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スターバトマーテル
桐山襲

                    聖母は見たまへり
                    愛する御子が苦しみのうちに
                    棄てられ息絶ゆるさまを。
                         (スターバト・マーテル第六曲)

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(筆者まえがき)
 ――去る年の六月、わたしと五人の友人たちは、多摩川のほとりの一軒宿を訪れたことがあった。
 青梅線川井の無人駅を降り、氷川【ひかわ】へと続く街道をしばらく進むと、道の左手に、夕べの渓谷へと危く頽れ落ちそうになりながら、その宿は在った。それはせせらぎと、向かい側の山の緑と、明るい鉱泉小屋をもった好もしい宿であったが、庭に植えられた一株のあぢさいの、不思議な白いふくらみが、妙にわたしの心をひいた。
 隣の離【はなれ】には、何やら世を忍ぶ風情の一組の男女が泊っていた。ひともし
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前の障子の陰に、浴衣に献上博多をしめた女の姿が垣間見られたりした。……
 そして酒宴が始まり、やがて杯盤狼籍たるうちに夜が深まっていくと、誰からともなく、ひとりがひとつずつの物語を語りあおうという趣向が提案された。まず最初の者が或る物語を語ると、次の者がそれに繋った別の話をつくりあげる……。短夜を欺くために、季節は冬と定められた。季題は雪であった。そして作曲家プーランクを愛する友人の発案によって、題名はスターバト・マーテル(たたずめる聖母、悲しみの聖母)と決められた。プーランクは彼の親しい友人――画家にして舞台装置家であるクリスチァン・ベラールの若年の死に接して、その祈祷の曲を作りあげたのだった……
[#ここで字下げ終わり]

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[#以下地付き]<T>
 夜明け前、彼女は樹木がざわめいているような物音で目を覚ました。布団の温もりを抱えこむようにして寝返りを打ち、顔を天井に向けて眼を開くと、まるで二つの眼までが闇に溶けてしまったかのように、部屋の中はまだ完全な暗闇だった。アコーデオンカーテンの向こう側のベッドで、老父が静かな寝息を立てていた。
 きのうまで続いた黒い吹雪は、夜のうちに止んだのかも知れない。外はすべての物が動きを止めたようにしんとしていた。部屋の外も内も、空気の流れが死んだように止まって、ただ剃刀の刃のような乾いた冷たさだけが、布団から出ている彼女の頬にあてられていた。冬の太陽は、まだ向かい側の山脈のはるか裏側にあるらしかった。……起き上がるには早すぎる、もう一度眠るには、少し遅い……
 そう考えていたとき、また何かの物音がした。
 ベッドの上、暗い天井の裏側で、誰かが動いているのだった。その物音は少し激し
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くなったかと思うと、風が息をするように急に途絶えた。……そして彼女はようやく、今日が自分の誕生日――自分の三十二回目の誕生日であることを思い出したのだった。
 遠い森からやって来た物音を迎えるように、彼女は布団の中でじっと耳を澄ました。すると二つの耳が闇の中で柔らかく膨らんでいくように、物音は急に間近に降りかかって来るのだった。その生々しい物音は、若い恋人たちが天井の上で縺れあい、蠢きあっている音にちがいなかった。それは次第に激しさを増していったかと思うと、再び息を潜めるように静まり返り、その張りつめたような静けさの中から、若い女の幽かな、しかし甘い声が、長く糸を曳きながら洩れ聞こえてくるのだった。
 ――お楽しみだわ。
 彼女は闇の中で静かに頬笑んだ。そして天井の上の恋人たちを祝福するために、もう一度寝返りを打ち、眠りの残っている額を柔らかい枕に埋めた。枕の中の遠い森の奥に、幽かな白いバラの花の匂いが匂っていた。三十二歳……彼女がまだ二十歳だったあの厳冬の日から、今日で丁度十二年が過ぎたのだった――。
 十二年前……
 その年は不思議に寒い年だった。九月の初めから木の葉が散り始め、秋は短く、深い雪がいつもの年よりもずっと早く山荘を埋めた。
 それは、彼女と父とが山荘で迎えた最初の冬だった。
 前年の春、或る企業から山荘の管理人として雇われた父は、一人娘を大きなトラックの助手席に乗せながら、はるばる山岳地帯の保養地へとやって来たのだった。
 一人娘、つまり彼女は、七つの会社の就職試験に失敗したところだった。人前では口もきけないほどに内気であり、どこか夢見がちなところのある彼女の性格が、会社の面接試験に禍いしたのだった。そんな娘と暮らすためには、山の中の保養所の管理人も悪くないと、父は考えたようだった。――母は何年も前に死んでいた。高校を出たばかりの彼女は、だから、山荘の欠かせない料理長であり、永い冬の間の父のためのパートナーでもあった。
 彼女の山荘は、幾つもの襞のような山脈に囲まれた傾斜地に在った。コンクリート造りの堅牢な建物は、正面から見れば三階建であり、裏山から見ると二階建であると
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いう、白い迷宮のような構造をもっていた。それは傾斜地のいちばん上の、神でさえ滑り落ちそうな懸崖の中腹――いわば天と地の中間ともいうべき場所に建てられていた。
 バルコニーをもった建物の窓からは、広々とした白い斜面が眺められた。それは所々に幾つかの屋根を浮かばせながら、下界の黒い森へと滑り落ちていた。夏であれば若者たちの騒々しい声で包まれるこの保養地は、雪と共に人の往き来を絶やし、ひとつひとつの孤立した屋根の下に、永い冬の時を籠もらせているのだった。
 そんな冬の日の午後――厳密に言えば、それは五人の革命軍が姿を現わす何時間か前の、いつもと同じ静やかな午後だったが――食堂にはバラの花の匂いが満ちあふれていた。テーブルの上には大きな白い花束が飾られてあった。それはきのう、彼女が父にねだって町から買って来てもらった二十歳の誕生日のプレゼントだった。冬の花束は薄みどり色の花瓶からこぼれ落ちそうになりながら、澄んだ明け方のような芳香を部屋中にまき散らしていた。テーブルの上の花園に顔を寄せると、その甘い匂いが彼女の白い頬や項【うなじ】、セーターの奥の、まだ誰も触ったことのない乳のふくらみにまで沁み込んでくるようだった。余り長いこと顔を寄せていたために、彼女はまるで自分が、白い花弁をもった一本の柔らかい花になってしまったような気がした。
 そして、花々の匂いのせいで少しぼんやりとしながら二十回目の誕生日のためのパイを焼いていた彼女は、山荘の入口の扉が一二度叩かれる音を聞いたのだった。
 父は下の町まで買い物に出掛けていだ。帰りは夕方になると言っていたから、扉を叩いている者が父であるはずはなかった。
 彼女は天火の中を覗きこみ、火加減を注意深く調節すると、食堂からシャンデリアのあるラウンジを抜けて、大理石の打たれた玄関に下りた。バラの花の匂いが、彼女の後から少し遅れてラウンジを横切ってきた。
 ――どなたでしょうか?
 彼女は厚い扉に向かっておずおずと声を出した。返事はなかった。エプロンで両手を拭きながらもう一度声を掛けると、ようやく厚い扉の向こう側から、――教会の者ですが、という若い女の声が聞こえた。
 教会? と彼女は思った。下の町に一つだけある教会の神父は、夏の終り頃にお茶
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を飲んでいったことがあったが、若い女がその教会にいるという話は聞いたことがなかった。しかも、こんなに深い雪の中を……
 掛け金をはずして扉を押しあけると、ガラスの粉のような乾いた雪が、小さな吹雪となって玄関に舞い込んで来た。白い竜巻が彼女の脚を掬い取った。そして彼女の目の前に現れたものは銃口――黒々とした銃口だった。それは二つの凶暴な眼をもちながら、彼女の白い額と触れあうほどに突き出されていた。
 寒さに怯えた者のように、彼女が思わず後ずさりするのと、一組の男女が扉の内側にはいり込んで来るのとは同時だった。
 銃を構えた男の後で、女が外の吹雪を閉ざした。すると山荘の中は、何故か急に広々としたものになった。ラウンジの壁が不意に遠のいて、その分だけ空気が希薄になったような感じだった。
 扉を背にした二人の侵入者は、信じられないほど夥しい雪片を纏いつかせていた。彼らの肩や胸のあたりから、乾いた粉雪が大理石の床に舞い落ちた。そしてよく見ると、二人はこの寒さだというのに、雪片の下に薄いシャツ一枚しか着けていなかった。それは遠い夏の世界から吹雪の圏を通り抜けてこの山荘に辿りついた者たちのようでもあり、夏の中で死んでしまった遙かな想い出の影のようでもあった。若い女の胸のふくらみが、夥しい雪片と白い紙のようなシャツの下で息をしていた。
(パイが、焼けすぎるわ……)
 震える舌で、彼女は幽かに呟いた。
 しかし彼女が怯えたのは、額に突きつけられた銃口のせいばかりではなかった。なぜなら二人の侵入者は黝い顔を――これまでに見たこともないような黝い顔をしていたからだった。最初、彼女はそれを面かと思った。しかしよく見ると、それは新月のような黝【くろ】ずみをもった顔そのものだった。まるで暗い風景を縮めたような顔だ、と彼女は思った。それに、この吹雪だというのに、二人ともシャツ一枚しか着ていないなんて――。
 額に定められていた銃口がゆっくりと動いたのは、彼女が丁度ラウンジの中央の、大きなシャンデリアの下まで後ずさりしたときだった。銃は一本の枯れた腕のように、ラウンジの左の方を指示していた。暖炉だった。
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(あそこへ行けと言うのだわ)
 彼女が自分から進んで行くと、二人はその後についた。そして彼女を暖炉の横の揺椅子に座らせると、二人はまるで《黝い恋人たち》とでもいうべき姿で、肩を寄せあいながら、コークスの炎の前に丸くなったのだった。……
 彼女も、そして二人の若者たちも、一言も口をきかなかった。二人はまるで火を喰う動物のように丸くなったまま、火照りを受けた両方の手の指を静かに動かしたりしていた。やがて急激な睡魔が、揺椅子の上の彼女を襲った。……一時間ほどが過ぎたかも知れない。まどろみの膜……暖炉……銃……恋人……
 そのとき突然、山荘の外で何かの弾けるような音がした。
 それは電球の割れるような乾いた音だったが、幾秒かののち、同じ音はもう一度山荘を震わせた。すると《黝い恋人たち》は、まるでその音の訪れるのを待っていたかのように、暖炉の横に置かれていた武器を再び手に取った。そして二人は、新たな怯えに立ち尽している彼女の肩に手を掛け、彼女を両側から護るようにしながら、天に向かって螺旋を描いている階段を昇って行ったのだった。
 ……広々とした階段・木彫のある太い手摺・人気のない廊下・冷たい壁・幾つもの空部屋……三人の者たちが迷路を辿ってはいり込んだのは、三階のいちばん隅に在る部屋――彼女と父との寝室だった。アコーデオンカーテンで仕切られた二つの白いベッドが、薄暗い部屋の中で冷たそうに眠っていた。
 若い女が窓辺に駆け寄って厚いカーテンを明けた。白い光が部屋の中に流れこんだ。その光をたぐり寄せるようにして窓辺へ進み、所々凍っている窓ガラスに顔を寄せてみると、まるで雪崩の瞬間のように、白い斜面がいっせいに下の世界へ滑り落ちようとしていた。そしてその斜面の途中に、幾つかの黒い染【しみ】のような人影が動いているのを、彼女は見定めた。それらは銃のようなものを下界へ向けながら、後ずさりする形で、ゆっくりと斜面を昇って来ていた。……その情景は、ずっと遠くの世界の出来事のようでもあり、また白い舞台の上の小さな人形たちの劇のようにも思えた。先程まで雪を降らせていた厚い雲に、小さな窓のような穴が明けられて、そこから洩れてくる幾条もの天の光が、斜めに傾いた無言劇の舞台を照らし出していた。…
 …銃声は間断なく続いていた。
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 下界へ銃を向けた者たちは、黒い鳥のような背を見せながら、まるで多くの敵を誘き寄せることを目的としているかのように、奇妙にゆっくりとした後退戦を続けていた。そのゆるやかに移動する幾つもの人影をみつめて、彼女は何故か北欧の画家の絵を――高校生の頃に東京の美術館で観た北欧の孤独な画家の絵を――思い出した。〈雪中の狩人たち〉と題されたその絵は、絞首台の見えるはるか下方の町をカンバスの中心に置きながら、そこから昇ってくる白い斜面に、幾人もの中世の狩人たちの黒い後姿を点在させていたのだった。……
 間近に迫った銃声が窓ガラスを凍えさせた。
 撃鉄を引く人差指さえも見定めることが出来るほどの近さだった。
 そのときようやく彼女は、恋人たちが彼女のベッドの上にあがり、天井板を押し開けようとしているのに気づいたのだった。男は銃座で天井板を叩き、板を止めてある釘をはじきとばした。そして銃を持ちかえると、今度は銃口を器用に使って天井板を横にずらし、天に通じる黒い穴ぼこをつくり上げた。
 ――天井をつたって行けば、浴室を抜けて裏山の道へ出られるわ。
 彼女は二人のどちらへともなく言った。
 男は女の腰をかかえ、まず女が黒い穴の中へ消えて行った。そして天上から一本の植物のように伸びてきている細【ほそ】やかな手に銃が渡されると、男はトランポリンで遊ぶ者のように幾度かはずみをつけながら、天空の穴へとジャンプした。若い男の二本の脚が、空中を歩く者のようにして黒い穴の中へ消えて行くのと、山荘の入口の扉が激しく打ち破られる音がするのとは、殆ど同時だった。
 ――天井をつたって行けば、浴室を抜けて裏山の道へ出られるわ!
 頭上の空洞へ向かってもう一度叫んだとき、彼女はまるで夢から醒めたように、急に意識がはっきりとしてくるのを覚えた。ひどい寒さが体じゅうに押し寄せてきた。
 彼女はベッドの横に丸められている赤いガウンを羽織り、部屋を飛び出して行った。長い旅から帰ってきた夫を出迎える妻のような足取りで廊下を走り、階段を駆け下り、食堂へ行って天火の火を止めた。赤いガウンの前を合わせ、髪を両手で後にまとめた。そして激しい寒さを感じながら、バラの花の匂いでいっぱいになっている食堂のドアを開いて、ラウンジへ足を踏み入れたとき、黒い影のような背嚢を背負った五人の革
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命軍の十個の眼が、驚いたように見開かれているのにぶつかったのだった。……
 こうして、十日間の聖なる日々が始まった。
 最初の数時間、彼女は自由を奪われたままだった。
 どこからか探し出されてきた丈夫な紐が、彼女の手首を赤いガウンの背中でまとめあげた。彼女を縛ったのは五人の兵士のうちの最も年若い――ほとんど弟のようにも思える――少年の兵士だった。そして彼女が閉じ込められることとなったのは三階の寝室――つまり、たったいま《黝い恋人たち》が空中を歩く者のようにして消えて行ったその部屋だったが、冷たいベッドの上に転がされてみると、天井は板が元の通りに戻されて、既に恋人たちの足跡を完全に消し去っていた。寝室のドアの所で、少年の瞳のような二連式の散弾銃が、彼女を護る任務を与えられていた。
 ――僕たちのこと、知っている? と少年はドアの所から言った。
 ――ええ、ラジオのニュースで知っているわ。
 ――銃が、こわい?
 ――いえ、前にも見たことがあるから。
 ――いい匂いがする。
 ――わたし?
 ――うん、いい匂いのする花みたいだ。
 彼女が寝室のベッドに転がされている間に、山荘は着々と武装を整えていった。部屋という部屋の畳が剥ぎ取られ、それは弾除けのためにバルコニーに並べられた。すべての雨戸が閉ざされ、あらゆる窓に板が打ち付けられた。唯一の出入口である玄関の扉は、太い鉄パイプと針金によって補強された。その外の雪の中には、食堂のテーブルや椅子によってバリケードが築かれた。
 山荘は夕闇の中に武装した。
 外の世界が段々と騒がしくなっていくのが、彼女にも分かった。
 五人の兵士たちは、まるで五十人の軍隊のような勢いで、迷宮の内部を走り回っていた。まるで日没と競争しようとするかのように、彼らはありとあらゆる仕事を行なっていた。彼らは水と食糧を貯え、灯油と蝋燭を確保した。すべての客間から懐中電灯を寄せ集め、石油ストーブを満タンにした。暖炉の横にコークスの山を築きあげ、
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全員が放水から身を守るためのビニール製のポンチョを身に纏った。
 ――こうして、夕刻に一度だけあった短い銃撃戦ののち、静かな夜が一枚の布のように傾斜地の上に被さり、降り出した雪が夜を深めさせ、その白い精霊の流れをテレビジョン中継のためのライトが照らし出す頃には、紐を解かれた彼女と五人の兵士たちとは、細かい家具の散乱したラウンジで、暖炉の炎に互の影を揺らせながら、熱いスープを啜っていたのだった。あたかも、見知らぬ土地での迫害に傷ついた赤いガウンの聖母と、聖母を囲む五人の使徒たちのように。…………………
……………………………………………………………………………………………………………………
……
 夜は朝に溶け、黄昏は夜に流れ込んだ。境界を失なったほの暗い時間の中に、やがて、いやな臭いのする白い霧が忍び込んできた。
 ――手でこすっちゃいけないよ、と弟のような兵士は彼女に言った、手でこすると、余計に痛くなるんだ。レモンがあるといいんだけど。
 ――レモン?
 ――うん。レモンで目を洗うんだ。
 ――一階の食堂に、ひとつ残っているわ。
 ――もう、遅いよ。
 ――わたし、行って取ってくる。
 ――危いよ!
 ――大丈夫、目をつむっても行けるわ! ………………………………………………………………
……………………………………………………………………………………
 幾つもの季節が、幾世紀もの時間のように過ぎていった。
 正確に言えば、五人の革命軍による銃撃戦が終ってから、一ダースの年が飛び去ったのだった。
 その十二年の間、彼女の誕生日が訪れる度に――つまり、銃撃戦が開始された記念日の朝が廻り来る度に――寝室の天井からはきまって幽かな、そしていささか艶めかしい物音が聞こえてくるのだった。
 その物音は勿論、五人の革命軍が現れる直前、天井の穴の中へと消えて行った《黝
-----P024-----
い恋人たち》が残したものにほかならなかった。彼らは天井をつたって浴室から外へ脱出して行ったが、その足音だけは寝室の天井に、もしくは彼女の耳の奥に、残されたのだった。
 このことを、彼女は誰にも話さなかった。十二年の間、屋根裏に生き続けている物音――一年に一度だけ耳の奥に甦って来る恋人たちの物音が、彼女にとっての重大な秘密ででもあるかのように――。
 ――六人いたんじゃないのかね?
 十日間に亙った銃撃戦が雪と放水と催涙ガスの霧の中で終り、五人の革命軍が五千人の警官隊によって連れ去られてからしばらくして、取調べの刑事は彼女にそう訊いたことがあった。不思議なんだよな、どう考えても六人いたとしか思えないんだ……。
 最後の日の激しい吹雪のなか、斜面に向かった要塞の壁からは、間違いなく三つの銃口が火を吹いていた(これは、警察の証拠写真にも写し出されていた)。そして、それと同じ時刻に、横手の玄関に殺到した警官隊の隊長が、正確な射撃によって雪と泥のスープの中に撃ち倒されたのだが、その凍てた死骸からは、それぞれ別個の銃口から発射されたことの明らかな三種類の銃弾が検出されたのだった。――斜面に向かっていたのが三人。玄関を防衛していたのが三人。どう考えても一人多いんだよな。もっともあんたを含めるとすれば、たしかに六人になる訳だが……。
 刑事はそう言って、彼女の瞳を覗きこんだ。その淫らな眼差で汚されないために、彼女は耳と目と口を閉じた。そして冷たい警察署の中で、想いを廻らせていた。――もしも六丁の銃が火を吹いていたとするならば、恋人たちはあのとき外に出て行かなかったのかも知れない。……もしかすると彼らは、五人の革命軍と共に十日間の銃撃戦を闘い、革命軍が連れ去られたいまもなお、山荘の屋根裏にとどまっているのかも知れない……。

 二人はいまもなお山荘にとどまっているのかも知れないと考えながら、彼女は三十二回目の誕生日の昼食を準備していた。食堂のテーブルの上には最早バラの花束はなかったが、それでもどこからか、甘い匂いが匂ってくるような気がした。ラウンジにある大きな柱時計が、老いた音を響かせて十二時を打った。
-----P026----
 そしてそのとき、丁度食堂の真上の天井で、たしかにまた物音が聞こえたのだった。
 それは、かつてないことだった。
 というのは、誕生日の朝に寝室を訪れる物音は、冬の太陽が昇ると共に必ず何処かへ消え去り、次の誕生日までは決して訪れることがなかったのだったから――。
(こんなにも耳鳴りがするのは、きっとわたしがまだ処女のままだからだわ)
 彼女は料理の手を休めて、遠くの空を見るように天井を見上げた。何の気配もなかった。天は音を絶やし、再び静かな昼が戻った。
 だが夕刻――暖炉の横の古い揺椅子に腰を掛けて編物をしているとき、再び物音は訪れたのだった。天井から吊された大きなシャンデリアが、物音に触れたように幽かに揺れ動いていた。まるで彼女の体を守っているかのように、たしかに四つの眼が天井から彼女を見下ろしていた。
 ――誰かいるわ!
 彼女は思わず口に出して言ったが、老いて耳の遠くなった父は、いまや何も答えることが出来なかった。
 ……二日目の夜も、三日目の朝も、そして四日目の昼も、その物音は続いた。たしかに何かが始まろうとしているのだった。……一週間が過ぎた。物音はいよいよ頻繁になっていった。
 そして十日目の朝、彼女は、山荘の天井という天井を誰かが駆け回っているような激しい音で目を覚ましたのだった。ほとんど天井が落ちて来るかと思うほどの激しい足音だった。まるで旅仕度でもするかのような、慌ただしい、余りに慌ただしい足音が、山荘の迷路を駆けめぐっているのだった。……そして十日目の夜が訪れ、彼女がベッドの中で不安とも恍惚ともつかぬ感情の昂ぶりに苦しめられながら、ただ眠りの中にだけ救いを求める者のように目を閉じたそのとき、十日間続いた物音はぴたりと止んでいった。……
 山荘に静けさが広がった。夜の中に降り積もる雪片のひとひらひとひらの音さえ聴こえてくるような静けさだった。
(浴室を通って、出て行ったんだわ)
 彼女は目を閉じたまま呟いた。屋根裏にとどまり続けていた者たちが、十二年とい
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う歳月を越えて、ようやく彼女の山荘から出て行ったのだった。すると閉じた目蓋の裏側に、しろじろと続く夜の雪道が映し出された。その雪道を進んで行く恋人たちの姿が見えた。二人のシャツの上に、夥しい粉雪が降り積もっていく……
 布団の中で、彼女は何故か急に乳房を押さえた。

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[#以下地付き]<U>
 山荘の天井で物音が十日間続き、そしてそれが突然消えていった日から一週間ほど後、山荘から何十キロメートルも離れた所にある県立公園の管理人が、慌てふためいて駐在所に駆け込んでいた。
 ――何、そんなに慌ててるんだよ。
 顔馴染の駐在は、女房の作る夕餉の匂いのたちこめている駐在所の中で言った。
 ――穴がよ、
 そう言って管理人の口は凍りついたようだった。そのままこの男――六十歳を迎えようとする胡麻塩頭のこの男が死んでしまっても、さほど不思議でないような、そんな具合に彼の言葉は途切れたのだった。
 ――かかあの穴が、二つに増えたのかあ?
 駐在は夕餉を前にして上機嫌だった。或いは既に、彼の大好物の琥珀色の液体が、
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いささか腹の中に流し込まれていたのかも知れない。
 ――いや、八個、正確に八個あったんだ。
 そう言って管理人は、ようやく事の顛末を語り始めた。
 ……その日、彼は昼食を済ませると、榛名山の火口原湖のほとりに在る自分の家を出て、ジープで雪を飛び散らせながら、地蔵峠を越えてM町へ向かった。M町に住んでいる甥の所へ用事があったのだった。そして用事を簡単に済ませると、再びジープに乗って来た道を戻り、雪に汚れている地蔵峠にさしかかったとき、彼は――「まるで何かの力に吸い寄せられたみたいに」――ジープから降りてその場所[#「その場所」に傍点]へ行ってみる気になったのだった。
 ――俺が警察官だとしたら、と管理人は言った、捜査の勘という奴だろうよ。
 その場所[#「その場所」に傍点]とは、いまから十二年前、五人の革命軍が雪に閉じ籠められた山荘で十日間の銃撃戦を開始するその道程において、自分たちの仲間の多くを山岳ベースの凍える夜の中で死に至らしめ、そのうちの八人の死骸を埋め隠した場所だった。その場所は、地蔵峠を越える車道から、五○○メートルほど松林の奥へはいった暗い窪地に在った。管理人はその事件が明らかにされたとき、革命軍の山岳ベースの第一発見者であったという栄誉によって、八個の死骸の発掘作業にも立合っていたから、十二年を経た現在でも、それがどのあたりであるか容易に見当をつけることが出来た。
 車道の脇の松林は、きのう降ったばかりの雪に埋もれていた。その上を誰かが往き来した跡は全くなかった。それでも彼は、女の白い腹のような雪原を辿り、その場所へと向かった。そして軟らかな雪が彼の膝までも呑みこみ、地面が急に下り坂になっている所で、彼は幾人もの足跡を――下の窪地から登って来ている幾人もの真新しい足跡を、発見したのだった。その幾人もの足跡は、雪の被さった黒い灌木の間を縫って、ずっと下の方から登って来ていた。だが不思議なことに、それらの足跡は彼の立っている坂の終りの所で途切れ、そこから車道までの平坦な雪肌には、(いま歩いてきた管理人自身の足跡を除けば)いかなる痕跡も残されていないのだった。
(あの時と同じだな)と、管理人は経験を積んだ刑事のように考えた。
 あの時――つまり彼が革命軍の山岳ベースを発見した時も、車道から見える限りの足跡は丁寧に消され、その奥の沢へ下る斜面にだけ、真新しい足跡が残されていたの
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だった。兵士たちの周到な警戒心は、笹の葉や自分たちの衣服を用いて、車道から見える限りの足跡を消し去る作業を怠らなかったのだった。
 しかし――あの時と違うことがひとつだけあった。というのは、あの時の足跡は坂を下って山岳ベースへと向かっていたのだが、今度は正反対に――つまり下の方の窪地から坂を登ってくる形で、幾つもの足跡が残されていたからだった。まるで幾人もの者たちが、十二年前の暗い窪地から、外の世界へ向けて出て行ったかのように……。
 ――変な気分だったな、と管理人は言った、週刊誌か何かが十二年前のあの場所の取材にでも来たというんなら、なにも車道までの足跡をわざわざ消したりする必要はねえんだからな。
 ――なるほどなあ、それが今日の大事件てえ訳だ。
 駐在は相変らず上機嫌だった。
 ――馬鹿言うんじゃねえ、まだ先があるんだ、と管理人は続けた、俺はなんだか背中がぞぐぞぐしたけれども、何かの力に吸い寄せられたみたいに、幾つもの足跡の来ている窪地の方へ下りて行ってみたんだ。まるで夢の中の斑文様の川を歩いていくみてえだった。坂を下りおえてみると、女のあそこの毛みたいに絡まりあっている茨の茂みがあった。十二年前とそっくり同じだった、そして――
 そして、悲しみの森を掻き分け、その奥の窪地に足を踏み入れ、十二年前と同じ場所に立ったとき、管理人はそこに幾つもの〈穴〉を見たのだった。
 ひと一人が横たわれるほどの雪の穴は、数えてみると丁度八個在った。それは暗い地面のあらわな裂目のようでもあり、雪の中に隠されている非合法の唇のようでもあった。
 近づいて行ってみると、〈穴〉のまわりは掘り返された雪と泥によって、こんもりとした柔らかな縁をつくっていた。
 ――俺は穴を調べてみようと思って、その中に手を入れて触ってみたんだ。そしたら、土が温けえんだな。まるで人間の肌みてえによ。
 そして急にまわりの樹木たちが騒ぎ始め、樹木たちの枝という枝から闇がいっせいに降りかかり、訳の分からない怖れに捉えられた管理人は、他人の喉から洩れてくるような叫びを森じゅうに響かせながら、雪の斜面を這い登り、松の根っこにつまずき、
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死ぬほど息を詰まらせながら、自分のジープに駆け戻ったのだった。
 ――はあ、そりゃ県警に連絡しておかんと!
 駐在はそう言って手帳を取り出し、メモをとる仕草をした。こうでもしない限り管理人が話を切り上げないのを、彼は良く知っていたからだった。
 というのは――この管理人は十二年前、革命軍の山岳ベースの発見者として殊勲甲を立てていたのだが、そのわずか半年ほど前にも、彼は、ベレー帽とルパシカと白いコロナで武装した連続殺人犯の、その犠牲者の太股を淫らな雪の中に発見するという歴史的な偉業を成し遂げていたからだった。白いコロナに乗りながら文学について語る連続殺人犯が、やがてこの国を覆い尽す慾情のいっさいを予告していたとすれば、幾つもの暗い夜をもった革命軍の山岳ベースはこの国の絶望のいっさいを予言していたのだから、管理人は北関東の雪の中に、驚くべき二つの未来を発見したのかも知れなかった。
 この二つの大発見によって、彼の名声は全国に轟いていた。そして、宝籤の一等賞を連続して当てるという奇蹟を演じた者が、そののち死ぬまでの間、空しくも夥しい紙片を買い集めることとなるのと同じように、彼もまた、自他共に認める天才的な民間捜査員として、紙屑のような情報を地元の駐在所に届け出る者となっていたのだった。――松の木に縄が掛けられてあったとか、湖のボートが一艘足りないとか、別荘の明かりが一晩中つけられたままであったとか、風が鳴っているとか、空が青すぎるとか……。
 県警に連絡しておくという駐在の言葉で、管理人はようやく腰を上げる気になった。本来なら駐在を伴ってもう一度地蔵峠まで赴くところなのだが、駐在はもう夕餉のようだし、すっかり暗くなった山道をひき返して行くのは、たしかに余り気持の良いものとは思えなかった。
 ――県警に連絡するときにはよ、と管理人はひとりジープに戻りながら言った、他の場所も調べてみるように頼んでくれ!
 他の場所、と管理人が言ったのは、十二年前の死者たちが埋められた何箇所かの場所のことを言っているのだった。革命軍は全部で十四人の兵士たちを死に至らしめ、凍てた兵士の死骸を彼らの通り抜けた黒い吹雪の中に埋めたのだった。地蔵峠に、迦
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葉山の麓に、妙義山の洞穴近くに、そして八月の印旛沼のほとりに……。まるで彼らの後から来るもう一つの部隊が、雪の中で道を踏み迷うことのないように残した十四本の道標【みちしるべ】のように。
 ――ああ、連絡しとくさ。
 駐在はジープに向かってそう言うと、夕餉のために奥の茶の間へはいって行った。そして走り去って行くジープの寒々とした音を聞きながら、琥珀色をした液体を小さなグラスに注ぎ、唇と舌で火から産まれた液体を味わい、それを半分ほど腹の中へ流しこむと、今日あったことはすべて忘れてしまった。

        *

 その日の数日前、つまり山荘の天井の物音が消えて行ってからしばらくした頃、K町の山麓で一人の登山者が死亡していた。
 それは三人のパーティのうちの一人だったのだが……その日の朝、M町から登り始めた彼ら三人は、妙義山の奇怪な峰とその山腹にある幾つもの洞穴を横手に見ながら、昏い昼を歩き続け、雪の舞い始めた午後を、K町へ下るべく急いでいたのだった。
 小さな突起を越えると、杉林の中を、道は陰鬱に下り始めた。雪が少し激しくなって、一条の道を不安定にかすませながら、夕刻が急速に近づいてきた。そしてその夕闇、もしくは雪闇ともいうべき白々とした冥さの向こうから、二人の登山者が登って来るのが見定められた。それは夥しい蝶の死骸に纏いつかれた一組の恋人たちのようでもあり、また、白い闇と共に現れるという恐るべき伝説の中の男と女のようにも思えた。
 互いの雪を踏む音が近づき、それが細い道の上を交叉していった。
 ――こんにちは。
 三人のパーティの真中を歩む者が挨拶の言葉を掛けたが、一組の男女は無言ですれちがって行った。ただ一瞬、バラの花のような匂いが雪の中にたちこめたのを、そのとき声を掛けた者は感じただけだった。
 ――おかしいな、
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 と彼は半ば口に出して言った。なぜなら、登山者同士が挨拶を交すのは山の不文律であったし、まして人気のない雪の山奥で出逢う者があったとすれば、いささかの情報を交換しあうのが自然であったからだった。
 ――バラの花のような匂いがしないか?
 彼は自分の前を歩いている者に向かって言ってみた。しかし先頭を進んでいく者は、汚れたザックの背中だけを見せたまま何も答えなかった。なぜならその男は、先ほどすれちがった若い男女が、夥しい雪片を纏いつかせていたのみならず、虚空にも似た黝い顔をしているのを、真正面から視てしまっていたからだった。それは泥と墨で塗り固められた異教徒の仮面のようでもあり、雪に永いこと埋められていた果実の凍てた死骸のようでもあった。そしてベテランの警察官である先頭の男は(身の毛もよだつようなその黝い顔を十数年前にも見たことがあったのだから)、顔を黝くしたまま歩み寄って来た恋人たちに出逢って、既に目と口とを凍りつかせてしまっていたのだった。もしも後を歩く二人の者が、そのとき先頭の男の顔を覗き見ることが出来たとしたら、彼らは相棒が二つの眼を見開き、髭から氷柱を垂らしながら、既に死の世界へ向かっているところを見ることが出来たかも知れなかった……。
 三人のパーティが山麓の宿に辿り着いたときは、丸い夜が雪の世界を呑みこもうとしていた。宿の玄関につけられた電灯が、汚れた雪の上に黄色い光を滴らせていた。そしてその黄色い滴りの中で、パーティの一人は死亡したのだった。見開かれた二つの眼が、言い知れぬ恐怖を表わしていたが、地元の医師によって、死因は寒さのもたらした急激な心臓停止であると診断された。残された二人の仲間によって、家族と勤め先に連絡がとられた。そして死体は一応病院に運びこまれたが、死んだ者が生き返ることは最早なかった。

        *

 一方、公園管理人が雪の山中に発見した八個の穴はといえば、再びそれを視る者のないまま、自らの痕跡を新たに降り出した雪の中に消し去ろうとしていた。駐在は県警に連絡を入れることのないまま、平和な朝と夕べとを過ごしていた。もしも彼がこ
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の馬鹿げた情報を県警に伝え、県警がこの馬鹿げた情報に基づいて十二年前に埋められた者たちの場所を捜索していたとしたら、彼らは公園管理人の言った通りの場所で、八個の〈穴〉を本当に発見したのみならず、迦葉山の麓で三個の、妙義山の洞穴近くで一個の、新たな〈穴〉を雪の中に見出していたかも知れなかった。同じ日、同じ時を期したかのように、合計十二個の雪穴が、何者かの手によって次々と掘られていたのだった。
 そして、それよりも大分前、北総印旛沼の水面が、異様に湧き立っていた。黒い湖面に、細波があらゆる方角から湧き騒ぎ、風が岸辺の松林をごうごうと掻き鳴らし、風が雲を呼び、雲が激しい雨を呼んで、その日の天気予報を完全に狂ったものにさせていた。
「龍神様の波だべ」
 沼の近くに棲む老婆がそう言った。というのは――これはもう殆ど忘れ去られてしまったことなのだが――その沼は古くから龍神の沼と呼ばれ、幾十年かに一度、紫色の波を湧き立たせ、その波の中から天空に荒れ狂う巨大な龍神を出現させるのを習いとしていたからだった。――しかし、伝説が既に人々から忘れ去られてしまったように、沼からはいかなる龍神も姿を現わさなかった。ただ村の古老が、岸辺の松林に沛然と降り注ぐ薄みどり色の雨の向こう側に、恋人同士のように佇んでいる二つの影を見ただけだった。……
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[#以下地付き]<V>
 その頃永い歳月に亙る努力が実を結んで、祖母は死者と語りあうための交霊術を体得することに成功していた。夥しい方法の意志統一や断食、穢れを祓う儀式や数千の禁忌、呪文と叫びとささやきと、そして何よりも死者と語りあいたいという不変の意志と、自らの死をも怖れぬ魂の入れ替え――これらの努力によって、ようやく祖母は死者たちの世界にとびかう言霊を手に入れ、それを自由にする術を学んだのだった。
 彼女がこの交霊術を体得するためには、四千と四百の夜が必要とされた。その間彼女は、首都のビルディングに囲繞された一画の、そのまわりだけはわずかな自然が残されている奇妙な立方形の部屋に籠り、生きている者の誰とも口をきくことなく、ただ死者と語りあうことだけを念じながら、苦行に耐えてきたのだった。
 永い歳月を苦行の中で坐り続けていたため、それを始める前から持病の腰痛によって曲っていた腰は、いまや完全に折れ曲って、彼女の体を驚くほど小さなものにさせていた。誰とも口をきかないために声は嗄れたものとなり、梳かれることを忘れた髪はすっかり白くなってしまっていたから、もしも誰かが彼女の姿を見たとしたら、まるで二百歳の老婆のようにも思えたかも知れなかった。
 彼女の栖である立方形の部屋は、四面がざらざらとした固い壁で囲まれ、その上に同じような殺風景な天井が被せられて、部屋の中を冥いものにしていた。ただ天井の細い隙間とでもいうべき天窓から、わずかな外界の光が射しこんで、相変らず太陽が一日に一回ずつ巡り続けていることを彼女に教えた。
 細長い天窓からは、彼女の家の庭の公孫樹の梢と、その向こうをゆっくりと移ろっていく夕べの雲が眺められた。雲は不吉な色に染まり、夜空が幾つもの雲の死骸を呑みこんでいった。やがて世界が寝静まり、真の暗闇が彼女の小さな家を包み込むと、近所の叢に棲んでいる猫が目覚めて、太古の鳴き声を囲繞地に響かせた。闇をみだらにするその猫の声によって、彼女は季節が春であることを知った。
 そして春が過ぎ、公孫樹の梢を強い夏の日が掠めるようになると、家の屋根の上にまで繁殖している植物たちが、その幾本もの細い葉によって天窓を覆い、彼女の部屋
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を清涼なものにしてくれた。……そして蝉たちが死に絶え、草の葉が枯れると、首都の秋風がそれらの残骸を吹き散らかして行った。天窓の向こうには、わずかに蒼さを取り戻した天球が廻り、その上を滑って行く月や、秋の星座の微かな光を見上げることが出来た。雨が降り始めれば、音もなくこぼれ落ちる遠い金木犀の香りが、彼女の孤独を美しいものにした。
 ――こうして四季は、まことに単調なものであった。ただ幾度もの季節の移り変わりのなかで、彼女は首都の街区に炎の絶えていくのを視た。
 彼女が交霊術を体得するために立方形の部屋に籠った頃、囲繞地の向こう側の十字路には、まだ幾つもの炎が燃え残っていた。だが、その炎はやがて少数のものとなり、幾度も消え、そしてとうとうアスファルトの裏側、地下水の流れの陰へと埋もれて行ってしまったのだった。そして――十字路の炎が消えて行くにつれて、天窓から覗かれる首都の空には、幾本もの巨大なビルディングが背を伸ばし始めた。ビルディングは不安定な姿で上へ上へと伸び、日一日と天に近くなっていった。そして上空のいちばん空気の汚れているあたりで成長を止めると、それは夜の中に夥しい灯を點した。もはや季節を喪った夜空に、微細な光の集合で出来た幾本もの柱が聳え立った。それは世界中の光を喰って生きている不吉な生き物のようでもあり、また、天に達しようとして中断された空しい塔の残骸のようにも思えた。
 こうして祖母は、首都の時間の中で、十字路の炎が絶えてゆくのを視、それが地下へ潜るのを視、巨大なビルディングの勝利を視た。つまり彼女は、樹木の葉の移ろいや、星辰の運行よりも、もっと大きな時間の転回を視たのだった。――細い天窓の向こうに繰り広げられたこの首都の年代記は、余り愉快なものではなかったにもかかわらず、彼女は交霊術を体得しようという自らの固い決意故に、過ぎ去ったそれら四千と四百の夜を、ひとつの間違いもなく想い出すことが出来るほどだった。
 生きている者への未練は何もなかった。生きている者たちはすべて不恰好で、いやな声を持ち、悪い目付をし、汚れた息を吐いていた。彼らと付合うくらいなら、近所の叢に棲んでいる猫の相手をする方がましなくらいだった。ただ彼女の孫娘――もう永いこと逢っていない彼女のたったひとりの孫娘のことだけは、いつも気にかかっていた。
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(本当にいい娘だったよ)
 と祖母は呟いた。瞳のように優しい心を持った背の小さな孫娘は、まだ十代のうちに首都を離れたまま、行方知れずになっているのだった。
 ――そして、十二回目の冬がやって来た。それは彼女の孫娘が、彼女に別れを告げて首都を出て行った季節だったが、同時にまた、その娘の兄、つまり彼女の孫息子が死んだ季節でもあった。彼女の孫息子――当時追いつめられた革命軍の首領であり、五人の兵士たちによる銃撃戦が開始される直前に逮捕されたその孫息子は、逮捕された丁度一年後の厳冬に、コンクリートと鉄格子によって閉ざされた部屋の中で、首を縊って死んだのだった。それは当時の新聞によれば、革命そのものの挫折であると嘲けられたり、殺人者としての罪の意識の為せる業であると解説されたり、本人の心の弱さであると非難されたり、或いは単なる拘禁性神経症の結果であると診断されたりしたが、その真相は死んだ本人以外には誰にも分かりはしなかった。
 しかし――祖母が永い歳月の苦行の末に交霊術を体得してみると、彼女は自分の語りあいたいと思っていた相手が、決して孫息子だけではないことに気づいたのだった。彼女は交霊術によって異界に魂を投げ込み、そこから遠い虚空の中に孫息子の姿を見定めることが出来たが、彼の居るあたりにたちこめている濃密な血の臭いのために、それ以上近づくことは出来なくなってしまった。
(なんてなまなましい臭いだろう!)
 祖母は呟いた。死後の世界では死者は臭いを持たなかったから、その臭いは彼の肉体から発しているのでないことは明らかだった。それでいて彼の居るあたり、彼の吐息のかかるあたりの空間は、まるで彼の指先や爪先、髪の毛の一本一本、首筋の淋しげな傷痕から滴ったもののように、強い血の臭いで充たされているのだった。
(なんておまえは淋しそうなんだろう。おまえはまるで、生きている者と死んだ者との中間にいるみたいだよ)
 祖母は悲しそうに言うと、語るべき別の死者をもとめて、違う方向へと身を翻えして行った。
 祖母は死んだ十四人の若者たちと出逢いたいと思っていた。彼ら十四人こそが、自分の本当の孫娘や孫息子たちであるような気がした。自分の本当の孫たちと語りあう
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のでなければ、いったい何のために、四千と四百の夜の苦行に耐えてきたというのだろう――。
 その若者たちはわずか十二年前(死者の世界では十二年というのはほんのわずかな時間だ)に死んだ者たちだったから、虚空の中では比較的容易に、その居場所を捜すことが出来るはずだった。彼女の体得したばかりの交霊術によっては、余りに昔の死者と言葉を交すことは出来なかったが、十年や二十年前の死者と出逢うことは十分に可能であり、彼女は危く、自分と折り合いの悪かった何十年も前に死んだ姑とぶつかりそうになって、慌てて引き返したりしたほどだった。
 しかし――三日三晩に亙って虚空のありとあらゆる場所を捜し回ったにもかかわらず、十四人の若者たちはついに見当らなかった。そのわずかな痕跡、かすかな手懸りのようなものさえ見出すことが出来なかった。とするならば――と祖母はひとりで想った――十四人の若者たちは、まだ死んでいないのかも知れない……。
 祖母は死者の世界を捜し回った末、十四人の者たちはまだ地上に残っているという結論に達した。そして、生きた十四人の者たちと出逢うために、永い間いっぽも外へ出ることのなかった天窓のある立方形の部屋の中から、出て行く決心をした。
 ――外は雪が降り始めていた。雪がひどくなっていくことを考えて、彼女は臙脂色のネッカチーフで髪を隠した。そのネッカチーフは、ずっと昔に彼女の孫娘から――いまでは行方知れずになっている背の小さな孫娘から――プレゼントされたものだった。それは余りに派手すぎると思って、ただ一度だけ着けてみたきり、ずっと仕舞い込まれていたものだったが、いまでは自分に良く似合うような気がした。
 空を見上げると、幾本もの巨大な光の柱が、汚れた夜の中で瞬いていた。この冬、首都は異様なほど幾度も、深い雪に覆われていた。まるであの年の山岳に降っていた雪が、十二年という時間を越えて、巨大な都市を埋め尽そうとしているかのようだった。道路は車の往き来を絶やし、十字路は暗い広場のように静まり返っていた。湿った舌のような風が、街の上を通りすぎていた。……
 こうして臙脂色のネッカチーフを髪に着けた祖母は、十四人の若者たちと出逢うために、永いこと棲んでいた冷たい部屋の中から、雪で姿を変えた夜の街へと出て行ったのだった。
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 祖母が十四人の若者たちと出逢うために街の中へ出て行ってから半月ほどのち、日本海に面した小さな町の銃砲店の主人は、末娘の婚礼から帰って、ふかぶかとした憂鬱を抱えながら、ひとりで酒を飲んでいた。
 彼が憂鬱であるのには彼の齢の数ほどの理由が存在したが、そのうちのひとつは、今日東京のホテルで行なわれた末娘の結婚式が、ひどく賑やかなものであり、潮騒を聴きながら静かに暮らすことに慣れている彼の神経を大いに疲れさせたからにちがいなかった。
 花婿は娘と同年代の、若すぎるくらいの青年だった。やはり同年代の大勢の若者たちが集まって執り行なわれた披露宴は、花嫁と花婿が白いゴンドラに乗って天空から舞い降りてくるという神々しい場面によって開始されたのだが、それは二人を迎える若者たちの騒然たる歌合戦へと引き継がれ、双方の会社の上司たちもまた、会社の自慢話をひとくさり述べた後は、ありとあらゆる能力において若者たちに負けないことを証明するために、それぞれが朗々たる歌唱を披露し続けたのだった。――このため、愛と涙と港と未練とにみち溢れた祝宴は、その後に続く団体のないのを良いことに、予定より延々一時間半も超過し、そのための父親の出費は東京までの交通費の百倍にも達する額だったから、帰宅した主人に纏いついている憂鬱の最大なる原因は、疲弊した彼の神経ではなく、疲弊した彼の財布の中にあるのかも知れなかった。
 それに雪――なんといういやなベタ雪が降っているのだろう。祝宴を終えて東京を発つときは雨だったが、幾つかのトンネルを過ぎると雨は霙に変わり、やがて霙は雪に変わって、希望のない冬の夕暮を汚していた。
 彼は雪が大嫌いだった。雪が降ると何ひとつ良いことはない。――兵隊にとられて支那にいたとき、帰営時刻に遅れて二日間も営倉に入れられることとなったのも、雪の降っていた晩だった。自分より余程丈夫だったしっかり者の妻が倒れたときも、それから僅かの間に死んでしまった朝も、雪が降っていた。そして十何年も前、遠くの土地でやはり銃砲店を営んでいる戦友の家に数人の革命軍が押し入り、戦友の店から
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銃と弾丸とを奪い、彼に言い知れぬ恐怖を与えたあの夜も、今夜のようないやなベタ雪が降っていた。遠い土地の戦友は、主人の刎頸の友とでもいうべき者であったから、主人は戦友から聞かされた《恐怖の雪降る夜の物語》を、まるで我がことのように受けとめたのだった。
 ――まあいい、婚礼はともかく終ったのだから。
 主人は二階に棲んでいる長男の嫁に嫌がられないように、自分の飲んだものを卓袱台から片づけ、いつもより早く休むことにした。末娘まで嫁にやってしまうと、彼にはもう残されている仕事は何ひとつなく、いつ死んでも良いように思われた。或いは既に、自分は半ばほど死にかけているのかも知れないと、彼は淡く酔いの回った頭で考えた。
 そして、ずっと以前に妻の作ってくれた綿入れの前を合わせ、押入の中から幾枚もの毛布を引きずり出してきて、ハンモックの中に滑りこんだ。
 ハンモック――というのは、布団を敷くことなく、納戸に吊るされた旧い軍隊のハンモックの中で服を着たまま休むのが、もう永いこと彼の習慣となっていたからだった。
 ――地下に棲んでいる死者たちへの恐怖が、彼を畳の上に眠れなくさせていた。布団を敷いて休んでいると、地中から筍のように生え出してくる何本もの死者たちの腕が、眠っている彼の体にからみつき、地下深くひきずり込んで行くという恐怖に、彼は捉えられているのだった。
 その地下の死者たちは、彼が兵隊として支那へ行っていたとき、彼や彼の仲間の手にかかった何人もの支那人であるのかも知れなかった。
 北支の平原、中支の街、そして、南支の湿った密林――実に到る処で、彼と彼の仲間は支那人を殺しまくった。銃剣で胸を突き刺すとき、下を向く者は良民【リャンミン】であり、燃えるような憎悪の目を見開く者は八路軍【パーロ】であると教えられていたから、そして彼や彼の仲間の殺した支那人は、女や老人や子供たちまでが燃えるような憎悪の目をこちらに向けたから、ほとんどの支那人は八路軍【パーロ】であるにちがいないと、彼は考えていた。目を見開いた顔に唾を吐きながら銃剣を引き抜くとき、支那人の胸からは必ず、トプトプというせせらぎのような音がした。そして叢に倒れこんだ死者たちの腕が、まる
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で空に向かって何かを把もうとするかのように、埃っぽい黄昏の中で奇妙に顫えていたのだった。……
 或いは、彼の体をとらえようとする何本もの腕は、戦友の銃砲店を襲った革命軍の若者たちのものであるのかも知れなかった。銃を手にしたこの国の最初の革命軍である彼らは、まるでその銃身の重さに耐え切れなくなったかのように、仲間の過半を死に至らしめていたのだった。長いこと兵隊であった主人の経験によれば、彼ら革命軍は、銃を手にすることによって世界が変革され得るという幻想によって滅んだのではなく、銃を手にすることによって自分たちが変革され得るという幻想によって滅んだのだった。勿論――それら革命軍の死者たちは、主人とは何のかかわりあいもない者たちだった。何と言っても、銃を奪われたのは主人ではなく、遠い土地に棲む彼の戦友だった。しかし、あのときのテレビジョンに映し出されていた死骸の映像――掘り起こされた雪穴の中から、天に向かって腕を差し伸べていた黝い死骸の映像――が、余りにも鮮明に彼の記憶に残されているのも事実だった。……
 これら地の底から伸びてくる何本もの腕にかんする恐怖を取り除くため、彼はまだ妻の生きていた頃、妻に伴われて近所に棲む祈祷師の家へ赴いたこともあった。幾人もの重病人がその祈祷師のおかげで救われている、と彼の妻は言っていた。祈祷師は栄養の悪い鼠のような顔付をしていた。彼は主人の話を眠そうな目で聞いた後、三十分ほど悲鳴とも祈りの声ともつかぬものを挙げていたが、やがて、主人に掛けられている死者たちの呪いを祓い去るために、供養の石塔を建立することが必要だと主人に勧告した。しかし、その石塔に要する費用は、主人の考えでは莫大ともいうべきものであったから、とっくに死んでいる支那人や見知らぬ若者たちのために自分の金を使うのは馬鹿げたことだと考えて、彼はそれきり祈祷師の家へ行くのを止めてしまった。
 こうして主人は、貨幣を守ろうとしたために神の力からも見放されて、地下から伸びてくる何本もの腕の恐怖とただひとり闘う決意を固め、物置の奥から旧い軍隊のハンモックをひきずり出してきたのだった。
 丈夫な麻で出来たそのハンモックは、彼の持ち帰った唯一の世界大戦の戦果だった。それは実際には敗戦の記念品であったのだが、彼はそれを青春の形見として――その粗い網目から彼の青春の夢が悉くこぼれ落ちていった形見として――懐かしい故国へ
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持ち帰って来たのだった。もっとも、多くの兵士たちは皇国の敗戦とひきかえに、外地から大量の毛布・罐詰・砂糖・衣類などを持ち帰っていたから、彼が海の向こうからひきずってきた手ざわりの悪い品物は、彼がいかに要領を得ない人間であるかを証明する物として、永いあいだ隣人たちに記憶されるところとなったのであったが。――
 かくして主人は、戦争が終ってから三十年ものあいだ物置の奥で生き続けていた戦友に――いまや彼の唯一の友に――再会した。空中に体を横たえるという魔法だけが、彼に安らぎを与えてくれた。その素晴しい品物は納戸の真中に、腰よりも高い高さで張られた。
 余りに低くて床に近すぎると、死者たちの何本もの腕が伸びてきて、主人の背中や腰に触りそうな不安があったし、逆に余りに高すぎて天井に近いと、二階に暮らしている彼の嫌いな長男の嫁の深夜の声が、必要以上に生々しく聞こえてしまうという難点があった。なんといっても長男の嫁の深夜の叫び声ともいうべきものは、あたりかまわぬ執拗さで持続するのみならず、それは確実に週に三回、決まった曜日に、いかなる狂いもなく聞こえてきていたから、主人はその声のおかげで、翌朝は市役所の清掃車の回って来る日であることを忘れずにいることが出来たほどだった。――
 こうして主人は、亡妻の綿入れと幾枚もの毛布にくるまれながら冬のハンモックにはいり込み、酒の力の支援を受けて、地下から伸びてくる何本もの腕の恐怖と闘いつつ、記念すべき末娘の婚礼の一日を振り返った。歌合戦の喧噪や、白い花嫁姿の末娘や、その娘の幼かりし日々のことを想い返した。
 美智子という名前の末娘は、丁度皇太子殿下の御成婚の日に生まれたのだった。皇太子殿下が平民の娘を嫁にするというので、国じゅうが沸き返っていた。同じ年頃の若い娘は、誰もがその幸運な娘の髪形をまねしようとしたほどだった。だから主人もまた、腕の中の皺くちゃな赤ん坊の幸せを祈って、妃殿下となられた方の御名前をいただいたのだが、その赤ん坊が満一歳になったときには、国会構内に突入したデモ隊の中のひとりの女子学生が警官隊に頭を割られて死亡し、(その女子学生はやはり赤ん坊と同じ名前だったから)夫婦はまるで自分たちの娘の柔らかな頭が割られたような、暗い想いを味わったものだった。
 そしてその頃から、商売も彼の人生も、面白いことが何もなくなったようだと、主
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人はハンモックの中で想った。彼は死んだ妻や、己れの孤独について考えた。そしてもう一度、外に降り続いているはずのいやなベタ雪のことを思い出して、彼の人生そのものであるような憂鬱な眠りにはいり込み、幾度も見た夢の入口のところまで行きかけたとき、玄関の戸を激しく叩く音がしたのだった。
 戸を叩く音に続いて、半ば夢の戸口の方から、老婆の嗄れた声が聞こえた。
 主人は柔らかい雲の上から降りる者のように、ハンモックから震える二本の脚を下ろした。
 深夜に玄関の戸が叩かれる度に、彼の膝頭が紙のように震えるのは、言うまでもなく、戦友から聞かされた《恐怖の雪降る夜の物語》が鮮明に記憶されているからなのだが、いま玄関の戸を叩きながら訪うているのは、たしかに老婆の声だったから、彼は着替をする必要のない便利さで玄関に降りると、夜の中で凍てている孤独な捻子鍵を回した。捻子鍵は彼の手の中で、まるで夢の中の出来事のように軽々と回った。
 戸を引き明けると、暗い風といっしょにバラの花の匂いが流れこんできた。
 そしてそこに、夥しい雪片を身に纏い、顔を黝く塗った大勢の若者たちが肩を並べて立っているのを、主人は見たのである。
(八路軍【パーロ】だ……)
 いまたしかに声を聞いた老婆の姿は、何処にも見当らなかった。ただ黝い顔をした若者たちの背後の闇の中に、相変らず陰気なベタ雪が降り続いているばかりだった。三叉路を隔てた向こう側の街燈が、雪の中でオレンジ色に瞬いていた。
(あの店もそうだった!)
 と主人は想った。あの店――つまり主人が幾度か訪ねたことのあるあの戦友の店もまた、まるで宿命ででもあるかのように、三叉路の向こうでオレンジ色の街燈が瞬いていたのだった。
 ……若者たちに銃が渡されるのに、時間はかからなかった。主人はまるで自分が十年以上も前の出来事の中に居るような気がした。
(彼らはもう一度、最初からやり直すつもりなのかも知れない)――十年を越える歳月が頭の中で白く混ざりあっていくのを感じながら、主人は想った。
 渡された銃の数によって、主人は新たな革命軍の人数が十四人であることを知った。
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そして黝い顔をした十四人の八路軍は、東の方へ向かう道に消えて行ったのだった。主人はその後姿をしばらく見送っていたが、ベタ雪が夜の中に消えるあたりで、彼らの姿もまた闇の世界に溶けて行ってしまった。後には幽かなバラの花の匂いと、オレンジ色の街燈の孤独が残されているばかりだった。
 まるで海が死んでしまったように波の音ひとつしない、と主人は玄関の戸に凭れながら思った。……

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[#以下地付き]<X>
 その翌朝、寒々とした警察署で三人の刑事たちから取調べを受けたとき、主人はただ十四人の兵士たちが黝い顔をしていたこと、そして東の方へ向かう道に消えて行ったことだけしか憶えていなかった。若者たちの特徴や男女の区別、声の具合などを訊かれたが、彼には答える術がなかった。そしてただ痴呆のように、十四人の若者たちが黝い顔をしていたということだけを繰り返した。痴呆のように――いや三人の刑事たちは、主人が「十数年前のショックの所為で」もはや完全な痴呆状態に陥っていると判断して、早々と彼を放免したのだった。
 勿論、十四人の若者たちが銃砲店を襲った形跡など、どこにも在りはしなかった。雪の上にはいかなる足跡も残されていなかった。のみならず長男の嫁――丁度その時刻に階下の手水場に下りてきたという長男の嫁が、義父はハンモックの中で幸せそうに眠っていたと証言したのだった。
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 ただ――十四丁の銃が主人の店から消えたことだけは事実であったから、それはひとつの謎として、三人の刑事たちに残されることとなった。
 ……隠したんじゃねえのか、どこかに……ま、そうだろうな、隠したんだ……いつかな? ……ずっと前かも知れねえぞ……いや、先月の巡回検査のときは全部揃っている……危ねえもんだな、巡回検査、本当にやったのか……長男夫婦の証言もあるな、これ……きのうの夕方には異常なしか……ああ……これも危ねえもんだ……信用できねえな……信用できねえ……
 ――これらのやりとりの中で、先程から口をきいていない三人目の刑事は、銃砲店の主人の証言が案外に真実ではないかと考え続けていた。就中、十四人の若者たちが黝い顔をしていたという証言が……。
 それは、その刑事の最もいやな記憶、同僚たちの前ではいまや決して口に出すことのなくなった記憶に纏わることだった。
 十年以上も前――つまり革命軍が遠い土地の銃砲店を襲い、銃の奪取に成功した半年ほどのち――まだ警部補の試験に合格する前の平警官であった彼は、北総台地に巻き起こっていた空港反対闘争に対する警備のために、はるばる駆り出されて行ったことがあった。
 政府は、農民が二十年の歳月をかけて開墾した土地を収用し、そこに三メートルの厚さのコンクリートを流し込んで滑走路を造るという計画を進めていた。それに対して、土地の農民・貧乏牧師・小間物屋・それに全国から集まった学生たちが、赤旗や蓆旗を押し立てて抵抗しているのだった。
 ――冷たい九月だった。
 夜中にほんの少しだけ降った雨が、夜明けには乳色の霧となって、あちこちにこんもりと茂った森や、落花生畑、農道、ジュラルミンの楯、自分たちの手足などを霞ませていた。
 その日の目的は、農民や学生たちの立籠る三つの砦を陥落させることだったが、砦を攻略するのは東京の屈強な機動隊にまかされていたから、彼の所属するX県三個中隊二四○名の部隊は、砦のひとつから三キロメートルも離れた十字路で、砦への交通を遮断するという任務についていたのだった。
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 道路の上にまで被さっている古い樹木の枝が、夜明けの十字路を暗くさせていた。十字路の後の方には、雨で湿った落花生畑がゆるやかな起伏を描きながら乳色の世界へと溶け、右手の道の奥には丸い古墳のような森が、まだ夜の中で眠っていた。
 砦への攻撃はそろそろ開始されるはずだったが、寄せ集めの部隊である二四○名は、激戦地から離れたいささか平和的な気分で、遠くの空に舞い始めたヘリコプターなどを見上げて時を過ごしていた。
 ――まったくいい土をしているよな、と農家の出である彼は、横にいる同僚に言った。
 ――ああ、柔らけえな。まるで、女のあそこみてえに。
 朝は既に落花生畑の絨毯の上に訪れていた。
 そして、彼が夜明け前からの冷たい霧に纏いつかれていた結果、落花生畑で小用を足すことを思いつき、小隊長の許可を取って部隊の後ろかちひとり離脱したそのとき、突然背中の方でなだれ[#「なだれ」に傍点]のような物音が起こったのだった。
 ――振り向いた彼の眼に、霧の農道を一直線に突撃してくる一千人の軍隊の姿が在った。さまざまな色のヘルメットとその上の草の葉の迷彩、先頭を走る者たちの幾つもの口腔、見たこともないような太い竹槍、乱れ飛んでくる無数の流星――そして何よりも黝く塗られた彼らの顔……その黝い顔をした一千人の軍隊を視たとき、彼はかつて味わったことのないような破滅的な恐怖に捉えられ、殆ど本能的といえる素早さで落花生畑の中に駆けこんでいたのだった。
 落花生の葉を嵐のように蹴散らし、柔らかすぎる土に幾度も足を取られながら、無茶苦茶に走って後を振り向いたとき、(それはいまでも彼の耳の奥に残っているのだが)凄まじい音が起こった。警官隊の最前列のジュラルミンの楯に、幾十本もの堅い竹槍が打ち当ったのだった。そして――彼の記憶では、まるでスローモーションのフィルムを見ているように感じられるのだが――鋭い竹槍がジュラルミンの列を突き破り、後に続く竹槍や鉄パイプが続々とその傷口を広げ、顔を黝く塗った一千人の軍隊は、二四○名の警官隊を粉々に打ち砕いていったのだった。
 幾人もの警官が、開いた口から小鳥のような舌を突き出しながら朝の絨毯の上を逃げて来ていた。そして、その時になって初めて、彼は既に自分が小用を足しているの
-----P066------
みならず、大きな用事をも済ませており、再び逃げ出さなければならないことに気がついたのだった。ただ、ほんのわずかな時間、彼が重たくなったズボンと共にそこにとどまり続けたのは、一瞬音の消え去ったような不思議な時の中で、十字路に訪れた炎の秋が、余りにも美しいと感じられたからだった。……
 しかし――全く不可解なことには、彼が霧の夜明けに視た九月の軍隊は、そののち、いかなる場所にも姿を現わさなかった。
 十字路を制圧した一千人の軍隊は、しばらくして来た道を戻り、昏い紫色の地平線を行軍し、やがて森の奥へと消えて行ってしまったのだが、空港をめぐる闘いがその日の午後も、そしてその翌日も続けられていたにもかかわらず、彼らは再び森の中から現れることがなかった。のみならずその後の時代、首都やさまざまな街において、小規模な戦闘が継続されていたが、顔を黝く塗った一千人の軍隊は、いかなる土地・いかなる街にも姿を現わさなかった。あたかもその九月の夜明け、森の樹木たちがただ一度だけ武器を取って立ち現れ、激しい戦闘ののちに、再び樹木となって森の奥へと隠れ込んでしまったかのように――。
 ……もっとも彼は、九月の軍隊の前身ともいうべきものを、その半年ほど前にも見たような気がしていた。
 それはやはり、空港建設をめぐる闘いに召集されて行ったときのことだった。春の雨が上がった後の、泥のスープのようになった台地の上で、激しい攻防戦が繰り広げられていた。農民たちは大地に何十メートルもの穴を掘り、その中に籠って抵抗を続けていた。女や子供や老人たちは、自分たちの体を鎖で樹木に縛りつけ、ひとりひとりが樹木の生きた枝や葉となることによって、樹木とその下の大地を守り抜こうとしていた。学生たちは武装した砦から出撃を繰り返し、幾重にも張りめぐらされた機動隊のジュラルミンの楯の列を、何日にも亙って悩ませ続けていた。そしてその攻防戦の中で、農民や学生たちは、或いは泥にまみれ、或いはタイヤを燃やす煤に纏いつかれて、目と唇だけが生きている珍しい生物のような、黝く汚れた顔をしていたのだった。
 なるほどそれは、やがて姿を現わす軍隊の胎児ともいうべきものであったかも知れなかった。しかし、九月の夜明けに現れた一千人の軍隊は、やはり半年前とは様相を
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異にしていた。彼らは単に泥と煤に汚れたのではなく、異界へゐ越境の意志を示すかのように顔を黝く塗り、見たこともないような太い竹槍によって武装し、まごうことない正規の軍隊として霧の中から立ち現れてきたのだった。
 そして――これまた不可解なことが、もう一つあった。
 というのは、一千人の軍隊が深い森の奥へと姿を消したのち、落花生畑の中でズボンを押さえながら震えていた彼は、やはり落花生の蔓に絡みつかれて震えているみじめな男に向かって、一千人の軍隊は何故顔を黝く塗っていたのだろうかと問い掛けてみたのだが、そのみじめな男は、まだ怯えの細波の静まりきらない唇で、(自分はそんなものなど見なかった)と答えたのだった。
 馬鹿な! と彼は思った。そして別の男――畑の土の中に頭をもぐり込ませようとしている別の男に訊いてみた。(自分はそんなものなど見なかった)頭で土を掘っている男は答えた。木の枝のいちばん先端に這い登っている男に訊いてみた。答えは同じだった。老婆のように腰を抜かしている男も、血だらけの顔で何かを叫んでいる男も、同じだった。十字路に横たわっている男も……いや、その男は既に何も答えることが出来なかった。……
 そして、彼が自分の県に戻ってから、(自分が倉皇として戦列を離脱した者であるという気まずさに耐えながら)戦場に居あわせた幾人もの男たちに同じことを尋ねたとき、彼の不安は殆ど恐怖へと姿を変えたのだった。――顔を黝く塗った軍隊だって? 赤だか黒だか知らねえが、十字路にはネズミ一匹現れなかったじゃねえか……。
 このときから彼は、九月の軍隊について語ることを深く怖れ、(自分が気が狂っていると思われないために)その事件のいっさいを口にすることを止めてしまったのだった。
 この慣れない完全黙秘の重圧は、勿論、彼の神経にきわめて大きな負担をもたらした。なにしろ彼が口を噤むようになってから、もう十年以上にもなるのだった。この十年の間、九月の軍隊への恐怖を忘れた日はただの一日もなかった。森の奥へ隠れた一千人の軍隊は、必ずいつの日か再び武器を取って立ち上がるのにちがいないと、彼は確信していた。《わたしはかつて在り、いま在り、今後も在る》――その声は一千の樹木のざわめきのように、彼の二つの耳を十余年に亙って脅かし続けてきたのだった。
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 この精神的緊張から逃れるために、酒も煙草もやらなかった彼は、ただ仕事にだけ没入した。職務を遂行しているときだけが、喉の奥に閉じこめられている黝い恐怖の塊りを忘れさせてくれた。
 実際、彼の精勤ぶりは時と所を選ばなかった。たとえ非番の日でさえも、彼は自らの任務を全うしようとした。ついこの前の日曜日も、彼はかつて逮捕したことのある主婦に対する親切なアフターサービスを行なってきたほどだった。その主婦は夏の昼下りのスーパーマーケットで、ささやかな略奪を行なっていたところを、運悪く彼に現行犯逮捕されたのだったが、彼女のその後の生活が心配になった彼は、非番の日を利用して主婦を旅館に呼び出し、スカートからはみ出ている丸っこい膝に手を置きながら、更生についての熱い訓戒を垂れたのだった。のみならず――彼女が既に二度目の過ちを犯し、スーパーマーケットの品物を体のどこか秘密の場所に隠匿しているのではないかという心配に捉えられた彼は、その日が非番であることも忘れて、その秘められた部分を敢て捜索したほどだった。俺がこんなことをするのは、と彼は目蓋を閉じて仰向けになっている主婦に向かって言った、世界じゅうの誰よりもお前のことを心配しているからだ――。
 ……嘘じゃねえのか?……ああ、嘘にきまってる……どこかへ隠したんだ……いったいどこへ隠しやがったのかな……
 夕暮の警察署の中で、二人の刑事は相変らず堂々めぐりを続けていた。
 ――いや、銃砲店の主人の語ったことが本当だとすれば、と三人目の刑事は甦ってくる恐怖に震えながら呟いた――十四人の者たちは、森の奥に隠れている九月の軍隊に合流するつもりなのかも知れない……そして、樹木の沈黙の中で生き続けている一千人の軍隊と共に、奴らはすべてを最初からやり直すつもりなのかも知れない。一千人の軍隊は、一千丁の銃を手にして、再び九月の夜明けに姿を現わすかも知れない。
《わたしはかつて在り、いま在り、今後も在る》
 喉から溢れ出そうになる叫び声を抑えるために、彼は人一倍大きな掌で自分の口を覆った。――

 二日間降り続いたベタ雪が止み、町に汚れた平和が戻っていた。まるでひどい洪水
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の後のように、道路はコーヒー色の雪汁でいっぱいになっていた。
 原因の判らぬままに消えた十四丁の銃をもとめて、三人の刑事たちは町民への聞込みを怠らなかった。しかし――オレンジ色の街燈は口をきくことが出来なかったから、夥しい雪片を纏いつかせた十四人の革命軍を視たという者など、誰ひとりとして現れなかった。ただベタ雪――夜の町に陰気に降り続いているベタ雪の中を、臙脂色のネッカチーフをつけた老婆がひとり風のように歩き回っていたという証言が、幾つか得られただけだった。……

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[#以下地付き]<Y>
 ベタ雪の記憶すらも町の人から失なわれ、春の花々のざわめきが南からの風に乗って近づいてくる頃、銃砲店の主人は隣の町に在る病院に収容された。
 夢の中で革命軍の来訪を受けたことによっていまや遠くの物音を聴く能力を身につけた彼は、誰よりも早く花々のざわめきを聴き、それ故誰よりも早く春の不安に戦【おのの】き、死者たちの声・夢・幻覚に苦しめられ、そして何よりも決定的なことには、顔を黝く塗った十四人の者たちが実在し、本当に銃を奪って消えて行ったと繰り返し主張することによって、警察と長男夫婦の合意に基づき、まぎれもない狂者としての扱いを受けることとなったのだった。
 病院は静かな川のほとりに在った。芽吹き始めた幾本もの糸柳が、細長いコンクリート造りの建物を、気怠い春の点描法で飾っていた。
 その中で主人を診断した若い医師は、主人が長いこと死者たちに対する恐怖に苦し
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められていたこと、妻を亡くして以降性欲の合理的な処理が出来ずにいたこと、そしてそれらの「精神的緊張」から、在りもしないものを視、聴こえもしないものを聴くに至り、ついには十四丁もの銃をどこかへ際してしまうという「重大な犯罪」を行なうようになったのだと結論づけた。
 主人は相変らず、十四人の顔を黝く塗った者たちが実在し、十四丁の銃を奪って東の方の道へ消えて行ったという証言に固執していた。だが、「何故あなたは玄関の鍵を明けたのですか?」という若い医師の問いに、「老婆の声がしたからだ」と答えるや否や、「でも、あなたはその老婆の姿を見なかったじゃありませんか!」という意地悪い医師の声が覆い被さり、主人は完全に言い負かされた者のように口を閉ざさざるを得なかったのだった。
 それでも主人は、勝ち誇っている若い医師に向かって、自分の戦友はかつて革命軍に襲われたことのある者だということを誇らかに告げ、新たに現れた十四人は、革命軍としての企図を最初からやり直そうとしているのにちがいないという神託を下すことをはばからなかった。この恐るべき復活の物語――自分だけが予言し得る真の革命軍の復活の物語を信じようとしない者がいるとすれば、それらの者たちはやがて訪れる最後の日の紅蓮の炎で焼き尽されるにちがいないと、主人は思っていた。
 こうして、たまたま革命軍が通り過ぎたことによって平和な生活から逸脱した不幸な主人は、建物の背骨のような長い廊下の奥の、鉄格子をもった暗い部屋の中へと幽閉されていった。
 その部屋の中には、やはり鉄格子の倣った小さな窓が在り、外界の光をわずかに彼の瞳に送り届けた。夜になると汚れた布団がハンモックの代りに彼を迎えたが、彼は最早、地下から伸びて来る何本もの死者たちの腕を怖れようとはしなかった。逆に、自分の体が地の底に潜りこんで、死者たちの仲間のひとりとなったような気さえした。彼は建物の壁の向こう側に広がっている世界を――鳥たちの声を、太陽を、空を、飛行機を、そして何よりも人間たちの営みのすべてを、呪い始めた。そして、全世界に対する呪いの言葉で小さな部屋をいっぱいにしながら、復活にかんする偉大な予言者である自分に加えられる迫害に耐えてゆく決心を固めたのだった。あたかも、彼に加えられる苦痛と屈辱が大きければ大きいほど、彼の聖なる口から洩れ溢れる言葉がい
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っそう真実のものとなってゆくかのように――。
 一方、銃砲店では、主人が病院に収容されたその日から、長男夫婦の春の祝祭が始まろうとしていた。銃砲店は主人と共に閉ざされ、警察署に不吉な商売の廃業届が出された。
 夜になると、二階の部屋では夫婦の愛の饗宴が繰り広げられた。二人は逞しい雄牛と雌牛の役を、みだらな牡猫と牝猫の役を、けたたましい雄鶏と雌鶏の役を、次から次へとこなしていった。時ならぬ春の嵐のために、二枚の襖と一枚の板戸が吹き破られ、時を刻む巣箱の中に住んでいる純潔な鳩が空から落下して来たほどだった。最早、階下で聞耳を立てている者は誰もいなかった。愛の行ないはいかなる障碍も持たなかった。ただ納戸のハンモック――戦争の時代とその後の時代を生きてきた納戸の旧いハンモックが、主を失なったまま、息をするように微かに揺れ動きながら、人性の悲哀について思考し続けているだけだった……。
 その頃、春を迎えた首都に、永いこと行方知れずだった背の小さな娘が帰って来て、祖母の墓石が何者かの手によって動かされているのを発見した。墓石は僅かな隙間を除いてぴったりと被さっていたはずだったが、少し斜めに口を開くようにして、ひとの肩が通れるほどの広さに動かされていた。墓穴の中を、若葉をつけた公孫樹の棺が見下していた。……
 娘の祖母が墓の中にはいったのは、既に十二年も昔のことだった。
 その当時、追いつめられた革命軍の首領を孫息子にもっていた祖母は、孫息子が逮捕され、残された五人の革命軍による銃撃戦が開始されるや否や、国じゅうから押し寄せる非難と脅迫に晒されていた。――夥しいファンレターのような書簡の山、血で記された葉書、深夜を選んでかけられてくる無言の電話、或いは罵声、親戚の者たちの粘液質の言葉、公安の土足、そして窓ガラスを破る凶暴な夜の飛礫などに晒されな
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がら、それでも祖母は高貴な石のように忍耐していた。その頃革命軍の一人の父が、遠くの土地で井戸に身を投げて死んでいったが、祖母は新聞社の執拗なフラッシュに射られながらも、全国民の名によって強制された死をひき受けようとはしなかった。
 しかし――孫息子をはじめとする者たちの手によって、多くの兵士たちが死に至らされたことが明らかとなり、最後の十四人目の兵士の死骸が、雪の穴の中から天に腕をさし伸べている姿で発見されたとき、祖母はまるで十四人の愛児を亡くした母のように、突如として首をくくったのだった。
 ――この十四人の死を伝えるニュースが国じゅうを覆ったとき、国じゅうの到る処で叫び声が聞こえ、十四人の二倍の人数の者たちが夜の中で狂い、十倍の人数の者たちが完全な盲【めしい】となり、さらに百倍の人数の者たちがいっさいの言葉を発することを止めていったのだが、祖母は国じゅうで最も嘆き悲しむ者として、細い茎のように首をくくったのだった。
 十二年前の朝、娘が祖母の死骸を発見したのは、めずらしく雪の積もった明け方だった。
 祖母は樹木の枝に紐を掛け、顔を天に向けながら、白い庭にひとり佇んでいた。生きている頃から曲っていた腰は、重力のおかげで真直に伸び、その姿を齢よりもずいぶん若く見せていた。伸ばされた爪先が、幽かに白い地面と接していた。両手は――縊死した者の通例に反して――胸のあたりでしっかりと組み合わされていた。だからその姿は、何も知らない者がそれを視たとしたら、遙か上方のものを見上げながら、悲しみにうち沈んでいる雪原の聖母の如くに視えたかも知れなかった。臙脂色のネッカチーフが、朝の風の中で、祖母の髪を守りながら微かに揺れ動いていた……。
 そして祖母の納骨を済ませると、娘は誰もいなくなった家を捨て、誰の声も聴こえなくなった首都を離れたのだった。――遠く離れた港町の夜の迷路が、彼女の小さな体を隠してくれた。路地裏を照らすさまざまな色の照明・明け方の霧笛・潮風の中の雨の匂い・吐瀉物・星の断片・猫の死骸……それらのものに囲まれて、娘の十二年の歳月が流れた。そして愛についての旋律が澱んでいる夜の底で、栗の花の臭いで喉をいっぱいにつまらせるという受苦によって十二年の歳月を過ごした娘は、少女の頃からの瞳のように優しい心を奇蹟的に保ったまま、係累の絶えた首都に戻ってきたのだ
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った。――
 墓石を静かに元に戻して、娘はそこに、祖母の好きだった紫だいこんの花を飾った。小さな花びらを、十字路に往き交う車の轟きがふるわせた。
 この孤独な首都――いかなる炎も絶やされたこの係累のない都市に、彼女は住みなおそうと考えていた。そしてスーツケースの奥に、祖母の形見のネッカチーフがまだ残っているなら、その臙脂色の美しい布を、彼女は自分の髪に着けようと思った。

        *

 一方、山荘では天井の物音が絶えて久しかった。
 何ごとかを告知するように十日間続いた物音は、いかなる余韻も残すことなく山荘から消え、後にはただ脱け殻のようなコンクリートの建物だけが残った。
 日の光が山荘のまわりの雪を緩ませ始めていた。屋根の上の滑らかな雪肌が、幾つもの水滴をつくって、夕方の陽にちかちかと輝いていた。あとひと月もすれば、春はこの傾斜地の上にも昇って来るのにちがいなかった。
 ――こうして、すべてが平和に復していった。十二年後にようやく訪れた静穏の中で、彼女は長い病から癒えた者のように、春を迎える準備に余念がなかった。客間のひとつひとつを丁寧に掃除し、階段の手摺を幾度も拭いた。戸棚の中の食器という食器を真新しい布巾で磨きあげた。父に頼んで町からたくさんの春の花を買ってきてもらい、それを食堂やラウンジに飾った。自分の春の衣服を取り出し、冬物を仕舞った。十二年前の赤いガウンは衣裳箱に収められ、押入の奥深く仕舞いこまれた。まるで結婚を前にした若い娘のようだと、彼女は思った。
 しかし――まるで結婚する前のようだと彼女が感じたにもかかわらず、或いはそのように感じたが故に、(彼女自身にも不可思議なことであったのだが)、淡い憂鬱のようなものが、穏やかな生活の隅に影を落していた。華やいだ気分が三日間続いたかと思うと、次の二日は暗い蜘蛛の巣に纏いつかれたような気分になった。老父と二人きりのラウンジのシャンデリアさえ、ずっと暗くなったような気がした。激しい苛立ちが急に背中の方から襲いかかって、銀の匙をスープの中へ落下させたりもした。
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(死ぬまでのあいだ、ずっと続いていくのか知ら?)――それは三十二歳の処女に纏いついた春のメランコリーのようでもあり、或いはまた、結婚する前の娘に訪れる不安のささやき、淡い幻滅に似ているようにも思えた。その不透明な感情のために、彼女は生まれて初めて、幾つもの不眠の夜をもった。眠らなかったために生き残った夢が、彼女の朝の体に憑りついて、階段を下りる彼女の二本の脚を不安定なものにした。(どうしてなんだろう?)――このことは彼女自身にも判らなかった。自分では制御することの出来ない感情の浮き沈み、どこから来るのか分からない遠いメランコリーは、彼女の心のみならず、その肉体をも苦しめた。近づいてくる春の予感の中で、彼女は幾度も吐いた。
そして明け方――ふとした物音によって、この保養地の誰よりも早く目覚めてしまったような明け方――まだ山脈の向こう側にある太陽のざわめきと、傾斜地の上に被さっている最後の雪のなごりに導かれるようにして、二人の物音が彼女の寝室に忍びこんできた。誕生日でもないのに、恋人たちの物音が訪れたのだった。
 だが、それはいまや天井の上から聞こえてくるのではなく、彼女の体の内側、柔らかい肉をかぶった彼女の体の奥の方から聞こえてくるのだった。遠い恋人たちの物音が、彼女の体の芯のあたりで蠢き、響【とよ】めきあい、体の到る処に伝いながら、やがて朝の満潮のようなざわめきとなって、表へ表へと顫え洩れようとしているのだった。
 アコーデオンカーテンの向こう側では、老父が相変らず静かな寝息を立てていた。部屋の中はまだ漆黒の闇だった。
 彼女は息をつまらせながら、自分の白い体を愛おしむように、両方の掌で柔らかい胸を押さえた。夜着の隙間から指を差しいれると、暖い乳房のゆらめきが指先を溶かした。そして掌を体の下の方へ導き、なだらかなお腹【なか】の上をすべらせ、下穿をくぐらせ、まだ冷たさの残っている指先が淡い森のほとりに接したとき、彼女はそこに何か動いているものを感じたのだった。
(赤ん坊だわ!)
 彼女は思わず跳び上がりそうになりながらそう思った。そして稲妻のような素早さで、赤ん坊の父と母とを照らし当てた。あの日――五人の革命軍の最初の銃声が響き渡った厳冬の日――天井の奥に隠れこんだ《黝い恋人たち》の十二年間の営みが、永
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い永い時間をかけながら、彼女の内にひとつのいのちを移し終えたのだった。あたかもそのいのちが、抹殺されることを避けるために、永いこと彼女の子宮の内に潜み隠れていたかのように。或いはまたあたかも、彼女が彼らの子を受胎し、彼らの子を誕生させる決心をするために、それだけの永い歳月が必要とされたかのように――。
(あなたがたの子供の母になるわ)
 明け方の祈りのように、彼女は両手を、新しい丸いいのちの上に組みあわせた。
 新しいいのち――彼女の子宮の奥に姿を整え始めた新しいいのちが、暗闇の中で、小さな光を放つ生き物のように、静かに息づいている。胎児の姿を整えるまでに十二年という時間を必要としたのだから、それが彼女の柔らかい肉を辟いて生まれ出るまでには、まだ永い歳月がかかるかも知れない。だが彼女は、既にしっかりとした母親の表情で、これからの歳月を生きて行く覚悟を固めていた。彼女は永く続くであろう暗闇と、聖母に加えられるであろう迫害にも耐えて、新しいいのちを生み出そうと考えているのだ。遠く焦がれるような想いが、柔らかい胸をみたす。どこからか、バラの花の匂いが匂ってくる。
(あなたがたのすこやかな子供の母になれますように。あなたがた十四人の、すこやかな子供の母になれますように)
 窓の隙間から射しこんでくる第一日目の曙光の中で、彼女は十四人の者たちの名前を呼んだ。
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(筆者あとがき)
 さて、こうして六つの雪譜とでもいうべき物語は、語り終えられた。五人の友人たちは床に着いたが、わたしは眠れぬまま、縁側から宿の下駄をつっかけて庭に出た。せせらぎの音に、すでに夜明けが訪れようとしていた。
 こうして、この物語はわたしによって書き残されたのだが、それが五人の友人たちとの合作ともいうべきものであることは、改めて断るまでもないであろう。それは完全なる酪酎の産物、或いは夜のなかのせせらぎの独白、もしくは白いあぢさいの幻想であったのかも知れない。したがってこの物語は、いかなる現実の世界・いかなる実在の諸個人とも繋がりをもつものでないことは論をまたない。――もっとも、わたしがこのように言うことが出来るのは、わたしがいちばん「世間」を知っている者であるからである。なぜなら、水無月の夜明けのなかでまだ眠っている五人の友人たちは、自分たちの語った言葉、ここに書き残された言葉こそが唯一の真実であり、それ以外の真実はどこにも存在しないと、頑なに主張するにちがいないのだから――。

注:ルビは【 】で表示、(例)氷川【ひかわ】。