわらず、あのこと[#「あのこと」に傍点]の余りの重大さに恐慌をきたした敵の犬どもは、懸命になってあのこと[#「あのこと」に傍点]の存在を外部に洩らさないようにしているのだから。――そして、護民官であるよりは、警察の広報班であることを誇り高い栄誉としているこの国のジャーナリズムは、彼らの価値体系の頂点を打ち砕こうとするようなあのこと[#「あのこと」に傍点]を、敢て報道することなどあり得ないのだから。……
 こうして、あのこと[#「あのこと」に傍点]は、その存在を知っている者が日本に数えるほどしかいないという屈辱的な状態に置かれている。だから、闇から闇へと葬り去られようとしているあのこと[#「あのこと」に傍点]――一九七〇年代の唯一の正史は、いまこそ≪昭和の丹下左膳≫たる僕から≪決意した唖者≫たる兄さんへ、語り伝えられねばならない。あたかも、非業な死者たちの呟きの如く、絶えることない「暗河を行く地下水のぎわめき」の如くに――。

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 ≪一九七四年八月十四日の伝説≫
 一九六〇年代末期の街路という街路を乾いた風のように駆け抜けていった学生の社会的叛乱の中から、叛逆者の極北たることを志して生まれた僕たちのグループが、あのこと[#「あのこと」に傍点]の計画に辿り着いたのは一九七三年の秋――つまり、あの壮大な祭りの終りの年ともいうべき一九六九年から数えて、ちょうど四年目の秋だった。
 その年の十一月も、僕たちの目に映る街路は相変らず昏く、炎を産みだすことのなくなった十字路に、風は希望もなく止まったままだった。しかし、そのような僕たちの想いを嘲笑うかのように、敷石を失なった舗道を踏んで流れていく人々の表情は空ろなまでに明るく、それまでは写真の中でしか見ることのなかった華やかな衣裳をまとった若い女たちが、あやうい切花のうつろいのように、僕たちの目の前を流れすぎていった。つまり、僕たちの祝祭が終ってみれば、この国はいっさいの戦後的なものを清算し終えて、すでに最悪の華やかさとでもいうべき所へと進み込んでいたのだった。……
 さて、一九七三年の秋に僕たちのグループが辿り着いたあのこと[#「あのこと」に傍点]とは、ほかでもないあの男――首都の真中にある奥深い森のなかに棲んでいるあの男への、大逆を行なうという計画だった。
(僕たちの世代は、そのほとんどが、あの十五年戦争に多かれ少なかれ責任をもった者を父とすることによって産まれてきたのだが、中枢においてであれ末端においてであれ、手を汚すことによって生きてきた〈父たちの体系〉ともいうべきものは、僕たちの出生によって打ち砕かれねばならないと、僕たちは幼ない頃から考えつづけてきた。父たちは十五年戦争のただなかで、大陸の村々を焼きはらい、半島の女たちを強姦し、そして自分たちも数多く死んでいったのだが、観争が終ってみれば、生き残った者たちはひとりひとりの持つ血の負債に支払いを付けることもせず、この国の復興≠フ歩調に己れの人生を合わせていくことによって、死者たちの国に易々と別れを告げてしまったのだった。――過去のアルバムには、いちばん大切なもののかわりに、茶色く変色した青春物語だけがとどめ残された。しかし、「大人たち」のこの共同の欺瞞ともいうべきものは、戦後の火のくすぶりの中に産まれた幼ない者の瞳からは、簡単に見破られたのであり、それ故「大人たち」へのふかぶかとした不信と敵意とが、僕たちの世代を貫く共通のエチカとなっていったのだった。……かくて〈父たちの体系〉を全否定することは、僕たちの世代のまぎれもない義務であり、大人たちの偽善の世界をこなごなに打砕くことは、僕たちの世代のほとんど唯一の存在理由であるように思われた。戦前[#「戦前」に傍点]が許せない以上に、いつわりの自由といつわりの平和でみたされた戦後[#「戦後」に傍点]こそが、僕たちには耐えることができなかったのだ。)
 だから――僕たちの世代の叛乱のその頂点において生み出された僕たちのグループが、〈父たちの体系〉の頂点ともいうべきあの男を攻撃することによって戦闘を開始するのは、十分に必然性のあることにちがいなかった。なぜなら、茶色い戦争の時代の大元帥から、戦後のものやさしげな家庭人へと、巧妙に退却していったあの男は、戦中と戦後を生きたすべての「大人たち」の最も見事なモデルとでもいうべきものにほかならなかったからである。あの男が日本国の象徴であるならば、反日であることを永遠の綱領とした僕たちのグループの闘いは、まずその象徴を攻撃することから開始されなくてはならなかった……。
 こうして、僕たち七人のグループがあのこと[#「あのこと」に傍点]の計画に辿り着いたとき、一番困難に思えたのは、あの男が堅牢な堀と石垣とに囲まれた城の中に棲んでいるということだった。勿論、数少ない兵士しか有たない僕たちのグループにとって、あの奥深い森の中へ、堀と石垣とを越えて攻撃を敢行することは、ほとんど不可能といってよかった。したがって僕たちはあの男が城の外に出てくる時を狙うほかはないわけなのだが、その回数はきわめて限定され、しかもそのわずかな外出≠ノさえ、夥しい警備の警官がつきまとっているのだった。

 寂として遠く騒がし夜半の冬(乙字)

 僕たちはマンションの一重に集まり、麻雀のパイをガチャガチャいわせながら、幾夜にもわたって討議を重ねた。国会の開会式や終戦記念日の式典など、あの男が定例的に出席する場所はないではなかった。しかしそれらは警戒が余りに厳重で、その場で攻撃を仕掛けるのはほとんど不可能であるように思えた。また、大相撲見物に現れたときを狙うという案が、一時有力だったこともあった。大相撲の場であれば、こちらは観客のひとりとしてかなり容易に国技館のなかにはいり込めること、さらに十分な至近距離からの爆弾の投擲が可能であること――これらの利点が国技館決行案≠大いに魅力的なものとしていた。それに、オペラハウスならぬ大相撲の場で、王族に爆弾を投げるなどというのは、なかなかに日本的な趣きがあって、大いに僕たちの興をさかした。
 しかし――その案は、第一に、相撲見物が定例的であるとは限らず変更や中止が少なからずあり得るものであること、そして第二に、国技館での爆弾の投擲は余りに多くの観客を殺傷するにちがいないことを理由に、廃案にせざるを得なかった(わざわざ僕は国技館まで出かけ、貴ノ花が無念にも輪島に敗ける所を見てきたにもかかわらず!)。――実際よく考えてみれば、爆弾の余波を受けて裸の大男たちがごろごろ[#「ごろごろ」に傍点]ところがっている図は、「山も川も枕並べて昼寝かな」などとも言っておれず、余り気持のいいものではなかったのだ。
 結局、僕たちは、警備が一番困難な状態――すなわち列車の走行中を狙うことに決定した。
 列車が定例的に運行される機会は、少なくとも年に二回あった。第一は那須の御用邸への往還《ゆきかえり》であり、第二は下田の御用邸への往還だった。僕たちは夥しい資料の山の中で研究を重ねた末、列車が那須の黒磯から東京の原宿へ戻るときを狙うことに決定した。というのは、調査していくうちに、黒磯駅から原宿駅へ向う列車が確実に毎年同一の日――八月十四日[#「八月十四日」に傍点]――に運行されていることを発見≠オたからだった。つまり、八月十五日には「戦没者慰霊式典」なるものが毎年あの男を迎えて開かれるのだが、その前日の八月十四日に、列車は黒磯駅を出発していたのであり、次の日に延ばされることは絶対にあり得ないはずなのであった。
 僕たちは黒磯駅と原宿駅の間を幾度も往復し、さらに何箇所かの徒歩による調査を重ねた末、列車を吹きとばす地点――X地点[#「X地点」に傍点]――を荒川鉄橋上と確定した。荒川鉄橋上を、あの巨大な紋章を付けたチョコレート色の列車は、八月十四日の午前十時五十八分から十一時二分の間に通過するはずだった――。

 一九七四年の春は、死のような静けさのうちに訪れた。バリケードが、いかなる街路からも姿を消して既に久しかった。時代は、バリケードから次のバリケードまでの時期――すなわち〈間《かん》バリケード期〉とでもいうべき時期――にはいっていた。時間だけが、あたかも一本の糸のように、するするとどこまでも伸びて行くようだった。
 ――X地点[#「X地点」に傍点]が決定されると、次の問題は爆弾の発火方式だった。
 発火方式は、一般的にいって、時限式・無線式・有線式・そして直接投擲式とでもいうべき四種類に大別される。
 第一の「時限式」の場合は、兵士の安全は確保されるものの、列車の通過時刻に数分の幅があるため、カンパニアとしてならともかく、確実に列車を吹きとばそうというためには問題外だった。第二の「無線式」は、遠くから列車を現認した上で発信すればよいのであるから、十分に確実な方法であったが、残念ながら半年間での信頼できる送受信装置の開発・実験には余り確信が持てなかった。第三の「直接投擲式」というのは、かつてソ連軍の戦車隊に地雷をかかえて飛び込んでいった関東軍の原始的な兵士の如く、文字通り肉弾特攻を行なうものだが、当日の警備の厳重さ――ヘリコプターと地上警備――を考えると、十分な破壊力を持つだけの重量のある爆弾をかかえて荒川鉄橋に近づいていくことは、余りに危険が大きいように思えた。
 最後に残された「有線式」の場合は、爆弾を設置した荒川鉄橋上のX地点[#「X地点」に傍点]からはるか離れたA地点[#「A地点」に傍点]において列車を現認し、発火ボタンを押せば良いのであるから、ほとんど「無線式」と同じ利点を持っているのだが、X地点[#「X地点」に傍点]からA地点[#「A地点」に傍点]までのかなり長い距離に電線を敷設しなければならないという問題を含んでいた。
 しかし結局、作業による危険はつきまとうにせよ、最も確実に列車を爆破できるという理由によって、僕たちは「有線式」の発火方式を採用した(思えば、この「有線式」を採用したこと、多少無理をしてでも無線装置の開発に努力しなかったことが、畢竟僕たちの計画を挫折せしめた大きな原因となるのだが、それはもう少し後になって書かれねばならない)。
 こうして僕たちは、あのすべてが静かな年の春から夏にかけて、完璧な現地調査と爆弾第一号の完成に向けて、全精力を傾注していった。僕たちのグループは都市に生きるゲリラ兵士の基本的な心得として、普通の市民≠仮装すべく、昼間は民間のサラリーマンとして賃労働に時間をすりつぶしていたが、仕事を終えるや否やいち早く各自の任務にとりかかり、また少なくとも月に数回は、全体の討議と共同作業の時間を作っていった。そのため、徹夜の作業を行なって出社するということも度々あり、僕たちの若い肉体は大いに損われたけれども、鋭い草の葉のような僕たちの士気は八月十四日に向けてきわめて軒昂であり、誰もが静やかな活気とでもいうべきものに満たされながら、ひとつひとつの困難を乗越えていったのだった。――

 ここで僕たちの当時の生活について、簡単に述べておく方が良いだろう。
 先程も触れたように、当時僕たちはゲリラ兵士の心得として、市民社会においては徹底的に普通の市民≠スるべく振舞っていたのだが、学生時代に手慣れた肉体労働のアルバイトなどは却ってこの国では市民社会から排斥されるため、メンバーのほとんど全員が、普通の民間のサラリーマン(サラリーウーマン)となることによって生活を支えていた。ちなみに、僕の勤めた所はといえば、業界ではようやく中の下の部類にはいろうかという商事会社だったのだが、そこでの人間関係の馬鹿馬鹿しさは、およそ分り切ってはいたものの、やはり帝国主義本国の人民は救い難いという感懐を改めて僕にいだかせるのに十分だった。男子社員たちは、若い女子社員をいかに自分たちの共同便所にするかということに、一日の自由なエネルギーの大半を費やしていたし、社長はといえば――自分が三流大学の出身であるという妙なことを誇りにしている男なのだが――月に二度ほどのペースで韓国の取引先≠ヨ行くという仕事に、最大の情熱を支払っていた。そしてそれに同行することが、若い社員には願ってもない慶事であるというわけだった。――古《いにしえ》のへラクレイトスは「万物のアルケーは火である」と喝破したが、かくの如く僕の勤めた所は精液をアルケーとして成り立っているような、いささか水っぽい人間集団であったわけだ。だから、その中に混っている若い女子社員――女子社員といえば若いのしかいない所が日本の会社の不思議な所だが――の運命は、言わずと知れたことだった。最悪なことに、彼女たちは男子社員たちの猥褻な物差をもって自分たちの深さや浅さを測ることを少しも躊躇《ためら》わなかったから――そしてそれがこの国の女らしさ≠ニいう美徳であるというわけだったから――会社の事務室はいつも香水やら化粧水やらの様々の匂いで満たされ、それは僕に花園よりも、悲しい陰毛の森をイメジさせたのだった。……
 僕は――そして僕たちのグループの全員は――「現実の重さ」とか「人民に学ぶ」とかの信仰の類には全く縁がなかったから、定時になったら会社からオサラバするという原則を正当にも守っていった。この結果、定時に退社し、独身者であり、かつ女子社員に手を出そうとしないという僕は、職制からは「熱意の足りない社員」として、同僚からは「堅物《カタブツ》」として、そして女子社員たちからは「インポテンツ」(!)として、ささやかなる異端者の地位を獲得したのだけれど、その汚名≠返上すべく傾注された僕の必死の努力は、精密をきわめたプロ野球情報、就中その日の全チームの先発投手の予測の驚異的な適中率として、結実したのだった!
こうした会社生活を終えて、夜になると僕たちは各々の任務に就くことになるのだが、アジトである小さなマンションに毎晩集まるというのは、この警察国家においては余りに危険が大き過ぎた。なにしろ当時の情況といえば、あの不思議な「三億円奪取事件」以来、都内のあらゆるマンションやアパートは完全な警察の管理下――アパート・ローラー作戦――に組込まれていた。さらに、僕たちより先行した幾つかの群小グループによる爆弾闘争のおかげで、その管理網は文字通り水も洩らさぬものとなろうとしていたのだった。僕たちのマンションの掲示板にも、赤と黄色の防犯協会のポスターが貼り出されてあったのだが、あなたの隣にも爆弾犯人が!!≠ニいうそのポスターによると、「髪を長くしている者」「毎晩のように何人かが集まっている者」「あいさつをしない者」そして「インスタントラーメンばかり食べている者」は間違いなく爆弾犯人≠セというのだった!
 その上、岡っ引――なんという岡っ引根性で満たされているのであろう、この日本人という民族は。警察がひと声掛ければ、得意になってその手足を務める民間の岡っ引は、この国にはごろごろ[#「ごろごろ」に傍点]していた。一九七〇年代というのは、警察の干潟が、ゲリラという魚を段々に干上《ひあが》らせていった、そういう時代であったかも知れない。
 したがって、僕たちは二三人のメンバーによる打合わせが必要な場合、マンションや自分たちのアパートではなく、逆に、一般的には危険の大きい喫茶店などを選んだ。当時の喫茶店は、人がささやかな孤独をいとおしむ場所ではもはやなく、何やら集団で躁状態になって騒ぎ立てる場所へと、急速に移ろっていたのだが、そのなかで僕たちパルチザンは常に一番隅の席を占め、とりとめのない話をしながら小さなメモを交換することによって、その日の目的を果していった。役割を終えたメモは、テーブルの上の小さな灰皿のなかで、無言の兵士たちに見守られながら、確実に燃やされていった。薄暗いテーブルの上にともされた炎は、あたかも生まれ出でようとするささやかな烽火のようだと、僕は思った。
 その年、ひときわ暑い夏がやってきた。
 八月にはいると、僕たちは連夜のように荒川土手へ出撃した。鉄橋上の爆弾の固定方法、電線の敷設方法、敷設経路などが、次々と現場で決められていった。現認地点=スイッチ地点であるA地点は、荒川鉄橋から直線距離で八〇〇メートルほど下流に在る荒川大橋付近とすることが決定された。荒川大橋からは、はるか上流に荒川鉄橋が広々と見渡せ、鉄橋の上を気怠そうに通過していく真夏の列車をはっきりと見定めることができた。だから、荒川大橋に立つレポ[#「レポ」に傍点]の合図によって、その附近のスイッチを点火すれば、列車は確実に爆破することができるのにちがいなかった。
 ――しかし、この連夜の出撃の中で、消耗なことがひとつあった。というのは、荒川土手は、決して数多くはないがしかし確実に訪れるアヴェクたちのいささか殺風景な楽園であり、八月という季節は事情によっては裸になっても寒くはないということもあって、それらアヴェクを狙って出撃してくる視姦を天職とする男たちの巣窟でもあった。僕たちのグループよりもはるか以前からこの附近一帯を戦場としている彼ら夜の兵士たちは、それぞれが黒装束に身を固め、全く音を立てない歩行術を習得し、たとえば僕たちが電線の経路を確定すべく男女一組で歩いていると、こちらが全く気付かないうちに三方を固められているという事態に出喰すことさえあった。
 このため僕たちは、アヴェクと夜の兵士たちが概ね撤収する夜中の十一時以降に活動しなければならないという、途方もないハンディキャップを背負わなければならなかった。――もっとも僕たちの一部には、僕たち自身がそれぞれ痴漢を装って行動しようという意見もあったわけなのだが、そのファンタスティックな着想は――第一に、夜の兵士たちは各々が固有のテリトリーのようなものを持っているのみならず、互いに既に顔見知りであり、その上一種の仁義のようなものがあるらしいこと、第二に、男一人で活動していると、あろうことかオカマのプロに声を掛けられるという真に戦慄すべき経験があったこと――この二つを理由に放棄されなければならなかった。このため僕たちは、夜中の十一時きっかりに連夜の活動を開始し、それら幾夜にもわたる予備作業の上に、実際に爆弾を設置し電線を敷設する日を、八月十二日及び十三日の深夜とすることに決定したのだった。
 八月十二日、僕たち男女七人は都内の或る地点で二台の車に分乗し、荒川土手へと向かった。
 その日は午後四時頃に短い夕立があり、車の窓からはいりこむ夜風は、ひとつの季節の終りを予感させるような甘い柔らかさを含んでいた。そして僕はといえば、首すじにささやかな秋を感じながら、車のシートにもたれ、ただわけもなくブレヒトの一節を呟いていた……

  おれたちの地球が喰いあらされて
  疲れた太陽がのぼるから
  おれたちはゲロみたいに出ていった
  暗いまちへ、凍った街道へ。

  解放、てなことばをつぶやいたっけ
  氷をばりばり噛みながら。
  ケモノみたいな口つきをしたおれたちは
  ひとでなしの赤旗についていった。

 ところで、その夜の僕たちのいでたち[#「いでたち」に傍点]はといえば、これは十分に書きとどめておくのに価する。つまり、一人が胸に数字のはいったTシャツに赤いマンボズボンであれば、一人ははるばると裾の広がった黄色のパンタロンにサイズの合わないダボシャツ、もう一人は熱帯魚のようなバンコク製の開襟シャツに真黒のサングラスといった具合で、いささかファッショナブルなヤクザの集団といった風情であったのだけれど、僕たちにしてみれば、何とかして本物の遊び人を装うべく必死になっていたわけだ。勿論、大学にはいって以来、遊びなるものとは全く無縁に過ごしてきた僕たちだったから、お互いのセンスの悪さをただただ嘆くほかはなかったのだけれど――。
 かくの如く僕らが苦心惨憺して原色をちりばめた仮装をしなければならなかったのは、言うまでもなく権力の検問のためだった。一九七〇年代にはいってからのこの国の深夜というのは、警察の戒厳令下とでもいうべき状態にあり、自転車を無灯で走らせているだけでも執拗な職務質問につきまとわれるほどなのだから、電線や工具一式、その上怪しげな黒装束まで積み込んだ僕たちの乗用車が安全に首都を横ぎっていくためには、僕たちはどうしても深夜の遊び人≠ナなければならなかったわけだ。封印列車のかわりに、熱帯魚のようなバンコク製の開襟シャツによって若い体を守られながら――。

  夕ぐれ、麦畑に赤い月がおぼれる
  おれたちは鳥といっしょに寝こむまえ
  未来はどうかと話していた
  歩いて歩いてくたびれて。

  雨がふり、暗い風まで吹いてけば
  石の上の眠りもオツなもの。
  汚れちまったカナシミを雨が洗えば
  洗面器なぞいるものか。

 さて、こうして七人のパルチザンは、八月十二日の荒川土手に到着した。
 この夜の作業予定は、X地点からA地点への電線一〇〇〇メートルの敷設であり、翌十三日はX地点の爆弾設置だけだったから、この日がまさに作業の山場だった。僕たちは各々の原色のシャツを脱ぎすてると、全員が黒装束を纏い、二つの部隊に分れて、夏の終りの闇のなかへ踏みこんでいった。男だけの一方の部隊は、現認スイッチ地点であるA地点から、上流の荒川鉄橋の下へと河川敷に電線を走らせていく作業を担当した。女性を含んだ他方の部隊は、X地点である鉄橋の中央部から鉄橋の端までの六〇メートルと、そこから地上に降りる巨大な橋脚の部分に電線を這わせ、固定し、迷彩塗装を施す作業を、担当していた。
 僕自身はといえば、子供の頃から決して身軽であるとはいえず、高い所での細かい作業にはおよそ不向きだったから、男ばかりの地上部隊――長い河川敷に電線を敷設する地上部隊の一員として、重い電線のドラムを、夏の夜の肩に喰いこませていた。直径一センチほどの電線は、一〇〇メートルをもって一巻としていたが、その一巻のドラムの重さは一五キログラムほどもあった。その一巻一五キログラムのドラムを一〇巻、すなわち一〇〇〇メートル分、敷設しなければならないのだった。
 ……深々とした夜だった。仲間の吐く息が、ときどき闇の塊りのように肩や腕に触れた。誰もが無言だった。ゆっくりと伸ばされていく電線の上に、土が被せられ、ブロックのような瓦礫が被せられた。起伏のある部分は土を削り取り、再び土がかけられた。女性たちを失なった男だけの僕たちの部隊は、奇妙な解放感に満たされながら、闇に溶けたひとつの甲虫のように進んでいった。――そして、そのゆるやかな歩みのなかで、なぜか僕は、太い縄を手に持って山車を引いた幼年の日の祭りの情景を想い出したものだ。その山車は、夏空のなかにいかに巨大に聳え立ち、小さな手の力いっぱいの奮闘にもかかわらず、いかにゆっくりとしか進んで行かなかったことか! 遠くでパトカーの音がし、やがて消えていった。夕立の名残が、低く密生した雑草の葉に宿っていて、進んでいくパルチザンたちの黒いズボンの裾を、しっとりと濡らした。風は、深夜にはいって完全に止んでいた。折っていた腰を伸ばして顔をあげると、疲れた両目に、対岸の灯がちかちかと瞬いて見えた。どこかで出逢ったことのあるような夜だな、と僕は思った。

  ときどき夜空が赤かった
  あかつきかと思えば、火事だった
  それでも朝はきたけれど
  解放ってやつはまだ来ない。

  地獄の数は数知れず。
  解放ってやつはまだ来ない。
  時はすぎる。そのうち天国だって来るだろう。
  おれたちぬきの天国が。

 一〇〇〇メートルの電線への気狂いじみた奉仕を終り、パルチザンたちが泥の塊りのようになって橋脚の下に辿り着いたのは、午前四時を回ってからだった。時間的には若干の遅れだったが、鉄橋の上からもう一本の電線がするすると伸びて来さえすれば、二本の電線はここでイザナギとイザナミの如くドッキングできるはずだった。
ところが――もう一本の電線は、するすると橋脚をおりてくるどころか、まだ巨大な鉄橋の上に在った。……レポが飛ばされ、やがて鉄橋上の様子を伝えてきた。それによると、暗い鉄橋上での死角を捜しながらの配線作業は意外に手間どり、のみならず高所での作業による緊張と疲労から、全員が船酔状態に陥り、さらに猛烈な睡魔に襲われ、このため作業は大幅に遅れているということだった。
叢の中で、緊急の討議が行なわれた。一挙に全員で作業を進めるか、それとも、橋脚部分の配線作業は明日に残すことにするか。――そして、決定されたのは、後者の方針だった。人手が多ければ作業が捗るというわけではないこと、双方の部隊とも疲労の極に達していること、明日は比較的時間の余裕があること、そして空はまもなく無慈悲にも明るくなるであろうこと、それらが決定の理由だった。
 僕たちはあけがたの灰色の街に車を走らせて都心に戻った。そして、その日一日、僕たちは全員が会社を休み、雨戸を閉ざした各々の栖で、死人のように眠った。ただ、再び結集する時刻に遅れないように、目覚時計だけは大切に枕元に置きながら――。

 八月十三日、最後の夜がやってきた。七人のパルチザンたちは全員武装してアパートを出た。なぜなら、昨日までと違って、僕たちの車には警官が見たら腰を抜かすにちがいない黒い箱が、大切に毛布にくるまれて積み込まれていたのだから――。僕は、弾の一発だけ出る改造ピストルをズボンの後に突っこみ、その上にTシャツを被せた。銃身の重味のある冷たさが、自分の肌の若さを感じさせた。それが誤まって火を吹かないことを、僕は今日と明日のために祈った。……
 僕たちは昨日と同じように二台の車に分乗した。車の窓から見える東京の夜は、かつて逮捕されたときに護送車の金網ごしに見た風景のように、ひどく余所々々しく流れすぎていった。車のフロントガラスの脇に貼りつけられているヌード写真が、半分剥れて、ばたばたと音を立ててはためいていた。
 武装したパルチザンたちが再び荒川土手に立ったのは、十一時をわずかに回った頃だった。空には鈍く雲がかかり、月も星も姿を消していた。ただ川向うの町の明かりが、薄い眠りの膜のように、そのあたりの空をほの白くさせているだけだった。
 しばらくの間、僕たちはぼんやりと空を見上げていたが、やがて思い出したように、二台の車から荷物をおろし始めた。この日の作業は、大切な黒い箱を鉄橋上に設置すること、昨夜やり残した橋脚部分に電線を這わせること、そして帰りがけに、河川敷の電線に異常がないか調べること、それだけだった。それらは三時間もあれば十分な作業だったから、僕たちは遅くとも午前三時には撤収を完了し、それぞれの栖に戻ったうえで、最後の夜明けを迎えることができるはずだった。……
 だが――車から荷物をおろし終えてみると、どうも様子がおかしい。いつもとは明らかに雰囲気が違っている。……僕たちは誰が指示するともなく、その場で待機する姿勢になった。やがて、眼が闇のなかで自由になっていくにつれて、少なくとも四人の男が、前方の叢の陰から僕たちの様子を窺っているらしいことがはっきりとしてきた。彼我の距離はおよそ三〇メートルもあろうか。最初、僕たちは例の痴漢だろうと考えて、その場に腰を下して待つことにした。けれども、二〇分近くたっても、彼らは動こうとしない。そのうち、彼らはゆっくりと散開し、一人が一五メートルほどの所まで近づいて来たかと思うと、もはや隠れようとするでもなく、堂々とこちらを眺めている。その男は機動隊の隊員を思わせるようなガッシリとした体格で、どうもいつもの夜の兵士≠ニは雰囲気が違う。――そのうち、その男は元の場所に戻ったかと思うと、同じような体格をしたもう一人の男が、今度は横から近づいて来てこちらを窮っている。……
 この状態を打開するために、僕たちはまず、男女一組がアヴェクを装って下流の方に歩きかけてみたが、この囮りには一向に飛びつく気配がない。止むを得ず、三名が武器を手にして散開しようとすると、向こうはさらに散開して、なかなか見事に僕たちを包囲する態勢を取りつづけている。勿論、相手の一人か二人を撃破することが目的であったのなら、こちらは内線作戦によって敵を各個撃破すれば良いのだが、僕たちには余りに重大な任務が残されているのであり、敵の一部分を打倒したところで、残っている者に騒がれれば元も子もなくなってしまう。おまけに、彼ら四人の背後には、もっとずっと多くの人間が隠れているような、ただならぬ気配さえ感じられてくる。……
 ――闇の中の何かを余るような息苦しい対峠のなかで、時間がするすると過ぎて行った。青く弱々しい光を放っている夜光時計の針は、とうに十二時を回り、一時に近づいていた。あの男の乗った列車が鉄橋の上を通過するまでに、あと十時間しかない。夏草の匂いの中で焦燥だけが昂まっていき、僕はあやうく闇のなかに精を洩らしそうになった――。
 やがて、夜は草の葉の先や土の一掴みのなかにまで深まり、僕たちは最終的な決断を下さざるを得なくなった。数人の敵≠一挙に打ち倒して、ただちに作業に取り掛り、無事爆弾を設置し終えるか、或いは――いっさいを中止するか。……改造ピストルを握っている右手が、痺れたように重かった。腋の下には汗が激しく吹きだしていた。後の方で、車のクラクションが、二度、三度と鳴った。……

 翌日、八月十四日午前十時五十九分、僕たちが予測したとおりの時刻に、あの男の乗ったチョコレート色の列車は、荒川鉄橋上に奇妙に長々とした姿を現わした。僕はひとりで現認地点である荒川大橋の上に立ち、日に灼けた橋の欄干に腹を押し付けるようにしながら、そのチョコレート色の列車が、まだ僕たちの電線が残されたままの鉄橋の上を走って行くのを眺めていた。打ち合わせていたとおり、僕は煙草を持った右手をゆっくりと頭上に落し、すっと腕を下して煙草を橋の下に投げ落した。
 爆発は――起こらなかった。八月の真昼の白々とした明るさのなかを、列車は、何事もなく走り抜けていった。午後の暑さを予感させるまぶしくも気怠く晴れた空の下で、河川敷とその両側の町が、どこまでも白々と広がっていた。それは妙に遠い感じの、静まり返った風景だった。まるで戦後の焼跡のようだな、と僕は思った。
[#以下地付き](伝説・終り)

 兄さん。
 ここにいま僕は、僕たちの時代のひとつの伝説を、或いはひとつの正史を、語り終えたのだけれど、残念ながら、ここで語られたひとつひとつの言葉は、開かれることのない昏い匣のなかに生きていかねばならぬ運命にあるようだ。あたかも、いま兄さんが口を開かぬまま棲んでいる首都のアパートの部屋が、この時代の底に埋められたひとつの昏い匣ででもあるかのように――。
 さて兄さん。
 こうして僕たち兄弟は、語られることのない伝説を創りかつ記憶するものとして、≪決意した唖者≫と≪昭和の丹下左膳≫という異形な姿で存在することになったわけだけれども、僕たちのことについて語るのはひと休みして、このような兄弟を産み落した僕たちの母について、これから確かめられるものを確かめておきたいと思う。
 母は兄さんの逮捕された二週間のち、すなわち一九六九年の末に死んだのだが、それは僕たちの父・大井聖が死んでから二十年近くのちだったわけだ。つまり、僕から見るならば、僕は自分が生まれることによって父を、自分が大人になることによって母を、それぞれ喪《うしな》ってきたと言うことができるかも知れない。
 一九五一年、僕たちの父・大井聖が謎のような死を死んだのち、母は、所謂女手一つで僕たち兄弟を育てあげてきた。兄さんも憶えているとおり、母と僕たち兄弟とは、いかにも日本の一九五〇年代を象徴するにふさわしいボロアパート――「金箔荘」という懐かしい名前をもった木造アパート――の四畳半一間で、貧しくも輝かしい幼年時代の日々を送って行ったのだった。そして、元来が聡明な僕たちの母は、「土地付の小さなアパート」を買い、その一部屋に住まうと共に残りの部屋を他人《ひと》に貸すことによって生活するという方策を考え出し、そして兄さんが中学生になる頃にはその夢を現実のものとすることによって、「金箔荘」からの引越しを敢行するのだけれども、一九六〇年の、確か六月の悄々とした雨のなかで行なわれた僕たち一家の引越しは、戦後的な貧しさへの別れであったと同時に、僕たちの幼年時代への別れでもあったような気がする。
 こうして、僕たち一家は、母が自らのものとした「土地付の小さなアパート」の収入を物質的基礎として、一九六〇年代の比較的安定した生活へと移ることになったのだが、その僕たち一家のささやかなる繁栄≠フ前史として、いかなる本源的蓄積≠ノよって母が僕たちを育て、のみならず「土地付の小さなアパート」までも購入することができたのかということについて、やはり兄さんと確かめあっておきたいと思う。
 ――僕が物ごころついた頃には、母はたしか「昼間の家政婦」に出ていたのだけれど、僕たちの小学校が休みである日曜日などにも、母はときどき仕事に出掛けていくことがあった。そういう日は、母はいつもと違って薄化粧をして出掛けていったのだが、まだ三十歳を過ぎたばかりの、元来が端正な顔立ちの母は、悲しい若々しさとでもいうべきものを、僕の覗きこむ小さな手鏡の中に映し出していたものだった。そういう日には――必ず帰りの晩くなる母を金箔荘の四畳半で待ちわびながら――兄さんも僕も、母が何をしに出掛けるかについて、ほとんど正確な判断を持っていたように思う。というのは、それよりはるか以前、僕がまだ本当の幼児の頃、僕たちの金箔荘の狭苦しい部屋に、夜になると忍び込んでくる「よその男」の影を、そして僕たちのすぐ横でそれを迎える母の気配を、僕も、そして兄さんも、睡りの闇とひとつになった昏い記憶の底で覚えているにちがいないからだ。幾度と知れず訪れてきた「よその男」は、同一の男であったかどうか、判断すべくもなかったが、男が母の上に重なっている暗黒の幾夜かを、僕はじっと眼を閉じたまま――しかし決して睡りに落ちることのないまま――兄さんと一緒の蒲団のなかで、幼ない海星のように体を縮こませていたのだが、僕の横にいる兄さんもまた、やはりじっと体を堅くしたまま、火のように目醒めていたのだと思う。勿論、兄さんは僕より年長であったから、少し大きな寝息をさせたり、子供らしい寝言の断片を呟いたりしながら――。
(そして、付け加えておくならば、僕たちの母は、その金箔荘における幾度もの昏い夜のなかから、父親を知ることのないひとりの赤ん坊を――つまり、僕たちの〈妹〉を――産み落したのだった。それは一九五四年、薬品の匂いで満ちている病院の秋の窓から、まだ幾つものトタン屋根を見渡すことのできる時代だった。……)
 こうして、妹を含めて四人になった僕たちの一家は、先に述べた通り、一九六〇年の降りつづく雨のなか「金箔荘」から「土地付の小さなアパート」への引越しを完了し、ゆるやかに流れていく一九六〇年代の日々を過ごしていったのだが、聡明ではあってもやはり母にも女一人の淋しさというものがあったのだろうか、兄さんと僕がそれぞれ大学に入学し、下宿生括にはいったのを見届けたのち、商売をしているという男との再婚生活にはいっていった。母が、兄さんと僕と妹の三人を前にして、少し困ったような顔をして紹介したその男は、母には似合わない下品な面相を持ち、金を数えることと弱い者に威張り散らすことだけを得意としているような、いわば日本人の典型ともいうべき中年男だったが、この母の誤謬に満ちた選択に、僕たちは異を唱えようとはしなかった。ただ、僕たちと同じように、母もまた旧い何かから飛びたっていこうとしているのだなという思いを、ぼんやりと抱いていただけだった。そして、兄さんが逮捕された一九六九年、母はみるみるうちに痩せ衰えて死んでしまったのだが、そのしばらくのち、あの下品な面相を持つ男は、母が苦労して購入した「土地付の小さなアパート」を、獄中の兄さんの名義にではなく自分の名義にしたいと、僕に申し出てきたのだけれど、勿論僕にとっては、突撃していく街頭だけしか見えないような日々を生きていたのだから、そのような新派芝居じみた話に拘っている余裕などあるはずがなかった。
 そしてこの年、母が死ぬのを待っていたかのように、既に外泊と放浪のヴェテランであった僕たちの妹もまた、どこへともなく姿を消したのだった。このとき、妹はまだ十五歳になったばかりだったが、年齢の割には大人びた表情を身につけていた僕たちの妹は、もはや十分に成長したひとりの髪の長い女として、母の家を出て行ったのだった。ただ最後に、拘置所内の兄さんへ差入れられた弁当の包み紙に、細かい文字で詩の断片だけを書き残して――。

 「さよなら、太陽も海も信ずるに足りない」

 だが――妹のことはひとまず措くとして――こうして母について書いてきても、僕はひとつの疑問を解けないでいるのだが――兄さん、それは、恥知らずな言い方を許してもらえるならば、母と兄さんとの〈関係〉についてなのだ。兄さんが逮捕されるや否や、何故母は急に食物を口にしなくなり、みるみるうちに痩せ衰え、わずか二週間で死んでしまったのか? ――勿論、母の死には不自然でない病名が付けられているのだが、そして、自分の息子の逮捕ということが一人の母親に限りない心労をもたらすことも事実にちがいないのだが、ただそれだけではない何か[#「何か」に傍点]がそこに在ることも、依然として確かであるように僕には思える。
 僕たちが高校生であり、まだ母や妹と一緒に「土地付の小さなアパート」で暮らしていた頃――そのアパートは二つの部星に仕切られ、僕たち兄弟は東側の部屋に、母と妹は西側の部屋に寝起きしていたのだが――たとえば森のなかで悪い夢に怯えたように、僕が息苦しい思いで深夜に目を醒ますと、僕の横に眠っているはずの兄さんがいないことが、幾度かあったことを記憶している。ただならぬ気配が襖の向こうから感じられるそんな夜、僕は幼ない頃「金箔荘」でそうしていたように、じっと目を閉じたまま海星のように体を縮こませているよりほか仕方がなかったのだけれど――。
 母と兄さんとの、何か同志的≠ニもいえる親密さに僕が気づくようになったのは、そうしたことがあってのちのことだった。それ以前、その前史[#「前史」に傍点]ともいうべき幾度かの夜に、兄さんは俯せになった僕の背後から、火の如き熱きものを僕のなかに押し入れたりしたこともあったのだが――そして僕は、自分自身も精を洩らしながら、兄さんの与えてくれる痛みを涙と共に受けいれていたのだが――そういう懐かしさに属することも、あの母と兄さんとの深夜の悲しみとでもいうべきものがあってからは、二度と行なわれることはなくなっていった。
 先に僕は、兄さんが≪唖者=口を開かない者≫となったことが、兄さんの党派や、その党派に所属していたひとりの女性に関係しているのではないかと憶測したのだが、その上にもうひとつ、この母との関係を付け加えるのは、余りに背徳的に過ぎるだろうか。……

 兄さん――
 誤解しないでほしいのだが、僕がこの手紙を書いているのは、母と兄さんとの関係を穿鑿するためではなく、僕たちの父――僕が生まれて二年ののちに死んだといわれる僕たちの父・大井聖の謎を明らかにするためなのだが、母について書いて来るうちに、ひとつの疑問が――母は何故父と一緒になったのかという疑問が、浮かび上がってきたように思える。
 というのは、まだ幼なかった兄さんの記憶によれば、そして僕が物ごころ付いてから聞いた母の話によれば、僕たちの父・大井聖はきわめて〈異形な者〉であったというのだから、美しくもありまた聡明でもあった母が一緒になる相手としては、世間的には不自然であるように考えられるからだ。
 だから、父と母との結婚、そこから僕たちが出生することとなった暗がりは、依然として謎のままに残るのだが、(いよいよこの手紙の核心に踏みこんで行くならば)父・大井聖それ自身が、僕たち兄弟にとっては全き謎であったわけだ。父・大井聖について「僕の知っている二三のこと」を数えあげるならば、ひとつは、一九五一年に父が死んだ(もしくは失踪した)といわれていることであり、もうひとつは、父が〈異形な者〉であったということ――つまり片目と片手を失ない、しかも全き唖者であったということ、これだけにすぎない。
 兄さんの幼ない記憶によれば、近所の悪童どもは、僕たちの父が通りかかるたびに、
   片目で片手のヒジリさん
   片手で唖のヒジリさん
   唖で片目のヒジリさん
 と囃し立てたのだそうだが、そのような父の異形な姿が生来のものであったのか、或いは戦争か何かによってもたらされたものであったのかについては、僕たちは何も知らなかったわけだ。
 知らなかったわけだ――と僕が過去形を使って書いたことで、勘のいい兄さんは、これから僕が伝えようとすることを早々と呑み込んでいるにちがいないけれど、その知られなかったことの幾分かについて、僕はようやくあの「匣」を明けることによって知ることができたと、いま兄さんに報告しなければならない。
「匣」――紺色の風呂敷で丁寧に包まれていたあの小さな木の匣――それは一度兄さんにも見せたことのあるとおり、兄さんが逮捕され、母が驚くべき速さで衰え始めたとき、母が箪笥の引出しのなかから取り出して僕に手渡したものであるのだが、その樟脳の匂いのする匣を、木洩れ日の射す午後の部屋のなかで白い顔をした母から受け取りながら、僕はその風景がいつか在ったなという、執拗な既視感に襲われたものだった。そして、兄さんが保釈になったとき、地下に潜行する直前の僕は、その木の匣を兄さんに渡そうとしたのだけれど、既に口を開くことを完全に止めていた兄さんがそれを受け取るはずもなく、またその時は既に妹の行方も知れなくなっていたのだから、その母の形見ともいうべきものはいきおい僕の手元に留ることになった。まるで浦島太郎の玉手箱のように、僕はその匣を開くことを深く怖れながら、しかし最も大切なものとして、あのO市での爆発の大失敗の炎のなかからも、それだけは持ち出すことに成功したのだった。新聞記事によれば「アイテテ、アイテテ」と叫びながら逃げていった一人の若者として――。
 さて兄さん。
 紺色の風呂敷に包まれた小さな木の匣、それを開くことによって、僕は僕たちの父・大井聖にまつわる驚くべき真実を手にすることができたのだが、その匣のなかに収められていたものは一篇の手記――父によって記されたのではなく、父の「戦友」とでもいうべき人によって記された一篇の手記だった。父の「戦友」――Sさん[#「Sさん」に傍点]と呼んでおこう――が、僕たちの父とどのような関係にあり、どのような理由で僕たちの母にそれを手渡したかについては、そこに書かれている文字を読んでいただかなくてはならない。
 僕たちの父の謎――
 ≪大井聖とは何なのか?≫
 ≪何故大井聖は異形な者であったのか?≫
 ≪何故大井聖は一九五一年の秋に死者=もしくは失踪者となったのか?≫
 ――これらの謎の半ばを、Sさん[#「Sさん」に傍点]という僕たちにとっては未知の人によって書かれた手記は、明らかにしてくれるはずだ。
 だが、この手記が僕を深く感動せしめたのは、単にそれが僕たちの父の謎を解き明かしているからだけではない。それは、〈父の時代〉と〈僕たちの時代〉――つまり、戦争の時代から戦争ののちの時代――を貫ぬいて在るひとつのこと[#「ひとつのこと」に傍点]をもまた、明らかにしているように思われるからだ。焼跡における可能性ともいうべきものから、僕たちが走り抜けたあの時代における可能性ともいうべきものへと通じている暗い洞窟の如き何かを――。
 だから、今から兄さんに送ろうとしているこの手記が、滅びゆく首都の昏い底部で≪決意した唖者≫として生きつづけている兄さんに、果しなく広がっている海を越えて無事届いてくれることを、僕はこの孤島から祈らずにはいられない。そして、もしできるものならば、行方の知れなくなった僕たちの髪の長い〈妹〉にも、共に読んでもらいたいと、僕は希っているのだが――。

  Sさんの手記

 ――私が穂積一作に初めて会ったのは、昭和十九年の夏の終り、丁度私が十九歳のときである。
 そのころ、私はT大学の理学部に学籍だけはあったものの、戦局の深まりのなかでもはや講義も開かれることはなく、ただゆっくりと過ぎ去って行く日々のなかに、鬱屈した心と不自由な身体を持て余していた。不自由な身体――というのは、私が幼児の頃に患った熱病によって、下半身の右側がほとんど動かせないことをいうのだが、それはどうでもいい。肉体ではなく精神の方が、幾重にも折れ曲り内部へ内部へと閉じこめられながら捩れ込んで、青春ともいうべき不透明な時間の長さを苦しめていた。そしてその時、A新聞社の外信部にいた穂積一作は、まだ三十歳を少し過ぎたくらいであったと記憶している。
 私はそのころ、T町の市電の駅の近くにある大きな下宿屋の二階に住んでいたのだが、その日はいっとき激しい夕立が襲い、雨のあがった後はまた西日が私の部屋に射し込んで、つくつく法師が再びあちこちの屋敷の樹木から啼き始めていた。
 ――どうだね、この広々とした下宿屋に一人で残っている気分は。
 穂積一作は、私の部屋の真中に胡座をかくなり、そう言った。私はその初対面の男の言葉に、新聞記者らしい押出しの強さを感じたが、少し尖った彼の顎のあたりに新聞記者にはそぐわない影の如きものがあるのを同時に感じ取って、不快なものとそうでないものの入雑《いりまじ》った気持で、彼に相対していた。
 手慣れた様子で彼が差し出した名刺には、「A新聞社外信部記者穂積一作」と印刷されていた。外信部からやって来たとは何とも奇異だな、と私は思った。というのは、穂積一作は、「伊太利の壁」と題された私の油絵を見て訪ねてきたと言っていたのであるから――。

「伊太利の壁」――それは、ついひと月ほど前に描きあげられたものなのだが、カンバスの全面を使って赤茶けた重厚なレンガ造りの壁――イタリーの壁――を描いたものだった。ただし、そこに描かれた壁は、からみつく蔦や古びた落書きの間に幾つかの銃弾の傷痕をとどめ、のみならずその中央上部のあたりが大きく崩れ落ちて、その崩れ落ちたあとの穴からは、間近に打ち寄せてくる夏の青々とした海が覗かれているのだった……。古びた壁のレンガ色と、打ち寄せてくる海の生々しさ、そのコントラストの妙が、私にささやかな満足を与えていた。そしてその絵は、見る者の何人かに、我邦の同盟国であるイタリーの晴々とした崩壊を連想させたとしても、決して意外ではなかった。
 勿論、私がその作品によって、ファシズム・イタリーの崩壊を暗喩し厭戦の意志を表現したと言ったら、それは余りに短絡というものであろう。なるほどその絵は戦意高揚とはほど遠いものであったが、反面、厭戦を宣伝する広告でないこともまた確かであった(政治の衣裳を纏ったものが芸術の名において芸術の破壊を行なっているのを、私は時代のなかで嫌というほど眺めてきた。その政治がいかなる内容の政治であろうと、芸術を僭称して現れ出ようとすることは、私には深い嫌悪だけしか抱かせなかった)。だから――私の描いた「伊太利の壁」は、いかなる政治的主張をも描いたものでなく、その赤茶けた壁に塗りこめられた私の一筆一筆に、私の内部の小暗い情念の疼きとでもいうべきものを描きこんだものであった。さもなければ、レンガの壁は、どうしてあのように血を吸った如く憤りと憎しみをあらわにし得たであろうか――。
 私の内部の小暗い情念の疼きとでもいうべきもの――それを説明することは、いまとなっては相当に困難であるように思える。たとえばそれは、日没の如き血の色に染まっていく世界のなかで、ただひとり孤独を強制された者のいのち[#「いのち」に傍点]そのものとでもいうべきものであったろうか……
 その時代、昭和十九年の春、学友は一人また一人と戦線へ動員され、或いは工場へと徴用されていくなかで、片足のほとんど動かない私は、ただひとり下宿屋に取り残されることとなった。そして、戦争に取り残されたかのように、大きな下宿屋のなかにひとりになってみると、抑えられない憤怒とでもいうべきものが、めくるめく春のなかで急に露わになって来るのだった。それは、この戦争に対する憤怒と言ったら、余りに平板にすぎるかも知れない。勿論、進められている戦争が、一人のルーデンドルフすらもたぬ愚劣な指導者たちによる愚劣な戦争であること、そしておそらくは一二年の内に本土を灰燼と化すことによって終焉するであろうこと、そのようなことは物を考える学生の間ではひそかな常識に属することであったのだが、その仲間が一人また一人と戦場に消えて行ってしまうと、取り残された私の心は、いつの間にか自らの憤怒を世界に向けて屹立させるほかにないような、そのような情態に静かに落ちていったのだった。春が憤怒と共に深まっていくなかで、私はカンバスの世界に没入していった(幼ない頃から、不自由な足のために友と遊ぶことよりも自分と遊ぶことを余儀なくされた私は、私の家が貧しくないことを示す上質の画用紙に、雲が夏の山肌に落す影や、日暮れと共に移ろいゆく光の一粒一粒を描いて育ってきた)。だが、このとき私がカンバスに対して行なったことは、何かを描くというよりは、純潔な空白を汚《けが》すとでもいうべきことであったような気がする――。
 こうして、誰もいなくなった下宿屋のなかで、激しい昂ぶりを塗り込めるようにしながら、「伊太利の壁」は描きあげられたのだった。そしてその絵は、K町に在るネルケン≠ニいう名の画廊喫茶とも呼ぶべき店の壁に飾られた。そこだけは戦争と無縁であるかのようなひっそりとした雰囲気の婦人の経営するその店は、素人の描いたものを好んで飾ってくれた。――穂積一作はその店で私の作品に目を留め、そして私を訪ねて来たのだった。
 だから、穂積一作の名刺に印刷された「外信部記者」という肩書きは、全く奇異であった……。

 窓のすぐ外の樹木でけたたましく啼きつづけていた法師蝉が、その唄の終りきらないうちに急に啼き止んだ。不思議な沈黙がおし寄せてきた。奇異な感じを拭えぬままに、私が茶をいれる準備を始めると、穂積一作は、何も土産がなかったからと言って、肩掛鞄から小さな紙包みを取り出した。無造作に丸められた紙を開くと、強い異国風の薫が鼻を打った。紅茶だった。
 ――砂糖はこっちにある。
 そう言って、穂積一作はもう一つの包みを渡した。新聞社などにいると、普通には手にはいらなくなったものまで自由になっているようだった。私はひとつしかない急須に紅茶を入れた。再び激しくなった蝉時雨のなかで急須を傾けると、日本茶よりも細かな紅茶の葉が、湯呑の中に少し流れ出て静かに沈んだ。
 ところで、と私は改まって穂積一作にきいた、今日はどんな用件で――
 いやなに、あの凄味のある絵の作者がどんな青年か会ってみたいと思ってね。あれはネルケン≠フ壁に掛けるには刺激が強すぎるなあ。……わかっていると思うが、二三年前だったら、あれは危いよ。はっきり「伊太利の壁」と書いてあるんだからね。だけど、ここへ来てすべてのタガ[#「タガ」に傍点]が緩んできている。だから、大丈夫なんだ。気が付く人間は気が付いたとしてもね。
 そう言う穂積一作の片目が、鋭く光ったように見えた。片目――というのは、実際彼には片方の目しかなかったからである。彼は左の方の目を、いささか大時代的な黒い眼帯で隠していた。その黒々とした眼帯は、まるでひとつの旗のようにはっきりと自分を主張し、尖った影のある顎と共に、穂積一作の表情にどことなく不吉な雰囲気を漂わせていた。この男は、右の方の目で静かに笑いながら、眼帯の奥に在るもう一方の目で、じっと人の心の底を見透しているのではないか――私はそんな想いにとらえられた。そういう私の心の動きを察したかのように、彼は、これが気になるかい、と言って眼帯を少し指でつまむようにしながら、かすかに笑った。
「闇のなかに薔薇が咲いていた。強い薫が夜のなかに広がっていた。花の形は見えなかったが、白くて大きな薔薇だったような気がしたな。匂いにひきつけられるようにして花に顔を寄せたとき、棘に目を射られた。棘にひっかけられて、目玉が潰れちまったのさ。……いや、君には本当のことを話してもいいだろう。――兵隊に取られるつもりはなかったからな。潰したよ、自分で」
 西日が翳って、軒につるしてある風鈴が、一つ鳴った。
「自分で?」と私はきき返した。痛かったでしょう、という言葉が続きそうになったが、余りに幼なく思えて、私は言葉を切った。この男はいったい何なのだ、私に何を言わせようとしているのか、何のために私を訪ねてきたのだろうか……
「きみは俺の正体が気になるかも知れないが、俺は、あそこに在るものの方が気になるね」
 そう言って彼は私の部屋の隅に置かれているものを、尖った顎で示した。
 それは、私が上京して間もない頃、湧き上ってくる欲望を抑えることが出来ずに、神田の質屋で見付けてきた携帯式の蓄音器であった。隣組とかいうものが段々と家と家との境を取りはらっていくのにつれて、ドイツ音楽以外の洋楽は敵性音楽として大っぴらに聴けない時代になっていたが、しかし学生がひとりひとり下宿屋から姿を消していってしまうと、私は再び押入の奥から蓄音器を取り出し、耳を押しつけるようにしながら、夏の夜にレコードを回していたのだった。
「好きなのはフランス音楽という所かい? 聴いてみようじゃないか。なに、大丈夫さ、小さい音なら。どうせこの下宿屋には、いまやきみ一人なんだろう」と言うと、彼は自ら立ちあがった。
 私たち二人は蓄音器を部屋の真中に引き出し、まるで赤ん坊をのぞきこむようにして、その小さな機械の上に顔を寄せ合った。彼は、いかにもこういうことをするのが好きだという風に、静かに笑っていた。彼の言ったとおり、レコードはフランス音楽――セザール・フランクのものしかなかった。ティボウとコルトーの演奏するフランクの「ヴァイオリン奏鳴曲」、この一組だけが私の所有している唯一の宝だった。私は彼のために、とっておきの新しい針を付けた。やがて、針の擦れる音のなかから、ピアノの断片に導かれて、妙に気をそそる、それでいて悲しみにみちたヴァイオリンの旋律がきこえ始めた。そしてそれは、小休止ののち、湖のなかへ沈みこんでいくような、不思議な音の流れを繰り返していくのだった。……

 このときから、穂積一作は度々私の下宿を訪れるようになった。私たちの親密さは、次第に深まっていった。そして、まるでそのことと歩調を合わせるかのように、日本の戦局は日に日に絶望的なものになっていった――。
 夏の初めには既にサイパンが陥落していたが、八月にはいってテニヤン、ガムが玉砕し、全マリアナは連合国軍の支配する所となった。九月になると、米国機動艦隊はパラオ諸島、ミンダナオへ攻撃を開始し、地図を広げてみれば、硫黄島と比島への包囲の輪が日一日と縮められていくのが明らかとなった。そして、硫黄島と比島が攻略されれば、石油をはじめとする戦略物資の輸送線は南北に切断され、次は沖縄と本土が直接米軍の攻撃に晒されるのにちがいなかった。
 十月にはいると米軍は大挙してレイテ島に上陸を開始したが、連合艦隊は(穂積一作の解説によれば)決戦を決戦たらしめぬまま、米軍の航空機・潜水艦・レーダー砲撃の前に、戦艦武蔵をはじめとする残存主力艦艇を失ない、その戦闘力をほぼ完全に消失した。かくして冬を前にして比島をめぐる勝敗は決し、いよいよ硫黄島と沖縄への攻撃が間近に迫ってきたのだった。
 米軍は、昭和十八年初頭のガダルカナル反攻以来、飛石戦略とでもいうべき戦略――つまり、一島上陸→基地航空力の整備→次なる一島攻略、という段階的攻撃戦略を採り、次々と北上を果してきたのであるが、しかし注目すべきは、その攻撃の先端がようやく比島を越えるに至って、そこに新たなる戦略が出現したということであった。新たなる戦略――それは五〇〇〇キロという驚異的な航続距離を持つB29という革命的兵器によって、これまでの飛石戦略とは切りはなされて、はるか遠方の基地から直接本土を攻撃するというものであった。
 この革命的兵器B29による本土爆撃が遠からず開始されるであろうことを、私は穂積一作からきいていたが、早くも十一月二十四日には、銀翼の大群は堂々の編隊を組んで帝都上空に現れたのだった。
 だがこの時には、B29はのちに行なわれるような焼夷弾による焼土戦術は採らず、航空機工場などへの精密爆撃を行なっただけであったから、東京の民衆はまだ混乱に陥るには至らなかった。既に児童たちが疎開を開始した東京の街は、間近に迫る紅蓮の炎を前にして、不思議に静やかな秋を送っていたように思う。
 不思議に静やかな――と私は書いたが、この昭和十九年の秋を想い出す度に、私は何故か死に似た静寂のようなものを感じてならない。人気のない夜道を通っていく自分の松葉杖の音や、突然頭上から降りかかる木犀のかおり、明け放たれた下宿の窓辺に流れる風の気配など、その静やかさの深まりとでもいうべきものが、今も鮮やかに起ってくる。それは、同年代の者たちの夥しい死を見送りながら、私ひとりが下宿屋に取り残されていたためでもあろうし、またほかならぬ私自身も、自分の生涯で最も死の近くにいた季節でもあったからなのだが――。
 その年の秋が火のように深まっていくなかで、私は頻繁に穂積一作の家を訪ねるようになった。静まりかえった下宿屋のなかに一人で居ることの屈託が重く体重を持ち始めると、私は自由な片方の足に下駄をつっかけ、冷たい街路に松葉杖の音をコトコトとたてながら、穂積一作の家へ向かった。二三日誰とも口をきいていないようなことがあると、喉の奥がねばりはじめて、うまく言葉が出せないような気がした。独り言をいったり、詩句の断片を無理に口ずさんでみたりすると、耳の外側と内側から、同時に二人の他人が喋っているような気がするのだった。
 穂積一作の家は、省線のK駅から少し離れた所に在った。X駅を南に降りて、I公園の横手をすりぬけて行くと、町らしい家並はすぐに跡切れて、大根畑としもた屋[#「しもた屋」に傍点]が半分ずつという感じで広がっていた。かつて原始の息吹にみちていた頃の武蔵野を思わせる巨大な欅や松などが、あちこちに小さな森をつくっていた。秋と冬の境目の凛とした夕日が、暗みゆく空を透きとおらせながら黒い森に落ちていくときなどは、ひときわ空気が清浄であるように感じられた。家々の軒先からは煙が細く立昇り、それぞれの夕餉をむかえる家々の風情が、あたりの風景をいっそう平穏なものに染めあげていた。
 穂積一作の家は小ぢんまりとした一軒家で、黒松の大木が玄関の軒をかすめながら堂々と聳え立っていた。静かな夜など、ことんことんと、屋根の上で松笠のはねる音がした。
 ――どうだい、引越してこないか。
 穂積一作がそう言ったのは、十二月にはいって間もなくのことだった。やがて、B29による絨毯爆撃が開始される、そのときには下宿屋の在るT町のあたりは危ないというのが、彼の考えだった。彼は、自分の家から歩いて五分ほどの畑の中にある「家と小屋の中間の如きもの」を見付けてくれていた。断わる理由はなにもなかった。二三日後、私は少量の衣類と書籍、それに例の携帯式の蓄音器などをリヤカーに乗せた。新聞社の給仕だという坊主頭の少年が一人、穂積一作の口ききで、足の不自由な私に代ってリヤカーを引いてくれた。リヤカーはT町やS町をすぎ、やがて畑のなかの道へはいっていった。私は、住み慣れたで町のざわめきが背中の方に消えていくのを感じながら、リヤカーの起こす小さな砂ぼこりの後を、どこまでもついていった。少年は口をきかないかわりに、ときどき口笛を吹いた。少年の乾いた口から洩れる口笛が、小さな風にかわり、それはあちこちの樹木のなかをかけめぐりながら、やがて大きな寒風となって台地の上を吹き抜けていくのだった。
 こうして、私の住まうこととなった「家と小屋の中間の如きもの」は、小さな畑を南側に臨んだ緩やかな傾斜地に在って、私を迎えた。以前は小作人の一家の住居《すまい》だったものが、小作人が兵隊にとられる一方妻と子は実家にひっこんでしまったため、一年ほど前から物置代りになっていたものだった。家屋の傷みはかなりのものだったが、ひと通り掃除を終えてみると、十畳一間に広々とした土間が在り、これはこれで小ぢんまりとした住み易い造りに出来ていた。これまでの下宿部屋に較べて少し広々としすぎるくらいの十畳間に坐ると、かつての住人の創世期の生活――この小屋を建て、嫁をもらい、子供を産んでいったその生活のざわめきが、襖や敷居のあたりから、ひそやかに聞こえてくるような気がした。家には守宮《やもり》がいて、夜になると天井でちちと鳴いた。私は、初冬の夜に、その白いちいさな体が、天井のひとところにとどまったり、或いは素早く走ったりするのを眺めて、いつまでも飽くことがなかった。
 私が新しい住居に落着くと、穂積一作は、二三日置きに下駄履きのまま訪れて来るようになった。そして、やがて私たちが遂行することとなるあの驚くべき企図について、彼が私に語ったのは、それから間もなくのことであった。……驚くべき企図――それは、かつて私が想像すらしなかったという点でも、また、私の目の前に居る穂積一作が実際にそれを決行しようとしているという点でも、まことに驚くべき企図であった。
 冬の部屋の中で、彼は残された右目でじっと私を見据えながら、言った。
 ――イタリーにはパルチザンというものがあってね……遊撃民兵、いや奇兵隊とでも訳したらいいかな……。昨年、イタリーの南半分にはバドリオ政権が出来たが、北半分はドイツが占領している。このドイツ軍に対してずっと遊撃戦をしているのがパルチザンなんだ。去年の九月、ナポリ市で大規模な武装暴動があった。この八月にはフィレンツェが落ちた。これらはすべて、パルチザンの力だという話だが、どう思うかね……。
 どう思うときかれて、私は一寸言葉に詰まった。なるほど私は、「伊太利の壁」のなかに、血の色をした憎しみと生々しい解放への憧れとでもいうべきものを描いてはいた。しかし、私の内部には烈しい憤怒の塊りは在っても、例えばどのような現実的な力がイタリーの戦争を終らせようとしているかなどという知識は皆無だった。――もしも、私の描いた崩れ落ちるイタリーの壁の割目から、こちらに押し寄せてくるのが、輝ける南の海ではなく、武器を手にしたパルチザンたちであったとしたら……夥しいパルチザンたちが、あのイタリーの街々、壁の裏側や建物の陰を走りまわっているのだとしたら……
 その夜、穂積一作が私に語った企図とは、次の如きものであった。
 ……自分たちの国に解放をもたらすためには、まず自分たちの国に戦争の敗北をもたらさなければならない。それは一日も早くしなければならない。そして、日本に敗戦をもたらすためには、間もなく開始されようとしている米軍の焼土作戦に呼応して、日本国内から武装闘争が始められなければならない。たとえ少数であっても、たとえ数人であっても、日本にパルチザンが生まれ出でなければならない。そのパルチザンの闘いは、準備が出来次第、明日にも始められなければならない。……
 ――あなたはコミュニストだったのですか、と私は穂積一作に問うた。
 ――いや、パルチザンだよ、と彼は答えた。この東京が、やがて米軍によって炎の街になるというなら、我々の手でそれをしようじゃないか――。
 黒い旗に隠された彼の片方の目が、じっと私を見つめているようであった。夜空を焦がして燃え上るこの大都市の姿が、私の眼に鮮やかに浮かび上った。黒い街、黒い炎、そしてその下を駆け抜けて行く絶望にも似た黒い憤怒の部隊。日本に敗北をもたらすための日本人の民兵。――私の心はその炎のなかへ引きずり込まれていった。既に述べたとおり私は決して政治的な人間ではあり得なかったが、穂積一作の語ったことは政治とは異質の何か[#「何か」に傍点]であるように感じられた。嵐が海の底の砂を揺らすように、それは私の心の奥底を烈しく揺り動かし始めた。私がカンバスに描いたのと同じ海の青が、私の内部で巨大にふくらみ、風をはらみ、ざわめき立ち、激しく波頭をきらめかせながら私とひとつになっていった。厚いレンガの壁を打ち砕いて押し寄せてくる海にも似たパルチザンたち、それが自分たちだと、そのとき既に私は考えていた。――
 穂積一作がT町の下宿屋を初めて訪ねて来たとき、私が大学町理学部に籍を持っていることを調べあげていたことの意味が、ようやく明らかになった。私の絵がどれほど彼の関心をひいたにせよ、私が美術学校などの学生であったなら、彼は決して私を訪ねはしなかったのにちがいない。なぜなら、穂積一作の必要としていたのは確実な技術者――パルチザンのための武器を製造し得る確実な技術者――であったのだから。
 こうして、当面の私の役割は次のように設定された。――投擲式爆弾について研究すること。その製造に必要な材料品のリストを作成すること。そして集められた材料によって精度の高い作品≠完成させること――。勿論、足の不自由な私がそれ以上の役割を果せるはずはなかった。従って第一線における武器の使用は、他の者にまかせられねばならなかった。
 他の者――私はここで、私たちの仲間である第三の人物、〈影の男〉或いは〈影男《かげお》〉とでも呼ぶべき人物について、語っておかねばならない。なぜなら、穂積一作と私、それに〈影男〉の三人だけが、昭和十九年から二十年にかけての日本における唯一のパルチザン組織であったからだ。〈影の男〉或いは〈影男〉に、私は出会ったことはない。というのは、私の家を訪れて来るのは穂積一作に限られており、彼を通じて私の武器は〈影男〉に渡され、こうして私と〈影男〉とは直接出会う必要がなかったからである。この奇妙な三人の組織について、人はバブーフの組織原理を思い出すかも知れない。十八世紀の世紀末のパリ、血煙と砂ぼこりのパリの街区を駆けめぐっていた、あの無数のバブーフたちを――。
 だから、私は〈影男〉について、穂積一作の話から想像するほかないのであるが――そして穂積一作の話を疑うならば、〈影男〉の像のみならずその存在そのものすら、疑わしいことになってしまうのであるが――ともあれ彼の語ったところによれば、この〈影の男〉或いは〈影男〉は、昭和の鼠小僧[#「昭和の鼠小僧」に傍点]とでも呼ぶべき天才的な伎倆の持主であった。私が不自由な足しか持たないのにくらべて、〈影男〉は自由な「四本の足」を持ち、穂積一作が一つの目しか持たないのに対して、〈影男〉はいかなる闇をも見通すことのできる「七つの目」を持っていた(と穂積一作は語った)。彼は夜のなかを走り、垂直の壁を登り、屋根から屋根へとむささび[#「むささび」に傍点]のように飛行することができた。この四本の足と七つの目を持つきわめて敏捷な男の前には、いかなる防御の道具もその用をなさなかったようだ。だから〈影男〉は、彼の前史ともいうべき個体的叛逆の時代、つまり泥棒時代に、普通の泥棒とはくらべものにならないほどの少ない出撃回数によって、きわめて大量の貨幣を自らのものとすることができたのだった。
 何故この男が、かくも天才的な伎倆を身につけることができたのかといえば、それは彼の生い立ちにまでさかのぼらなければならない。朔風の吹きぬける関東平野の北の果の貧農の子供として、〈影の男〉或いは〈影男〉は生まれたのだが、彼は幼児のうちに父を矢なったまま、母親が悲しくも毎晩のようにどこかへ出掛けて朝まで帰ることのない夥しい夜という夜を、勿論電灯もない小屋のなかで、じっと闇だけを見つめながら育っていったのだそうだ。そして彼は、その家に飼われていた二匹の猫と遊ぶことを覚え、さらに少し成長してからは、二匹の猫と共に付近に出撃≠キることを覚えた。その出撃は、外のテリトリーの猫たちとの出会いであったろうし、またそれらとの格闘であったろうし、そしてまた、空っぽの彼の胃を満たすための猟でもあったろう。こうして、猫の群れの中の、しかしひときわ体の大きな首領として、幼ない彼心、ひょうひょうと風の鳴る北関東の夜の広野に君臨したのだった。
 こうして〈影男〉は、北関東の広野から帝都東京へ、猫の首領から泥棒の天才へと成長していくのであるが、この〈影男〉と穂積一作とが、どこでどのように出会ったかについては定かではない。恐らく、穂積一作の鋭利な直観、人の心の暗い部分を的確に見抜くことのできるあの隠された片方の目が、私を発見したのと同じように〈影男〉を見出し、パルチザンの一員とすることに成功したのであろう。とまれ、穂積一作を情報部とし、〈影男〉を軍とし、私を兵器廠とするひとつの戦線が、ここに結成された。やがてそれは、ひとつの荒ぶる生きもののように頭をもたげ、立ち上り、歩み出し、そして敗戦間近い日本の夜のなかを疾駆していくのである。私が、かつて一度も経験したことのない恐るべき速度をもって――。

 穂積一作が私のリストに従って材料を運び始めたのは、昭和十九年の暮もおし迫ってからのことだった。鶏冠石百匁、塩素酸加里百五拾匁、ブリキカン十個、ベアリング多数、それに篩や薬剤秤などが、私の部屋に集められた。私はまず鶏冠石を粉末にする作業から取りかかった。粉末にした鶏冠石を一定の割合で塩素酸加里と混ぜ合わせ、ベアリングと一緒にブリキカンの中に収めれば、軽易な投擲式爆弾の出来上りだった。勿論、爆発力を高めるためには、ブリキカンを補強したり針金を様々に使うなど、幾つもの工夫をこらさなければならなかったが――。
 年末から正月にかけて、私はこの作業に勤《いそ》しんだ。元来手仕事は嫌いな方ではなかったが、火の気を絶った深夜の部屋の中で、鶏冠石を何度も篩にかけて丁寧に粉末にし、その分量をきっかりと十等分にしていく作業に、私は飽くことがなかった。黄色い電灯の光が、部屋の真中にぽっかりと私の影を造って動かなかった。絵筆を握っているときでさえも、心がかくも澄みきって静やかになることはあるまいと私は思った。心がしんと静まり返って、冷たく凍っている指先の感覚だけがかろうじて外の世界と結ばれているようであった。その凍てた指先をいとおしみ、指先の造りあげていくものをいとおしみながら、私は作業を続けていった。まるでそこに造られていくものが、ひとつの≪沈黙≫ででもあるかの如くに――。
 考えてみれば、私の造っている爆弾はまことに古典的ともいうべきものであった。私は材料さえ整えば時限式発火装置の付いたものも製造可能であることを穂積一作に伝えたが、彼の答えは最も単純なもので十分だということであった。私は様々な資料に当り、爆発力が十分に大きく、しかもそれを投擲する〈影男〉が傷つくことのない範囲のものを研究した。そして、(これは敗戦後になってから分ったことなのだが)そのとき私が製造していた爆弾の構造は、かの大逆事件において、革命的職工・宮下太吉が製造した〈爆裂弾〉と、寸分違わないものであった。
 ――明治四十二年天長節の正午、祝祭の花火が日本国中に鳴り渡るなかを、信州松本の地に在った宮下太吉は、試作爆裂弾第一号の投擲実験に成功し、その模様を「赤児ノ泣声カ非常ニ大キクテオドロイタ」と千駄ヶ谷平民社に住む菅野スガに知らせたのであったが、無念にも目標に向けて投ぜられることなく終ったその〈宮下型爆裂弾〉と同型のものを、三十五年ののちに私は製造しているのだった。それは丁度、加波山から宮下太吉に受け継がれた暗い怨念が、三十五年を経ながら、一条の赤い糸として私の所まで伸びて来ているようであった。
 正月――昭和二十年の正月を、私は一心不乱ともいうべき熱心さで爆弾の製造に没入した。足が不自由なためであろうか、以前から私には祝祭の日に背を向ける性癖があった。人々には目出たかるべき正月は、私には常に孤絶した時間であった。――もっともこの年には、正月といっても、都市の家庭の食卓には特別に供される料理とてなく、その祝祭性は大いに損なわれていたわけだが、それでも新しい年を迎えたことは、世間のあちこちに残されているやけっぱちともいえる最後の楽観主義に、いささかの力を与えていることは事実だった。配られてきた新聞の第一面には、『絶好の戦機到来、一億皇民は今こそ英雄たれ』という徳富蘇峰の文章が載っていた。この最後の祝祭に背を向けて、私は日と夜とを送った。
 そして一月も半ばをすぎる頃には、十個の爆弾は完成に辿りついたのであった。その深夜、私はいささか傾いた畳の上に、新聞紙でくるんだ十個のブリキカンを一列に並べ、黄色い電灯の光がつくるそれらの影を、いつまでも見つづけた。日本的忍従の染みついた畳の上に置かれた十個の異物が、この国の最後の息の根を止めるものとして激しく身震いしながら火を吹くことを、私は深い悦びの気持で思った。
 私は久しぶりに蓄音器を押入のなかから取り出し、一組しかないレコード――フランクの「ヴァイオリン奏鳴曲」を回転盤の上に置いた。第四楽章に針を下すと、素朴なピアノの旋律が流れ始め、それはやがてヴァイオリンに受けつがれながら、決して明るくはない――だが確実な――勝利の歌をうたいはじめた。それは絶望のなかでの笑いとでもいうべき妙に棘のある、しかしまごうことのない勝利の歌であった……。
 レコードが回り終ると、私は白い水彩絵具を溶かして、新聞紙にくるまれたブリキカンに壱から拾までの番号を記していった。ただひとつ、第拾番目のものが、他のものとちがって火薬が十分でなかったことが、私の満足をいささか不完全なものにしていた。というのは、穂積一作の用意した塩素酸加里百五拾匁は、量としては十分であったものの質が相当に粗悪であり、篩にかけて異物を取り除いているうちに百拾五匁ほどに減ってしまい、このため、第壱号から第九号までは拾二匁ずつ入られたものの、第拾号には七匁しか入れることができなくなってしまったからだった。しかし爆発力は弱められたとはいえ、それもまた周囲を破壊するに十分な力を持つものであることについては、問題なかった。私は最後のブリキカンに大きく「第拾号」と書いて、絵筆を置くと、魂のように白い息を吐いた。

 穂積一作が久しぶりに私の家を訪れたのは、それから二日後の晩だった。彼は寒そうに外套の襟を立てたまま、私の部屋にあがり込んだ。
 ――そろそろ出来た頃かと思ってやって来たよ。
 彼は煙草をくわえながら何気ない調子でそう言った。私が出来上ったと答えると、彼は、そうか、と言って緊張した表情になった。彼の緊張が私の内部にも伝染してくるのが分った。自分の製造したものが重大なものであること、そしてそれは夢ではなく実在することが、初めてひとつの感覚として体の中に定着するのを、私は感じていた。
 そのように部屋のなかの空気がいったん緊張すると、私たちはもはや普段のように気楽に話をすることができなくなっていた。穂積一作は、低い真剣な声になって、戦争の情勢を語り始めた。
 ――米軍のマリアナ航空司令官が代ったらしい。新任はどうもルメーだという噂だ。このルメーという男はね、いわば焼夷弾主義者とでもいうべき男なんだ。大型爆弾による精密爆撃ではなく、焼夷弾による都市全体の焼き打ち攻撃――。紙と木でできている日本の建物には素晴しく有効だろうな。乾燥している冬の間にこれをやれば、間違いなく火の海になるからね、震災以上のことになるだろうよ。いくら政府が疎開だといったって、この帝都の機能をそのまま地方に分散させることなど出来やしないんだ。だから、焼夷弾による東京空爆は、日本の戦闘力への大打撃になる……
 そのときというわけだね、と私は言った。
 火の気のない家のなかに、自分の声が妙に大きく響くのを、私は聞いた。
 ――そう、そのとき一斉に攻撃をかけるんだ。上空を乱舞する無数のB29に、あたかも呼応するようにね。
 ――効果があればいいが。
 ――俺ときみと〈影男〉の闘いが、たった一日でも日本の降伏を早めることになれば、それでいいんだ。
 ――たった一日でもか。
 ――そう。きみに話したことがあったかな。……去年、米軍が九州を爆撃したときの映画があってね、無論米軍が撮したものだが、博多かどこかの都市が火の海になっていく有様が、上空から撮されているんだ。そのフィルムが重慶の映画館でかけられたそうなんだが、そのときそれを見ていた支那人たちは、爆弾が地上で炸裂する度に歓呼の声をあげたというんだよ。爆弾がひとつひとつ炸裂する度に――。
 ――我々の爆弾も歓呼で迎えられるというわけだね。
 ――そう、日本を除くすべての東亜の民衆からね。
 ――いつごろだろうか、最初の大爆撃があるのは。
 ――多分、
 そう言いかけて、穂積一作は土間の方を振り返った。何の気配もなかった。――多分、二月の半ばには始まるだろうな、米軍もあとひと月は準備にかかるだろう。つまり、我々の方がひと月早く戦闘準備を完了してしまったというわけだ。――そう言って、彼は初めて低く笑った。
 二つのブリキカンが、押入の中から取り出された。それらは儀式のようにゆっくりと畳の上に置かれた。熱い二つのものを挟んで、私たちは輝ける沈黙の時間を味わっていた。
 ――思い出した。今夜は素晴しいものがあるんだ。
 そう言って、穂積一作は肩掛鞄の中からセロハンで包まれたものを取り出した。アラビアコーヒーだった。――近衛師団に同郷の男がいてね。Mという名前の大尉なんだが、その男が手配してくれたんだ。きみはインテリだから酒なぞよりもこういうものがいいだろうとか言っていたな。いかにも農夫らしい顔をした気のいい男なんだが、軍服を着ると残忍になる。まあ、日本人は皆そういう所があるね。権力につらなると残忍になる、権力をもたないと卑屈になる、どちらにしても際限というものがない……
 コーヒーの匂いが部屋いっぱいにたちこめた。この小作人の労苦が染みついている日本の小屋の中で、これから火を噴こうとしているものを挟みながら、自分たちはいまコーヒーを飲んでいるのだなと、私は確かめるようにして思った。
 ――暖まるね、と私は言った。
 ――ああ、暖まる、と穂積一作は答えた。
 その晩、彼は二つのブリキカン――一第壱号と第弐号――を持って帰った。都心は恐らく火の海となるだろうから、中心部は無理かも知れないな、と彼は付け加えた。
 穂積一作を送って玄関を開けると、外は雪になっていた。冷たい風と一緒に、さらさらと乾いた粉雪が土間に舞い込んだ。寒いわけだな、と穂積一作は言って夜空を見上げた。深い闇の奥から、夥しい白い雪片が次から次へと休むことなく降りおりてくるのだった。私たちは目を見合わせて静かに笑って別れた。彼の姿が見えなくなると、そこにはただ夢のような白い闇だけが残った。

 それから何日かたった午後、為すべきことを為し終えたというふうな気怠さに身をまかせながら、私が部屋の中に寝そべっていると、玄関を荒々しくたたく音がした。農家をやっている隣組の組長だった。召集された青年を町内会で駅まで歓送していく所だから、是非顔を出してくれという。普段なら足の不自由なのを口実に断わるところだったが、同じ隣組の青年だということもあって、出掛けることにした。すぐ行くといって組長を先に出させてから、私は押入の中に並べられている八個のブリキカンに毛布を被せ、そして玄関の引戸を閉じて南京錠をかけた。私が玄関に錠をかけるのは、東京に出てきてからこれが初めてだった。勿論、押入の中が心配だからであったが、政局が急速に悪化していくにつれて、神国には泥棒が急増してもいたのである。
 出征の行列は、三十人ほどが日の丸の小旗を持って駅への道を進んでいくところだった。どういうわけか穂積一作が、やはり日の丸の小旗を持って先頭の方に加わっていた。私は列の一番最後に追いついて、めずらしく吹き出てきた額の汗をぬぐった。黒っぽいモンペをはいた老婆が、見送りへの礼のつもりか、或いは私の不自由な姿をおもんばかって、いかにも丁寧に頭を下げた。これほど深く頭を下げられたことは自分は一度もなかったな、と私は思った。
 行列は歌をうたうでもなく、曇った冬日のなかを静々と進んでいった。黒っぽいものを着た背の低い女たちが多いせいか、それはまるで異国の子供たちの葬列の遊びのようにも見えた。駅に着くと、町内会長だという頭を五分刈りにした赤ら顔の男が挨拶をした。武運を祈りとか、国のお役にとかの文句が、冬の曇天にちぎれていった。召集される青年は二十五歳ほどの大工か左官かといった風情で、不似合な国民服の肩のあたりを少し窮屈そうにさせていたが、それでもおそらくこれが彼の人生における最初で最後の晴れの儀式なのであろう、寒風のなかに緊張した表情を崩そうとはしなかった。その顔は額の狭いにきび面[#「にきび面」に傍点]で、脂気のある鼻のあたりがいかにも下品に見えた。女郎屋の女を覗いて舌なめずりしているのが似合うような、そんな感じだった。なるほどこういう男たちが兵隊になるのなら、ひそかに噂されているとおり、支那でどんな野蛮なことをやっているか分りはしないな、と私は思った。
 町内会長の挨拶が終り、穂積一作がひとこと口上を述べて万歳の音頭をとった。松葉杖があるため、集まった人々の中で私だけが手を上げなかった。やがて青年は駅の構内に消え、人々は結ばれていた糸が切れたように立ち去って行った。穂積一作が、私に一寸小旗を上げる合図をして笑った。いままで止んでいた風が、急に北の方から吹き降りはじめた。最後の冬だな、と私はひとり帰路を辿りながら思った。

 戦局が抜き差しならないものであることが、ようやく目に見えるものとなって現れてきた。既に年末のレイテ決戦の帰趨によって、大本営の指揮は混乱に陥っていることが感ぜられたが、年を越しても戦略方針は定まったようには見えず、例えば海軍が沖縄決戦を主張すれば、陸軍は離島戦での海軍不信をあらわにするといった具合で、混乱は軍の頂点において極まっていることが窺えるのだった。元日の新聞は、「山下大将のいふ如く比島の戦場は広大であり、ここに敵が大兵力を展開し来る時においてはわが精鋭が野戦において米陸上軍と本格的に遭遇する最初の機会であり、敵兵大量殺戮の絶好の戦機が到来する」と陸軍をもちあげていたが、米軍はそれを嘲笑うかの如く、新年そうそうマニラへと一直線に進撃した。そして二月にはいると、米機動艦隊はマリアナと日本本土を結ぶ要衝中の要衝である硫黄島へ肉迫し、その上陸はいよいよ時間の問題かと思えた。一方、中国大陸の陸軍は――穂積一作のもたらした情報によれば――「上陸して来る敵に対処するため」、これまでの西方進撃を突然中止し、大軍を一挙に廻れ右させるという未曾有の大混乱に陥っていたのである。そして――
 二月二十五日、いよいよ東京に対する焼夷弾攻撃が開始された……
 その日は朝から寒々とした厚い雲が冬の陽を隠し、すでに活気を失なった東洋の街をいっそう虚ろな感じにさせていた。そして午後から降り始めた雪は、積もるでもなく降り止むでもなく、ただしんしんと街の中へ溶け消えていった。
 凍てつくような夜が来た。私は光の弱い電灯の下で、穂積一作の家から借用してきたゴヤの銅版画集をめくっていた。カプリッチョ≠ニ名づけられた数十枚の版画群は――ゴヤが既に完全に聾者となりその上ほとんど盲《めしい》となってからの作品だったが――暗い空を背景に醜い顔をもった人間たちを群れ集まらせ、その人間たちを嘲笑うように、奇怪な獣や羽を持った妖怪の如きものたちを、いたる所に乱舞させていた。そこに彫り刻まれているのは、混濁の時代に露わにされた人間そのもの、どうしようもない欲情の交錯のようでもあり、愚かしいまでに悲しい人性の祝祭のようでもあった。その中には、老婆が妖怪たちに囲まれて化粧をしているらしい姿があり、からみ合っている醜い二人の男が闇の中へ落ちて行く姿があった。一本の樹木に縛りつけられて苦しんでいる男女の上には、巨大な奥の如き怪鳥がその狂暴な爪を光らせており、鳥の顔をした一人の男は、毛むくじゃらの獣の上にまたがってどす黒い叫びを叫んでいるのだった。――既に完全な聾者となりその上ほとんど盲となった前世紀のスペインの画家が、地の底に何を聞き、闇の中に何を視たか……私は暗澹たる気分で銅版画集の頁をめくっていた。
 警戒警報のサイレンが遠くの夜空で鳴ったのは、十二時近くになってからだった。警戒警報は間もなく空襲警報にかわった。私は家の灯《あか》りを消し、玄関を開けて外へ出た。雲母を敷いたような雪道が闇の中にきらきらと輝くのを踏んで、少し土手のように高くなっている所まで行くと、新宿の方で打出すのらしい高射砲の音が花火のように聞こえた。遠くの探照灯が、幾本もの長い指のように闇を空しくさぐっていた。雪を降らせている雲の白じろとした腹が、ときどき光を浴びて手に取れるように浮かび上った。
 やがて、東の空がぼうっと赤くなった。「火事だな」と自分は思った。その言葉は現状にそぐわないにちがいなかったが、しかし「火事」という言葉は、妙に生々しく私をとらえて離さなかった。
 闇の向こうで、何人かの話し声がした。近所の者たちが、やはり私と同じように少し高くなった所を選んで、東の方の模様を眺めているらしかった。その話し声は、大いに怯えているようでもあったが、またどこか華やいでいるようでもあった。厳寒の深夜にぽっかりと華やいだものが咲き現れて、いつも内に向かっている私の心もまた、急に緩んでいくような気がした。彼らの所へ行って気安く話し掛けてみたい衝動に、私は駆られた。私の二つの爆弾があそこで燃えているのですよ、そういう言葉が、いまにも私の口腔から闇のなかへ洩れ出ていきそうであった。

 ――雷鳴のようだったそうだよ。威力は手榴弾の比ではなかったそうだ。
 穂積一作は坐るなりそう言った。空襲から二日目の夕刻だった。
 私の製造した爆弾が炸裂したこと、その音が空襲下の東京の街に響きわたったこと、それはまだ何か非現実的な出来事のように思えた。
 ――それで? と私はきいた。
 二月二十五日の闘いは、穂積一作が〈影男〉から受けた報告によれば、次の如きものであった。
 ……その夜、かねてから準備を整えていた〈影男〉は、警戒警報の発令と同時に出撃した。かつてない大群のB29の乱舞に、空全体がうなり出していた。攻撃場所は省線Y線のS駅と定められていた。いっときサイレンが途絶えてささやかな静謐が訪れたなかを、〈影男〉は軽々と土手をよじ登り、白々と雪光りのしている鉄路に沿って、一直線にS駅構内へ走って行った。あたりに人気はなく、意外なほど広々とした構内に、幾本もの線路が悲しい生きもののような眠りを眠っていた。下から見上げる無人のプラットホームは、夜の港に泊っている艦船の巨大な腹のように生々しかった。どこからか潮の匂いが、湿った風にのって流れてくるような気がした。
 爆撃は初め北の方に集中し、空のあちこちを赫く照らし出していたが、やがてS駅のまわりにも幾つかの焼夷弾が飛び散りはじめた。焼夷弾は遠い家の屋根の上に落ちては燐寸《マッチ》の炎ほどの火を噴き上げていた。夜の中に生まれたその小さな火は、消し止められることもなく易々と一つの家屋を呑み込み、ゆっくりとその身体を太らせていった。
 頃合を見はからっていた〈影男〉は、プラットホームの巨大な腹をかすめ抜けながら、幾台もの機関車が眠っている車輌庫の中へと一気に突入した。天井の高い車輌庫の中は、外の叫喚から隔てられたように、黒々とした沈黙だけが支配していた。まるで、壮大な伽藍に忍びこんだようだった(と、そのとき〈影男〉は思ったそうだ)。少しでも音を立てると、その音が反響してすべてが動き出すような気がした。幾輌もの鋼鉄の機関車は、頭をこちらにそろえて、いまにも荒々しく突進してくるようだった。その圧力に押されるかのように、〈影男〉は思わず後退《あとずさ》りした。そしてはとんど同時に、手にしていた重味のあるものを車輌の群れの中に投げ込んだのだった。
 凄まじい叫び声が起こった。象の群れが倒れるようにして、幾台もの機関車が体を震わせるのが見えた。爆風に倒れた自分の体を立て直して、〈影男〉は第二弾を投じた。再び鋭い叫び声が起こり、今度は車輌庫のスレートの尾根が雨のように崩れ落ちてくる中を、〈影男〉は蚤のように脱出した。……
 しばらくは耳が聞こえなかったそうだ、だが〈影男〉は無事だよ。――そう言って、穂積一作は温かい茶を啜った。
 機関車のような――と私は言った――鉄の塊りみたいなものよりも、もっと毀れ易いものの方が、効果があるのだがなあ。例えば、組立中の飛行機とか、燃料タンクとか、人間の体とか……
 今度はそうするつもりなんだ――と穂積一作は答えた――それに、都心での活動は、やはり危険が大きすぎる。いくら〈影男〉でも炎の海から無事帰還するのは安易な業ではなかったそうだ――。
 私たちはひとしきり今後の見通しについて話し合ったのち、穂積一作の持って来たドイツ産の煙草を味わうことにした。やはり、近衛師団にいるというM大尉からの贈物だった。ドイツの敗色が日一日と濃くなっている時に、遠く離れた日本でドイツ産の煙草が喫えるというのが、どこか不思議だった。紫色の美しい紙が破かれ、薫の良い紙巻煙草が顔を出した。燐寸を擦ると、火のない家の中に小さな熱が生まれた。かじかんだ指先でその小さな揺れうごく炎を摘みたい衝動に、私は駆られた。ずいぶんこわい顔をしているね、と穂積一作は私をみつめて言った。ああ、炎の中に飛びこめばどんなに気持のいいことかと思ってね、と私はひとり胸の中で答えた。……
 その夜、穂積一作はまた新たに二つのブリキカンをかかえて帰って行った。近いうちに再び大規模な夜間空襲があるというのが、彼の予測だった。
 それからしばらくした或る日――それは、あの三月十日の大空襲の数日前だったと記憶しているが――私が配給所に鰊の干物を受け取りに行き、そのついでに足を伸ばしてX駅の前に在る本屋などをひやかして家に帰って来ると、夕刻の誰もいない部屋の真中に、白い大きな包みが、いかにも暮れ残されたという風情で置かれていた。それは、薄暮の沼に舞い降りた白い鳥の翼のようでもあり、巨大な骨壺を包んだ無表情な布の如くでもあった。
 布の上に小さなメモが置かれていて、それは、 present I.H. と読めた。包みを解くと、ガッシリとしたカンバスの背が現れた。触れる指に、あの懐かしいざらざらとした感じが伝わって来た。包みの底には、三十色の油絵具の箱も入れられてあった。その箱の重味を、私はゆっくりと掌の上で味わった。――一本の黒のチューブを取り出して小さな頭の蓋を取ると、私の生きてきた過去の匂いが鼻を打った。いま自分の眼は異様に輝いているな、と私は想った。そしてその輝きは、二箇月ほど前、黙々と十個の生きものを造っていたときと同じだと思った。低い笑い声が、そのとき背後で聞こえた。だがそれは、私自身の喉の奥でくぐもっている私にだけ聞こえる笑い声であった。その声をこの部屋の中にあらわに放てば、それは部屋の隅々を震わせながら黄色い闇となって私自身を包み込み、自分は気が狂って行くのにちがいなかった。……
 人はなぜ筆を執って描こうとするのか、或いは、なぜ詩文をなそうとするのか。一銭の得にもならぬ、一口の食糧にすらならぬ行ないを、なぜ為すのであるか。誰かに想いを伝えるためであろうか。いや、想いを伝えるべき相手などいないとすれば、誰のために描きまた書くのであろうか。普遍ともいうべき目に見えない他者のためか? なるほど、他者のために筆を執る者は数多いかも知れない。最も高尚といわれる絵画、詩文すらも、それを見それを読むであろう見知らぬ他者のために捧げられている。しかし、いま私のなかに在るのは、およそいかなる他者も前提としない描くことそのものへの情念とでも言うべきものだ。他者のために描くのでなく、描くことによってようやくそこに他者が生み出されてくるような、孤絶した逆立《ぎゃくりつ》の世界だ。畢竟、私は己れ自身のためにのみ何かを描こうとしていると言いたいのであろうか、だが、この苦しみ、世界に向けて何ものかを産み出すときのこの息も絶えだえの苦しみは、およそ自分のための悦びや楽しみとは懸隔している。少なくとも自分は、描くことが楽しみであったことなど――幼年時代のあの霧につつまれた束の間の黄金時代を除けば――かつて一度もなかった。描くことはいつも、どこか嘔吐に似ていた。自分の咀嚼した食物のみならず、どろりとした胃や腸までも嘔吐し尽し、それをわが眼で見定めるまでは、おさまることがないのだ……。
 およそ、世界には二種類の人間しかいないのかもしれない。一方は、全く筆を執らない人間もしくは世界と逆立することなく筆を執れる人間であり、他方は、世界や他者の存在にことごとく背反するただなかでしか筆を執れない人間――。だから、自分は自分が何かを描き始めようとするとき、常に次のような「伝道之書」の一節が浮かび上ってくるのだった。――≪人は生命《いのち》の涯《かぎり》黒暗《くらやみ》の中に食《くら》ふことを為す。また憂愁《うれへ》多かり疾病《やまひ》身にあり、憤怒《いかり》あり≫
 次の日から、私はデッサンを始めた。
 私に画風≠ニいうべきものがあるとすれば、それは保守的なまでの写実主義であり、筆趣としてはクールベやマネに酷似しているのだが、その構図全体がどこか不安定なものを内包して歪んだ印象を与えるのが、特徴といえばいえるものであった。見えるはずのないものと見えるべきものの境目が、そこに写し出されていなければならなかった。私はそのようにして、幾つかの建物を描き、雪道を描き、壁を描いた。
 けれども、自分がこれまでと違ったものを描き始めるであろうことを、そのとき私は予料していた。それは「画風の転換」とか「新技法の発見」とかいうのとは全く違った、果しない情念の自己運動とでも言うべきものであった。私の凍てた指に振られた鉛筆は、やがて意味のない曲線をカンバスの上に絡ませていった。押しとどめることのできない内部の流れが、屈曲した或いは奔放な線となって、白いカンバスを汚した。怒りは鋭く折れ曲り、憎しみは蛇行し、不安は激しく伸びて行った。……それは、いまにして思えば、抽象派の絵画に、就中カンディンスキーのそれに、最も近いものだったかも知れない。しかし、私の指先が描き出して行くものが、カンディンスキーの解放された空間や目にしみる青の乱舞と無縁であることもまた事実だった。私の曲線のうねりは黒く鬱屈し、それはどちらかといえば、幼ない頃に底知れぬ恐怖をもって見た地獄絵――裏山の寺院の奥深くに秘められてあったあの地獄絵の、絵全体が悶えているような世界に繋がっているように思えた。細い線の集積で措かれた蛇の如き炎、炎に焼かれながら烈しく絡み合うている夥しい男女の肌の白さ、そしてそれらを攻め立てている黒々とした煙の笑い。――その地獄絵よりも、もっと惨憺たるものを、私は描き出そうとしていた。……
 三月九日の夜――それは奇妙に暖かな夜であった。庭の沈丁花の匂いが闇を柔らかいものにしながら、明け放たれた春の窓から部屋の中に流れこんできていた。その濡れた濃密な空気のなかで、私は自分の体が闇の向こうへ緩やかに解きほぐされていくような、少し気怠い気持をかかえていた。窓の際に寄れば、生温かい夜風がすうっと魂をつつみこんで奪って行ってしまうような、そんな気がした。
 サイレンが聞こえはじめたのは、デッサンがようやく一定の仕上りをみせた夜更だった。サイレンは、坐っている私の背中の方角から響き始めた。聞き慣れた爆音が、やがて遠くの空を震わせて来た。一路都心に向かって黒い夜の海を飛行する夥しいB29は、きっと魚群のようであろうと私は思った。その上空の大群から見おろすならば、灯火を滅ぼした東京の姿は、黯惨《あんさん》たる巨大な穴ぼこの如くに見えるのではあるまいか……私は電灯を消すこともなく、そのようなことを考えていた。
 やがて、爆音はただならぬ激しさで上空を覆い尽した。高射砲の空しい声が、あちこちで響き始めた。雨のように降り乱れる焼夷弾、炎の巻きおこす風と、風がその上を通り過ぎていく打捨てられた屍体、断末魔の叫び――それらの唸るようなざわめきが、津波のように私の背中から押し寄せてきた。いま私が振り返れば、世界は血の色に包まれているかも知れない、と私は想った。そして、叫びと狂騒のなかをくぐり抜けて、闇から闇へ、炎から炎へと疾駆していく〈影男〉の姿を、確実に火を噴きあげていく私の二つの爆弾の閃光を、私は視たと思った。私は、絵具箱から太々とした黒のチューブを取り出した。デッサンの仕上ったカンバスは、その中央部にナイフの如く尖った三日月型の空間を浮きあがらせていた。とうとう頭上に到達した大爆音の中で、私はその三日月型の空間に黒い祝祭を黯《とも》した。……
 やがて季節は四月を迎えた。
 冷たい霧雨の日が二日ほど続くと、翌日は暖かな陽が戻った。
 私が散歩に出掛けたのは、そんな日だった。
 まだどことなく湿っている下駄を履いて、私はK駅の方へ歩いて行った。
 都心と違ってこの町に落された焼夷弾はわずかだったとはいえ、被害にあった家があちこちで柱や梁を剥きだしにして、春を迎えていた。温《ぬる》い風が、焼跡の臭いを孕ませながら頬を掠めた。まだ残っていた人々もさすがに先の大空襲に怯えたのであろう、町には人の気配というものが希薄だった。
 やがて道はK駅に近いI公園のなかへとはいって行った。
 公園は人の気配を絶やし、昼下りの風だけがひとつの生きもののように土の匂いをゆらめかせていた。かすかに芽のふくらみはじめている樹木の間を抜け、いったん小高い丘のような所に出て、そこから再び石段を下っていくと、私の目の前に現れたのは、壮絶な白い風景であった。どこまでも広がっている白骨の群れ――と見えたのは、風景全体を覆い尽している一面の桜の開花だった。満開の桜の大群は、公園の中央に置かれた澱んだ池を、雪余の如く制していたのである。
 石段を下りきって汚れた池のほとりに立つと、重さをもったもののように、花々のざわめきが私の頭上を襲った。澱んだかなり大きな池には、丁度池を二分するように、長い木橋が架けられていた。私は頭上の重さから逃れるように、湿った土に松葉杖を突きたてながら池の周りをめぐり、そして水の上の廻廊のような長い木橋の上を歩んでいった。橋の丁度中央まで来ると、橋杙を間近に洗う池の細波が、長すぎる廻廊を不安にさせた。
 目を上げると、池の両岸は頽れ落ちる白い雪崩だった。それはまるで樹木という樹木が、すべて「白い襤褸をまとっている」としか言い様がないような、相変らず物悲しい眺めであった。花見の客などは、もはや居なかった。ただ池の面を渡る風と花々のざわめきのなかに、歌い騒ぐひとびとの声をわずかに聞くことができるだけであった。それらの夥しいひとびとは、蜃気楼のように一瞬間近にあらわれたと思うと、たちまちのうちに白骨となり灰となって、白い風景のなかに散っていってしまった。そのあとには、ただ静寂が残るばかりだった。
 この静寂、死がすべてを隈取っているこの静寂は、私をものぐるおしくさせた。なるほど四月とはこのような季節であったかと、私はあらためて思った。
 公園を抜け出て再び石段を登り、緩い坂になった道をK駅の方へ行くと、被害を免れた駅前の店屋の前の路上には、驚くべきことに、これまで見たこともないほどの夥しい量の物資が溢れ出ていた。卓袱台があり、箪笥があり、長持があった。花瓶があり、シャンデリアがあり、絨毯があった。茶筒や湯呑から風呂桶にいたるまでのありとあらゆるものが、雨のあがった春の道に溢れるように堆積されていたのである。それはまこと物資の洪水の如き眺めであった。それは私に西洋の民譚のなかの情景を――ひとつの都市から夥しい鼠たちがいっせいに脱出していくという騒然たる情景を、想い出させた。
 物資の洪水を前にして、奇妙な心の昂ぶりが不意に私を襲った。この夥しい品々のなかから買物をしてやろう、と私はひとり決めた。ひとびとが迫りくる炎と死を目前にして彼らの生活を包み込んでいたものをかなぐり捨てて出て行ったのであれば、廃墟となろうとしているこの都市の中で、それら打捨てられたものを拾いあげるのも、いまとなってはひとつの風流ではないか――。
 私は主人を失なった夥しい物資の堆積の中を――ただ食糧だけが欠けている物資の山の中を――歩いていった。前掛をした老婆が、品定めをしている私を、遠くの風景を見るように眺めていた。この都市では、もはや盗む者がいなくなったのか、或いは盗むことが意味をなさなくなったかのどちちかであった。
 そして、私が選び出した物は、一組のレコード盤と華奢な象牙の耳掻、それに乃木大将の複製のはいった額だった。
「なかなか結構なご趣味でございます」
 奥から出てきた主人は、私の選んだレコード盤を大事そうに手に取りながらそう言った。レコード盤は、セザール・フランクの「前奏曲、コラールとフーガ」であった。象牙の耳掻は、私のシャツの胸ポケットにさし込まれた。主人はそれから額縁を丁寧に新聞紙で包み、私が肩からつるせるように紐を掛けてくれた。
「余り長いとよろしくありません。短かすぎると手に当ってご不自由でございます」
 そんなことを言いながら、主人は何度も紐の長さを調整した。そして代金を受け取ると、人手がなくて品物を届けられないことを幾度も詫びながら私を送りだした。
 家に帰ると夕暮だった。
 私はまず額縁の包みを解き、そこにはめられている乃木大将の複製を、絵筆の尻で切り裂いた。白い馬はその胴体を真二つにされた。その仕事がすむと、私はごろりと横になって胸ポケットから細い耳掻を取り出した。それは手の込んだ彫み文様のつけられた立派なもので、不自由のない生活をしていたどこかの婦人が使っていたものであるように見えた。その象牙の白さは、昼間T公園で見た頽れ落ちる桜花の風景を想い出させた。
 レコード盤はまだ取り出さなかった。なぜなら、フランクの「前奏曲、コラールとフーガ」、この深い祈りにみちた曲は、深夜、大地を震わせる爆音のなかでこそ針を下されねばならなかったのだから――。
 私は耳をほじくりながら、部屋の隅に置かれた未完成のカンバスを見た。カンバスには、既に黒と青と紫が使われていた。次は赤、狂気の如き赤でなければならなかった。

 四月が盡き、五月が廻った。私が度々散歩するようになったT公園の樹木は、花を散らせ終えたかと思うと一斉に芽吹きはじめ、芽吹いたばかりの幼ない緑はみるみるうちに青葉となって繁っていった。旺盛な青葉に覆われた池のほとりには、ひんやりとする深い緑陰がつくりだされた。そこに佇むと、初夏の木洩れ日が池の面にちらちらと揺れ、その光のなかに五月はゆっくりと過ぎていった。
 季節のうつろいをこれほど鮮やかに感じたのは、幼年時代を除けば私の生涯でも稀なことだった。毎日どこかの都市が炎上し、一度に数百というひとびとが屍となっていく日々の中で、季節は自ら廻り、自然は着実にその繁殖力を増しているように思えた。その旺盛な力には、どこか陰惨にも似たところがあった。
 三月以降、東京全体を焼き尽すような大規模な空爆は訪れなかったが、その代り地方都市を中心に、B29の来襲はいっそう激しくなっていった。大群のB29は、視界が悪ければ地方都市に焼夷弾の雨を降らせ、視界が良好とみれば、首都近郊の工場を狙って精密爆撃を繰返した。爆撃の精度には驚嘆すべきものがあり、武蔵野のN飛行機工場などは、二度にわたる一トン爆弾の直撃を受けて壊滅していた。そしてB29のみならず空母から飛来するグラマン機もまた、東海地方を中心に執拗な攻撃を加え始めた。畑仕事をしていた老婆がロケット弾の直撃を受け、鍬を握っていた手だけがそのまま残されていたとか、東海道線の列車が機銃掃射を受けて乗客は皆同じようにこめかみに穴をあけられていたとかいうような話が、ぽつりぽつりと伝わってきた。日本軍の迎撃機は、めっきりその数を減らしていた。やがて東海近海に集結するであろう敵の大機動艦隊に対して決定的な一大決戦を行なうべく航空機を温存しているのだという噂が、もっともらしく広まっていた。ときどき思い出したように迎撃に飛び立つ小型戦闘機は、いかにも力なく上昇していったかと思うと、あっというまに翼を失ない、或いは炎の塊りとなって墜落していった。
 ドイツは、五月の初めに無条件降伏していた。イタリーのムッソリーニは――穂積一作が予想していたように――パルチザンの手によって処刑された。六月には沖縄が玉砕した。陸軍の指導部は、本土決戦に最後の望みをつなぐ一方、不倶戴天の敵であったはずのソ連邦に特使を派遣して和平の仲介を依頼しているということであった。
 穂積一作は、ときどき私の家を訪れては戦局にかんする情報をもたらした。戦艦大和が沖縄に向かって出撃する際、軍の方針は燃料は片道しか積まないということだったが、現場ではそれではあまりだということで、たっぷりの燃料をタンクに注入して送り出したというような話を、私は穂積一作から聞いた。また、A新聞が、米ソ両軍に占領されたベルリンの状態を「伯林の惨状」という記事で伝えることによって、露骨に本土決戦への批判を加えたこと、A新聞社の社内では和平派が公然と軍への批判を口にしはじめたことなども、彼は私に話した。そして、私の家を訪れるたびに、彼は押入のなかのブリキカンを、一つまた一つと持ち帰っていった。
「A飛行機工場はもう終りだよ。なにしろエンジン部門を吹きとばしたからね」と彼は語った。我々のブリキカンが尽きるのが早いか、敗戦が早いかどちらかだね、とも彼は言った。二三箇月の内に九州か四国に米軍が上陸するというのが、軍の見とおしであるらしかった。夏を迎えて、情勢は一挙に煮つまっているのだった。――

 そんな或る日、隣組の男が、私の家の玄関を開けた。
 隣組とはいっても、前の畑をはさんだ一軒屋同士だから、毎日顔を合わせているわけでもなく、男はいかにも「訪れて来た」という風情であった。芋が取れたからと言って、男は小さな布袋を私の家の土間に下した。私が配給の煙草を二三度分けてやったことへの礼であるらしかった。私も煙草は切らすことのできない性だったが、穂積一作が外国製の薫の良いものを置いていったときなどは、少しは配給品が余分になることがあるのだった。
 男は私が上がるようにと言うと、ごま塩になった五分刈の頭をしきりにさすりながら、足が汚れているからとか用事を残してきたからとか遠慮していたが、私が一緒に煙草でもと促すと、へえ、うんでは、と上がりこんで来た。私が帝国大学の学生であるということ、そして資産家の息子であると思われていること――穂積一作は家主にそのように紹介していた――が、この男の腰を必要以上に低くさせていた。もし私がただの片輪者≠ノすぎなかったとしたら、この男は私に対して素晴しく狂暴な振舞いをする人間たちの一人であるのにちがいなかっただろうが――。
「すまないねえ、食糧が、いまはいちばん大切な時だから」
 と私は鷹揚に礼を言った。
「うんでえ、食ってもらえれば、いいべえ」と男は答えた。彼は私の姿を――私は畳の上では、脚を伸ばすでもなく折るでもなく、オヤマ[#「オヤマ」に傍点]のような横坐りの形でしか坐れないのだが――その姿を、物珍しそうに眺めてから、私の差し出した茶を音を立てて吸った。
「しかし、なんだね、兵隊さんは外地で戦っているというのに、僕のような者は、銃後のお役にも満足に立てない」
 私がそう言うと、男は話の方向を取り違えたらしく、自分の息子はソ満国境にいるらしいこと、むこうは五族協和でなかなか住み易い所らしいことなどを語った。手紙が来るかね、と私がきくと、正月に来た、と男は答えた。今度来るときは、手紙でなく骨になって来るだろうよ、と私は心の中で呟いた。煙草を勧めると、男は一度掌で頭をさすってから、有難そうに火をつけた。少しけむたそうに目を細めて煙草を喫っている顔付は、いかにも野良仕事が一段落したという風情であった。茶請に漬物でも出せれば良いがな、と私は自然に思った。
「少し襖が、へん曲っているだな」
 男が横の方を向いて突然言った。押入の襖の一枚が、少し腹がふくれたように曲っていた。あっ、という声が、思わず口から洩れそうになるのを、私は防いだ。
「梁が落ちてきているから、襖が苦しいだよ。ひとつ、直してやるべえ」
 胃が、粘土の塊りを入れたように重くなっていた。だが、男はそう言ったまま、うまそうに煙草をふかしていた。勿論、男が煙草を消して立ち上がるのであれば、私もまた不格好に畳の上をすべって行き、それを押し留めねばならなかった。恐ろしい叫び声をあげて男の脚に組付いていく自分の姿が、鮮やかに頭に浮かんだ。片方の腕は、いつでも立ち上がれるようにしっかりと畳を押えて、固くなっていた。何と言って止めたらいいだろうか、急に激しくなった動悸の中で、考えがまとまらなかった。男は相変らず、大工が自分の仕事の出来具合でも眺めるかのように、ゆったりと襖に目をやっていた。
「どうも警報が鳴るかと思うと、毎晩寝付かれなくてね」
 と、私は男の注意をそらすように言った。声が、二人しかいない部屋の中で震えていた。「はは、臆病なものだから――」と無理に付け足した。
「おらん所は防空壕を掘っておいたから――と言って、男はようやく襖から目を離した――あぶねえときは、いつでも畑を横切ってくればええだよ」
 男は首を回して、襖と反対の畑の方を見た。私は茶を、もう一杯注いだ。
「この辺には工場がないから、大丈夫だとは思うけれど――」
 私が落着を取りもどしてそう言うと、男はしばらく防空壕の方角を見やっていたが、やがて断乎たる調子で、戦争だから家が焼かれるのは仕方がねえが工場が狙われるのが悔しい、それに宮城が心配だ、と答えた。
 ……戦争だから家が焼かれるのは仕方ないが工場が狙われるのが悔しい、それに宮城が心配だ……
 なるほど、この国のひとびとはかつてない空爆のなかでそういうふうに考えているのか――動悸の細波が残っている胸を押さえながら、私は頭のどこかが痺れるのを感じていた。まだ焼かれ足りないのか、まだ殺され足りないのか、いや、全部焼かれ、全部殺されても、そう思いつづけているのか……
 だとしたら、この国のひとびとがイタリーのようにパルチザンとなって起上《たちあが》ることなど、永遠にあり得ぬのではないか。どのような惨禍が頭上に降りかかろうと、あたかもそれが自然であるかのように諦め続けていくのではないか。日本のパルチザンは、私と穂積一作と〈影男〉の、三人で終るのではないか――
 戦争だから家が焼かれるのは仕方ないが工場が狙われるのが悔しい、それに宮城が心配だ……
 男は、再び襖の方を見ることなく帰っていった。その夜、私は絶望的な気分で、残っている三個のブリキカンを木箱に入れ、畳を上げて縁の下に移した。――

 穂積一作は茶を飲みながらしばらく考えていたが、まだ敗け方が足りないということだな、とぽつりと言った。私が隣の男のことについて語ったあとだった。
 確かに私の周囲で生きているひとびとは、ただならぬ生活の混乱や肉親の死に直面しているにもかかわらず、未だ敗け足りていないように見えた。民間人だけではない、軍人もまた、真剣に降伏を考えているのは上層の極めて一部であり、それ以外は児戯に類する本土決戦の準備≠ノ我を忘れている状態だった。なるほど民は自らの水準に応じてその支配者を持つものだとするならば、知は力であるという段階を通過せぬまま権威と屈従の感覚だけは鋭敏にさせてきたこの国の民の水準に、軍部のごろつきたちはまことに適合しているのかも知れなかった。しかし――しかし、どのくらいの敗け方があれば足りるのかな、その客観的な基準のようなものはあるのかな、と私は穂積一作に問うた。
 ――きみは、科学者だね。
 そう言って彼は片方の目で私を見つめて笑った。政治とは水の沸点のような数値で表わし得る客観点な基準を持つものではないこと、政治の過程とは断続と飛躍を常に孕んでいること、そういうことを彼は言いたいのにちがいなかった。勿論、私とてそれを知らぬわけではない。しかし――しかし果してこの国にその飛躍はあり得るのか、日本の国民は――いや、国民の五パーセントだけでも良い! その飛躍≠自らの手でなし得るのか……。私の疑いは、穂積一作と向かい合っている間じゅう、晴れることがなかった。
 その日、穂積一作は二つのブリキカンを持って帰った。縁の下には、黒いブリキカンがたったひとつだけ残された。私は、垢で汚れた薄い蒲団の上に横たわりながら、自分の心臓がひとつ縁の下で息づいているような、暗闇の中で微光を放つ小さな生きものを抱いているような、淋しくいとおしい気持で眠った。

「ポツダム宣言」が新聞に発表されたのは、七月二十八日だった。七月二十八日――なぜこの日付をはっきりと記憶しているかというと、その日は私の二十一回日の誕生日であったからにはかならない。それは、二十歳まで生きられることはあるまいと子供の頃から言われ続けてきた私――不具≠ナ病弱≠ネ私にとって、その大方の予想を一年間オーヴァーしたことの、ささやかなる記念日であった。
 さてこの記念すべき夜、めずらしく浴衣姿で私の家を訪れた穂積一作は、二つのことを私に教えた。
 ひとつは、新聞にのった「ポツダム宣言」は、一部が削除されたものであって、全文は通信社によって全世界に知れわたっているということ。もうひとつは、鈴木首相が緊急の記者会見で「ポツダム宣言はカイロ宣言の焼き直しにすぎず、政府としては黙殺するだけだ」と発言したことだった。この首相発言は勿論陸軍の意向を受けてのことにちがいなかった(と穂積一作は語った)。
 ――このポツダム宣言というのは、降伏勧告というより、何か最後通牒めいたところがあるな、と私は活字に目をやりながら呟いた。
 ――きみもそう思うかい。どことなく不気味なんだな、例えばここの所だ。
 そう言って、彼は新聞を指さした。

 吾等ノ軍事力ノ最高度ノ使用ハ日本国軍隊ノ不可避且完全ナル潰滅ヲ意味スヘク又同様必然的ニ日本国土ノ完全ナル破壊ヲ意味スヘシ

 ――確かに、不気味だね。
 ――軍事力ノ最高度ノ使用≠ニあるだろう。何だと思う、これは。
 ――絨毯爆撃のことなら、改めて言うのはおかしいな。とすると、本土上陸の開姶ということかな。
 ――いや、本土上陸ならば日本国土ノ完全ナル破壊≠ニいうような言い方はしないだろう。日本国のすみやかなる占領とか何とか、そういう言い方になるはずだ。それに、海軍の言っていることを信じれば、上陸の気配は今のところ全くないらしい。最低一ヶ月は準備にかかると言っている。
 ――日本国土ノ完全ナル破壊≠ゥ。謎解きのようだね。
 ――その謎を解くために、上層部も少しは考えればいいんだがね。ところが軍部と来た日には、やれ物質至上主義の米英の破綻が見えてきたとか、やれ日本は神国だから上陸しても押し返すことができるとか、そんなことをまだ言っているんだよ。その上に首相の黙殺≠フ記者会見だ。外国には黙殺≠ネどというあいまいな言葉はないからね、連合国側は、 reject だと受け取るだろうね。日本国政府はポツダム宣言を reject したと……
 そう言って、穂積一作は少し疲れたように浴衣の腕をさすった。蛾が一匹部屋のなかにはいりこんで、黄色い電球に幾度も体をぶつけた。
 ――ソ連邦の仲介はあるのだろうか?
 ――いや、まず絶望だろうな。仲介どころか、参戦の可能性だって大いにある。ソ満国境で赤軍の移動が激しいというしね。ソ連邦の参戦がさし迫っているとすれば、米軍もその前に一拳に攻撃に出ざるを得ない。米軍もソ連邦も、既にその次の戦争のことを考えているだろうからね。だが、不思議なんだな、米軍の上陸の気配はないと言うのだから。
 ――どうする気かね、トルーマンは。
 ――そこが分らないね。どうしても、そこのところが分らないよ。
 風が、深夜の簾を揺らせた。戸を明け放った部屋には、簾が一枚かけてあるだけだった。そのむこうは深々とした夏の闇だった。電球の明かりは、原始のような大地の闇のなかに呑み込まれてしまっていた。夏だな、と私は思った。二十一回目の私の夏が、日本の壊滅をのせて廻り去ろうとしているのだった。……

 広島に真昼の閃光が走ったのは、それから一週間のちだった。大本営は、次の如き発表を行なった。
 一、昨八月六日、広島市ハ敵B29少数機ノ攻撃ニヨリ相当ノ被害ヲ生ジタリ
 二、敵ハ右攻撃ニ新型爆弾ヲ使用セルモノノゴトキモ、詳細ハ目下調査中ナリ

 少数磯の爆撃によって相当ノ被害≠ェ出たと大本営が認めたことは、その新型爆弾の威力が尋常でないことを示していた。私は新聞のインキの匂いをかぎながら、かつて大学の原子物理学専攻の友人に聞いた話を――ウラニウムの原子核分裂の際に生ずる巨大なエネルギーを利用すれば、凄まじい破壊力を待った兵器を作ることが理論的には可能だという話を――想い起こした。だが、耳学問でしかない畑違いの私には、ウラニウムの原子核分裂のエネルギーというものが、どれほど強力なものであるのか、具体的に想像することはできなかった。
 次の日の朝になって、穂積一作から速達が届いた。
「新型爆弾は原子爆弾といふものなり。きみの知る所、教示されたし。瀬戸内海の漁民より、火山の噴火の如き巨大なる黒煙の立ちのぼるを見しといふ報告あり。また、市内にはいかなる生物も存在せずといふことなり」
 穂積一作は社を離れられない様子だった。走り書きした便箋の間に、わざわざ返信用の封筒がはさまれてあった。私は、自分の知り得るかぎりのことを認《したた》めた。
 そして――勿論あとになって分ったことなのだが――私が穂積一作に返事を書いていた丁度そのとき、モスコーでは、ソ連邦に対して仲介の依頼に出向いた佐藤駐ソ大使が、モロトフの読みあげる対日宣戦布告を前に、驚きの余りその猿股を汚していたのである。さらに、翌九日には、ソ連邦の動きの後を追いかけるようにし
て、長崎に第二の新型爆弾が投下された……
 これらの事実は、国内では二日ほど遅れて発表された。新聞の見出しは、どれも
同じだった。
  今や真に最悪の事態到る
  情報局総裁談・国民の覚悟と忍苦要望
  最後の一線・国体護持
 ソ満国境を突破して怒涛の如く進撃してくるソ連軍大戦車隊の姿が、私の眼に浮かんだ。主力を南方に派遣した残存の関東軍が、その大軍を阻めるはずはなかった。日本は北と南の両側から、恐るべき強大な敵に殺到されているのだった。いよいよ最後の幕が落された、と私は思った。この先は日本の国民が動きだすかどうかだ、とも思った。
 私は押入から、既に完成をみたカンバスを取りだした。それは絡みもつれる赤や黒の中に烈しい憎しみと破壊への情熱を疼かせながら、いまにも巨大な炎の柱となって立ち昇りそうに見えた。私はそれを、購ってきた額のなかに収め、柱の高い所に打った釘に、苦心してくくり付けた。そして、改めて畳の上に坐ってみると、部屋のなかにひとつの重心が生まれた。赤と黒の焔は、これまで淡色だった部屋の新しい主人であるかの如く、荒々しく振舞いはじめようとしていた。さあ、お前の出番だよ、私は柱にくくり付けられた焔に向かって、そう語りかけた。

 穂積一作が最後に私の部屋に現れたのは、八月十三日の晩だった。最後に――と言ったのは、後に述べるように、彼がこの晩を境にして姿を消したからにはかならない。
 この晩、穂積一作の表情には、非常なものがあった。いつもの皮肉な笑いの外皮が剥れて、その奥の鋭い怒りが頬の線にむきだしになっていた。片目を覆った眼帯の黒が、妙に生々しく感じられた。少し伸びた髪が、余裕を失なった額に汗でへばりついていた。樹木の皮のようなものが彼の全体にかぶさっているような、どことなく隔てられたものを、私は感じとった。
 ――まあ、これを読めよ。
 彼は一枚の紙を私に差出した。そこには彼自身の細かい文字が、急いで書かれたらしい妙にねじれたような姿で連なっていた。八月十日の日付のあるその文書は、米英支三国に対して発せられた日本政府の公電の写しだった。

[#ここから1字下げ]
 帝国政府においては人類を戦争の惨禍より免れしめんがため速やかに平和を招来せんことを祈念し給ふ天皇陛下の大御心に従ひ、さきに大東亜戦争に対して中立関係に在るソヴィエト連邦政府に対し斡旋を依頼せるが、不幸にして右帝国政府の平和招来に対する努力は結実を見ず、ここにおいて帝国政府は前顕天皇陛下の平和に対する御祈念に基づき、即時戦争の惨禍を除き平和を招来せんことを欲し、左の通り決定せり。
 帝国政府は昭和二十年七月二十六日米英支三国首脳により共同に決定発表せられ、爾後ソ連邦政府の参加を見たる対本邦共同宣言に挙げられたる条件中には、天皇の国家統治の大権を変革するの要求を包含し居らざることの了解の下に[#「天皇の国家統治の大権を変革するの要求を包含し居らざることの了解の下に」に傍線]帝国政府は右宣言を受諾す。……
[#ここで字下げ終わり]

 私が読み終ると、穂積一作は相変らず昏い怒りを含んだ片目で、じっと私を見つめていた。
 八月八日のソ連邦参戦で慌てたんだな――と、彼はようやく語りはじめた――八月九日の午《ひる》から御前会議があった。東郷外相などは皇室の安泰という一点さえあればポツダム宣言受諾という方向だった。少数派の阿南陸相は、自主的な武装解除・自主的な戦犯処理ということがなければ国体は護れないという意見だった。この御前会議の真最中だったんだな、第二の新型爆弾が長崎で炸裂したのは――。そして、その日の深夜になってから、再び開かれた御前会議の場で御聖断≠ニいう奴が下された。ただし条件だけは明確にしておくべしということで、この電報が三国に打たれたんだ。
 どう思うかね、というように彼の片目は私を見つめて動かなかった。つまらぬ悪足蚤だな、米英がこんな甘い条件を呑むわけがない、天皇の大権は元のままだと言うのだから、これではポツダム宣言を受諾したことにならないではないか、こんなことをしている間に、米軍は第三の攻撃をかけてくるだろう、ソ連軍はあっという間に満州を制圧するだろう。いつまで日本政府は馬鹿なことを言っているのか――そういう意味のことを、私は穂積一作に言った。
 そうかな、そう思うかな――彼は表情を全く動かさないまま言った――それじゃあ、これを読んでみろよ。

[#ここから1字下げ]
 ポツダム宣言の条項はこれを受諾するも、右宣言は天皇の国家統治の大権を変更するの要求を包含し居らざることの了解を併せ述べたる日本国政府の通報に閲し、我らの立場は左の通りなり。
 降伏の時より天皇及び日本国政府の国家統治の権限は降伏条項実施のため、その必要と認むる措置を執る連合国軍最高司令官の制限の下に置かるるものとす。
 天皇は日本国政府及び日本帝国大本営に対しポツダム宣言の諸条項を実施するため、必要なる降伏条項署名の権限を与え、かつこれを保障することを要請せられ、又天皇は一切の日本国陸海空軍官憲及びいづれの地域に在るを問はず、右官憲の指揮の下に在る一切の軍隊に対し戦闘行為を終止し、武器の引渡し及び降伏条項実施のため、最高司令官の要求することあるべき命令を発することを命ずるものとす。
[#ここで字下げ終わり]

[#折り返し2行目から1字下げ]
私「どういうことなのかな、これは」
彼「読めば分るだろう。四国の回答さ」
私「いや、それは分るけれど……こちら側の条件を呑んだことになるのかな、これは。それとも間接的な拒絶なのか。――しかし、降伏の時より天皇の権限が連合国の制限の下に置かれる、ということは……」
彼「そうだ。残る、ということなんだよ。天皇が残るんだ。そして、ここを読めよ。天皇は一切の軍隊に戦闘行為の中止を命令すべし、とあるだろう」
私「ということは――」
彼「ということは、天皇が自らの名の下に戦後処理を行なうということなんだ。こんなふざけた話があるかい? 天皇はその命ばかりかその地位までも保障されて、連合国のエイジェントとして我々に終戦を命令するんだ。ヒットラーは滅んだ、ムッソリーニも滅んだ、だが日本は敗れても、天皇は残る。何も変らない。すべての大本が元のままだからだ」
[#ここで字下げ終わり]

 穂積一作の片目が、不吉に燃えていた。私は、四国回答はまだ不明確な点が在るのではないかと言った。それに答えて彼は、軍部と外務省でも見解が分れていること、軍はこれでは国体の破滅だとして再照会を主張していること、しかし外務省は天皇への干渉の意図なしと解釈していること、そしてその解釈に沿って、明十四日にも終戦の宣言が発せられようとしていることなどを語った。
[#折り返し2行目から1字下げ]
彼「なあ、考えてもみろよ。帝国議会の開会式のたびに今ヤ戦局重大ナリ宜シク億兆一心益々国力ヲ増強シ敵国ノ非望ヲ破砕スヘシ≠ニ言ったのは誰だった?
そして、その言葉の権威を笠に着た上下の道中が、この乱痴気騒ぎを進めて来たんだ。だから、それ[#「それ」に傍点]が生き残るということは、それの権威を笠に着てきた連中が生き残るということなんだ。はは、ひどい国だよ。この国は。……せめて、本土決戦でも始まっていればな――」
私「本土決戦?」
彼「そうさ、本土決戦で国土が蹂躙され、そして国土と同じようにこの国の大本が蹂躙されたその上で敗けるのならば、少しは違ってくると思うがな」
私「少しおかしくないかな」
[#ここで字下げ終わり]

 ――少しおかしくないかな、それは、と私は整理のつかないままに言った。風鈴が外で、ひとつ鳴った。ああ、彼が初めてT町の私の下宿屋へやって来たときにも、西日の中でこのように風鈴が鳴ったな、と私は不思議に懐かしい気持で想った。
 ――反対かい、本土決戦に、と穂積一作は疲労した声で言った。
 飛躍があると思うな――と私は、考えをまとめるようにゆっくりと喋り出した――日本の敗戦は一日でも早くなければならない、そのために我々は工作を始めたはずではないか。そして、我々の工作がどれほど寄与したかは知れないけれど、ともかく日本は一両日中に降伏するという。この降伏を一番喜ぶのは東亜の人たちではないかな。そして日本の罪もないひとびとも第三の原子爆弾で死なずにすむ。これは連合国の勝利であると共に、我々の勝利でもあると思うね。それを、本土決戦が必要だと言い出すのは、飛躍が過ぎるね。
 ――そうかな。いや、その前に、きみはいま日本の罪もないひとびととか言ったな。本当にそう考えているのか? 日本の民衆は罪がないのかい? えっ? 南京陥落だと言っては提燈行列をし、チャンコロの首を頼むぞと言っては兵隊を送り出し、そして戦争のおかげで獲得した卑小な権力や猥褻な熱狂を自らの本質としていい気になってきた連中――その連中が、いつから罪もないひとびと≠ノなったんだい? いや、それはまた後にして、本題を話そう。なるほど、我々三人は、日本の一日も早い敗戦のために闘った。しかしそれは、日本の上から下までの支配秩序を倒すためであって、その支配秩序を残したまま単に戦争だけを終らせるためではないはずじゃないか。そうではないかい?
 ……奇妙な論争にひきずり込まれているな、と私は思った。日本の敗戦が決まったとしても、私にはいかなる感激もなく、私の心の奥に棲む暗い情念は少しも解放されてはいなかった。否、むしろ私の心は、さらなる破壊、惨劇につぐ惨劇を欲しているように思えた。帝都に第三の新型爆弾が炸裂し、炎と熱と黒い風の壮絶な地獄絵を見ることができるならば、私はその灼熱のなかで死んでも良いとさえ思えた。私は、私の背後の柱に掛けられている黒と赤の焔のことを思った。だから「日本の罪もないひとびと云々」という言葉は、私の舌の上に空々しく乗せられたのであって、その空々しさを穂積一作は素早く見抜いたのにちがいなかった。しかし――
 しかし、そのような心の暗い傾斜とは別に、私の口元には名状しがたい反抗が生まれ、そこからは勝手に穂積一作への反駁の言葉が洩れ出ていった。
 ――支配秩序は元のままだというが、そうだろうか。なるほど連合国は天皇をして終戦工作に当らせるようなことを言っている。だが役目が終れば、連合国はやるべきことをやるさ。日本の民衆だって(と私はまた空々しい言葉を使った)そういつまでも馬鹿のままではない。急速に変わると思うね。そのためには、日本の敗戦は一日でも早い方がいいではないか。
 ――分っていないようだな。
 ――何が。
 ――本土決戦がどうしても、いや絶対にと言ってもいい……必要だということさ。
 ――まるで陸軍の連中の言うことと同じようだ。
 ――ふむ、きみは芸術家の想像力を持っていたのではなかったのか?……
 それから、長い沈黙が流れた。或いは、それほど長い時間ではなかったかも知れない。さらに幾つかの言葉の応酬があったようにも思えるが、既に私の記憶からは失なわれている。ただ戦争が終ると思うと、妙にするすると力が萎えて、内側にぽっかりと空洞があいたような感じをかかえこんでいたことだけは憶えている。心の奥の暗い炎はまだ消されていなかったが、名状しがたい空虚さが、既に私の全身を支配していた。今から考えれば、私は一枚の焔の「絵」を描き終ることによって、私の戦争を終らせてしまったのかも知れない。或いは、私の青春が果てたそのときに、たちまちのうちに私の人生も終らせてしまったと言うべきであろうか――。
 地の底まで更けた夜のなかで、すでに秋の虫たちが鳴きはじめていた。窓につるされた簾が揺れた。あとは余生になるかも知れないな、と私はそのとき思った。余生であるとすれば、何という長く無意味な時間がこれから始まろうとしているのであろうか。……
 去り去りて吾が楽しみを独りせんというところだな、と穂積一作はいつもの皮肉な笑いを口元に戻して言った。そして、もう一度じっと私をみつめて、付け加えた。

 ≪今日からは、俺ひとりがパルチザンだ≫

 その夜、穂積一作は、最後にひとつだけ残されていた第拾号のブリキカンを持ち帰った。付け加えておけば、彼はそのほかにもう一つのものを私に所望した。それは一組のレコード盤――フランクの「前奏曲、コラールとフーガ」だった。空爆の幾夜かを私の部屋のなかで回りつづけていたそのレコード盤を、私は短かった友情のしるしででもあるかのように、彼に捧げた。そして最後に、〈影男〉はどう考えているのかという私の問に、彼はもう一度、≪今日からは、俺ひとりがパルチザンだ≫と答えた。
 彼が去ったあとの部屋に、私はひとり取り残されて横になった。畳の下に隠されていたものはすべてなくなった。上げたままの畳と切り取られた床板の所から、黒い空洞がぽっかりと広がっていた。私の絵が、柱の上からその空洞を見おろしていた。……本土決戦は起こらぬだろう、この国は元のままだろう、と私はひとり横になって思った。そう思うと、柱の絵は間近に赤を濃くしながら、一本の炎となって柱を燃えあがらせ、この国を根本《ねもと》から焼き尽そうとするかのように火勢を広げていった。……

 さて、この八月十三日の晩から、私は穂積一作の消息を知らない。だから以下に書かれた穂積一作の行動は、もっぱら私の想像力が創りあげた空想、一篇の伝説であるにすぎない。だが私は、これから記される伝説が、ほとんど事実の世界と溶け合っていることを深く確信している。いかなる伝説も、常にそれが現実に流された血をもって書かれたればこそ、絶えることなく語り継がれて行くのではないか。あたかも、かつての私たち三人の戦いが私の焔の絵となって現れたように、ただひとりのパルチザンとなった穂積一作の最後の戦いの伝説は、いまこそ私からあなたたちへ――穂積一作の妻、そしてその息子たちへ――語り伝えられなければならない。

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 ≪一九四五年八月十四日の伝説≫
 記者が行動を開始したのは、八月十四日の早朝だった。彼の肩に掛けられた革鞄の中には、「第拾号」と書かれたブリキカンが入れられてあった。
 八月の夜明けは首筋に冷んやりとした。やがて鳥たちが騒ぎ始め、暑い陽が昇り、蝉たちが樹木という樹木からその最後の二日を啼き尽すのにちがいなかった。気怠い真昼が廻り、天空が廻り、まだ熱をもった西日が広々とひろがっている焼跡に落ち、夜が訪れ、そしてもう一度陽が昇るまでに、鞄のなかのブリキカンはその最後の標的に向かって投ぜられなければならなかった。――次の太陽が昇ってからでは遅すぎる、記者はそう決意していた。そして、爽やかに投ぜられたブリキカンの烈しい炸裂音ののちに、秋は突如として訪れねばならなかった。
 記者が行動を開始するのに合わせたかのように、米軍は夜明けの帝都に数万枚の伝単を撒き散らした。「日本の皆様」と題された伝単は、こう呼びかけていた。
「私共は本日皆様に爆弾を投下するために来たのではありません。お国の政府が申込んだ降伏条件とアメリカ・イギリス・支那並びにソビエット連邦を代表してアメリカ政府が送りました回答を皆様にお知らせするために、このビラを投下します」
 事態は急を告げていた。米国にとってみれば、日本の降伏は一日でも否半日でも早くなければならなかった。なぜならそれが半日遅れるならば、満州のソ連軍は百キロメートルの単位でその機甲部隊の無限軌道を南下させるにちがいなかったから――。夏の朝、最後の時を告げる鐘の音のように帝都に舞い降りた夥しい伝単は、やがて目醒める東京市民を慌てさせ、それ以上に日本国政府を慌てさせるのにちがいなかった。
 午前中、記者は社内で情報を漁った。ブリキカンのはいった肩掛鞄は、彼の机の足元に置かれた。昼番の記者たちがまだ出社してこない社内で、彼はまず特高関係の情報を調べた。なぜなら、この汚れた犬たちの集団――軍よりもはるかに忠実に支配者の欲する秩序を造りあげてきた残忍で臆病な犬たちの集団――は、この最後の時に臨んで、本能的ともいえる嗅覚の鋭さで、終戦≠嗅ぎ付け、その後にくる秩序を既に準備しているのにちがいなかったから――。
 数日前から、警察関係の情報は増大しはじめていた。丁度大地震の先ぶれに森の獣たちが狂おしい叫びをあげるように、彼らは危機の予兆のなかで夥しい文書を日本国中に散乱させていた。
 八月十日[#「八月十日」に傍点]の正午に発せられた特高情報八十五号の暗号電報の写しは、「直ちに措置すべき事項」として次の四項目をあげている。
 一、右翼尖鋭分子に在りてはテロ行為に出ずる慮れ在るをもつて要路顕官等の警護を厳重にすると共に、この種分子の所在を常に明らかにし、その上京等の際には事前に通報をなし、これを未然に防止し遺憾なきを期すること。
 二、要非常措置者の視察内偵中の容疑者(反戦平和分子、左翼、内鮮、宗教)に対しては情勢の推移に応じ直ちに非常措置を完了し得るやう万全の具体的準備をなすこと。
 三、朝鮮人並びに華人労務者の集団稼動の場所に対して警戒を強化し、不穏策動の防止に努むること。
 四、海港警備を強化し、不穏分子の潜入連絡の防止に努むること。
――八月十日正午といえば、日本政府がポツダム宣言条件付受諾の電報を発したのち、わずか五時間ほどの時刻である。このとき軍はといえば、相変らず「たとい草を喰み土をかじり野に伏すとも断じて戦う所死中自ら活あるを信ず」というような浪漫的なことを言っていたにすぎない。――なんという立ち上りの早さだろう、と記者は改めて舌を巻いた。特高の犬たちは前日のソ連参戦をはっきりと踏まえ、一気に「終戦秩序」ともいうべきものの創出に向けて走り出していたのだった。彼らの四項目に亘《わた》る警戒対象は十分に的確であるのにちがいなかった。なかでも、朝鮮人と華人への警戒がひときわ注目された。
 ――なるほど、これは大震災のときに訓練ずみかも知れんな、と記者はまだ静やかな社内でひとり想った。奴らにとっては、今回のことは震災と同じ自然現象にしかすぎないのだ。治安さえ保つことができれば、支配秩序は安定したままだ――
 さらに同日の特高情報八十六号は、「治安上留意すべき事項は次の如し」として、詳細に左翼や朝鮮人への警戒を述べていたが、その冒頭第一項は次の如きものであった。

 一、戦争責任者に対し非難その他軍官民離間の虞れある言動に対しては、これが抑圧に万全を期せられたし。

 ここには、状況の動きに最も鋭敏な目と耳と口をもった者がいる、と記者は感じた。なるほどこのまま天皇によって「終戦」が宣せられるならば、日本国民はこの特高が創り出す秩序に従って、敗戦をめぐる混乱と爆発をすり抜けながら、旧来の関係を回復させていくのにちがいなかった。≪天皇≫と≪特高≫、最も聖なるものと最も下衆なるもの、このシャム双生児の姿をもった怪物は、その四本の脚をもって崩れゆく国を支えきろうとしているようだった。
 ――あと半年戦争が延びれば、本土決戦さえ開始されれば、という想いが再び強く記者をとらえた。
 彼は情報文をめくる手を休めて、過ぎ去った一年間のことを――三人だけのパルチザン闘争が始められかつ終っていったこの一年間のことを、振り返った。彼らの爆弾がひとつひとつ炸裂していくのに促されるかのように、下層民衆を中心としたこの国の社会的混乱は、僅かずつ水面に浮かびあがってきたところだった。勿論、相も変らず政府と軍の提燈を持って、野蛮な号令をかけることに卑小な情熱を燃やしている連中はいる。しかしその一方で、無名のそして無数の窃盗者たちによる食糧と貨幣の略奪は激化し、下層の上層に対する、貧者の富者に対する敵意と破壊は目に見えるものとなり、軍規はその末端からようやく緩み始め、そして夥しい流言と蜚語は、官憲の耳元を掠めながら日常的に飛びかい始めていたのだった。この無秩序、この聖なる混乱の中からこそ、敗戦≠ヘ産み落されねばならなかったのである。――あと半年だけでも戦争が続けば、と記者はもう一度想った。あと半年戦争が続けば、この国は第一次大戦後のドイツがそうであったような炎と可能性で彩られた日々を迎えることができるかも知れない……
 彼が焦燥だけを昂まらせているうちに、社には記者たちがぽつりぽつりと集まり始めていた。情報の流れが、眼を醒したように動き出した。
 米軍上陸船団が関東近海にまで来ているという噂が、相当根強く広がっていた。しかしその噂を辿ってみると、根拠らしいものは何一つ現れてこなかった。全体の情勢に照らしてみても、上陸船団の接近ということはまず考えられなかった。だが、それにもかかわらず、噂はかなりの真実味をもって軍の上層部にまで波及しているらしかった。というのは、軍の幾つもの機関から、警備憲兵や衛兵が集団逃亡したという情報が流れてきたからである。独自の相互情報網を持っている憲兵たちは、いったん噂が流れ始めるや否や、臆病な鼠の如き恐怖の連鎖反応をひきおこしたのにちがいなかった。市ヶ谷台の憲兵が恐慌状態に陥って収拾がとれなくなっているというニュースも伝わって来た。憲兵たちは目前の国の崩落に直面して、自分たちが何を行なってきたのかということを突如として自覚したわけである。敵の上陸の噂だけでこれだけの恐慌状態がもたらされるのであるから、まことの上陸となれば軍組織は一挙に瓦解し、そこにはヴェールを取り払われたように、素裸の飢えた人民が立っていることになるのにちがいなかった。――
 午前十時すぎ、大ニュースが社に飛びこんできた。十時から閣議が開かれることになっていたのだが、突如として御前会議に変更されたというのである。各大臣は取るものも取りあえず、首相官邸から宮中へ向かっているという。
 この緊急の御前会議は、和平派の先倒攻撃――つまり阿南陸相など抗戦派に対する天皇をはじめとする和平派の先制攻撃――であるのにちがいなかった。おそらくこれが最後の御前会議となるだろうというのが、社内の支配的な意見だった。早朝に米軍機から投下された大量の伝単を前に、和平派は一刻の猶予も許されぬことを悟ったのであろう。降伏でもない抗戦でもないという状態をこのまま続けることは、一方で国民の動揺と無政府状態を発生させるとともに、他方で抗戦派によるクーデターに時を貸すことになるだろうことは、火を見るよりもあきらかだった。そして、抗戦派がたとえ部分的であっても権力を掌握するならば、連合国軍は雪崩の如く四方からこの島国に押し寄せ、旧来のもののいっさいをその根本《ねもと》から打ち砕くのにちがいなかった。宮中とその側近は、自分たちの危機を間近に見てとるや否や、二千年来の自己保身の本能にかりたてられ、驚くべき機敏さで行動したといわねばならない。おそらく天皇は詔勅をもって終戦を宣言することとなるだろうが、それは今夜にも有り得るのにちがいなかった。開戦が青天の霹靂であった如くに、終戦もまた国民への奇襲であらねばならなかった――。
 奥深い森の中に在る宮中には、一〇〇メートルを越える長い地下道が掘られ、その地下道の奥に天皇のための防空壕が在るという話を、記者は聞いたことがあった。今頃はきっとその長い地下道の中を、幾人もの重臣たちが首筋の汗を気にしながら、足早に地底へと向かっているのにちがいなかった。そして、その地下道の奥の暗い穴倉の突きあたりには、巨大な紋章を付けた金屏風を背にして、地の底の大王の如くに、一人の男が座しているのにちがいないのだった。
 ≪そこへ行かねばならない≫
 記者は机の下に置かれた鞄を靴の先で確かめながら、そう考えた。東亜の大地という大地、海という海を屍でいっぱいにし、なおかつこの国の敗戦に当って自ら生きのびようとしている男、地の底の王・或いはあの男に向けて、それ[#「それ」に傍点]は投ぜられねばならない。――
「陛下はやはり、防空壕の中においでになるのかね」
 記者は、御前会議の話をしていた横の同僚に向かって尋ねた。
「ああ、何でも深い壕が掘ってあるという話だ。地下道はまるで鉱山か何かのようだという噂だな」
「お出ましになることはないのかね」
「さあ、どうだかな、夜はそこでお休みになるのじゃないかな」
「昼は?」
「昼はお出ましになることもあるだろう。日陰の萌でもあるまいしな……。宮殿が焼けたあと、何でも御文庫という石造りの建物の中においでになるらしい」
 同僚は確信もなさそうにそう言うと、彼に煙草をすすめた。宮中の様子に詳しいといわれているこの男がこの程度では、他の記者には何も期待できなかった。彼は宮城の地図を想い浮かべた。……二重橋を渡れば警備司令部に突きあたり、そのすぐ右手には宮内省の大きな建物がある。宮内省からさらに奥に進めば小高くなった紅葉山があり、さらに幾つかの堀を越えれば、先日爆撃で炎上した吹上御所に行きあたる。その先はもう千鳥ヶ淵だ。
 天皇の居る壕へとつづく地下道は、宮内省の建物の奥か、或いはもっと奥の吹上御所のあたりから掘られているかと考えられたが、その孰れにしても、堅牢な石垣を越えての侵入は極めて絶望的であるように思われるのだった。――
 正午を廻った頃、首相官邸付の記者から速報がもたらされた。たった今記者会見があって、情報局総裁から御前会議での決定が発表されたというのだ。聖断によってポツダム宣言受諾が改めて決定されたこと、国体護持には自信があると天皇が語ったこと、詔勅の準備が始まったということ、天皇自らがマイクロホンに向かって国民に直接呼びかけを行なうということ、その放送は今晩にも為されるであろうこと――それらのニュースに、社内はぎわめきたった。
 速い動きだった。一目散とはこのことだな、と記者は思った。今晩ラジオ放送があるというのであれば、勿論その前にカタをつけねばならない。あの男の呼びかけさえなければ、敗戦という神国に有り得べからざる事態を前にして、軍は一定の混乱に陥るだろう。軍が混乱し、そして混乱が長引けば、それは民衆にも伝播して行く……。
「阿南陸相は立たぬでしょうか――」
 彼は反骨で知られる長老の記者の所へ行って話しかけた。
「うん、僕もそれを考えていた所だ――と白髪の美しい長老の記者は青年の言葉で言った――御前会議の決定だといっても、厳密に考えれば御前会議というのは別に正式の政府機関ではないからな。正式の決定になるためには閣議が必要だ。その閣議の席で、もし阿南が辞任してしまえばどうなるか、内閣は倒れたことになって、手続き的には終戦は出来ないことになる――」
「ふむ。しかし……」
「そう、阿南は立たぬだろうな。ただ――」
「ただ?」
「阿南は立たぬにしても、若手の元気な奴らがどうなるか分らん。阿南が奴らを止めるかどうかだが」
 …………………………………………………………………………………………
 熱い真昼が訪れた。
 盛夏の昼は、どこか死に似た所がある。太陽が中天を動かなくなると、いっときすべてが死に絶えたような静寂が世界を包み、ただかそやかな風だけが、街路や、建物の間を動いていることがある……。すべてが滅び去って行くような、さらさらとした時間の流れだった。このような静謐な時間が確か自分の幼年時代にもあったなと、記者はぼんやりと想った。
 窓から見渡す限りの焼跡のなかで、それでも蝉が、この国の最後の夏を啼いていた。目眩《めくるめ》く炎天が、すべての過去を吸い込んでいくような速さで輝いていた。すべてが遠くはるばるとしていた。
 しかし、情勢は大きく動こうとしていた。そしてそれが非現実的なもののように、記者には感じられた。宮中では閣議が開かれているはずだったが、社内は新しいニュースがはいらぬまま、あたかも午睡の時間ででもあるかのように、奇妙に安らかな静けさが支配していた。
 そのようななかで、記者は熱心に電話の呼出しを続けていた。電話の先は、近衛師団第二歩兵連隊のM大尉――しかし近衛師団への電話はなかなか繋がらなかった。何度目かで出た師団の交換手は、長い時間ののちM大尉の不在を告げた。戻られた場合は至急連絡されたいと、記者はそれだけを頼んだ。
 窓の外を見ると、焼跡に点々としたトタン屋根が眩しかった。ようやく傾きかけた日差のなかで、サイレンも鳴ることのない午後はどこまでも静寂だった。海のようだな、と穂積一作は想った。以前上海へ航海したときの、亜熱帯の海の眩しさが急に眼に浮かんだ。熱く灼けた甲板に出ると、昼下りの海はどこまでも蒼く、間近に通りすぎる珊瑚礁の小島が、純白の無人の砂浜を激しく輝かせていた。濃い密林で覆われた小島の一つは、葬いでも出たのであろうか、旗のようにみえる黒い布を草葺き小屋の屋根の上に翻らせていた。海面には飛魚が光の精のように跳ね、その上を夏の風だけが渡っていた。……あのときと同じ広々とした静寂が、帝都の焼跡を支配していた。
 閣議の模様が、断片的にそしてゆっくりと社内に流れ込んできた。窓のあたりでわずかに風が動いて、記者の疲れた頬を撫でた。幾重もの堀と石垣に囲まれた宮城の地図を頭の片隅に描きながら、彼はかすかにまどろんだ。……
 電話を知らせる声が記者の耳にはいったのは、ほとんど夕刻近くだった。M大尉の太い声が、雑音の多い受話器のなかから聞こえてきた。妙に緊張した調子で別れの言葉を述べようとするM大尉の声を制して、記者は、ともかく会いたいのだと言った。M大尉の声はしばらく躊躇したのち、まだ一時間ほどは連隊本部に居ること、そこでなら会えることを伝えて、切れた。
 記者は数少なくなった社の自動車に飛び込んだ。大きな肩掛鞄は彼の膝の上に置かれた。彼はそれを、まるで遺骨の包みでも抱くように、両手でしっかりと押さえた。左の腕には「報道 A新聞社」と染め抜かれた臙脂色の腕章が付けられていた。

 ……連隊の応接室に通された記者は、警備の兵からしばらく待つように言渡された。兵が音を立てて扉を締めて出ていくと、四つの椅子と一つのテーブルだけしかない薄暗い応接室のなかには、彼だけが取り残された。窓は締められたままだった。空気が濁っていた。首筋から吹き出してくる汗をぬぐおうとしたが、ズボンのポケットのなかは空だった。彼は仕方なく手の甲を首筋に当てた。そして、膝の上の鞄をゆっくりと椅子の足元に置いて、M大尉を待った。
 時が過ぎた。外は火点《ひともし》ころのはずだったが、応接室のなかは既に森のように暗くなろうとしていた。五分が半時間に、十分が一時《いっとき》にも感じられた。記者は陰気な応接室の壁に浮き出た汚れやしみ[#「しみ」に傍点]をじっと見つめていた。正面の壁の左手の方に始まった亀裂は、緩く下降しながら床にまでつながっていた。そうして壁を見つめていると、彼の片眼は奇妙に遠近を失なっていくのだった。壁はふいと現実感をすり落したかと思うと、薄い膜をかけられたように何か遠い感じのものとなり、やがて細かな霧となって流れ始めた。それは霧のかかった白い海のようでもあり、風に流れていく砂のようでもあり、また、夥しい白い蝶たちの出生の図の如くでもあった。ただ世界が無闇に白っぽくかすんで、寒々しかった。ああ、これはどこかで出会ったことのある風景だな(と彼は遠いところで思った)。
 扉が押し開かれてM大尉のずんぐりとした体が現れたのは、大分時がたってからだった。
「待たせました。元気でありますか」
 M大尉はそう言って、椅子に太い腰を下した。拳固をつくった二つの手が、いかにも軍人らしく両膝の上で威を正していた。農民らしい眼は変りなかったが、頬は激しい疲労と緊張をあらわにしていた。
「頼みがある」
 記者は一挙に切り出した。
「君たち若手将校の国を想う気持、陛下を想う気持には感服している。そして、君たちがいま未曾有の国難に際して大義の導く所により重臣たちの奸佞から神州を守らんとし、わが不滅の国体を守らんとしていることも伝え聞いている。しかるに、重臣たちは既に畏れ多くも終戦詔書の御放送の準備を進めているというではないか。重臣たちがたとえどのような決定を下していようとも、畏れ多くも陛下にあらせられては、また阿南閣下にあらせられては、その御心の底では国を売らんとするようなことに賛成されていないはずである。私が今日ここに来た理由を言おう――それは君たちのまことの国を想う気持、そして君たちが必ずや陛下を奉って大楠公の故事ゆかしく立ち上る姿を、広く億兆国民に知らせんがためである。億兆国民は君たちの志あるを知るや、必ずや二千余年になんなんとする不滅の国体を護持せんがため君たちと共に立つであろう。君たち将兵の使命は重い。そして私もまた死を厭わぬ従軍記者として郷土の誉れに輝くべくここへやって来た。M大尉、君に頼みたいことは、私が君たちと行動を共にすることだ」
 そこまで一気に語り終えると、記者は荒い呼吸を抑えるようにじっと相手を見据えた。この男が噂される叛乱計画の同調者であるかどうか、さらに叛乱計画そのものがこの段階で存在しているのかどうかさえ、定かではなかった。だがその可能性に賭けないならば、もはや何に賭けよというのか。暗がりのなかでM大尉の目がわずかに揺れ、何か言おうとする唇に感激の色が浮かび上ってくるのを、記者の片目は見逃さなかった。当った! と彼は思った。やはり、やろうとしているのだ、こいつらは手負いの獣のように、やはり最後まで血しぶきをあげて突き進む気だ――。
「すぐ来ます。待っていて下さい」――M大尉はそう言い残して、慌しく応接室を出て行った。もはや闇となった部屋のなかで、記者は立ち上って壁のスイッチをさぐった。天井から垂れ下った二十燭ほどの電球が黄色く点った。風のはいらぬ部屋のなかで、その電球の光線は少し饐《す》えた匂いがするようだと、彼は思った。
 再び扉が開かれるのに長い時間はかからなかった。M大尉と、そしてもう一人の将校が現れた。
「こちらは軍務課のH少佐」
 M大尉がそう言って紹介した男は、記者よりもわずかに年長かと思える長身の男だった。陸軍省の軍務課員か、ほとんど中枢に辿り着いたわけだ――記者はそう考えながら、椅子から立ってじっと相手を見つめた。相手が必死であるならば、こちらもそれに括抗しなければならぬ。一段優位に立ったうえで、むしろ向こうから従軍≠懇願させねばならぬ――。
 H少佐の瞳は何か直截的な憎しみともいうべきもので燃え立っていた。まだ青年らしさの残る頬の線に、この数日の激動を思わせる疲労が黒い翳をつくっていた。引締まった口元は、軍人のなかにも稀に見かけることのある育ちの良さを表わしていた。
「われわれと行動を共になされれば、残念ながら生命の保証はできない」
 H少佐がまず口を開いた。記者は相手の眼をとらえたまま答えた。もとより自分の命ひとつは陛下に捧げてある。国体を護持することができるならば、自分の命ひとつが何であろう。……
 言葉が進んでいくにつれて、H少佐の眼がすうっと優しくなっていくのを、記者は見定めた。ああ、この男は、軍服を脱がせればおやま[#「おやま」に傍点]のように優しい男かも知れない――
「従軍をお願いしましょう。あなたの書かれる記事は悠久の大義を国民に知らしめるでしょう」
 H少佐は一礼すると自動人形のように踵を返した。M大尉もそれに付き従った。だが、H少佐は扉の所でもう一度振り返ると、記者の足下にすっと視線を落した。――この黄色い光の応接室のなかで、茶色の大きな鞄は、何に見えるだろうか。鞄の中からブリキカンを取り出して見せてやりたいという激しい衝動に、記者は駆られた。長い幾秒かが過ぎた。H少佐はゆっくりと視線を上げて記者を見つめた。その口元がかすかな笑いを浮かべていた。
 二人が出て行くと、記者はひどい熱のある病人のように椅子に腰を下した。喉が竹のように渇《かわ》いていた。悪寒が背筋を走った。十年以上も前に自らの手で潰した片方の目が、急に激しく痛み出したようであった。二十燭の電球が、病んだ月のように天井に浮かんでいた。――この部屋はゴッホの黄色い部屋に似ているな、と彼は烈しい脱力感のなかで思った。……
 夜になった。記者はまだ応接室に取り残されたままだった。やがて遅い夕食が供された。飯と吸物と、それに肉を煮つけたようなものを、彼は一人で食った。
 しばらくしてM大尉が姿を見せた。H少佐が東部軍管区司令官の直接の指示の下に行動していること、陸相は勿論自分たちの企図に賛成していることなどを、M大尉は語った。近衛師団第二連隊の第三大隊は、既に第一大隊と共に宮城内にはいり、要所を固めているということだった。第三大隊は第二連隊長自らが率いているらしかった。連隊は三つの大隊より成り立っているが、普段であればそのうちの一大隊だけが宮城警備に当っているわけであるから、二つの大隊が宮城内にはいっているとすれば、既に叛乱は動きはじめているといってよかった。
 記者が新聞社に連絡を取っておきたいというと、M大尉は今話したことの口止めをした上、別の部屋に記者を案内した。廊下にはゲートルを巻いた大勢の兵士が往来《いきき》していた。天皇を警備する軍隊が天皇の仕組んだ終戦工作に敵対しようとしている――この皮肉のなかに最後の可能性を見出すしかないのだ。記者は激しく心が湧き立つのを覚えた。
 彼は社から簡潔に情報をもとめた。電話口に出た長老の記者の話によれば、天皇の録音は既に開始されているらしかった。それは、明十五日の正午に全国へ放送されるということだった。朝刊はそれまで差止めだろうな、と長老の記者は言った。ともかく今晩からは、空襲とはオサラバ[#「オサラバ」に傍点]して枕を高くして眠れるわけだ――。電話はそれで終った。最後の言葉が妙に生々しく記者の耳に残った。そうか、終戦と決まればもう空襲はないわけか……懐かしいような、焦れるような気持が不意に記者を襲った。……

 だが、深夜零時、東部軍管区全域に空襲警報が発令された。最後の夜を謳うかのように、サイレンが夏の夜の底に狂おしく広がった。
 そのサイレンの叫びが交錯するなかを、記者らを乗せた二台の車は、宮城の冥い森へとはいって行った。記者の車には、M大尉のほかに二名の将校が乗り込んでいた。前を行く車には、この叛乱の指導者と目されるH少佐が乗っているのにちがいなかった。
 二台の車のはいったのを合図とするかのように、宮城のすべての入口は武装した兵士によって閉鎖された。電話線はことごとく切断された。宮城は銃口を外に向け、あたかも黒い巨大なトーチカと化していくかの如く思われた。
 記者がM大尉から待機を言い渡されたのは、宮内省の建物を前に臨んだ警備司令部内の一室だった。記者は胸ポケットから煙草を取出した。燐寸を擦った手が激しく震えた。燐寸は灰皿をもとめず、床板の上に落されて死んでいった。どうせここも火の海となるのだ、と記者は思った。
 まもなく外が騒がしくなった。扉が開かれて、一人の兵が半紙を記者に突きつけた。それには「報道許可A新聞記者」と黒々と大書され、第二連隊長自らの署名と鮮やかな朱の公印が押されていた。M大尉が工面したものにちがいなかった。そしてこれさえあれば、もはや部屋の中に居る必要などあろうはずはなかった。――記者は半紙をズボンのポケットに突込むと、肩掛鞄をかついで扉を開けた。廊下を走って来る数人の兵とぶつかりそうになった。点呼を取る声が、深夜の森に響いていた。生暖かい外灯の光のなかを、十数人の兵が宮内省の方へ駈けて行くのが見えた。
 叛乱が、始まったのだった――。
 記者は、警備司令部をあとにして宮内省の裏手へと回った。多くの兵が行きかっていたが、彼の左腕に巻かれた腕章のためか、誰何されることはなかった。彼はズボンのポケットに手を入れて、半紙がしっかりと収められているのを確かめた。
 宮内省の建物は、こんもりとした植込を従えながら、幾つもの黄色い眼を持つ怪物の如くに、その巨大な姿を横たえていた。その黒い体のなかからは、兵隊たちの声や物を激しく動かす音などが聞こえてくるのだった。兵士たちは、玉音の音盤を奪取しようとしているのにちがいなかった。それさえ奪うことが出来れば、少なくとも明日の終戦宣言は単なるニュースとして伝わるにすぎなくなるだろう。そうなれば、海軍に比べてまだ無傷ともいえる陸軍の各部隊は、政府の終戦宣言など無視し、本土決戦を呼号しつつさらに大規模な叛乱に踏み込むことになるだろう。天皇と重臣たちの思惑に反して、戦争は実質的に継続されることとなるだろう。だが――記者は音盤の奪取にすべてを賭けるつもりはなかった。あの男を倒さねばならない、彼は肩の鞄の重さを計るようにしてそう思った。
 あの男は、宮内省から直線距離にして六〇〇メートルほど西に在る建物――堅牢な石造りの御文庫のなかに居るはずだった。記者は宮城の地図を想い浮かべた。ここから御文庫へ行くには、三通りの道筋があるはずであった。第一の道筋は、ここからさらに宮内省の裏手を辿って下道灌濠の北の先をかすめて行く太い道であり、第二の道筋は、それとは反対に下道灌濠の南端を迂回して行く道、そして第三の道筋は、以上の二本の太い道の中間に在るほとんど直線に近い細道であり、紅葉山のトンネルをくぐり抜けて濠にかけられた橋を渡って行くものだった。
 第一の道筋は最も分りやすいものであったが、これ以上宮内省の建物に近づいて行くのは危険が大きいように思えた。第二の道筋は半蔵門へ真直に続く道であるから、多くの兵隊と出会う可能性があった。第三の道筋は比較的安全なはずであったが、複雑な宮城内の細道と絡まり合っているため、下手をすると森の中に踏み迷う危険のあるのが欠点だった。
 しばらく考えた末、結局記者は第三の道筋を採ることにした。宮内省の建物を背中に追いやって、急に暗くなった細道を手さぐりするように辿っていくと、紅葉山のトンネルの入口に突当った。あっけないようだった。トンネルのなかに踏みこむと、前方の出口の方はほんのりと薄明りがさしていたが、周りは完全な闇であった。右手をトンネルの壁に押しつけながら、つまずかぬように進んで行かなければならなかった。足をひきずる音が、かそやかにトンネルのなかに響いた。まるで迷子の蠑※[#虫+原]《いもり》のようだな、と彼は思った。愛用していたドイツ製の懐中電灯を今日に限って忘れて来たのが、ひどく悔やまれた。
 長い時間かかってトンネルを脱けると、道は左に曲りながら緩い下り坂になっているようだった。綺麗に切揃えられた両側の灌木が、道の曲り加減を知らせていた。そのほかは脱け落ちたような闇だった。左腕の腕章さえ、暗さのなかに溶けこんで読むことができなかった。
 前方に白い服の二つの人影をみつけたのは、下道灌濠の橋の袂の少し明るくなった所だった。ホタル電灯の弱い光が、しきりと何かを話し合っているらしい二つの影を浮き立たせていた。二つの白い影は、まるで薄明のなかに咲いている淫靡な異国の花のように、橋の欄干にからまりあうような不思議な形で寄り添っていた。それが軍人ではないことを見定めた上で、記者は白い人影に近づいていった。
 彼の足音を間近に聞いて、白い影はほっとしたように二つに割れた。やはり、軍人ではなかった。
「そこで何をしておる」
 記者は、少し離れた闇のなかから強い口調で尋ねた。
「私どもは、侍従職のものでございます」
 左側の少し猫背の男が闇に向かって答えた。相当の年配ではあるが、ねっとりと艶を含んだねばりついてくるような声であった。
「そこで何をしておる」
 記者はもう一度繰りかえした。
 別に何も、と右側の若い男が言いかけたのを、年寄の方が制した――「御文庫に用事がございまして、これから参るところでございます」
 旅は道連れ――そんな言葉が滑稽にも記者の頭に浮かんだ。彼は、ゆっくりと闇のなかから姿を現わした。ホタル電灯の光の中に浮かんだ彼の腕章と、片目を隠す黒い眼帯を見て、若い方の侍従は驚きをかくそうとしなかった。年寄の侍従が、間延びしたような奇妙な礼を記者に与えた。額が降りはじめてから再び元の位置に戻るまでに、少なくとも十秒はかかっている……
「御文庫へ行くのなら、私も一緒に行こう」
 二人の侍従は無言のまま再びゆっくりと礼をすると、先に立って橋を渡りはじめた。道を照らすホタル電灯の弱々しい光が静やかに進んで行く二人の内股加減の足下を照らし出していた。なるほどこういう植物のような人間たちに囲まれながらあの男は生きているのか、と記者は思った。すると、ずっと彼の宮内省の建物のなかで蠢めいている夥しい兵隊たちの獣じみた汗の臭いが、背後から迫ってくるような気がした。
 濠は水が涸上って、所々に白く光る水溜りを残すのみだった。その上にかけられた橋の上を、白い服の二人は、音を立てぬ歩き方で進んで行った。橋を渡りきって再び細い道にはいると、黒々とした樹木の向こうに、御文庫の屋根の一部が鋭い武器のように待っているのが見えた。
 三人の兵に突然誰何されたのは、道が二手に分れている所だった。既に銃剣がかまえられていた。
「侍従職のものでございます」
 年寄の方が、先程記者に言ったのと同じ口調で繰りかえした。
 押黙っている三人の兵隊は、黙っていることによって「通れ」と言っているようであった。二人の侍従は深々と礼をすると、柔らかい動物のように兵隊の横をすり抜けて行った。だが、後につづこうとする記者に突きつけられたのは、いかにも凶暴な、ざらざらとした感じの銃剣の切っ先であった。
「報道の者だ」
 記者はそう言って、腕章の巻かれた左腕を見せるようにした。だが兵隊は何を思ったのか、その左腕を銃剣で払った。鈍い痛みが、腕を熱く走った。
「その御方も御文庫に参られます。陛下様に拝謁されたこともある御方でいらっしゃいます」
 年寄の侍従がこちらを向き直って言った。――まずいな、と記者は焼けるような痛みのなかで思った。あの男は今や叛乱軍の敵なのだ。あの男に通じているなどということは、昨日までならいざ知らず、今となっては危険人物の立派な紋章ではないか。この大事に何ということを言ってくれたのだろう。……背後の宮内省の建物の方で、何かが激しく壊されるような音がした。記者は、右手でズボンのポケットをさぐった。
 けれども――年若い兵隊たちにとっては、あの男の名はここに至っても絶対であったようだ。銃剣がずるずると下された。無言が闇を支配していた。記者はゆっくりと、三本の下を向いた銃剣の間を抜けて行った。御文庫までは一直線だった。堅牢な建物が目の前に在った。窓という窓には黒い鎧戸が降ろされ、それは夜のなかの巨大な墳墓の如くにも見えた。このとき、兵の一人が御文庫の方を振り返った。その兵の眼には、闇のなかを進んでいく侍従の二つの白い背中と、そして木立のなかへと駈け込んで行く若い記者の姿が映ったはずだ。御文庫の裏手で、鈍い爆発音が起こったのは、それからすぐのことだった。………………………………………………………………………………………
[#ここで字下げ終わり]
(伝説・終り)


 こうして私は、一九四五年八月十四日の伝説を――ただひとりのパルチザンたる穂積一作の八月十四日の戦いの伝説を語り終えたのであるが、その後の過程については既に知られているところであろう。
 青年将校たちによる叛乱の試みは、すべて失敗に終った。八月十五日の正午には、ひとり取り残された私の耳にも、あのラジオ放送が流れてきた。ラジオを聞き終えて家の外に出ると、目眩くような炎天だった。夏空に立ちのぼっていく積乱雲の稜線が、白々と輝いていた。その輝く純白を見つめつづけて、私は激しい眩暈と嘔吐におそわれた。……
 翌日、私は省線に乗って帝都の中心へ向かった。穂積一作の足跡を辿るかのように、私の不自由な歩みは宮城へ近づいて行った。
 そして――私が二重橋の広場で視たものは、広場の玉砂利の上にうずくまっている夥しい人間たちの異様な姿であった。夥しい男たちや女たちが、粗末な身なりのままに、異変を告げる虫たちの群れのようにうずくまっていた。不潔な啜泣の声や、叫びのようなものが、あたりに満ちみちていた。そして、この時、私は穂積一作が正しかったこと、彼の試みたことが唯一の正しい道であったことを、凛然として理解したのだった。
 ……それから、私が彼の消息を知るのは、数年ののちである。
 私が用事あってN町を訪れたとき、立て込んだ木造アパートの群れの奥から、あの旋律が聞こえて来た。「前奏曲、コラールとフーガ」――それが私に彼の消息を知らせることのきっかけとなったのであった。……私が知ったところによれば、その立て込んだ木造アパートの群れの奥の、「金箔荘」という名前のアパートに住んでいるのは、南方から復員して来た大井聖という名前の傷痍軍人と、その妻及び二人の子供だということであった。大井聖は、片方の手と片方の目を持っていなかった。そして、同じアパートの住人の話によれば、「戦争のショックで」彼は唖でもあるということだった。
 この片方の手と片方の目を失ない、その上言葉をも失なった男、この男こそかつての穂積一作にほかならないことを、私はただ一度だけその後姿を視ることによって確かめたのであるが、彼がどのようにして「大井聖」という名前を手に入れたかについては、全く定かではない。おそらくはあの敗戦の聖なる混乱のなかで、穂積一作は、スマトラかどこかのジャングルの奥で既に白骨となっている「大井聖」と入れ替わることによって、惨憺たる戦傷を受けた復員兵として、市井に身を隠すことに成功したのであろう。彼の失なわれた片腕は、言うまでもなく八月十四日の銃剣の傷、或いは爆風によるものであるのにちがいなかった。塩素酸加里の不足した第拾号のブリキカンが、彼の企図を無念にも不発に終らせたと同時に、皮肉にも彼の生命だけは守る役割を果したのである。
 さて――穂積一作のことはひとまず措くとして、一方〈影男〉がどうなったかというと、私はその行方を杳として知ることがない。日本国の敗戦を一日でも早めるべく、焼夷弾の雨のなかで私の製作した爆弾を次から次へと投擲していった男、昭和の鼠小僧ともいうべき天才的なあの行動者は、いったいどこへ消えたのであろうか? 訪れた「平和な時代」のなかで、再び天才的な貨幣の略奪者として、その腕を振っているのであろうか。それとも、この日本からは既に消えていってしまったのであろうか。――ただひとつ気になることは、私が穂積一作と最後に会った昭和二十年八月十三日の夜、穂積一作がただひとりのパルチザンたることを宣言したあの夜、〈影男〉も一緒なのかという私の質問に対して、彼が、今日からは自分一人がパルチザンだと断乎たる調子で答えたことである。そこには既に一つの境界を踏み越えた者の、鬼気迫る雰囲気が漂っていた。そして、これは全く私の想像にすぎないのであるが、あの夜既に穂積一作は、〈影男〉の死骸の上に立っていたのではあるまいか。彼は〈影の男〉の屍を重い背嚢のように背負って、彼の最後の戦いに、八月十四日の戦いに、出立したのではなかったろうか――。
 さらに私の想像の糸の先を自由に伸ばしていくことを許してもらえるならば、それは〈影の男〉の存在そのものにまで到達せざるを得ない。はたして〈影男〉は実在したのであろうか? 私の出会ったことのない昭和の鼠小僧は本当に存在したのであろうか。もし彼が実在しなかったとしたら、〈影男〉とは、実は穂積一作自身であったのではないか? 戦後一度だけ穂積一作の後姿を視たとき、私は彼にそのことを尋ねておくべきだったかも知れない。しかしそのとき私は、何か禁忌ででもあるかの如くに、旧き同志に声をかけることをしなかったのであり、そしてまた穂積一作が完全に私たちの前から姿を消した現在となっては、それはもはや確かめる術もない。
 そして、いよいよ最後の謎として残るのは大井聖と呼ばれていた男の妻――つまり私がこの手記を手渡そうとしているはかならぬあなたのことである。あなた方が住まっていた「金箔荘」の隣人の話によれば、大井聖の妻は、大井聖が南方から復員して来るのを待っていた[#「待っていた」に傍点]ということである。あなたが既にまことの大井聖なる男と結婚していたのであれば、いかに異形な姿となっていようとも、見知らぬはずの穂積一作を夫として即座に認めることなどあり得ようはずがない。またいかに戦時中とはいえ、顔も知らぬ相手と結婚しその復員を待っているというのも不自然である。だからあなたは、穂積一作がまことの大井聖とは別人であることを承知した上で、穂積一作との戦後の生活を開始したことになる。なぜあなたは穂積一作を大井聖として受け入れ、生活を共にしていったのか――ここでは再び想像の翼の助けを借りねばならない。
 まず一番に考えられることは、まことの大井聖とは実は〈影の男〉なのではないかということである。――つまり、〈影の男〉=大井聖は、配属された南方の前線を離脱して日本に密入し、穂積一作と私との三人のパルチザンに加わる。そして、八月十四日を前に〈影男〉がなにごとかによって地上から消えたのち、今度は満身創痍の穂積一作が、南方からの復員兵・大井聖と称してその妻のもとに帰還したというわけだ。そう考えるならば、既に事情を知っていたにちがいない〈影男〉の事は、穂積一作を自分の偽れる夫として迎え入れることもあり得たであろう。だが――先に私が思料したように――もしあの八月十四日の戦いに向かう過程において穂積一作が自らの手を〈影男〉の死骸と結びつけていたとするならば――もしそうであるならば、そこには何という暗澹たる世界が広がっていることであろう。その暗澹たる穴ぼこを前にして、私の想像は早くも萎えてしまう。自らの夫を殺害した男を新しい夫として迎える者が、ハムレットの母の如き恥知らずでないとするならば、その女性の胸にはいかなる深い企図が、いかなる暗い熱情が、秘められていたのであろうか?
 ――幾つもの謎を残したまま、私はこの手記を終えなければならない。穂積一作の血で書かれた憤怒の伝説の上に、この国はいま復興という名の荒々しい土木作業を進めつづけている。都市はますます巨大になり、夥しい光の群れが、国土の隅々までも照らし尽そうとしている。しかし私はその復興≠フなかにいかなる光明も視ることはできない。まことの敗戦を通過しなかった以上、この国のすべては元通りであり、新しい道を切り拓くことなど絶対にあり得ぬのである。
 私は、穂積一作の妻であったあなたとその二人の息子に、ひとつの歴史を伝えるために筆を執ったが、それは荒唐無稽な作り話、ありもしない夢のような伝説として葬られるかも知れない――。だが、ひとつの伝説が静やかに流れていく暗河の如くに時間を生きのび、時として地上の奔流となって現れ出でることもまた、あり得るのではなかろうか。
 戦後の復興≠フざわめきの底で、私はその暗河を流れる清列な水の瀬音を聞く。その絶えることなく続く音は、私に、あの暗くも輝かしい夜々のなかで聴いたフランクの調べを想い出させるのであるが――。

  第二の手紙

[#地から2字上げ]1982年6月

 兄さん。
 兄さんは南島のシャーマンのことを識っているだろうか。勿論、シャーマンというのは文化人類学が勝手に作り出した名前であり、この南島においては、彼女らは「ユタ」という美しい言葉で呼ばれているのだけれど――。
 南島には、それぞれの部落ごとにガジュマルの深い緑で覆われた御嶽《ウタキ》が在り、その御嶽を司る者としてノロ[#「ノロ」に傍点]と呼ばれる女性がいるのだが、そのノロ[#「ノロ」に傍点]が神女として、いわば島の神の正統をになっているとするならば、ユタ[#「ユタ」に傍点]は、名も知れぬ神に憑かれることによって、異端の巫女として島の共同体のなかに生きているのだ。だから、ノロ[#「ノロ」に傍点]が御嶽の儀式としての神事を行なうことを自らの役割としているのに対して、ユタ[#「ユタ」に傍点]は神がかりの状態を通じてのハンジ(判事)を行なうことを自らの役割とすることによって、もはや御嶽の儀式によっては包摂することのできないような島人の心の内奥とのつながりをもっている。もっとも、発生史的に考えるならば、ノロ[#「ノロ」に傍点]もユタ[#「ユタ」に傍点]も、彼女らの古代においては偉力をもった一個のシャーマンであり、それが一方は正統の儀式へ、他方は異端の神へと分化していったにすぎないわけだが、面白いことは、最近になってノロ[#「ノロ」に傍点]の役目が本質的にシャーマンの資質を持たない女性にも割当てられるようになってきたのに対して、ユタ[#「ユタ」に傍点]の方は依然として真正の神がかりを行なう女性に限られているという点だ。つまり、シャーマンになるような気風を持った女性――それは南島ではサーダカウマリ(性高生まれ)として畏れられかつ敬まわれているのだが――そのような女性には、いまやユタ[#「ユタ」に傍点]という異端の神への道のみが開かれているというわけだ。一九七二年の日本国による琉球諸島の併合は、琉球諸島にとっては歴史上のいかなる変化よりも大きなものであったと僕は考えているが、その日本国への併合以降、急速に浸入してくる商品の洪水と共同体の解体のなかで、御嶽がもはや島人の魂の場所とはなり得ず、したがってノロ[#「ノロ」に傍点]もまたその威厳を失なって、ちょうど本土の神社で赤い袴をつけて御御籤を売っているミコのようなアクセサリーに転落しようとしているのに対して、夥しい数のユタ[#「ユタ」に傍点]たちは、破壊されて粉々になっていった共同体の魂の憤りの如くに神がかりして、世界のいちばん昏い所において、その勢力を広げつづけているのだ。島の進歩派からは迷信俗信として嘲られ、既成宗教の側からは気狂いや乞食呼ばわりされながら――。
 さて、なぜ僕がこのようなことを書きつらねているかというと、それは兄さん、いま僕がはかならぬこの島のユタ[#「ユタ」に傍点]の一人と、同じ家に棲んでいるからにほかならない。
 そのユタは年の頃七十くらいかと思える桃李のような小さな頭をもった老婆なのだが、昔ながらの草葺き屋根の小屋に棲み、小屋の前にちいさな野菜畑を営みながら、あとはハンジに訪れる島人から受けとる米や魚類によって食をつないでいる。どこの孤島でもそうなのだが、食物というものは飢えずにいるくらいであればどこからともなく回ってくるものであり、共に棲んでいる僕の分くらいはどうにかなってしまうようだ。草葺きの小屋は二つの部屋に分れ、その一方には黒い布のかぶせられた小さな祭壇が置かれていて、その上には毎朝コップ一杯の水と、少量の飯が供えられる。そして、ハンジをもとめる島人がやって来ると、ユタは祭壇に向かって小さく正座し、訪れた者の話を背で聞きながら、ゆっくりとした神がかりの状態にはいっていくのだ。僕はといえば、そのハンジの際にはユタの助手≠フ如き役割をつとめるのが、ここへ来てからの習いとなっている。というのは、ユタは神がかりの状態にはいって行くと、腹の底から太い嗄れた声を出すようになり、そこにつむぎ出されてくる言葉を島人は聞きとらねばならないのだが、ほとんど呻り声に近い原《ウア》言語≠ニでもいうべきもののなかから、僕は島人よりもはるかに多くの言葉を聞き分け聞き取ることによって、それを島人に通訳≠オてやることができるからだ。これは、僕の昔からの旺盛な語学力に起因していることなのだが、このため僕は、この島に来てしばらくすると、ユタと一心同体の霊能者とでもいうべき地位を、島人のあいだで獲得したのだった。そしてこの僕の地位は、片手と片目を失なっている僕の異形な姿が大いに影響しているにちがいない……。
 ハンジの内容は、病気のこと、息子の結婚のこと、家の建替えのことなど様々なのだが、一僕が大いに感心させられるのは、ユタの言葉の内容が相当に深い人間的洞察力と、この島での生活への確信とでもいうべきものによって一貫されているということだった。
 たとえば一昨日、三十代半ばと思える女性がハンジをもとめに訪れて来たのだが、その女性の訴えは本土の工場で働いている弟のことで、弟がしきりに工場をやめて島に戻り漁夫をやりたいと言っている。しかし戻ってきても収入は不安定だし、結婚するにも娘は少ないし、やはり本土に居た方が良いように思えるが、といって弟の気持を大切にしたいとも思う、どうしたら良いだろうか、というようなことだった。これに対するユタの答えは――例によって腹の底からの呻り声を通して聞き取ることができたものだが――大体、次の如きものだった。……工場で働いている弟の体に災いが起きようとしている。あなたはいま子供を孕んでいるだろうが、実はその腹のなかの子供が、叔父の体を案じて悲しんでいるのだ。あなたとあなたの子の霊が弟に憑いて、弟を災いから救おうとしている。弟がしきりに帰りたいと言ってくるのは、子を孕んだあなたの霊がそう言わせているのだ……
 こういうことを、僕はその女性に通訳≠オてやったのだが、その女性は、ユタの口から発せられる「弟《ウトウガマ》の災い」「汝《ウワ》が霊の呼ぼう」という言葉を自らも聞き取るや否や、またたくまにしっかりとした表情にうつり変わり、別人かと思えるほど美しく見ひらかれた瞳でユタと僕に礼を言って、立ち去って行ったのだった。……
 もしもこの南島で僕がこのまま生活を続けて行くことができるとしたならば、このアダンとガジュマルの孤島、この草葺き小屋のなかでユタと一緒に生きて行くことができるとしたならば、僕はささやかな聖=sひじり》として、静やかな生活を送ることになるのかも知れない。
 ともかく、これが一九七〇年代後半のO市での大失敗から辿り着いた僕の《晩年》でもあるのだが、このような南島の日と夜のなかで、僕はいま死のうとしているのだ。

 兄さん。
 南島は既に梅雨にはいっている。ユタと僕の棲む草葺き小屋のまわりのジャングルは、熱を含んだ大量の薄緑色の雨によって塗りこめられ、そのなかで巨大な葉を垂らしたバナナの樹木が密集した果肉を驚くべき速さでふくらませて行き、僕たちに十分な食糧を与えてくれる。だがその奥の密林は、もはや植物と動物の境界を取りはらったような凄まじい繁殖力をもった生きものたちの支配する世界だ。海はといえば、それは僕の衰えてゆく視力のせいばかりではないのだが、来る日も来る日も白じらと煙って、晴れわたっているときよりもいっそうこの島が孤島であることを感じさせずにはおかない。白じらとした雨の渚には椰子の実や流木が打ち寄せられ、例えばひとつの椰子の実に顔を近づければ、ぶ厚い果皮の上に夥しい見知らぬ貝族が付着しているのを見ることができる。それらは椰子の実に浮かんだ美しいオレンジ色の文様のようであるのだが、微細なしかし凶暴な針をもって生きつづけてい、何ものかが少しでも近づけば、小さなオレンジ色のまぶたを一斉に開いて、鋭い毒針を同じ方向に突き出してくる。それらの美しい貝族に本気で触れてみるためには、ほとんど一週間にわたって膨れつづける指を持つ覚悟が必要とされるだろう――。
 さて、兄さん。
「S」という男から僕たちの母へ、母から僕へ、そして僕から兄さんへと渡っていったあの不思議な手記を、兄さんは既に読み終えていることと思うのだが、その手記が明らかにした、或いは明らかにしようとしたことの意味について、僕は改めて兄さんと確かめあいたいと思う。
 まず、僕たちの父の名が大井聖であり、かつ穂積一作であること、すなわちあの手記に書かれた穂積一作なる人物こそ一九五一年に消えた僕たちの父・大井聖にほかならないことについては、疑いの余地がないように思える。というのは、Sさんの所から穂積一作が「友情のしるしに」持ち帰ったと手記に書かれている一組のレコード盤――七八回転のフランクの「前奏曲、コラールとフーガ」――について、僕たちは[#「僕たちは」に傍点]聴き覚えがあるからだ。勿論、まだ幼なかった僕はその一組だけのレコードが家に在ることを不思議に思わなかったし、また、一九六〇年の金箔荘からの引越しの最中、それは行方が知れなくなってしまったのだけれど――。
 しかしあの金箔荘の狭苦しい四畳半のなかで、古風なハンドル式の蓄音器によって、僕と兄さんとは飽きることなくそのレコード盤を回しつづけたはずだ。そして、あの高音にアクセントを置きながら静やかに下降していくプレリュードの調べや、独白するような祈りに満ちた音の歩みの、やがて情熱のあつい昂まりをみせていくコラールの声に、僕たちは魅せられたように耳を傾けていたはずだ。勿論、僕より年長であった兄さんは、僕が退屈だと感じた長大なフーガ――夥しい光の粒がひかりあらわれそして消えていく瞬間の、もはや祈りも感傷も情熱もない世界がぽっかりとひらけてくるようなあのフーガに、強い愛着をもって繰り返し聴いていたはずだったけれど。――そして、いまから想えば、あのフーガの終り近い部分、死と終末を告げる鐘の如くクラヴィーアがしめやかに鳴り響くとき、それが二つの名を持つ僕たちの父をとらえて離さなかったにちがいないということも、ほとんど完全に了解できるように思えるのだ。
 さて兄さん。ここで僕たちの父・穂積一作の戦後の軌跡について、触れておかねばならない。
 まず第一に僕たちが知っていることは、戦後大井聖と名のっていた穂積一作が、母とそして僕たち兄弟を残して、一九五一年の秋に忽然と姿を消したということである。一九五一年の秋、神奈川県の二宮の旅館に泊った僕たち一家は、朝になると(それは丁度僕が二歳の誕生日を迎える朝だったが)、父の姿が失なわれていることに気付いたのだった。戦争の余燼がまだくすぶっているという感じの当時にあっては、東京からほど近い二宮といえども、一家の旅行などということはなかなか贅沢なことだったから、金箔荘の日々の中で決して豊かではなかったはずの僕たち一家がそのような旅行を行なうこと自体、大いに腑に落ちないことなのだが、或いはそれは父と母との初めての旅行――新婚旅行であったのかも知れない。そして、その最初で最後の旅行の旅先において、僕たちの父・大井聖は忽然と姿を消したのだった。
 そのとき既に四歳を過ぎていた兄さんの記憶によれば――そして僕がのちに聞いた母の話を総合すれば――宿から目と鼻の先に在る二宮の長い海岸の、少し洲のようになって突き出た砂浜の真中に、父の黒い靴は淋しく脱ぎすてられてあったという。その様子は、のちの兄さんの表現によれば、「靴のなかに秋がはいり込んだように」海辺に脱ぎすてられてあったのだった。
 兄さんからこの「砂浜に残されていた靴の物語」を聞くたびに、僕はなぜかいつもヴィラ・ロボスの「前奏曲第一番」の旋律を想い出してしまうのだが、それはともかくとして、父はこのようにして僕たちの前から姿を消したのだった。そして、父・大井聖は、警察によれば、失踪ではなく自殺として、処理されている。一足の古靴が残されていたことが、自殺と断定されるための大いに十分な証拠ででもあるかのように――。
 兄さん。
 あらかじめ片目を失ない、のみならず片手を失なってさらに自ら唖者となった僕たちの父・穂積一作が、僕の二歳の誕生日の朝――すなわち一九五一年の秋の朝に、大井聖としてこのように忽然と姿を消したことは、「Sさんの手記」を読んだ後でも依然として大いなる謎として残らないわけにはいかない。つまり、僕たちの父は、新聞記者でありパルチザンである穂積一作として、一九四五年八月十四日のただひとりの戦いののちに第一回目の失踪を行ない、そして今度は、満身創痍の復員兵・大井聖として母との結婚生活を開始したものの、数年ののちに第二回目の失踪を行なったことになるわけだが、その第二回目の失踪或いは自殺の理由は、了解不可能なまま僕たちの前に残されていると考えねばならない。
 海辺に残されていたという一足の黒い靴は、勿論僕はそれを記憶しているはずはないのだが、しかしあたかもひとつの暗号のように僕の網膜にくっきりと焼きついているのだが、その態とらしいやり方からして、いかにも自殺の偽装のようにも思えるし、さらにもう一転して、失踪を偽装した自殺のようにも考えられるのだ。なるほど、一九五一年という年は、朝鮮半島を焼く戦火のなかで、日本が敗戦国からアジアで唯一の工業国へと復興≠フ基盤を打ち固めていった年であり、戦後の「革命的情勢」が最終的に清算されていった年であるのだから、その年に絶望を確信しなかった者はもはや問題外であるのだけれど、しかしだからといって、その年をめぐる「絶望」が父を失踪或いは自殺に導いて行ったと考えるのは、余りに短絡にすぎるであろう。というのは、既に一九四五年のあの白い炎天の日に、父はすべての絶望を呑み干していたからであり、最初から何の期待ももつことのない「戦後革命」が清算されたからといって、いまさらのように死に至ることなどあり得ないはずだからである。
 ――こうして、父・穂積一作の「死」は、いっさいのセンチメンタリズムから解放されて、大いなる謎のまま僕たちの前に残されている。そして――これは現在の僕が置かれている状況からしての完全な憶測にすぎないのだけれど――あえてその憶測を記すならば、父の死は、自然死ともいうべきものではなかったかということだ。つまり、僕が、例のO市のアパートにおける大失敗によって、新聞記事によれば「アイテテ、アイテテと叫びながら」逃げ去っていったときにその片目を失なったように、父もまたあの八月十四日の戦闘によって、片手のみならず残されていたたった一つの眼球にも、傷を負ったのではなかったろうか? その負傷は、おそらく程度の軽いものだったから、すぐに視力を奪われることはなかったのだけれど、はるか以前に相棒を失なって以来の長年の酷使の上に、徐々に深まっていく負傷の影響が重なって、ついにその力を失なおうとしていたのではないだろうか? とするならば、復興の槌音が焼けたトタン屋根を震わせていたこの国の一九五一年は、父にとって自らの眼で世界を視ることの出来た最後の年だったわけであり、父は視力を失なうことによって自らの肉体もまた失なわれることが自然であると、思考したのではなかったろうか――。父・穂積一作、このただひとりの日本のパルチザンの眼に映った一九五一年の湘南の海は、どのような希望と絶望にゆらめいていたことだろう。……ともあれ、これが父の失踪或いは自殺をめぐる、僕の自然死説≠ニもいうべき憶測の、全部であるのだ。
 このような想像に僕が把えられているのは、言うまでもなく、いま僕が残された片方の眼の力を最終的に失ないつつあるからなのだが、この南島のはるか数千キロ北方に在る滅びゆく国の首都に居て、ただ〈視ること〉だけを自らに課して≪決意した唖者≫となっている兄さん――その兄さんの二つの眼球には、いま何が映っているだろうか? 僕がO市での大失敗によって片目を失ない、≪昭和の丹下左膳≫でもいうべき姿になることによって、父・穂積一作の外的な損傷を継承したとすれば、兄さんは一九七二年に≪決意した唖者≫となることによって、父の意志そのものを受けつぎつつあるのかもしれない。だから、石の如き絶望をかかえこんだまま兄さんが棺にも似た東京の暗いアパートから視つめつづけている風景――それは牢獄の如きものであろうと、僕には想われる。あたかも父・穂積一作が、新聞社の窓の向こうに広がっている炎天下の焼跡の風景に、決して起つことをしないであろう日本人民を透視していたように、いま兄さんの眼には、立て込んだアパートや近代的な装いのガラス細工のようなビルディングの群れを突きぬけて、果しなくはりめぐらされた牢獄の如きものが視えているはずだ。そして果しなく広がっている牢獄の如きもののそこかしこに――目を凝らせば――非業に斃れた幾つもの戦士たちの死骸が見えてはいないか。それら斃れた黒々としたものの幾つかは、僕の知っているものであるかも知れず、また兄さんに親しかったものであるかも知れないのだが、ひとびとの眼には映ることなく横たわっている彼らの姿こそ、この国を語るのに最もふさわしい本質的なあるもの[#「あるもの」に傍点]であると、言うことができるように思える。
 深夜ともなれば、兄さんはその夥しい非業の死者たちの存在に苦しめられながら、しかしその死者たちと共に、首都の夜の底に呪いの眼を見開いて、日一日と悪くなっていくしかないこの国――もはやいかなる希望も失なわれ尽したこの国を視つめつづけるという受苦を、自らに課しているのにちがいない。まるで、既に兄さんが一個の報いられることのない死者となって、この世界に眼球だけを残しているかのように――。

[#ここから2字下げ]
人は生命《いのち》の涯《かぎり》黒闇《くらやみ》の中に食《くら》ふことを為す
また憂愁《うれへ》多かり疾病《やまひ》身に あり憤怒《いかり》あり
[#ここで字下げ終わり]

 首都のなかに棲んで死者とのみ言葉を交しつづけている兄さんのことを考えるたびに、僕はなぜか、「Sさんの手記」のなかにあったソロモン伝導之書の一節を、思い浮かべざるを得ないのだ。あたかも僕たちが、地上に実現しなかった遠いおしえを伝導しようとした使徒たちででもあったかの如くに――。

 さて兄さん、この手紙も終り近くなったのだが、最後に僕たちの妹――≪志願した娼婦≫とでもいうべき行方知れずの僕たちの妹について、書いておかなければならない。彼女は僕が五歳のとき、すなわち一九五四年に、父が誰とも知れないまま産まれたのだから、生きているとすれば既に二十代の後半になっているはずだ。生きているとすれば、と註釈したのは、言うまでもなく彼女が一九六九年に十五歳で失踪して以来、僕もそして兄さんもその行方を掴めていないからにほかならない。
 早熟というよりは聡明であった僕たちの妹は、(既に十代年前半から断乎たる娼婦としてその行動を開始していたのだが)、僕と兄さんがそれぞれ大学の近くの下宿に移りそして母が死んでいったのを見届けるや否や、十五歳の誕生日を迎えたのをひとつのしるしとするかのように、忽然と母のアパートから消えてしまったのだった。一九七〇年代のこの国の夜のなかへと溶け消えていった妹のその後の足取りは、全く掴むことができない。ただ、そののち兄さんも聞いている通り、「韓国観光」から帰った母の二度目の夫の兄という男が、韓国の〈光〉という名の都市で、妹によく似た若い女を見たと伝えてきたことだけが、僕たちの手元にある唯一の情報であるわけだ。その男――母の二度目の夫の兄という男は、商売人風の厭らしさの上に、先天的ともいえる下品さをその弟と共有している男なのだから、韓国の都市で妹に似た若い女を見たというより、妹に似た若い女を貨幣の力で抱いたという方が、どれほど正確であるか知れないのだけれど、彼のもたらした情報は大いに真実であり得ると、僕は考えている。――というのは、娼婦であることを断乎として志した僕たちの妹にとって、韓国は「日本本国」に負けず劣らず多くの日本人が公然と女を買う場所として、まさに好適の市場にほかならないからである。勿論、妹がどのように玄海灘を渡り、どのように朝鮮半島の夜にもぐり込んだかについては、僕の想像といえども全く及ばない。おそらく妹の幼ない頃からの身のこなしの早さと、僕に共通する天才的な語学力が、彼女を助けたのではないだろうか。いずれにしても、妹の行方は定かでない。想えば、僕たちは風の日々の首都を走り抜けながら、血煙のなかでこの世の最高の悪を倒そうとしたのだが、彼女はこの世の最高の汚濁を自らにひきうけることによって、この世界に向けてなにごとかを開始しようとしているのかも知れない。その沈黙の企てを僕は知ることはないのだが、それをしようとする妹は理解できるような気がする。かつてポール・ニザンは、「僕は二十歳だった。それが人生のいちばん美しい時だなどと誰にもいわせまい」と記すことによって、己れの出立を開始していったのだが、妹の長く揺れる髪を想い浮かべるたびに、僕は何故かこのニザンの言葉を思い出し、妹の旗のように美しい決意を理解しうるような気がするのだ。……言うまでもなく、父・穂積一作と僕たちの妹とは、いかなる血によってもつながっていないのだが、穂積一作が志願した片目男≠ニなることによっていっさいの兵役を裏切り、それをもって自らの人生を開始したことと、妹が自ら志願して真正の娼婦となることによっていっさいの平安と日常を裏切っていったこととは、どこか通《かよ》い合っているような気がするのだ。……

 さて兄さん。僕が兄さんになにごとかを書き伝えるのも、いよいよ最後になってきた。
 最後であるというのは、ひとつには、「一九四五年と一九七四年の八月十四日の伝説」を兄さんに伝え終えたいま、僕にはもはや何も語るべきことが残されていないということであり、そしてもうひとつには、日一日と悪化していく僕の眼の疾患が、いよいよ最終的に僕を光のない状態に突き落そうとしているということだ。残されていた僕の片方の目は、いまやこの国に何も見るべきものがないかのように、その最後の力を失ないつつある。ほとんど数日の内に、僕の視力は完全に失なわれ、ビロウドのような闇が訪れるだろうと、僕は予期している。見知らぬ男によって子供を孕まされた女が、それでもその子供の出生の日を予測するような正確さで、僕は残された自分の光の命数を数えることができる。……
 雨期が明ける前に、僕は光を失なった自分の二つの眼を伴なって、深いジャングルのなかへ赴いて行こうと思う。ジャングルの奥に厚いバナナの葉を一枚敷いて横になれば、もはや目をつむる必要もなくなった僕の体に雨とも霧とも知れぬものがしっとりとまといついて、やがて名も知らぬ幾多の小動物たちが腐乱していく僕の肉体を始末してくれるだろう。世界中で死んでいった夥しい兵士たちと同じように、僕は正しく上を向いた頤《おとがい》で、樹林の葉から垂れてくる雨だれを受けとめねばならない。
 ――昨日、僕は草葺き小屋の庭先に、黒い旗を立てた。旗といっても、それは小屋の奥から探し出してきたボロの黒布を竹竿にくくりつけて押し立てただけのものなのだが、それは、いま雨の中で、力なく竹竿の先にまとわりついている。
[#ここから2字下げ]
私のマストの上に旗は
黒々と翻る
[#ここで字下げ終わり]
 というシェーンベルクの曲のつもりではないのだが、僕の旗は、僕のいのちがなくなったのちも、しばらくは海風を受けてはためいていることだろう。丁度父が消えたのちに、黒い一足の靴がなにごとかを語りかけていたように――。
 こうして、僕はどこかしら父に似た失踪者≠ニして、その命を終えることになる。――つまり僕たちの母の残した三人の子供は、ひとりは≪決意した唖者≫として東京に生き、もうひとりは≪志願した娼婦≫として〈光〉という名の都市に在り、そしてもうひとりである僕は、かつて父が上海行の船上から見たかも知れない亜熱帯の孤島で、余り見事ではない失踪者≠ニなるというわけだ。
 兄さん……僕が伝えようとした二つの伝説は、こうして閉じられる。
 僕たちの父・穂積一作は、僕たち兄弟という伝説の後継者≠生み落としたが、僕たちは――いや少なくとも僕は――いかなる後継者も見出すことのないまま死ぬだろう。そして、いかなる希望もあり得ない首都に棲む≪決意した唖者≫である兄さんが、世界に向けて再び言葉を開くときがくる可能性を、僕は余り信じることができない。言葉が扼殺された世界――それがこの国の一九八〇年代の風景であることを、兄さんは誰よりも理解しているはずだ。
 兄さん――
 最後に、忘れていたことをひとつだけ書き加えておかなければならない。先に僕は、失踪して以来の妹の行方を全く掴むことができないと語ったが、実は一度だけ、僕は妹と出会っているのだ。
 それは僕がかつて属していたグループから離脱してO市のアパートに潜伏していたとき――つまりあの爆発事故の大失敗の少し前なのだが、妹はどのようにして捜し当てたものか、突然僕のボロアパートの扉をたたいたのだった。
 長い髪に細身のジーパンをはいた美しくも成長した妹の姿がそこにあった。僕たちはそのとき多くを語り合うことをしなかったが、妹は目敏く部屋の隅のダンボールの箱のなかから僕の製作した第一号爆弾をみつけ出し、「これ頂戴ね!」と爽やかに言うが早いか、慌てている僕を無視するようにそれ[#「それ」に傍点]を持って消えてしまったのだった。だから――僕が爆発の大失敗をひきおこしたのは、製作中の第二号爆弾であったのだが、妹と共に消えた第一号のそれ[#「それ」に傍点]がどこへ行ったのかというと、僕には皆目見当がつかない。それ[#「それ」に傍点]は未だ妹の手元に、つまり乾いた風の吹く半島の〈光〉という名の都市に在るような気もするし、またそれは全くの夢想であるような気もする。もし妹がいまも髪を長くしているとすれば、それは僕の第一号が彼女の手元に在ることのしるし[#「しるし」に傍点]であるような、そんな想いに僕はわけもなくとらえられているのだけれど――。
 そして兄さん。ついでに僕の頭に浮かんだつまらない疑問を、最後に書きとめておこう。それは、妹はあの曲[#「あの曲」に傍点]を聴いたことがあっただろうか、ということだ。穂積一作の残したセザール・フランクの「前奏曲、コラールとフーガ」――そのレコードを僕たちは三人で聴いたことがあっただろうか? 僕の記憶は定かではない。金箔荘の部屋の中で、そういうことがあったような気もするし、なかったようにも思える。そして、もし、それを三人でいっしょに聴いたことがあったとすれば、ポプラが美しい国の〈光〉という名の都市に生きつづけているという妹は、僕たち兄弟のことをいまでも憶えているはずだと思うのだが。


発表誌
パルチザン伝説 文藝 一九八三年一〇月号

底本
パルチザン伝説 桐山襲作品集 作品社
一九八四年六月五日 第一刷印刷
一九八四年六月一〇日 第一刷発行