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響子微笑
三枝和子

       T

 響子《ひびきこ》は走った。風はなかったが、響子が走ると風が生じた。春は肩先にようやく届いていた髪が、いま、ふわりと腕の付け根にまで伸びて来ている。走ると風をはらんで後に靡く。太陽が虹色に砕けて、響子の髪と共に流れて行く。
 夏が終ろうとしていた。
 額の汗はたちまちに乾いた。汗粒は噴き出るや否や風にさらわれて消えて行く。光は強いが空気は清爽で、響子の脚は暢やかに宙に躍り、丘が、空に直接する境界を蹴る。そのとき、夜久村の山野は、ひときわ輝く。響子は、不意に光を破って生まれ出た一匹の敏捷な獣となって村うちを走り抜ける。
 丘の斜面を降ると小さな谷川がある。谷川は斜面のつきるところから狭くなり、急角度で東へ曲り、中国山系の摺曲のなかへ入って行く。川は浅瀬で響子はいつも徒歩《かち》で渡る。廻り道して橋を通ったりはしない。川には膝より深い場所はなかった。沢蟹を捕る目的もある。響子は沢蟹捕りが得意だった。他には蜻蛉採り、蝉採り、木登り。
 木登りは男の子たちよりも早く、高い所まで行けた。
「危ない、危ない」
「そこから先、枝が細いぞ」
 下から喚く声を尻目に、ゆさゆさと梢を揺さぶる。木の撓みが身体に伝わる感覚が快かった。梢の向うに空の雲を眺めるのが好きだった。
 雲が、手を伸ばして掴んでみたいくらい近くにある。雲は、響子の登っている木の隣の梢越しに掛っていて、わけもなく掴めそうなのだ。
 先月で響子は満十一歳になった。八月八日の生まれである。
「暑いも暑いも、うだるような日に生まれての」
 響子のおばあは、その話を聞かすのが大好きだ。「暑い上に、一貫目を越す大女《おおおなご》で、母さんは、まあ、滝の汗じゃ」
 ――そんなこと、うちは知らん。
 響子は、いつも軽く反撥した。母さんの滝の汗はともかく、大女と言われるのが気に喰わなかった。
「そら、産婆はんはもとより、みんながみんな男やと決めこんで居ったもんな。それが出て来たところ、こりゃどうじゃ」と冗談半分の笑い話が始まると、一層しゃくにさわった。
 響子の名付親は八年前に死んだおじいである。男の児だと誰もが決めこんでいて、女名前を用意してなかった。響―ひびき、という名の男の児のはずだった。女が生まれたので、取りあえず「子」をつけた……。
「いんにゃ、取りあえず、とは違うの」
 響子のおばあは訂正する。男の児が生まれても響子と呼ばれる予定だったのである。
 響子の母親は男腹と言われた。響子を産む前に三人の男児を出産している。しかし何故かみな新生児のうちに死んだ。このような場合、夜久村では生まれた男児に女名前を付ける。五歳まで女児の着物を着せ、女児に見立てて育てる。五歳まで無事に育つと女名前の下をはずして男にする。明子が明になり、広子が広になる。響子も、男児であれば五歳になると響と呼ばれる、その予定で用意されていた名前である。
 響子が四歳になったとき、母親は、また男の児を産んだ。子供は茂と名付けられた。
 響子が居るよって、今度は育つぞ。
 男の児は早速響子のお古の女児用の着物を着せられた。お宮詣りも男児の三十一日を避け、女児の三十三日にした。当然、茂子と呼んで育てられた。
 響子と茂は仲の良い姉妹に見えた。響子はなかなかのお転婆だったが、茂子もそれに負けず劣らずのお転婆だった。家の者は茂子を脆弱にしないため、響子のお転婆を大幅に許した。響子はよちよち歩きの頃から茂子を引っ張り廻して、沢蟹捕りや蝉採りに熱中した。
 茂子が五歳になったとき、男児に戻るお宮詣りがあり、神棚に赤飯が供えられた。その日から響子の家では風呂の順番も御飯のときの座席も茂の方が先ということになった。茂は本当は男児なのだ、と言いきかされて、一応は承知して暮しては来たが、この扱いの突然の変化が九歳の響子には納得いかなかった。
「何で茂子がうちより先にお風呂へ入るん?」
「茂子やない。茂や」
「何で茂がうちより先やのん」
「男やからや」
「何で男が先やのん」
「知らんがな。昔からの定《き》めや」
 母親は面倒臭そうに向うへ行ってしまった。響子は不満だった。傍で笑っているおばあを掴まえて訊ねた。
「なあ、おばあ。何で男の方が女より先やのん?」
「……」
 おばあは困惑したふうに響子の顔を見守った。
「さて、こむつかしいことになって来たの。実は、おばあも知らんのや」
「父さん知っとる?」
「何で父さんが知るかいな」
「したら、学校《がっこ》の先生知っとる?」
「学校の先生も知らんやろな」
「ほなら……」
 響子はじっとおばあの顔を見た。「誰が知らんでも神さんが知っとるぞ」というおばあの口癖を思い出したのである。
「分った。神さんだけが知っとるんや、なあ」
「神さんか……」
 おばあは考えこんだ。「神さんのう。したが、これは神さんも知らんじゃろな」
「何で?」
 響子は口をとがらした。「神さんは何でも知ったはる、て。おばあ、いつも言うてるやないの」
「それは、な」おばあは一語、一語、考えながら言った。
「それは、神さんが定めはったことやないよってな。神さんは知らはらへんのや」
「ふうん」
 響子は釈然とはしなかったが、すぐに走って行き、弟に向って宣言した。
「あんたが、うちより先にお風呂に入るようになったわけな、神さんも知らはらへんねやって」
「……」
 茂は、きょとんとした顔をしていた。
 茂が男の子に戻ってからも、響子のお転婆ぶりは変らなかった。スカートをパンツのなかへ押しこんで、ざぶざぶと川へ入って行き、沢蟹の隠れていそうな石をひっくり返して歩いた。蝉を採るために一時間でも二時間でも木の股に腰かけていた。
 響子は、いっぷう変った方法で蝉を採った。他の子供たちは長い柄のついた捕虫網を持って、鳴き声を頼りに木々を経めぐって行くが、響子は木によじ登って枝分れの場所で蝉の飛来を待つ。
 捕虫網の柄の長さも他の子供の半分である。蝉に小水をひっかけられながら、他の子供たちの二倍は採った。
 それでいて茂や、欲しがる友達にわけてやった残りは夕方までに全部空へ放してしまう。蝉採りは好きだが、蝉が狭い籠のなかでばたばたしているのを見るのは嫌だった。
 響子は川のなかへ入って行った。しかし今日は沢蟹捕りはしない。対岸を南下して夜久神社への近道を急いだ。響子たちは絵馬堂前に集まる約束をしていた。目的はないが、何とはなしに集まって、夕方まで遊び呆けるという夏休み以来の習慣が、新学期が始まっても改まらないのである。
 響子の遊び友達は、福子、さわ子、萩乃、アサ、吉生《よしお》、勝夫、斉、義一、建司、いずれも夜久村小学校の五年生だ。夜久村小学校は一学年一学級だから、響子たちは同じ組だった。
 道は堤というほどのものではなく、広い河原の両側に沿って踏みかためられていた。冬には水が少くなる川も、台風の季節には氾濫して、しばしば流が変る。もっとも小さな川なので、流が変るというよりも、もともと分水嶺領域の不定形な支流の一つといった方がよいかもしれない。
 河原はその不定形な支流のために、いつのまにか広くなってしまったのである。
 いま河原には丈高く藤袴と薄《すすき》が群生している。響子は薄の葉で手を傷つけないよう注意しながら草叢のなかへ入り藤袴の花を手折って行く。薄は、その濡れた艶々しい穂先をすでに揃えていたが、藤袴の花は、まだ充分に白くはない。薄紫の、雲の拡がるような等の塊りの上へ、点々と白い色が散らばっているだけである。
 立秋が過ぎてひと月ばかり。いつ果てるともなく、連日、中天に昇りつめていた太陽も輝き疲れたのか幾分黄ばんで見え、しかし陽ざしだけは相変らず強く、戸外での気温は高かった。
 物の影は、淡くなっていた。あの真夏のくっきりした濃い紫黒色ではなく、指先でつまみあげると、ふいっと、そのまま何処かへ飛んでいってしまいそうな軽い色が地面に落ちていた。
 響子は、立ち停まり周囲を見廻した。確かに、僅かずつではあるが明らかな変化がこの夜久神社の境内でも起っていた。
 昨日、今日、虫たちがしきりと死んで行った。虫たちの身体が実に脆いものだと知らされる季節でもあった。先ほどまで鳴いていた蝉が、不意に、き、き、と軋むような音をたてて鳴き止むと、死はすぐに始まる。樹の幹から、何かのはずみで蝉が落ちて来ることがある。本当に風も吹かないのに蝉は落ちるのだ。落ちた蝉は翅を左右違う角度に開いている。真夏の頃は、胴にきゅっと引き締った形で納められていた翅が、だらしなく開いている。付け根が緩んでしまって、しっかり閉じることができないのだ。不均衡に開いた翅で、時折、ゆっくりと地面を掃きながら静かに死を待っている。
 黒い揚羽蝶が、神社の裏庭に数本残っている鬼百合にまつわりついている。鬼百合の花は散って、大きく残った雌蕊の尖端が油を塗ったみたいにてらてら光っている。蝶は散ってしまった花を捜しているのだろうか。鬼百合の実の裏や茎に縋りつくように止まっては翅を閉じたり開いたりしている。開くと十四、五糎ほどの大きな蝶である。ただ右下の部分が引きちぎれている。揚羽の特徴の、くっきりと細い翅の尖《とが》りがもげてぼろぼろになっている。
 ゆらり、とその翅が動いた。蝶は鬼百合の葉から滑り落ち、しかしそのまま、すうっと這うように横に飛んで、道の真中に出来た小さな水溜りの縁にとまる。水溜りは、今朝の、雷を伴った、短いしかし激しい一時雨《いっときあめ》の名残だった。
 雨あがりのせいか、空が昨日より少し高いように思われた。その高い空から、もう一羽の揚羽蝶が舞い降りて来た。ほとんど実直ぐの角度で水溜りに落ちて来て、二羽並んだ。後から来た蝶は、先の蝶に比べて二まわりは小さく、開張八糎くらいだが、少しも欠けていないきれいな翅だ。夏の終り近く生まれて、極端に短い生命で死ぬ蝶だろうか。
 二羽の蝶は、交互にゆっくりと翅を閉じたり開いたりしながら、水溜りの縁に縋りついている。花が失くなったいま、蜜の代りに水を呑むしかないのかもしれない。
 蝶たちは、まるで手でも掴めそうだった。気息奄々として、二羽とも飛び立つ力を失ってしまっているのが分る。掴めば、ただそれだけの微かな衝撃のために、その場で死にたえる気配にも見える。妹たちは、決してばたついたりせず、すぐさま四枚の黒い紙片になって飛び散って行くにちがいなかった。
 夜久村の夏の終りは慌しかった。虫たちが死に急ぐだけではない。酷暑をようやく持ちこたえた病人や老人が相次いで死んでも行った。
「何やら、まがまがしいの」
 響子のおばあは大きな溜息をついた。しかし響子は、人の死ぬ話を聞きながら何か心が浮き立つのを覚えた。虫が死に、人が死に、夜久村が激しくざわめくのが分るのである。
「昨日は、川向うで、九十になるおばあじゃが、これは年に不足はない」
 響子のおばあは、自分に言いきかすみたいに呟いていた。婆さんは夏の間中、寝たり起きたりしていた。気分の良い朝のうちは、河原まで散歩に出かけたりしていた。一昨日も農協マーケットで見かけたという人もいた。突然の死である。
「だいたい、年寄は、夏には死なんと言うがの」
「さいな。冬の終った春先よ、の、年寄の多いのは」
「けど、今年の夏が何とも厳しかったでなあ」
「さいな、年寄よりも、壮年《さかり》の者が、のう」
 村うちでは眉をひそめた。一昨々日は、癌で県立病院に入院していた六十歳の男が柚原へ死んで帰って来た。一週間前は根岸の、四十三歳働きざかりの主婦であった。脳炎で十日ばかりの病院生活のあとのことである。
「はじめは日射病かいな、言うとったんよ」
「こなな大事になるとは、なあ」
「四十三、ちゅうたら、ほんま、中折れのう。どもならん半端よ」
「亭主も五十前じゃ」
「その年で、再婚は難しぞ」
「子供に手がかからんだけに、踏んぎりが、のう」
 などと、遺体を前に隣近所が囁きあった。
 響子は、それら総ての噂話をにこにこして聞いていた。気持が浮き立つのを悪いとは思わなかった。
 絵馬堂の前には、すでに皆が集まっていた。
「吉生ちゃん、どしたん?」
 一人でやって来た響子を見て、さわ子が言った。吉生は響子と同じ瀬ノ端《はな》で、家も近所だ。
「葬式がでけたの」
「吉生ちゃんとこのおじいがか」
 アサが頓狂な声を挙げた。「うち、昨日、柚原で出会うたんに」
「ちがう、ちがう、隣のおばあよ」
 響子は慌てて訂正した。吉生のおじいは、まだ七十歳になっていない。先《さ》っきも元気に葬式準備の陣頭指揮をとっていた。吉生の父親は林業組合の会議とかで退《の》っぴきならない。吉生は、その代理を務めるため、遊びに来られないのだ。
 瀬ノ端は戸数二十一の小さな集落である。葬式の触れが出ると、当主も隠居も夫婦で全員参加するのが定めである。当主が留守だったり差支えの場合、十歳以上の男の子が居れば出席しなければならない。
「したら、うちの父さんが留守でも、うちは行かんでもええの?」
 響子は訊ねた。おばあは額いた。
「行かんでもよろし。女《おなご》の子は大きゅうなったら嫁に行くでな。村の者《もん》にはならんじゃろが」
「ほなら、うちは村の者やないのん」
「……」
 おばあは、吃驚したふうに響子の顔を見守った。一瞬、響子の質問の意味が分らなかったらしく、口ごもったが、やがて、
「さいな」と重おもしく言った。「女《おなご》の子は、大きゅうなったら他所《よそ》の村へ行く。それまでの預りもんや」
「ふうん」
 響子は心許なかった。預りもんや、と言われると、自分だけが自分の家で別世界の人間のような気がして落着かなかった。
「吉生ちゃんが来んと集まっても面白《おもろ》ないし、その葬式に行ってみん?」
 アサが突然言い出した。
「賛成」
 勝夫がすぐに応じた。すると他の者も一斉に立ちあがった。
「吉生がどんな顔して葬式に出とるか、見ちゃろやないか」
「あいつ、笑い虫やし、おれらが行ったら困りよるぞ」
「さいな。こっち側から百面相しちゃろ」と、がやがや瀬ノ端に向った。
 川向うの小松の家のおばあの葬式は午後二時からだった。響子たちが到着したときは、既に読経が始まっていた。
 小松の家は縁が開け放たれ、奥の間が横から丸見えになっていた。奥の間の正面に金欄の棺掛けが蝋燭の光できらきらしていた。座敷の真中には、棺掛けと同じようにきらきら光る燕尾帽をかぶった年とった坊さんが座り、その両脇に黒の衣の上へ黄色の袈裟をかけた若い坊さんが二人控えていた。燕尾帽の坊さんは紫の衣の上からゴブラン織の壁掛けのような柄衣をまとっていた。
「まあ、立派な衣裳の。うち、初めて拝ましてもらいましたがな」
「去年の助役はんのときが最初で、これが二度目と聞きましたの」
「やっぱ、九十ですよってな。法印《ほい》さんも冥途の土産にええ衣裳見せたろと思いなはったんじゃろか」
 村人たちは小松の家を取り囲むように群がり、それぞれに囁きあいながら部屋のなかでの儀式が終るのを待っている。部屋のなかでの儀式が終ると、行列を組み墓場に向う。このとき、行列が長いほど供養になるというので、村中総出で参加するのである。
「あ、吉生、あすこや」
 突然、斉が土間を指さした。開け放たれた縁からは、土間も丸見えになっていた。土間にはぐるりと黒白の幕が張りめぐらされて居り、吉生は、その幕の端のところに立っていた。正月に隣町へ遊びに行くとき着て行くような真新しい詰襟の学生服を着、真面目くさった、少し蒼い顔をしていた。父親の代理で当主たちの並ぶ席に一緒に立っている緊張のためかもしれなかった。
「――」
 響子たちは一瞬怯んだ。百面相をしてからかうも何も、吉生はまるでこちらを見ていないのである。響子たちは拍子抜けすると同時に周囲の雰囲気に押されて、庭の木犀の側の一般参列の人達の背後に小さくなってかたまった。
 お経が終った。奥の間の法印さんたちの衣が揺れているのが見えた。
「よーいしょ」と掛け声がかかり、親類縁者らしい黒っぽい服に黒の腕章を巻いた若者たち四人が、金欄の棺掛けのかかった柩を運び出して来た。
「響子、響子ちゃん」
 呼ばれて振り向くと、吉生の母親である。白いエプロンをかけ台所の手伝いらしい。響子の母親もどこかにいるのだろうが、いまは姿が見えない。
「皆で来てくれたんな。ほれ、お供養――」と、大きな大豆の強飯の握りを渡される。
「ほれ、みんな、遠慮せずと」
 吉生の母親は、建司、義一、アサ、……と次々に大きな握り飯を配る。
「吉生は父さんの代理で、一緒に遊ばれんよって悪いな」
「うん」
 響子は浮かない返事をした。
「あ、吉生ちゃんが、こっち見た」
 福子が叫んだ。みんなが一斉に福子の指す方へ振り向くと、動き出した行列の後方に、男の大人たちに混って吉生がいた。みんなを認めて手を挙げかけたが、すぐに引っこめた。恐しく真面目な表情で、きっと前へ向き直った。
「吉生、澄ましとる。よそいきの顔して、なあ、響子」
 勝夫が言った。しかし響子は返事をしなかった。腹が立つ、というわけではないが、奇妙に口惜しい。自分たち九人が、子供に配られるお供養の握り飯をもらって馬鹿みたいに立ちつくしている前を、吉生は、いちだん高いところから見下ろす恰好で通り過ぎて行く。
 先頭の触れが打ち鳴らす鉦が物悲しく山肌を縫って撥ねかえって来る。陽はまだ高く暑い。正装の人びとは汗びっしょりになって歩いて行く。
「何せ、暑い折と寒い折の葬式は難儀の」
「どないぞ、春秋の、頃の良い折にかためてもらえんかの」
「死者《ほとけさん》も、死に際にちょっくら考えてもらわなのう」
「したが、春秋の頃の良い折には、誰しも、もうちいと長生きしたいわいと、尻を据える気特になるで、うまいこといかんわい」
 長寿の、めでたい葬式なので、人びとは遠慮なくげらげら笑って行列は賑やかに続いて行く。
 先頭が触れの鉦叩き。その後ろに二人の幡《はた》持ち。続いて法印さん。黒い衣の若い役僧が先導し、背後から傘持ちの差しかける大きな赤い傘の下を、そろりそろりと練って行く。傘持ちは寺の紋の付いた法被を着、隣保の男が廻り持ちで務める。今日の傘持ちは西田の当主である。
「ちーん」
 不意に法印さんが手に持っている小さな鉦を鳴らした。喋りながら歩いていた人びとは、一瞬、静かになった。法印さんは歩きながらずっとお経をあげていたのだが、鉦を鳴らしたあと、いちだんと声を高めた。人びとはそれに唱和して、一斉にぶつぶつ口のなかでお題目を唱え始めた。
 響子たちは行列の最後尾が田圃の畝を横切って墓地への道を曲ったところで反対方向へ走り出した。
「わーい」と建司が叫んだ。
「わーい」と義一が応じた。
「お腹も大きゅうなったし、何かして遊ばへん」
 萩乃が言った。
「うん、何かして遊ぼ」
 福子が応じた。
「さーん、せいっ」
 残りの者が叫んだ。響子だけが黙っていた。
「どしたん、響子。腹でも痛いんか」
 斉が訊いた。
「ううん」
 響子は首を振った。
「何やしらん、響子、元気ないぞ」
 勝夫が顔を覗きこむようにした。響子は気を取り直した。
「何でもないし。沢蟹捕りに行こか」
「さーん、せいっ」
 みんなが叫んだ。響子たちは一団になって再び夜久神社の方へ引き返して行った。

 学校に遅れるわけではなかった。しかし何かに急《せ》きたてられるようにして響子は走っていた。自分でもわけが分らなかった。身体の奥にエンジンが飲めこまれているみたいで止まらない。脚がひとりでに動き出すのだ。心も弾んで来る。何故か今朝は夜久村の野山の空気と自分の皮膚が一つに溶けあい、同じ方向に流れ動いているという快感が身体中に渡っている。
 細い畦道を突っ切り村道へ出、地蔵堂の横から踏切を渡るのが近道だ。日に四往復しか通わない軽便鉄道の踏切には遮断機などない。山腹を縫うように走って来る二輌のジーゼルエンジン・カーは見通しが利かないが、時刻表を知っている子供たちは平気で線路に入りこむ。
 響子は走り続けた。撓められた鞭が撥ねかえる勢いで、剥き出しの長い脛が中空に躍った。
「ちょっと、ちょっと待ってくれや。脇っ腹が攣れて来た――」
 後から喘ぎ喘ぎ従いて来るのは吉生だ。
「――」
 響子は立ち停まり、視野の端に吉生を置いて、しかし顔は見ないで、
「弱虫――」と言った。
「腹が痛い」
 吉生は右肘を曲げて右脇腹を押え、その手の甲の上を更らに左手で押え身体を捩っている。響子が立ち停まると、それを待っていたように地面に崩れた。
「どしたん、立てんの?」
 響子は素気ない口調で促した。足を揃え、自分の場所から一歩も動かず、じっと吉生を見下ろしていた。
「……」
 吉生は眉をしかめた。痛みが一層ひどくなって来たらしい。
「遅れるよって、先い行ってくれ」
 吉生は深呼吸した。深呼吸したとたん、また激痛が走ったのか、あっ、と声にならない呻きを表情にあらわした。
 響子は、さすがに心配になった。二、三歩、後戻りしかけてから、しかし、ふいっと、その傾きを断ち切る気持がこみあげて来た。
 ――男のくせに、何をめそついとるん。
 響子は真直ぐ顔をあげた。
「ほなら――」と自分を励ますように言った。「ほなら、うちは先い行く」
「うん」
 苦しそうに頷く吉生を残して、再び響子は走り出した。
「吉生ちゃん、どないしたん」
 校門のところで追いついて来たアサが訊ねた。側で福子が、
「公会堂の前で、蒼い顔して唸っとったよ、うん」
 自分で言って、自分で頷いた。響子は黙っていた。
「助けに行かんでよいかしら」
 アサが呟いた。
「助けに?」
 響子の声が尖ったので、アサはちょっと肩を竦めた。
「男やもん。一人で歩けるわ、なあ」
 福子は響子の機嫌をとるように言った。
「そや、そや、男やもん」
 アサも急いで合槌を打った。
「‥‥‥」
 響子はわけが分らずむしゃくしゃして来た。
 短縮授業が終って、いよいよ本式の勉強が始まった新学期第二週目だった。
「吉生ちゃんは?」
 受持の田代先生が、吉生の空席を見るなり響子に訊ねた。響子は黙っていた。
「お腹が痛い言うて、動けんようになって……」
 アサが代りに答えた。
「どこで?」
 田代先生は心持ち厳しい顔になった。
「公会堂――」
 福子が答えた。
「……」
 田代先生は響子の顔を見た。響子はうつむいた。響子は田代先生が苦手だ。隣の県の学芸大を出て、すぐ夜久村小学校に赴任して来た。昨年の春のことだ。四年生の響子のクラスを受持った。五年生は持ちあがりだ。このまま六年まで行くのだろう。
「田代先生、この村の者《もん》と結婚してくれんかの」
「女先生は嫁に行くと、じっき(すぐに)転任するでの。折角、ええ先生やし、誰ぞ相手を世話せんかいの」
「助役の息子はどうじゃ」
 響子の家に来た農協の役員さんが話していた。助役の沼田家は、響子の母親の実家《でしょ》と親戚になる。
 ――したら、うちは田代先生と親戚になるんかしらん。
 響子は落着かなかった。以来、先生がその話を知っているような気がして、まともに顔が見られない。
「お腹が痛い言うのを置いてきたん?」
 田代先生は強い口調になった。
「家は一緒に出たんでしょ」
「はい」
 響子の声は小さくなる。一年生に入学したときからの習慣で、筋向いの吉生がいつも誘いに来る。初めは手を繋いで歩いていたが、次第にその習慣も消えた。最近、響子は一緒に歩きたくないのだが、吉生が相変らず誘いに来るので仕方がない。
「……」
 先生は眉をしかめた。それから慌しく教科書を繰った。
「三十六頁から五十頁までの書取練習をしてなさい。一ぺん書けても何べんでも書くのよ。分った?」
 言い残して紺色のスカートのフリルの裾を翻えして廊下へ走り出た。
 アサと福子が顔を見合わせた。響子は横を向いた。平気を装って書取を始めたが、教科書の字がぼうっと霞んで見えなくなった。
 ――吉生ちゃん、大丈夫かしらん。
 すると急に不安になって来た。
 ――死んだりせんやろか。
 響子は立ちあがった。アサと福子が、はじかれたように同時に顔をあげた。二人で挟み撃ちするみたいに睨んだ。響子は座り直した。
「響子、週目標を書くの、忘れとるぞ」
 窓際の席から学級委員の斉が怒鳴った。
「いまの間に、ちゃっと書いとけや」
「……」
 響子は聞こえないふりをしてノートの上に目を落していた。
「今日の響子はおかしいの」
 義一が言った。
「吉生と喧嘩したんじゃろ」
 勝夫が応じた。
「あんまり仲が良いで喧嘩するんじゃ」
 義一が大人の口真似で言った。しかし誰も笑わなかった。
「静かに書取をしましょう」
 さわ子が歌うように節をつけて言った。響子は、そのあいだ、一言も口を利かなかった。
 吉生は急性の盲腸炎だった。痛みのため失神寸前だったところを田代先生と用務員さんが発見して、教頭先生の車で隣町の病院へ担ぎこんだ。あと一時間発見が遅れていたら盲腸が破裂して大事になっていた、ということだった。
 響子は母親からきつく叱られた。
「十一にもなって、物の道理が分らんかえ。何ぼ喧嘩したかて、痛がっとるもんを放ったらかしにするては無いえ」
「喧嘩は、しとらん」
「ほなら、よけいにいかんやないの」
 響子は横を向いた。田代先生が言いつけたに違いない。
「明日、見舞いに行っといで」
 母親は命令した。
「お父ちゃんが今夜帰らはったら場所をちゃんと訊いての」
「……」
「響子、性根入れて聞いとるん?」
 母親の声が甲高くなった。母親は、吉生の母が疲れるだろうから一日は交替して付き添う、その日を決めて来てくれ、と言った。何か不便なことがあれば言いつけてほしい、整えて参じます、と必要なものを書き留めてくるよう、くれぐれも念を押した。
 響子は膝を抱えたまま、黙って座りこんでいた。自分の気持が自分でよく分らなかった。みんながあまり大騒ぎするので、次第に吉生が憎らしくなって来ていた。
 翌朝も、前日にひき続いての明けがたの激しい俄か雨だった。しかし六時過ぎには晴れあがり、洗いたての水の滴るような太陽が山の樹々を輝かして昇って来たのも昨日と同じだった。
「これで、ようやっと秋の」
 庭で桔梗の副木を直していたおばあが空を見上げた。
「朝に雷が鳴ると秋が来るん?」
 響子は庭下駄を突っかけておばあの背後から訊ねた。聞こえなかったのか、おばあは返事をしなかった。
「今年の桔梗も、そろそろ終《しま》いの」と一まわり小さくなって咲いている花を、ためつ、すがめつ眺めていた。
 昨日の朝は、玄関の三和土《たたき》のところで蜂の死ぬのに出会った。蜂は、くびれた胴体を中心に、数回上下の屈伸を繰り返すと、そのまま動かなくなった。蝉の死骸も庭のあちこちで殖え始めた。しかし、そうやって一夏の生を全うしたものはともかく、今年は蟻が多かったせいか、殻を脱け出す途中で食べられて死ぬ蝉を響子は何匹も見ている。蝉は例外なく、殻から半分くらい出たところを襲われるのだ。そのまだ白っぽい微かな蒼味を帯びた柔らかな翅で、ゆっくりと空を掻きながら、蟻にまといつかれて死んで行く。
 ――吉生ちゃんみたい。
 響子は、はっと狼狽した。蝉の、白いひ弱そうな身体つきから吉生を連想してしまったことが何か不吉な予兆のような気がした。
「盲腸で死んだりはせんわ、なあ、お母ちゃん」
「何ちゅうことを――」
 母親は慌てて手を振った。「縁起《げん》の悪いことを口にしなさんな」
 それから、ひどく心配そうな顔になった。
「ええな、病院では『死ぬ』とか『帰れん』とか、おかしな言葉を滑らすやないえ」
 響子は、それには答えず、
「福子やアサちゃんも誘って行こうかしらん」
 ――何となく、その方が行きやすい。
「何を言い出すのん」
 母親は鋭く叱った。「響子一人で行かにゃ。何のために見舞いに行くか、ちっともわけが分っとらんの」
「……」
 響子はぷいと家を出た。
 ――お母ちゃんこそ何も分っとらん。
 しかしその気持を言葉にして言うことができない。胸のなかがもやもやしている。
 ――吉生ちゃんがいかんのや。
 大きな塊りのようなものが噴きあがって来て、響子は突然怒鳴り出したくなった。
 ――吉生ちゃんが、はっきり病気や、言うたら、うちかて放っとかんのに。男のくせにぐずなんや。
 響子は急ぎ足に歩いていた。今朝起きてから顔を洗い食事をするあいだ、ずっと考え続けていた。それを実行しようとしていた。
「分っとるんかの」
 父親は繰り返した。バスの終点から右に折れて真直ぐじゃから決して難しい道ではないと念を押すのには生返事していた。バスに乗らないで歩いて行こうと、次第に気持が傾きつつあったからである。
 決めたとたん、急に元気になった。バス道に沿って歩くのは遠いが、山越えなら近い。どうして、もっと早くそれに気付かなかったのだろう。
 響子は山歩きが好きだった。大した山ではない。海抜二百七十米くらい、中国山系が突出して来た小さな山襞の一部分で、それが夜久村と隣町を隔てていた。西の山と呼ばれていた。西の山はええが、東の山はいかんぞ、と子供たちは言いきかされていた。東の山は深く、中国山系にそのまま連なって行くから、子供が迷いこむと危ない。どこそこの、誰それは、東の山へ入って行って行方《いくかた》知れずになったぞ。東の山の奥にはの、鬼が棲んでいて、可愛《かいらし》い女の子を取って喰うといなあ。
 しかし、海抜二百七十米の西の山も、岩場の多い急斜面があって、十一歳の響子には手強かった。それだけに頂上をきわめるという快感があった。見晴しもよかった。眼下には夜久村が一望のもとに展《ひら》けた。白いバス道がうねうねと曲って山峡に沿って隣町へ通じていた。夜久村の五つの字が、集落の点在を明瞭に、学校に貼ってある村内地図と同じ形に見えるのも面白かった。
 その上、家の周囲では見かけない形で鳥や虫に出会うこともできた。家の庭の樹に飛んで来る頬白は二、三羽だが、山では群をなす。突然、騒々しい囀りが頭の上から降って来るので見上げると、大きな泰山木の梢に四、五十羽も集まっていて、時ならぬ紫白色の花を咲かせていたりする。黒揚羽だってそうだ。ゆらゆらと樹々のあいだを飛んで行く姿は、木の下陰の暗いせいもあって、一瞬、蝙蝠かと驚かされる。
 響子は浮き浮きと歩いていた。歩いて行くと、陽ざしの場所と木陰の場所とでは極端に温度差のあることが分った。山道は緩やかな傾斜で、木陰に入ると汗粒が素早く消えた。まだ火照りを残している皮膚の表面を涼しい風が走った。
 山頂には小さな祠があった。山の神さんが祀ってあり、夏休みのあいだ、響子たちの秘密の集合場所だった。
「七、の日の、正午に、な」
 響子が、大きな目を一層大きく瞠いて言うと、みんなは引きずりこまれるように頷いた。何故「七」のつく日がよいか、響子自身も分らなかったが、おばあの口癖だった。
「七、は縁起のよい数ぞ」
 だから山の神さんの前に集まるのは、その日にしようと思った。
 八月十七日は鴉が騒しかった。集まった十人の頭上で激しく鳴きたてた。くき、くき、くき、と翼をはためかせて梢から梢へ飛び交った。
 八月二十七日は凄い雷だった。みんなで半分泣きながら中腹の葡萄園まで駈け降りた。葡萄小屋では斉の叔父が番人をしていたので、十人の行動はすぐ知れ渡った。
「あないな激しい雷さんに、よう怪我人が出なんだことじゃ」
「雲行きが怪しいに、五年生にもなって、先が見えんのかいな」
 みんなはそれぞれに戒められたが、誰も「七」の日だから無理して集まったことを洩らしはしなかった。
「言うもんか、なあ」と義一が言った。
「さいな、秘密じゃもん」勝夫が頷いた。
「日を決めて、山で男の子と遊んどったりしたら叱られるもん」
 萩乃も首を振った。
「何で?」
 さわ子が異なことを訊く、というふうに萩乃を遮った。「学校じゃ、男の子と遊ぶやん」
「学校と、退《ひ》けてからは別じゃ、て、うちのおばあが言うの」
「うちでもそう。お母ちゃんが。いつまでも男の子と一緒に飛んだり跳ねたりしていてはいかんぞ、て」
 福子も言い出す。
「……」
 アサはちらっと響子を振り返って、舌を出す。やはり家で注意されたにちがいない。
「ふうん。おかしげな話――」
 吉生が頭をかしげる。「何で女ばっかし、そななふうに叱られるん。おれたち、何も言われんのう」
「さいな」
「さいな」
 建司と斉が口々に叫ぶ。みんな響子に何か言ってほしくて顔を見るのだが、響子は答えない。こんなときの響子は、たいてい別のことを考えているのだ。
 九月七日の集まりは、鬼やんまを追いかけたり、湧清水の縁で這い出して来る亀を根気よく待って過した。
 ――あのとき、新学期になってからの集合時間を決めるのを忘れた。九月七日が日曜日だったので、うっかりだった。
 響子は、一人で言って、一人で頷いた。そう、やっぱり「七」の日には集まった方がいい。今度は学校の帰りにしよう。吉生にも相談しなければならない。盲腸の手術は翌日からでも口が利けるのかしらん。
 集まりのことを考えると、響子は気持が愉快になって来た。隣町への杣道を下りながら、大声で歌を歌った。
 ――箱根の山はテンカノケン……。
 意味のさっぱり分らない歌だが、響子は好きだった。山に登るとき、いつも大声で歌う。田代先生が課外のクラブ活動のときに教えてくれたのだ。
 響子は歌声に合わせて、手折った虎杖《いたどり》を振り廻しながら山を下った。
 響子が病院に着いたときは、十二時を過ぎていた。山の麓から隣町までの距離が意外にあって、響子は泣き出しそうになりながら走った。十二時半になると、面会時間の受付が終ると聞いていた。だから正面玄関を十二時十五分に通ったときは、本当にほっとした。
 吉生は一日見ないあいだに顔が白くなったみたいだった。響子を認めて、枕のなかからにこっと笑った。響子も、にこっと笑い返した。
「さっき、初めて水を呑んだとこなんよ」
 吉生の母親が説明した。「それにしても遅かったな。おっ母さんから電話があって、十時半には着くと思うたに」
 響子は黙っていた。山越えした、などと言ったら叱られるにきまっている。
「寄道してたん?」
「いんにゃ」
「バスに乗り遅れたん?」
「いんにゃ。道に迷うたん」
「道に迷う?」
 吉生の母親は頓狂な声を挙げた。「あないな簡単な道、どして迷うのん。バスから降りて看板見なんだ?」
「見なんだ」
「お父さん、教えなかったん?」
「教えた」
「ほなら、何で迷うの」
「お母ちゃん、響子な……」
 突然、吉生が口を利いた。ひいひいした弱々しい声だった。吉生が口を利いたので響子はびっくりした。声なんか出せないと思っていたのだ。
「響子な……」
 それから吉生は、くしゃくしゃと顔を歪めた。「響子は、字が読めんのぞ」
 言いながら、終りの方はへらへら笑った。
「笑うと腹が痛い」と言いながら、へらへら笑った。
「……」
 響子は、はっと胸を突かれた。腹が痛いと言いながら一生懸命笑っている吉生を見ていると、何だか急に悲しくなって来た。響子は唇を噛みしめた。泣き声を出すまいと我慢した。すると一肩が震え出した。そのうち、とうとう、わあっと大声を挙げて泣き出した。
「響子ちゃん、響子ちゃん、冗談《てんご》やがな」
 吉生の母親は狼狽した。響子の声があまり大きいので、隣のベッドの人が起きあがった。
「吉生も吉生や、病人のくせに、しょうもない憎まれ口叩いて」
 吉生の母親は眉をしかめた。響子はいつまでも泣き止まなかった。持って来たハソカチがぐしょ濡れになった。吉生の母親が自分のハンカチをくれた。それを握りしめて、また新しく泣いた。
 ひとしきり泣くと、さっと立ちあがった。
「うち、もう帰る」
「帰る?」
 吉生の母親は戸惑った表情になった。
「帰る、言うたかて、お昼もまだやろ」
「……」
 響子は口ごもった。十一時には病院を出んといかんえ、と母親からくれぐれも注意されていた。駅前の大衆食堂でカレーライスを食べなさい、とお金をもらって来ていた。
「お昼食べていきいな。もうじき天丼が来るぞ」
 吉生は得意そうに言った。「村では天丼なんか食べられんやろ」
「……」
 響子は首を振った。駅前でカレーライスを食べる、などと言えなくなってしまった。
「どしたん。おれは食べられへんのぞ。それを見いもって食べるの、ええ気持やろ……」
 言いさして眉をしかめた。「お母ちゃん、頭が痛い」
「何ですいな。あんまりいちびる(悪乗りする)からや」
 吉生の母親は、ずらしていた氷枕を元の位置に戻した。「また、ちょっと熱が出たみたいの」
「うち、ほんまに帰る。駅前食堂で食べるようにお金持って来てる」
「ああ、そうな」
 今度は吉生の母親は引きとめなかった。熱が出たので、急に警戒心を強めたふうだった。
 病院の廊下へ出て、数歩も歩かないうちに、響子は、ほっと立ち停まった。
 ――「七」の日の集まりの相談するの忘れてた。
 しかし、今からそんなこと言って引き返すわけにはいかない。
 ――やっぱ、吉生が退院してからや。全快の御礼に、山の神さんに皆でお詣りしよう。
 すると元気が出て来た。
 駅前でカレーライスを食べてからバスに乗り、夜久村役場前まで、ぐっすり眠った。家に着いたのは二時を過ぎていた。
「遅かったな。何してたん」
 母親が言った。
「山越えで行って来たん」
「山越え?」
「うん、西の山越え」
「……」
 母親は呆気にとられた表情で、じっと響子の顔を見た。
「お昼、御馳走にはならなんだやろな」
「うん。駅前食堂でカレーライス食べた」
「お母ちゃんの付添いのこと、言うてくれた?」
「……」
「小母ちゃんに、要るもん訊いて来てくれたんやろ」
「……」
「どないしたん」
「忘れた」
「忘れた、て?」
 母親は大声を挙げた。「あんた、全体、何しに行って来たん」
「……」
 響子はうつむいた。大失敗だった。
「まあ、五年生にもなって、何の役にも立たんの」
 母親は、きんきん怒鳴った。
「ま、ええやないか。電話で訊けば」
 父親が横から取りなしてくれた。
「あんさんが甘過ぎますよって、響子が何ぼたっても気が利かんの。情無い」
 母親は父親にまで当り散らした。「ほんに、何のための見舞いか、まるで分っとらんのやから」
「――」響子は、きっと母親を睨んだ。返事をせず、そのまま表へ走り出た。
 ――お母ちゃんなんか……お母ちゃんなんか、何《なあん》も分っとらん。
 しかし不思議に涙は出なかった。
 響子は走った。河原へ出て、石に足をとられながら走り続けた。瀬の浅いところで突っかけを履き捨て、川のなかへ入って行った。真直ぐ、いつもの場所へ行って、不意に石を動かしてみた。二匹の沢蟹が狼狽して、一瞬、動きを止めたが、すぐに左右に別れて逃げた。響子は掴まえなかった。石を元通りに戻した。
 沢蟹は、いま別の石の陰に隠れている。赤い爪の先がちらっと見える。間もなく元の場所に戻るに違いない。響子は川下へ行った。同じ行為を繰り返した。それから今度は川上へ行って同じ行為を繰り返した。
 響子は、ひどくいらいらしていた。本当は沢蟹をひと思いに潰したい気特に駆りたてられている。あの隠れている石を除けて、逃げ惑うところをびしゃっと上から潰すのは簡単だ。何故か今日は沢蟹が可憐で愛らしいのが疳にさわる。
 響子は、自分自身に焦れていた。此の頃、自分で自分を制御しきれない兇暴な思いにとりつかれる。おばあが入れ歯をはずして洗面所でごそごそ洗っている姿を見かけたり、母親が胸をはだけていぎたなく昼寝したりしていると、わけもなく、かっとする。前後の見境いが失くなる。殺したい――というほどの、はっきりした憎悪ではないが、死んでしまえ、ぐらいの感じにはなる。
 吉生のときもそうだった。吉生が脇腹を押えて「ちょっと待ってくれや」と哀願したとき、何故かむかっとした。
 ――何よ、みっともない。
 すると無性に腹が立った。心の片隅に一抹の不安が走らなかったわけではない。しかし、そんな気持を押し流して、激しい怒りがこみあげて来た。
「響子は此の頃ヒステリの」
 おばあはゆっくりと首を振って言う。「ヒステリ女は鬼が憑いとる言うて、嫁の貰い手が失くなるぞ」
「うちはお嫁になんか行かん」
 口答えして乱暴にそこいら辺に散らばっている洗濯物を蹴散らしたりした。
 響子は川からあがり、濡れた足のままサンダルを突っかけた。沢蟹捕りがひどく幼稚な遊びに思えて来た。
 ――何《なあん》も面白いことないのん。
 声に出して呟いて河原を駈け抜けた。堤を横切って、ふと気付くと、いつのまにか柚原の一軒屋まで来ていた。堆肥の鼻を衝く臭いと銀蝿の飛びかう翅の音が響子の行手をふさいだ。
 響子は立ち停まった。一軒屋でベコ(子牛)が生まれたことを聞いていた。二十年くらい前まで夜久村の農家では一軒に一頭は牛を飼っていたが、耕作機械の普及により、牛小屋は次第に影をひそめた。現在、村うちで牛を持っているのは柚原の一軒屋だけだ。近所に家が無いので逆に頭数を殖やして肉牛の生産を手がけている。響子は薄暗い牛舎をそっとのぞきこんだ。戸外の強い光のなかにいたせいもあって、小屋のなかは真黒の塊りがうごめいているだけだ。ベコが何処にいるか分らない。目を凝らしていると、隅の方で、
「ふうっ」と唸り声とも吠え声ともつかぬ奇妙な気配が動いた。「ううっ、ああっ」響子は、はっと後退った。
「誰?」
 思わず叫んだ。唸り声は人間のものに違いなかった。牛たちは静かにしていた。
「何しとるん?」
 気配の方を透し見ると、牛の背中に妙な恰好で掴まっている男がいる。一軒屋の次男坊で照やんと呼ばれていた。三十近い知恵遅れの男である。
「……」
 照やんは牛のような大きな目で響子を見て、にやり、と笑った。だらしなく開いた唇から涎が流れた。響子の身体中に強い電流が走った。逃げ出そうにも、その場から動けなくなった。
「えへ、えへ、へ、へ」
 照やんは声に出して笑った。のろのろした動作で牛の尻から下半身をはずしてこちらを向いた。素裸の股間にソーセージのような赤いものが見えた。
 響子は一瞬ひるんだけれども、両拳を振りしめて突っ立っていた。逃げると追いかけられそうな気がした。
 ――大丈夫、うちは負けへんよ。
 何故か、そんなふうに思った。
 照やんはそのままの恰好で一歩近付いて来た。
「寄ったらいかん」
 響子は怒鳴った。自分でも思いがけない厳しい声が出た。照やんは不思議そうに響子を見た。響子は、いつも照やんに優しかったのである。
 そのとき、入口で物音がした。牛たちが一斉に甘えたような啼き声を挙げた。一軒屋の女房が飼葉桶を抱えて入って来た。なかの様子を見て、あっ、と立ち竦んだ。
「照――」
 叫ぶなり、立てかけてあった担い棒で照やんの裸の尻を力まかせに打った。
「あーっ、あーっ」
 照やんは悲鳴とともに転がって、牛の腹の下へ逃げこんだ。
「響子ちゃん、ちょっと」
 一軒屋の女房は響子の手を掴むや、恐しい勢いで明るい光の差す場所へ連れて行き、いきなり下穿きを下げた。
「何すんの、小母ちゃん」
 響子は一軒屋の女房の手を振り払った。一軒屋の女房はへなへなとその場に座りこんだ。
「何もおまへなんだな、響子ちゃん。何も……」と、うわごとみたいに繰り返した。
 響子は、後をも見ずに表へ走り出た。表へ出たとたんに涙が溢れ出た。照やんの赤いソーセージが近付いて来たときよりも、一軒屋の女房に下穿きを下げられたときの衝撃の方が強かった。わけもなく辱められたような気がして、口惜し涙がなかなかに止まらなかった。
 十一歳の夏の終り、響子は何かに逆らうように走り続けていた。

 風が吹くと、絵馬はまるで鳴子みたいにかたかたと音をたてた。絵馬堂は吹きさらしである。雨が降りこみ放題だ。
 夜久神社の絵馬堂が他所と違うのは、絵馬と一緒に般若の面が五つ、北側の壁に並べてかけられていることである。いつ頃から、それがそこにそうしてあるのか、誰も知らなかった。般若の面は一様に古く、煤けていた。角の生え際まで引かれた眉も、よく見ないと額の色に溶けこんで区別がつかなくなってしまっている。その上、目の金泥は光を失い、歯は、おはぐろのように真黒なのだ。ただ小鼻の脇から耳へかけて、ひどい痘痕《あばた》の彫りかたで、それだけがいやにはっきりと見える。
 五つの面は、ほとんど同じ表情をしているが、真中の一つにだけは角がなかった。目も小さく、山姥《やまんば》のそれに近かった。村びとたちは昔から、この山姥に近い表情の面が西の山の神さんで、両脇の四つがそれを守護する鬼神であると言い伝えて来た。
 夜久神社の秋祭は白露から数えて十日目と定められていた。年によって一両日のずれがあり、毎年初詣のとき拝殿の柱に貼り出される。今年は九月十七日である。
 秋祭の宵宮の真夜中、正確には丑の刻になると、絵馬堂の五つの面が一斉に西の山の祠まで飛ぶ。そのあいだ、一瞬だが絵馬堂の北の壁は空白になる。これも昔からの言い伝えだが、村びとたちは固く信じて疑わなかった。確めに行った者は目が潰れる、と言われて来た。
 太鼓の鳴り出すのは本宮の三日前からだ。昼一時頃から三十分ばかりと、夜七時頃から八時過ぎくらいまでの二回である。昼と夜とで太鼓の打ちかたが異るわけではないのに、何故か全く違って聞こえる。昼過ぎに打ち出されるときは、色づき始めた稲穂の上を渡って来るせいか、のんびりとゆっくり響く。夜は物悲しい。たいてい台所や庭先で生き残りの虫が鳴いているから、いかにも心急くわけである。
「お夜久さんのう」
「ほい、もうお夜久さんじゃ」
 人びとは長い夏が終って急速に秋がやって来ることを知る。何故か、夜久村の夏はいつも長かった。長い夏を生きた種々の虫たちの終焉が、短い秋の虫の鳴き声のなかで全うされるのだ。秋の虫たちは姿を見せない。声だけになって鳴く。それが虫たちの終りにふさわしい。
「したが、虫はほんまにきちんと消えるの」
 夜久村の人たちは、虫が死ぬとは言わない。消えると言う。来年、また同じ形の揚羽や蜻蛉や蝉が出て来るので、秋になって姿を消したものが、また来る夏に現われるのだ。
「今年は虫の現われかたが遅いの」
「そろそろ現われてもよい頃じゃの」
「今日、一番蝶が現われたぞ」
 などと言う。
 響子は、いつも不思議な気持になる。夜久村の野山の上を、何か途方もない大きな、それでいて形の見えない手が、さあっと一撫でして、それで虫たちが消えて行くような気がする。季節が巡って来ると、また、さあっと一撫ですると現われる。本当は揚羽や蜻蛉は、いつもそうしてそこにいるのに、何かのせいで見えないだけなのかもしれない。
「……」
 響子は遠くを透し見る。東の山と西の山に挟まれた狭い夜久村が、不意に濃密な空間に変る。目には見えないが、何も彼もがぎっしりと詰めこまれている気配だ。消えた揚羽、消えた蜻蛉、消えた蝉。その上、この三月に死んだ響子の家の猫だっている。
 猫の名はベルと言った。鈴のような丸い大きな目をしていた。響子の生まれる前から家にいた。
「もう十五、六年にはなるかの」
 おばあが笑う。「人間とすれば、わしとちょぼちょぼの年寄の」
 しかしベルは小娘のように愛らしい目をして居り、愛らしい声で啼いた。
 その日も、いつもの朝と変らなかった。ただ響子には、ベルが何だかしょんぼりしているように見えた。叱られたときに示す、軽く横を向いた歩きかたで響子の側をすり抜けた。
「御飯よ」
 響子が器に削り節飯を作ってやると、申しわけばかりに、二口、三口食べ、そのまま不味そうにその場を離れた。削り節飯をあまり食べない日は鼠を捕った日である。
「ベル、大きなのを捕ったんね」
 響子はベルの頭を撫でようとしたが、何故か猫はそれを避けるふうに、すうっと歩いて家の外へ出て行った。それきりだった。響子は、猫と自分のあいだに、目に見えない一つの線が引かれたのを感じた。そのときは、ただ猫というものは我が儘だから仕方ない、とだけ思っていたが、愈々帰って来ないと分ると、ベルが別の世界へ入って行った瞬間を、はっきり見たような気持になって来た。
「ベルは死んだんやない。消えたんね」
 響子は、自分で自分に言いきかせた。すると見えないベルが、夜久村の野山を駈け廻っている姿が想像されて来るのである。
「この世のなかには、目に見えんもんが、たあんとあるでの」
 おばあが言う。「早い話、いまはこうして山じゃけど、此処は、元、海やったんよ」
 響子はびっくりして、おばあの口許をみつめる。
「へえ、いつ?」
「大昔――」
「大昔て、何年くらい前?」
「もう、数えられんくらい昔」
「数えられんて、千年?」
「いや、いや、もっと」
「万年?」
「もっと」
「嘘!」
「嘘やない。おばあは見付けとるんや」
「……」
「西の山の祠の後ろな。あすこには貝塚があるぞ」
「貝塚?」
「大昔の人がの、海から獲って来た貝を食べて、貝殻を捨てた場所じゃ。学校で習わんかったか」
「習わん」
「したら、六年にでもなったら教えてもらうんじゃろか」
「貝塚がどしたて?」
「誰にも言うやないぞ」
「言わん」
「西の山はの、貝塚がせりあがって出て来た山ぞ」
「……」
 響子は何のことかよく分らない。
「おじいが、そう言うとった。おじいは学者での。村うちでは変人扱いじゃったが、よう勉強した」
 だが、おばあは受け売りだから、はっきりしたことは知らないのだ。西の山が地殻変動によって生じた隆起であることを、覚束ない言葉で伝えようとするけれども、うまくいかない。
「おじいの口癖は、な、土も生きとるぞ、と言うんじゃった。生きて動いて、大きな呼吸《いき》をするぞ」
「土が呼吸するん?」
 響子は思わず釣りこまれる。
「ああ、ゆうったりと、の」
「ふうん」
 響子はおばあと話をするのが好きだった。ただ気味の悪い話もあった。村では死者を土葬にすることを墓へ「いける」と言う。「いける」というのはどんな字を書くのか、誰も知らないが、恐らく「活ける」と当てはめるのだろうか。
「死者《ほとけさん》は、ほんまに死んでしまうと思うか、響子」
 おばあは真剣な口調だ。死者の話をするときは、おばあは普段とちょっと違う顔つきになるので響子も緊張する。
「死者《ほとけさん》が死んで失くなると思うのは、間違いぞ」
「魂が残るん?」
 響子は誰かから聞いたな、と思いながらおばあに訊ねてみる。
「魂?」
 おばあは、びっくりしたような顔で響子をじっと見る。「響子は、そんなもんがあると思うとるのか」
「……」
 今度は響子がびっくりする番だ。
「そんなもん、無いぞ」
 おばあは、いやにはっきりと断定する。
「人間は死ぬんやないぞ、消えるだけや。いっとき消えて土になって生きるぞ」
「……」
 響子は頷くが何やら気持悪い。おばあは続ける。
「人間だけやない。虫も猫も、みんなそうなるぞ」
「知ってる。うち、猫が消えるところを見てたもん。あのな、ベルがな……」
「おばあ、響子に詰らん話せんといてや。たださえ、おかしな子や言うて、先生から注意受けとるのに」
 母親が横合いから口を挟む。
「ほう。響子は、学校ではおかしな子や言われとるのか」
 おばあは面白そうに笑う。
「笑いごとやおまへん」
 母親は、ぷいと立って行ってしまう。
「お母ちゃんな、お祖父ちゃんの貝塚掘りが気に喰わなんだんや」
 おばあは皺苦茶の唇のあいだから、悪戯っ子みたいに舌を出した。「お祖父ちゃんも変り者《もん》やったなあ。死ぬ前の日まで西の山を掘り起して……」
 そして何を思い出したか、くっ、くっ、と喉を鳴らして忍び笑いする。
 響子には祖父の記憶はほとんどない。死んだときは三歳だった。しかし、もし、祖父が西の山の麓の墓の土になっているとしたら、土となって大きな呼吸をしているとしたら、ひょっとしたら、山はいま、それと分らぬくらいに動いているのかもしれない。
「土は、長い年月かけて、ほん、ゆうったりと動くで、の」
 おばあは響子の理解に満足したらしく、何度も何度も頷く。
「あのな、西の山の山姥な……」
 響子は、こないだからずうっと気掛りだったことを、おばあに訊ねてみようと思う。
「ほんまに、お夜久さんの宵宮に、面が飛んで祠へ行くんじゃろか」
「……」
 さすがに、おばあも用心深い顔になる。響子は、おじいの血を享けて探究心が強い。それはいいのだが、物怖じしない美点が一歩踏みはずすと、とんでもない罰当りを仕出かす不安に繋がる。
「丑の刻、言うと真夜中の二時ね。うち、字引で調べたんよ」
「したが……」
 おばあは首を振る。ここは厳しく脅しておかねばならない。
「昔からの言い伝えでの、絵馬堂へその飛ぶところを見に行った者《もん》は……」
「目が潰れるのやろ。そんなこと知ってる」
 響子は平気な顔をしている。
「昔からの言い伝えを馬鹿にすると、ひどい目に遭うぞ」
「馬鹿にはしとらん」
「……」
「絵馬堂へ行かなんだらええんやろ」
「さいな」
「絵馬堂へ行かんかて面の飛ぶのを見ることはできるよ」
響子はにこにこする。
「何て?」
 おばあは細い目を、かっと見開く。一瞬、恐い顔になる。
「おかしげなこと言う子じゃ」
「うち、考えたん」
 響子は息を弾ませる。いっきに言ってのける。「西の山の祠で、面が飛んで来るのを待ち受けたらええんや、な」
「響子、響子は、まあ」おばあはすっかり狼狽してしまった。「お前は、まあ、何ちゅうことを……」
「何で?」
 響子は寝転んだまま、長い脛をぽんぽん宙に抛りあげて廻転運動をする。
 ――今度の「七」の日の集まりは、それに決めた。
 しかし、これをおばあに言うわけにはいかない。真夜中の二時の集まりなど、おばあが知ったら目をまわすに違いない。
「響子――」
 おばあは、小さい声で宥めるみたいにそっと呼ぶ。「なあ、響子。お前は何を考えとるか知らんが、山の神さんにさわったらいかんぞ」
「……」
「おじいは西の山を掘ったけど、神さんにさわりはせなんだぞ」
「……」
 響子は今度は両脚を揃えて胸の前へ抱えこみ、毬のようになって部屋中を転げ廻る。
「西の山は、いまでも猪は出るぞ。狐や狸はもとよりじゃ。ひょっとしたら狼が居るかもしれん」
「狼は居らんよ」
 響子は毬の身体をほどいて立ちあがる。「田代先生が、そう言うてた」
「お前、田代先生に、そんな阿呆な話したのかえ」
「ううん。日本狼の棲息状態の分布図によれば……」
「何? そのぶんぷ、て」
「うちにもよう分らんの。けど、この近辺に狼は絶対に居らんの」
「……」
 おばあは口を噤んだ。おじいの血を享けとるはええが、ちと|荒々し《あらけな》いの、とぶつぶつ呟いた。
 響子は胸のなかで、ゆっくりとメムバーを検討した。吉生が居ないのが残念だが、かえってその方が秘密がばれないかもしれない。吉生は末っ子なので、母親に甘える癖が抜け切っていない。
「吉生は、まだおっ母ちゃんのお乳持って寝るそうぞ」と勝夫が冷やかしていた。ひょっとしたら、本当かもしれないのだ。
 十六日の放課後、響子は河原に皆を集めた。
「一昨日、病院に見舞いに行ったんやて?」
「吉生ちゃん、どないしてた?」
「いつ退院?」
 さわ子と福子と萩乃がめいめいに訊く。アサが少し離れた場所から探るようにじっと響子の顔を見ている。
「吉生ちゃん、熱が高うて、うんうん呻ってたの」
 響子は田代先生にした報告とは全然別のことを言った。「山の神さんに頼みに行かんとあかんのとちがうやろか」
「山の神さんに、なあ」
 アサが大きな声で言ってみんなを見廻した。
「願ごめやな」と福子。
「そや、お母ちゃんも言うとった。やっぱり願ごめは山の神さんやな」萩乃が応じる。
「……」
 響子は黙って立っていた。男の子たちの反応を待っているのだ。響子の正面に座っているのは勝夫だ。ぎらぎらした陽ざしを受けて目を細めている。その隣は斉、義一、建司。響子の横には福子が座り、さわ子、萩乃、アサと並ぶが、アサは勝夫と隣りあっているので、いつもの円形がやや歪つになっている。
「願ごめて、いつ?」
「決まってるやん」
 響子は高飛車に叫んで勝夫を見た。「うちらの山の神さんは『七』の日や」
「十七日――、お夜久さんやないか、なあ」
 義一が頓狂な声を挙げた。
「お夜久さんに西の山へ登るん?」
 幾らか不満そうなのは建司だ。
「建司は、お夜久さんで射的が撃ちたいんや。ずうっと去年から小遣い貯めてたやろ」
 斉が言った。
「お祭とは関係あらへん」
 響子はぴしゃっと言う。「今夜の十二時過ぎたら、もう十七日え」
「……」
 みんなは、あっけにとられて響子の顔を見守る。響子が何を考えているのか分らない。
「お正月の初詣みたいにするん。真夜中から山に登れば……」
「はなら、今夜遅く集まるん」
「そう」
 みんなはちょっとざわついた。家の者《もん》が寝静まってから脱け出すのは難しいぞ。さいな、宵宮やもん、大人は遅うまで酒を呑むぞ。しやから、そこを考えて。そう、酒を呑むのが付け目ぞ。おれ、蒲団のなかへ枕を押しこんどこうかしらん。妹《いもと》を買収するわ、うち。口々に喋り出すうちに、みんなは次第に愉しくなって来たらしい。響子は頷いた。何だか自分がずいぶん年上で、ゆったりとみんなを眺めているような感じだ。
「ばれても宵宮やし、家のひとは許してくれると思う。けど、できたらばれん方がええ。願ごめやから」
 みんなは一斉に合点した。響子の言うことは何でも聞く、といったふうに強く頭を動かした。
「誘い合わす手順を決めようや」
 斉がちらっと響子の顔を上目遣いに見た。
「――」
 響子は、つんと澄ましたまま、目だけで斉に応《こた》えた。斉は照れたような気弱い笑いかたをした。響子の機嫌をとるふうに言った。
「二手くらいに分れた方が目立たんでええなあ」
「そうな」
 響子は咳払いした。「うちは一人で登れるし、どのグループにも入らんよ」
「一人で登れるてか?」
 斉は大きな目をむいた。眉の端が心持ち吊りあがった。
「ええ度胸やな」
 建司が言った。響子は建司の方を振り向きもしなかった。
「響子ならできるわ、なあ」
 勝夫がおべっかをつかった。
「さいな。響子なら、な」
 義一も調子を合わせた。
「響子には山の神さんが憑いとるんと違う? うち、此の頃、そんな気がして来たのん」
 さわ子がいつもの長閑《のどか》な口調で言った。
「――」
 響子は、ぎくっとした。
 ――ひょっとしたら、うちの顔、般若の面に似て来たのかしらん。よって、さわ子があんなふうに……。
 しかし響子は自分を励ました。さわ子の言葉など聞こえなかったような顔をしていた。山の神さんが憑いとるとみんなが思うなら、それはそれでいい。思いっきり暴れてやるから。
 響子は首筋を伸ばした。山姥の面の言い伝えの真偽を、言い伝えの禁忌に触れないで糺す方法を発見したことが誇らしかった。
 ――うちと山姥と知恵比べや。
 もちろんみんなには黙っていた。打明けたりしたら慄えあがって誰も祠に集まらないに違いない。それでは証明にならないのだ。響子以外の者が傍にいて、共通の目撃者になってくれなければ、あれは須田の響子の寝言ぞということになって片付けられてしまう。
「組分けは、家の近いもん同士がどうじゃろ」
「勝夫はいやじゃろ。アサちゃんと一緒の組になりたいんな」
「違う、違うって」
「わあ、勝夫ちゃん、赤うなった」
「こら、冗談《てんご》言うの止めろ。やっぱ、じゃんけんが公平じゃ」
 結局、福子、さわ子、勝夫、斉組と、萩乃、アサ、義一、建司組とに分れた。響子は、みんなが、きゃあきゃあ笑いながらじゃんけんするのを、他人《ひと》事のような顔で眺めていた。斉が気掛りらしく様子を窺う素振りなのを、知っていて知らん振りをしていた。
「――」
 響子は思いきり遠くへ目を放った。河原は陽が僅かに傾いて、水の面に赤味が差していた。渡って来る風が冷んやりと頬に快かった。
「このぶんじゃと、夜の山の上は冷えるかもしれんの」
 斉がいっぱし大人のような口を利いた。
「みんな、ジャンパーか何か用意した方がええぞ、なあ響子」
「そうな」
 促されて、響子は気乗りのしない返事をした。どうして斉は詰らない細かい事ばかりを次々と思いつくんだろうと腹立たしくなっていた。

 夜久神社の宵宮は、毎年、七時頃から人出が最高に達する。陽がようやく暮れきり、あたりの空気が水色に染まると、村全体が何となくざわめき立つ。
 露店の屋台は正午過ぎから続々と運びこまれて来た。総ての店の組立てが終るのは六時前だ。しかしお好焼屋や、いか焼屋などには放課後の子供たちが早々と群がっていたりする。どの家でも客受けに忙しく、小遣いを持たせて子供たちを外に追いやるからである。
 夜久村は、野々谷、瀬ノ端、柏原、根岸、笠方の五つの集落から成り立って居り、夜久神社は村の北東、野々谷のはずれにあった。三百四十戸の氏子を抱える産土神《うぶすな》である。祭神は素戔鳴尊《すさのおのみこと》と木花開耶姫命《このはなさくやひめのみこと》。背後が東の山に続き、風早山が御神体となっている。風早山と素戔鳴尊、木花開耶姫命がどんなふうにして繋がるのか、誰も知らない。ただ東の山は中国山系に連なるから、風早山を奥へ奥へと踏み分けて行くと、いつか伯耆国《ほうきのくに》、比婆の山へと到達する。
 伯耆国、比婆の山。黄泉《よみ》の国である。昔、素戔鳴尊が妣《はは》神に会いに行っての帰り、黄泉比良《よもつひら》坂を越えた話は、夜久村の子供たちなら誰でも知っている。伊邪那岐が伊邪那美に逢いに行く話を、夜久村では変形しておばあから聞かされているのである。
 東の山へ入ってしまうと方角が分らなくなる。方角の分らないまま、どんどんと比婆の山の方へ引っ張られて行く。比婆の山の奥には、死んだ者《もん》の国がある。昔、素戔鳴尊は強力やったで、黄泉の国から逃げて帰るとき、引き戻されんように黄泉比良坂へ大きな石《いわ》を転がして道を塞ぎなさった。おかげで、死んだ者《もん》は生きた者《もん》の国へ来んようになったぞ。
 夜久神社の背後の風早山は、それ故、黄泉の国からの追手を塞いだ千引の大岩の役割をしているのかもしれない。神社がそうして東の山から北への黄泉の道を封じこめる形で建っているのに対して、村びとたちの菩提寺は西の山から南へ展かれて居り、密林山西法寺と言う。村びとたちは極く自然な意識で、生まれたときは神社に関わり、死んだときは寺に関わる。黄泉の道を封じこめた神社で生まれることを確認し、西の方へ展かれた位置の寺で死ぬという事実を確認するというしきたりは、あるいは村びとたちの自覚以上に深い意味があるのかもしれない。死ぬとは世界全体のなかへ溶けて消えることであり、生まれるということは、そういう闇の世界を断ち切って現われるのだというような。だから夜久村の人びとの信仰は、神社と寺の中間にいて生きるという形で確立している。「密林山からぐるっと廻って風早山までじゃの」と言って現在でないものを表現する。
「そらあ、密林山と風早山のあいだのこっちゃ」と言えば、仏と神が取りきめていて、人間のあずかり知らぬもののことである。「何せ、寿命ばかりは密林山と風早山のあいだのこっちゃでの」などと言う。「今年の早稲《わせ》の出来は、とんと密林山と風早山のあいだのこととなりましたわい」と言ったりもする。
 誰しも、生まれたときと死ぬときの一度ずつ、夜久神社と西法寺に関わりを持つ。しかし死後のまつりごとを細ごまと行う寺の方がそれぞれの家との関わりを深め、神社は秋祭以外、特に行事はない。したがってこの産土神社は日頃は全くの無人である。響子たちが拝殿や絵馬堂を走り廻っていても咎めるものはいない。神主さんは隣町の学校の先生で常住していない。お宮詣りは申しこんでおくと時間を都合してバイクで帰って来てくれる。その代り、年に一度の秋祭が大変な賑いとなる。
 夕飯が済むとすぐ、響子は、
「宵宮へ行って来るん」と母親に声をかけて家を出た。母親はおばあと一緒に酒宴の準備に大わらわだった。
「まあ、ちっとも間に合わん女の子じゃ。鮨飯くらいあおいでくれたらどうの」
「……」
 響子は聞こえない振りをして庭先へ走り出た。
 七時過ぎだった。夜久神社の上の空が、ぼうっと明るんでいた。太鼓の音が境内の樹々の上で鳴っているみたいに四方へ拡がっていた。人びとのざわめきはその下にあった。アセチレンガスの臭いが此処まで流れて来るようだった。冷し飴屋、綿菓子屋、お腹を叩くとオーと唸り鉄棒を振り廻す鬼。
 足がそちらに魅きこまれそうになるのを我慢して響子は裏道を走った。早いうちに山を登ってしまおうと心を決めているのである。山頂で焚火をしながら時間を過す方が安全と思えた。
 もちろん怖いことは怖い。昼はともかく、夜には何が飛び出すか分らない。その上、月が無く真暗だ。足許は懐中電灯で照らしているが、周囲の闇がぶあつくのしかかって来る。
 ざわざわざわ、と梢が騒いで頭の上を真黒な塊りが過ぎて行く。闇のなかだのに、さらに真黒な塊りが見えるから不思議だ。
 ――ふくろうかもしれん。
 いつだったか、響子は昼間のふくろうに出会った。寝呆けてでもいるみたいによろけて半分墜落しそうになりながら、低く地面すれすれに飛んで道をよぎった。西の山の道幅は一米もないくらいなのに、それを横切るのがやっとで向うの谷へ逃れて行った。夜になったので元気いっぱい、野鼠でも掴んで舞いあがったのかもしれない。
 きーっ、きーっ、ぎゃっ。
 きーっ、きーっ、ぎゃっ。
 昼間には聞いたこともない鳴き声だ。鳥なのか、小動物なのか、それも分らない。しかし響子は速度を緩めないで歩いた。手には懐中電灯と杖を持っている。夕暮前、家からこっそり持ち出して裏道の雑木林の入口に隠しておいたおじいの杖だ。樫の木で、少し重いが太くて頑丈だ。それを振り廻しながら歩いて行く。すると自分が、さほど強くはないが、それでも一応の力を持った一個の動物のように思えて来る。猪には敵わないが、狐や野犬や狸は大丈夫だ。猪は、とにかく逃げなければならない……。
 歩くにつれて、次第に闇は響子にとって怖しいものではなくなって来た。動物が自分の身を護るように用心深く、そして素捷く行動すればいい。みんなそうして生きている。あの、おどおどした栗鼠《りす》だって、ちゃんと生きて行けるんだもの。
 響子は懐中電灯を両脇の樹林に向けた。二度、三度、ゆっくりと弧を描いた。臆病な栗鼠が、突然の光に驚いて木の洞深く逃げこんだ様子を想像して愉しくなった。
 胸を張って、歩幅を広くして、響子はずんずん歩いて行く。山道は急な個所となだらかな個所が不規則なので時折躓きそうになるのだが、歩調を変えずに歩いて行くと、いつか身体のなかに一種のリズムが生じる。そのリズムに従って歩いて行くと、山全体が響子を迎え入れてくれるような気分になって来る。樹々の闇の奥に、じっと息をひそめて棲息している総ての動物たちの気配が、それを響子に教えてくれる。
 響子は頂上に着いた。懐中電灯で確めた山の神さんの祠は、何だか一まわり小さく見えた。ちらちらと明りをまたたかせている夜久村も、遠く小さかった。右手、夜久神社と覚しいあたりには赤い靄がたちこめていて、太鼓の音が微かに聞こえた。
 響子は懐中電灯を片手に活溌に動いた。焚火の用意をしなければならないのだ。手頃な雑木のあるところは知っている。枯杉葉を集めて用意の紙に火を点けると、少し湿っていたにもかかわらず、ぱっと燃えあがった。
 焚火の炎に、ゆらゆらと山の神さんの祠が揺れた。揺れながら山の神さんの祠は少しずつ大きくなった。響子は木の切株に座って空に昇って行く火の粉を眺めた。火の粉は赤い星のように空に散っては消え、消えては舞いあがった。
 何時間くらいそうしていたろう。ふと気付くと、いつのまにか響子は眠りこけていた。焚火の炎が消え、熾だけになっていた。もっとも熾はまだ火力を失っては居らず、枯枝を載せるだけですぐにも燃えあがりそうだった。しかし響子は、しばらくのあいだ、じっと動かなかった。
 何だか、ぼんやりしてしまっていた。眠っているうちに何も彼もが済んでしまったような錯覚に捉えられた。
 ――いったい、いま何時なのだろう。
 かなり夜が更けていることは確かだった。夜久神社の上の空を赤く潜ませていた宵宮の明りも消えている。太鼓の音も鳴りをひそめてしまった。
 ――斉ちゃんたち、どしたんかしら。
 しかし斉たちが、まだ山に登って来ていないということは、時間が十二時以前の証拠だ。
 響子は立ちあがった。これから行われる儀式のためにも、火を絶やさないようにしなければならない。
「――」
 そのときだった。響子は背後に何やら物音を聞いたように思った。物音というより人の声だ。それも話し声ではない。女の、泣き声のような笑い声のような、奇妙な声だ。くぐもって、闇の底を、ひそかに揺さぶるふうに拡がって来る。
 響子は緊張した。ひょっとしたら山姥が、般若の面を従えて、すぐそこまで飛んで来たのではないだろうか。
 するとそのとき、女の声が不意に明瞭な言葉になって聞こえた。
「かんにん。これでかんにん。うち、早う帰らんと」
 それに混って男の声が聞こえた。しかし男の声は何と言っているのか、よく分らなかった。低く唸って女の声の周りにまつわりついた。響子は、ぎくっとした。牛舎のなかでうごめいていた照やんの姿が重なった。とっさに、いま行われていることを諒解したように思った。しかし何を諒解したのかは、自分でもよく分らなかった。
 響子は持って来たおじいの杖を握りしめた。懐中電灯を手許に引き寄せた。いま聞いた女の声は優しそうだったけど、山姥はよく人を欺すというから……。
「山姥に欺されて、喰われて死んだ男は多いぞ」
 おばあが教えてくれた。「山姥は、大てい若い男を狙うのじゃ。若い男はまだ知恵がついとらんでの、欺し易い。それにおじいたちと違うて、肉も骨も柔らかいでの、山姥の大好物じゃ」
 ――すると、あの男の唸り声は、殺されるとこだったんじゃろか。
 響子は身体中が震え出した。しかし持ち前の勝気で自分を励ました。落着いて様子を窺うと事態は必ず見えて来る。響子は獣のように神経を全身にいきわたらせた。兎は狐や山犬に出会うと、はっと動顛して物事が考えられなくなるから竦んでしまって、みすみす助かる生命を失ってしまう。恐しいものにぶつかったときは逃げかたが大事だ。
 ――うちは山姥に出会っても兎のようにはならん。それに山姥が、女の子を食べるはずはない。
「……ほんまよ、ほんまに、もう帰らな」
 女の声が前より少し厳しい調子になった。
「いやじゃ」
 男の声が、今度は、はっきり聞こえた。
「あんたのためやないの」
「嘘をつけ。おれが嫌いになったんやろ」
「どして、そんな悲しいことを言うの」
「分ってる。分ってるんや。あんたがおれのこと、馬鹿にしてるのは」
「馬鹿になんか、してない」
「してる。子供や、と思うてる」
「そら……可愛い、とは思うてる」
「それだけか」
「それだけか、と言われても困るけど……、でも、さっきみたいなこと、お互い、せん方がええみたい、な」
「……」
「ね、あんなこと、二度とせんと誓うて」
「……」
「ね、誓うて」
「おれ、もうどないしてええか、分らん」
「誓うてくれんと、もう、あんたとは会わん」
「待ってくれ。そんなこと言われたかて、おれは、あんたが好きなんや。好きやから……」
「しっ」
 女が男を押しとどめた。
「誰か、焚火してる」
 そのときになって、男と女は、初めて響子に気付いた。山の神さんの祠の裏側には、迂廻して谷に降りて行く杣道があり、男と女は灌木の茂みのなかから出て来て、その道を通るつもりらしかった。
 ――発見された。
 響子は目を大きく瞠って足を踏ん張った。山犬と出会ったときだって、そうなのだ。後ろを見せて逃げると必ず噛みつかれる。
「何や――」
 焚火の正面に立った若い男が叫んだ。「何や、響子か」
 そして、素早く女を背中に隠した。
「彦多兄ちゃん――」
 響子は仰天して声が嗄れた。彦多兄ちゃんが山姥に掴まっている。
 彦多は野々谷の響子のおばあの実家《でしょ》、長戸家の新宅(分家)の息子である。今年十八。隣町の県立高校に通っている。
「こんなとこで、何しとるん」
 彦多は相手が響子だと分ると、急に威張った口の利きかたになった。
「もう、おおかた十二時じゃ。家の者《もん》が心配しとるぞ」
「……」
「ははあ、叱られて家出か」
「違う」
「では、何ぞ」
「うち、山姥の面を見に来たんよ」
「山姥の面?」
「うん」
 しかし本当のことを言うのは、ためらわれた。彦多の後ろにすっかり隠れてしまった山姥のことが気になった。もし本当のことを言うと、彦多ばかりか、響子たちもどんな目に遭わされるか知れたものではない。
「彦多――、彦多兄ちゃん」
 響子は必死で目配せした。後ろの山姥に気をつけろと言いたいのに、彦多はまるで分っていない。暗がりに顔をそむけている女を庇うように突っ立って、どこか上の空だ。
「こななとこに居てはいかん。早う帰れ。一人で帰れるか」と言う。
「うちは、帰らんし」
 それから響子は言葉を捜す。「あとから、みんなが来るもん」
「みんな、て?」
 彦多は、きっとなる。「誰か、ここへ集まるんか」
「うん」
「誰々や」
「福子とさわ子と、萩乃とアサと、勝夫と斉と義一と、それに建司や」
「……」
 彦多は一瞬、疑い深い表情になり、じっと顔色を窺うように見て、
「響子――」と改まった声になる。
「おれが送って行くし、な、家へ帰ろうや」
「帰らん」
 響子は首を振る。彦多になど送ってもらっては、途中で山姥が噛みつくかもしれない。
「なあ、彦多さん」
 そのとき山姥が、か細い声で後ろから言った。
「……」
 響子は心臓が停まるかと思うほど驚いた。辛うじて叫び声を挙げるのを堪えた。
「うちは一人で帰れるし、その子、送ってあげて」
「何を言う」
 彦多は叫んだ。「響子は、まだ子供や。夜道が危ないのは、ほんまはあんたの方ぞ」
「生意気言って。彦多さんと帰る方がよっぽど危ないやないの」
 それから、ふ、ふ、と含み笑いした。その声には聞き覚えがあったが、響子は思い出すことができない。
 ――誰の声色を使うとるんやろ。
 響子は、しっかりと歯の根を噛んで震えを止めながら考えた。聞いたことのある声だ。思い出さなければいけない。
「響子――」
 彦多は言った。「帰ろう」と響子の手を掴むと、足で火を踏んで消し始めた。
「何するん」
 響子は彦多の手をふり払った。身体を彦多にぶっつけて、火が踏み消されるのを防ごうとした。
 そのとき、わあっという子供の声が起った。彦多は、ぎくりとした様子で声の方を振り返ると、いきなり身を翻えして闇のなかへ走り去った。
「あ、響子!」
 斉と勝夫が真先に走り寄って来た。
「助けて――」
 響子は叫んだ。「助けて! 山姥や」
「何言うとるん、しっかりせいや」
「彦多兄ちゃんが危ないん。彦多兄ちゃんが」
 響子は、彦多と女が走り去って行った方角を指さして叫んだ。「彦多兄ちゃんが山姥に連れて行かれる」
「阿呆!」
 斉が言った。「響子は何を寝呆けとるん。あれは野々谷の彦多と笠方の顕子《あきこ》やないか」
「顕子――」
 響子は口のなかで呟いた。
「さいな。評判ぞ」
「評判て?」
「関係がよ」
 斉は大人っぽい言いかたで鼻をうごめかした。「二人は、関係ある、て評判なんや」
「……」
 響子はきょとんとしていた。
「響子、何《なあん》も知らんのな」
 斉は得意そうに笑った。
「早う薪を足さにゃ、焚火が消えるし」
 アサが促した。勝夫と義一が早速器用に杉の枯葉を熾の上に置き、それへ立てかけるふうにして薪を重ねていった。焚火はすぐさま白い煙を噴き出し、それから、ぱっと音を立てて炎になった。
「わあ、燃えた」
 さわ子と萩乃が喚声を挙げた。皆は焚火を囲んで輪になった。
「――」
 響子は一人浮かぬ顔をしていた。先ほどの出来ごとが納得いかないのである。彦多の後ろに隠れていた女は、どう考えても山姥である。だからこそ、みんなの姿を見ると彦多を引っさらうようにして消えてしまったのだ。
「響子、どないしたん」
 福子が心配そうに顔を覗きこんだ。
「響子が喋らんと面白うない」
「そやそや」
 皆が応じた。斉が一歩進み出た。例によって大人ぶった口調で、
「響子、彦多はお前にどない言うたん。顕子とのこと、言いわけしたん?」
「……」
 響子は斉の顔を見た。斉の言うことは響子にとって、何となく分るようで、しかも明瞭には分って来ない奇妙な事柄だった。
「彦多は顕子と何してたん?」
 そして、にやにや笑った。
「……」
 響子は首を傾げた。
「ほんとに響子は何も見とらんの?」
 響子は漠然と頷いた。照やんのことが頭を掠めたが、慌てて打消した。
「嘘、お前は、嘘をついとるぞ」
「もうええやん。その彦多の話――」
 萩乃が退屈したらしく欠伸《あくび》をした。
「萩乃、眠たいんか」
 斉は皮肉な口調で「おれなんか、こんな話聞くの、大好きや、のう、勝夫」
「うん、そや、そや」
 勝夫は急いで合槌を打つが、何だか気乗りがしないみたいだ。そのとき突然、さわ子が不安そうに言い始めた。
「お母ちゃん、今頃便所へ立って、うちが居らんのに気がついたんと違うかしら」
 みんなは一斉にどきっとして、さわ子の方を振り向いた。さわ子は半分泣き出しそうな顔をしていた。
「お母ちゃん――」
 言いさして、アサも泣き出しそうな顔になった。男の子のなかでは一番気の弱い義一が最初に伝染して泣き顔になった。
「おい、響子。響子がいかんねやぞ。山姥、なんて言い出すからじゃ」
 斉が怒鳴った。しかし空ら元気だということは誰の目にも明らかだった。
「……」
 不意にみんなを襲った動揺のせいで、響子は逆に落着いた。少し高い位置からみんなを見下ろす気持になった。臆病風が吹いて帰るのなら、それでも良い。自分一人でも此処に残って、山姥の正体を確めてやる、と決心した。間もなく刻限になる。そしたら総てが明瞭になるだろう。
「丑の刻まで待てんひとは帰ってもええよ」
 響子は冷淡に言った。
「丑の刻?」
 福子が悲鳴のような声で訊ね返した。「何え、それ」
「丑満どきの、あの丑の刻か」
 勝夫が怯えて引きつった表情になった。
「丑の刻まで待たんでも、早いこと願ごめして帰ろうや」
 斉が言った。
「いんにゃ」
 響子は首を振った。「丑の刻にならんと、吉生ちゃんの願ごめはあかんのや」
「何で?」
「さいな」
 響子は胸をそらした。焚火の炎が、ぱあっと燃えあがって、響子の目のなかへ入った。響子の両眼は瞳孔に炎を宿してきらきらと輝いた。
「……」
 子供たちは暫くのあいだ、響子の気迫に押されて黙った。
 響子は、みんなを見廻した。すっくりと首筋を伸ばした。
「夜久神社の絵馬堂の般若の面は、今夜の丑の刻、この西の山の祠へ飛んで来ることになってるやろ」
「あ」
 誰もが一斉に、唾を呑みこんで響子の顔をみつめた。
「そのあいだ、いっときやが絵馬堂の北の壁が空らになる」
「……」
「しゃけど、誰も、その空らになったところを見た者はない。見た者は目が潰れるという、昔からの言い伝えがあるからや」
 響子は、次第に確信に満ちた口調になって来るのを、自分でも意外に感じながら喋り続けた。
 みんなは頷きもせず、しんと聞いていた。誰もがよく知っている話だが、響子が喋ると別の話のように真新しいのだ。響子は胸をそらした。
「うちが、此処で丑の刻を待っているのは、その五つの般若の面が飛んで来るのをこの目でちゃっと見るためや。絵馬堂やないから、目は潰れへん。五つの面が飛んで来たとき、大急ぎで吉生の願ごめをする」
 みんなは、一瞬、ぽかんと馬鹿みたいな顔になって響子の口許をみつめていた。
「流れ星が流れるあいだに願いごとを唱えると叶えられるそうの。あれと同しや」
「ふうん」
 暫くしてから、やっとのことのように勝夫が口を利いた。「ほなら、響子は、般若の面が飛んで来るまで、いつまでも此処に座って居る気な」
「さいな」
 響子は、きっぱり答えた。
「恐し。うちは恐し」
 さわ子が、いきなり顔を掩って、わあっと泣き出した。
「うちも恐し。うちも早う帰りたい」
 アサは隣の萩乃の肩を掴まえて揺すった。萩乃は返事もできず、ただ小刻みに震えていた。
「したが、飛んで来なんだら、どうするつもりや」
 斉は例によって意地悪な口調だが、質問というより、自分自身の行動を考えているふうだ。
「飛んで来るし。きっと飛んで来る」
「そんな恐いこと――」
 福子が首を振るのに、響子はぴしゃっと何かを封じこめるように言ってのけた。
「飛んでこん方が、もっと恐いやないの。村の言い伝えが嘘、ということになるもん」
「……」
 みんなは再び黙りこんだ。
「薪を、もっとくべよし」
 響子は凛とした声で命令した。勝夫と義一が弾かれたように立ちあがった。女の子は四人とも思わず手を取りあって蹲った。斉は響子の見幕に押されて直接に口が利けなくなって、隣の建司に話しかけた。
「なあ、この西の山の何から、夜久神社の絵馬堂の方角は、ひょっとしたら丑の方《かた》とちがうか。昔のひとは、ようそんなふうに言うぞ。丑の刻、丑の方に何とか、て。おれ、おばあに聞いたことがある」
 響子は斉を振り返ったが、すぐまた夜久神社の上空と覚しいあたりに目を放った。曇って来たのか、月は無く、東の山並が黒々と間近かに迫っていた。間もなく丑の刻に違いなかった。夜久村の家々は、まだ祭の客たちの名残なのか、ちらちらと灯をともして揺れているようであった。

       U

 野々谷の彦多は、父親の子でないという噂があった。噂なので根拠はないが、その話をするときは、誰もが声をひそめた。
「そりゃあ、二十歳も年下の別嬪を後添いに貰うのじゃもの。それくらいのことはあろうかい」
「表だっては産めん子供やったそうの」
「すりゃ、人助けじゃが」
 彦多の母親は、十八のとき彦多を産んだ。嫁入って来たのは十七歳である。彦多の父は三十八歳、先年妻を失くし、九歳の男の子を抱えていた。後添いが二十歳年下というのは夜久村では不思議ではなかったが、十七という年齢に村びとたちの好奇の目が集まった。
「長戸の家の門先では、後添いと息子が一緒になって面子《め人こ》遊びをやっとるぞ」
「あななふうに遊んどるところは、まあ、どう見ても十四、五の」
「いずれ水商売の店で働いとったんじゃろが、まるで子供の」
「長戸も、まあ、どこで拾うて来たやら」
「後添いじゃよって、誰も何も言わんが、はきとせん出所《でしょ》のう」
「したが初々しい。もういっぺん仕立直して嫁入りさせたらどうじゃろ」
 などと面白半分もあって囃したてているうちに、すぐに目立ち始めた。
「ひゃあ、お土産つきか」
「いんにゃ、早仕込みぞ」
 だから彦多は子供のときから、ずいぶん長戸に似ている似ていないと目引き袖引きされながら育った。
 彦多の母親は夜久村には無い顔立ちの美人だった。北国の生まれなのか、色白の輪郭のはっきりした細面で、少しつりあがり気味の目が少年のようであった。彦多は母親に似ていた。父というよりも異母兄の兼多の面差しも僅かには窺われたが、陰口を叩くものは、「やはり同じ家に棲んどると似るようになるんじゃろか」と言うのだった。
 顕子は彦多の父の先妻の娘だ。先妻は笠方から嫁入って来た。嫁入ってしばらくしてから実家では跡取り息子が結婚前に死んでしまった。二人しかいない姉弟だったので、実家の親たちは嫁入った娘の子供を養子にすることに決めた。
 腹のうちから貰う、という遣りかたは、血の繋がった者同士、相互の養子縁組で、夜久村では例が多かった。彦多の父の先妻は、すでに男の子一人、兼多を儲けていたから、次の子供は、男であろうと女であろうと、笠方の実家へ養子にやるという約束がなされていたのである。
 生まれた子供が顕子である。昔は養子としないで、最初から実子として届け出る方法があったらしいが、いまは役場がうるさい。顕子は母親の父母、つまり祖父母のところへ赤ん坊のとき養子縁組したのである。養子縁組はしたが実父母の許で育てられていた。顕子が養父母に引きとられたのは四歳のときである。母親が死んだからである。
 父親は顕子を可愛がっていて、もう少し大きくなるまで手許に置きたかったが、再婚の問題もあって手離すことにした。もし顕子が父親の許に居れば彦多とは明瞭な異母姉弟である。
 彦多と顕子の仲は、それ故、夜久村では醜聞であった。
「長戸の家では、関係を言いきかせておかなんだのかや」
「彦多には言いきかせんでも、顕子が知っとろうが」
「万事知った上のことならば……」
「さいな。やっぱ、彦多は長戸の血筋には繋がらんのかの」
「したが顕子は養子娘じゃろが。妙な噂が立ってしもうて、聟の来てがのうなっては大事じゃが」
 彦多の家の両親も、顕子の家の養父母も、逆上せんばかりになっていることは、誰の目にも明らかだった。
「うちら、何《なあん》も関係ないよ」
 顕子は涼しい顔で答える。
「彦多ちゃんは可愛いもん。長戸の家に居たら姉弟で暮したはずなんよ。一緒につきあって、何が悪いの」
 彦多の方はそうはいかない。顕子のことを詰問されると真青になって震え出した。
「やっぱ、何かあったんね」
 彦多の母親は息の根が止まりそうな思いだ。
「お前たち、血の繋がった姉弟じゃと知っておろうに」
「……」
 彦多は反抗的に、きっと母親を見据える。
「ほんまに血が繋がっとるん?」
「……」
 今度は母親が絶句する。母親の狼狽を、彦多はじっと睨みつけながら、
「どうせ、自分でも分らんのじゃろ」と吐き捨てるように言うと、そのまま、さっと家を飛び出してしまう。
 彦多十八歳、顕子二十三歳。成り行きの涯ては互いに見当もつかなかった。
 その上、夜久神社の宵宮の夜、響子たちを捜しに繰り出した若い衆たちが、一人で山を駈け降りて来る顕子をからかい、それを後ろから追いかけて来た彦多が見付け殴り合いになり、いっきに抜き差しならない評判が立ってしまった。
「事の起りは響子ぞ」
 おばあは、いつにない恐い顔で響子を呼びつけた。
 響子は意外だった。叱られると覚悟していた父親と母親は、無事を喜んでくれたのに、思いがけないおばあが怒っていた。
「そらまあ、彦多と言い、顕子と言い、おばあは自分《めめ》の実家の一大事やから無理もなかろが、響子たちのこととそれは、一応関係ないでしょうが」
 母親にしては例外的に響子を庇ったので、おばあは一層激怒した。
「西の山の祠の前で、般若の面の飛んで来るのを見届けようてか。ふん、そなな罰当りを考え出すよって、山姥が怒ってしまわれたんじゃわ」
「ああ」
 響子は、はっと気がついた。そうかもしれない。
「響子――」
 おばあは響子を自分の前に座らせ、つくづくとその顔をみつめ、溜息をついた。
「お前は、何じゃやら、まがまがしいのう」
「……」
 響子は奇妙な気分になった。まがまがしいと言われると、自分の身体の奥から得体の知れない力が、ねっとりと湧いて出て来るような気がして来た。
 まがまがしい女は、六十年に一人くらい村に生まれて来て災いをもたらす、とおばあは言う。丁度、竹が六十年に一度白い花をつけ、一斉に枯れて行くのとよく似ている。
「花が咲いたら、実がなるのと違うの」
 響子は口をとがらしておばあの話に横槍を入れる。
「黙って聞きない。まがまがしい女の例えじゃが。今日までは、それが顕子や顕子やと思うて来たが、どうやら響子の方が一枚上じゃ」
「顕子も、まがまがしいのん」
 響子は、その名を聞いたとたん、胸が、軋むのを覚えた。宵宮の夜、彦多の後ろに隠れて、白い芙蓉の花のように揺れていた……。
 ――顕子は彦多と何をしてたのかしらん。
「お前、分らんのん?」
 へっ、と嘲笑った斉の小生意気な顔が浮ぶ。あのとき、殴り返されて、彦多は唇の端から血を流していた。
「顕子を冷やかしたが、何で悪い」
 若い衆の一人が怒鳴った。祭の酒のせいで、みんな気持が昂っていた。
「それよか、彦多。お前こそ、山で何しとったんじゃ」
「……」
「顕子にええこと教えてもろてたじゃろが」
「顕子さん、ちょっとここで、わしらにも、のう」
「何を言うのん」
 顕子が鋭く叫んで若い衆たちを見廻した。彦多を庇って一歩前へ出た。
「この子は、うちの可愛い弟やよって、滅多なことを言うと承知せんえ」
「ひゃあ、怖いお姉さま」
 誰かが混ぜっかえした。顕子はそれには取り合わず、首を真直ぐに伸ばして言い切った。
「うちらは何にも疚しいことはしとらん。西の山の祠に、おじいの病気平癒の丑の刻詣りをしよう言うて登って、響子ちゃんたちに出会うただけや」
 いきなり自分の名前が出たので響子はびっくりしたが、顕子は響子たちをちらっとも見なかった。
 その翌日から彦多は学校を休んでしまった。彦多の母親は、問題が先妻の実家の跡取り娘に庇がつくことなので彦多を責めた。しかし責めたところで、一度立った評判を静めることはできない。
「お前、顕子さんは、何も関係はない、言うてなさるそうやに、お前が黙っとるから事がややこしゅうなるのや」
「どないせえ、言うのや。記者会見でもすんのか」
 彦多は憎まれ口を叩いた。
「したが、お前が顕子さんを好いたらしい口ぶりで……」
「もう止めい」
 彦多の父親が横合いから遮った。
「こんな話はの、噂が立ってしもたら訂正が利かんのじゃ。実際、関係があったか、なかったかは別問題じゃ」
「そんなこと言うたかて、わたしは顕子さんのお家に顔向けがならんでの」
「男と女のことは五分五分じゃ」
 彦多の父親は苦々しく首を振った。「それよか、善後策じゃ。どう考えてもこのままでは工合が悪い。顕子は他所《よそ》へ出そう」
「……」
「しばらく他所へ出しておいて、そのうち、どこぞ遠い町に縁づけて、彦多にあすこを継いでもらおう」
「彦多に?」
 彦多の母親は慌てた。
「したが、彦多は……」
「あすこの家とは血が繋がっとらんが、誰ぞ縁のある娘をそのうち探すわな。おじいやおばあも、結局は、嫁が自分《めめ》らと血続きである方がよいのじゃ」
「……」
「いまは、何はともあれ、一刻も早う、顕子を村から出そう。それがお互いのためじゃ」
「顕子を村から出すてか」
 彦多が口を挟んだ。
「お前は黙っとれ。お前に関係ない話じゃ」
 彦多の父親は実行力があった。どこで、どんなふうに話をつけて来たのか、顕子は宵宮の夜から数日後、村を出ることになった。
「何じゃ、わしらにも、どこへ遣るかを言うてくれんのやがな」
 おばあは溜息をついた。
「彦多に知れんようにするためには、誰も知らん方がええ、言うて、顕子のおじい、おばあも知らんそうな。全部、長戸の胸のなかじゃ」
「したが、そんな大だんびら振りあげた始末……」
 響子の母親は心配そうに父親に言った。「うちは何やら、恐《おとろ》しい気がしますがな。顕子さんかて子供やない。彦多に連絡つける方法なら、考えれば何ぼでも見付かる。長戸の兄さんは遣り手やよって、段取りが激し過ぎる。何ぞ間違いが起らなよろしがなあ」
 顕子の出発は九月二十三日と決まった。彦多の父親が勤めている隣町の林業組合の彼岸休みの日だからである。顕子の家からは、病気のおじいに隠して、おばあだけが見送りに来た。彦多の家からは、父親と母親、それに兄の兼多も仕事を休んで来た。顕子には大叔母にあたる響子のおばあ、おばあに付添って響子もバス停へ行った。
「彦多兄ちゃんは見送らんの」
 響子はおばあに訊ねた。おばあは恐い顔で、きっと響子をたしなめた。
「さいな。彦多も来ればよいのに。勝手な子でなあ」
 彦多の母親が言いわけした。
 顕子は化粧気の全くない蒼い顔をして、額に垂れかかる長い髪のあいだから、異様に大きな目をぎらぎらさせていた。数日のあいだに、顕子の目の縁には黒い隈ができてしまっていた。しかし響子は、そんな顕子の表情に魅きつけられていた。これまでに見たどの顕子よりも、今日の顕子は美しいと思った。
 バスが来るまでのあいだ、響子のおばあと顕子のおばあは、当り障りのない世間話を始めた。吉生の盲腸も癒ってそろそろ退院が近いとか、この夏は梅の土用干がどうもうまくいかなんだとか、ぽつり、ぽつりと喋っている。彦多の父親はいらいらしながら、何度もバスのやって来る方角を確めては、
「そないに急《せ》かいでも、来るときには来るがな」と兼多にたしなめられている。
 彦多の兄の兼多は今年二十八である。まだ結婚はしていない。「長戸は、後添いが若過ぎるで、ちょっと嫁が難しの」と囁かれている。兼多自身はどんなふうに考えているのか。隣町の宮大工に弟子入りして、もう立派な腕前。無口で働き者である。
 彦多の母親は、夫と義理の息子のどちらにも気を遣いながら、一生懸命、顕子に話しかけている。
「どななとこか知らんけど、身体だけは大事にな。はじめのうちは生水は止めた方がええよ。無理せんようにな」などと言っている。
 しかし顕子の方は冷淡に横を向いたきり、合槌も打たない。おばちゃん可哀そうに、顕子姉ちゃん返事くらいしてやってもよいのにと響子は思うが、口に出すことはできない。
 時の流れが、ひどくゆっくりと感じられ、こんなときは、一刻も早くバスが来てくれることだけが救いなので、みんなで何となくいらいらしているうち、ようやく道の曲り角から、黄色い車体が見えて来た。
「十五分も遅れとるのに、済まんとも言わず、大けな顔してやって来るやないか」
 兼多が珍しく冗談口を叩き、みんなは、ちょっと笑ったが、誰の顔も歪んで泣き笑いの表情になった。響子だけがいつまでもくすくす笑っていて、またおばあに睨まれた。
 バスの扉が開き、鎮子が足を掛けたとたん、顕子のおばあが、わあっと大声を挙げて泣き出した。響子のおばあも貰い泣きし始めたが、顕子は振り返らなかった。実兄の兼多に向って軽く手を挙げて、
「ほなら」と言っただけだった。兼多も、
「ほなら、な」と言ったが、どちらも別々の方向を向いていた。
 バスが動き出した。
「さようならあっ」
 響子が手を振った。そのときだった。大きな獣のようなものが、いきなり横合いから飛び出して来て、バスの窓を激しく叩いた。
 彦多だった。
 はっとみんなが狼狽するのを尻目に、彦多はバスに従いて走り出した。真黒の運動服を着た彦多は、黒い大きな豹に見えた。
「……」
 窓が開けられた。顕子が気付いたのだった。
「彦多――」
 顕子は窓から上半身を乗り出し、手を差しのべて叫んだ。
「彦多――」
 彦多は顕子の差し出した手を掴んだ。ぴょんぴょん跳びあがるような妙な恰好で五十米くらい走った。それから手を離し、今度はバスの横腹にぴったりくっついてまた暫く走ったが、とうとう取り残された。バスは間もなくカーブを曲り、見えなくなった。彦多は地面に座りこんだまま動かなかった。泣いているに違いなかった。
 響子はバス道の真中に座りこんでいる彦多を見ていた。不意に涙がこみあげそうになって来た。悲しいというのではない。彦多が可哀そうなのでもない。奇妙な心の騒ぎようであった。顕子と彦多が身をよじるようにして互いに手をとりあっていた、ほんの十数秒のあいだの情景が瞼に灼きついてしまって消えないのだ。
「響子、響子」
 おばあに呼ばれて、響子は我に返った。
「帰ろ、な」
 おばあが言った。
「したが、彦多兄ちゃんが――」
 響子は道の向うを振り返った。
「いんにゃ。あんなときは、の。放っといてやるのが一番の親切じゃ」
 おばあは先に立って歩き出した。響子も後ろを振り返り振り返り引き返し始めた。彦多は夜久村の白い往還に、一匹の黒い獣のように、いつまでも蹲っていた。晴天続きの道には砂埃りが舞いあがり、路ばたに群がって咲いている彼岸花の赤い色も、薄汚れて疲れて見えた。
 以来、彦多は人が変った。家のなかばかりではなく、村の誰とも口を利かなくなった。
「もともと陽気な子じゃもん。そのうちに元に戻るわさ」
 父親はあまり気にしていない様子だったが、母親は心配した。
「頭へ血がのぼって、気のふれるようなことにはなるまいのう」
「それで気がふれるんなら、ふれても仕方なかろうが」
 父親は難しい顔をした。「そうじゃろが、姉弟同士で関係するくらいなら、いっそ、気がふれた方がましぞ」
 そう言われると彦多の母親は、自分が咎められているような情無い気持になって俯くのだった。
 響子には、事柄の全体が、まだよく掴めなかった。顕子が夜久村を出なければならない原因は分らないままに、あのときの手を取りあった二人の姿だけが、いつまでも強く響子を揺さぶり続けた。
 ――何で、あのときのことを考えると、胸が痛うなるんやろ。
 響子は自分のなかで自分を確めるふうに、じっと拳を握りしめた。その質問を、すぐさまおばあにぶっつけない自分が、我ながら不思議だった。響子は、分らないことは何でもおばあに訊ねていたが、これだけは訊ねてはいけないような、いや、おばあに限らない、誰にも、このようなことは質問してはいけないような気がしていた。しかもそのくせ、誰に教えられなくとも、自分はずいぶん以前からそのことを知っているような奇妙な気持にさえなって来たのだった。
 それは、響子の飼っている犬のクロが初めての雪を見たときを思い出させた。クロは生後三ヵ月くらいのときに譲りうけたアイヌ犬の血の混った雑種である。クロにとって初めての冬、起きると、ふかぶかと雪の積った朝があった。
 視界は晴れて広かった。響子の家の庭から前の田圃へと一続きの白色で、道と木々と家の屋根に僅かな凹凸を見せるだけで、西の山まで遮るものはなかった。
「クロ、雪よ」
 響子は叫んだ。響子も興奮していたが、クロはその比ではなかった。鎖を解くと一目散に雪のなかへ走りこんだ。雪は待ち構えていたようにクロを包んだ。クロは走った。引っ返した。また走った。引き返して来る度に響子の胸まで飛びついて喜びを表現し、再び雪に抱かれた。クロと雪は、どこか深い場所で繋がっていて、一つのもののようであった。雪はクロに、その深い場所を教えたに違いなかった。いや、その深い場所から教えられて、クロはいま、雪と一つになっているのかもしれなかった。
 ――クロは、雪を知らんけど、知っとったんね。
 響子は跳ね廻っているクロを眺めながら、何か、自分もクロと一緒に、遠い昔に、こうして雪のなかで遊んでいたような、不思議な気分に捉えられて来た。
 ――あのときに似てる。
 そう思った。クロと雪の情景と、彦多と顕子の情景はまるで異っているのに、何故か、そんな気がした。クロが雪に出会って、自分の内奥の、クロ自身も知らない何かに揺さぶられたように、響子も、手を取りあった彦多と顕子の姿に出会って、自分の内奥の、響子自身も知らない何かに揺さぶられた。
 ――これは、何なん?
 響子は、胸の奥の方にできてしまった不思議な塊りを、じっとおさえてみた。おさえてみるといっても、手にとれるわけではない。心の動きを総動員して、身体中で考えるみたいな、そんな工合に自分自身に確めている。
 ――これは、何なん。
 するとどういうわけか、急に彦多に会いたくなって来た。黒い運動服を着た、背の高い、よく撓う鞭のような姿が思い出されて来た。癖なのだろうか。彦多は夏でもズボンのポケットに両手を突っこんで歩く。小走りになるときもポケットに両手を突っこんだまま、少し身体が斜めに傾く……。
 奇妙なことに、いつのまにか顕子の姿が消えていた。彦多と顕子が手を取りあっていた姿は明瞭に記憶に残っているのに、彦多のことを考え始めると顕子が見えなくなる。彦多だけがにこにことこちらを向いて歩いて来る。彦多のあの黒い運動服を見たのは、あのときが初めてだったのに、もうずうっと前から彦多はそれを着ていて、響子は何度も何度も見馴れているみたいな形で思い出されて来るのだった。
 ――おかしな工合のん。
 響子は、ぱっと立ちあがった。宿題の書取をしているのに、まるで進まない。彦多のところへ行ってみよう。彦多はあれからずうっと学校を休んでいるそうだから、家に居るに違いない。
 響子は表へ走り出た。彦多のところへ行く、と心を決めると、急に胸の閊えが下りた。足も軽くなった。
 瀬ノ端の響子の家から、野々谷の彦多の家までは、およそ二粁だ。瀬ノ端は戸数こそ少いが夜久村の入口にあたる。野々谷は反対に夜久村の奥座敷である。狭く細く北東の山へ分け入った細長い集落で川沿いに四粁以上もの距離がある。彦多の家は、その一番南のとっかかりだ。
「彦多兄ちゃん、居るん?」
 響子は戸口から呼ばわった。家中、留守なのか、森閑としていた。納屋の脇の鶏小屋で数羽の鶏たちが、くわっ、くわっ、と鳴いている他は、何の物音も聞こえなかった。
「彦多兄ちゃん、居るん?」
 もう一度、声を張りあげた。
すると、かたり、と音がした。納屋の奥の方で人影が動いた。
 彦多だった。彦多は「あ」と口のなかで呟いた。
「何や、響子か」
「……」
 響子は胸が詰った。彦多は、たださえ白い顔が、紙みたいになっていた。目許にも力が無かった。身体の動きが、病人のようにのろのろしていた。
「何の、用?」
 力の無い声で訊いた。
「用?」
 響子は狼狽した。遊びに来た、と言えなくて、恥しくなった。吉生や斉の家でなら、「何の用?」などと訊かれるはずはない。
「吉生ちゃん」と呼べば、
「はあい」と出て来て、それで一緒に走り出せばよかった。
「どないしたん、響子――」
 彦多は弱々しく笑った。
「使いの口上、忘れてしもたんか」
「……」
 響子は口ごもった。頭のてっぺんから足の先まで、いっときに火がついたように、かっ、かっとして来た。
「まあ、落着け」
 彦多は大儀そうに身体を運んだ。
「冷蔵庫に冷たいもんでも入っとるじゃろ。それを呑ましちゃる」
「要らんの」
 響子はべそをかいた。「うち、帰る」
「何でや」
 彦多は首を振った。「ちいと休んどったら思い出すじゃろに」
「帰るん」
 響子の目から涙が噴きこばれた。
「泣くな。使いの口上忘れ、誰でもすることぞ」
 彦多の言葉を半分も聞かないうちに、響子は表へ飛び出し、後をも見ずに走った。涙があとからあとからこみあげて来て、泣きながら、しかし宙を飛ぶように走った。響子の涙は塊りになって吹きちぎれて、夕陽にきらきらした。西の山に沈んで行く陽が、大きく、重そうに見えた。

 響子は闇のなかにいた。息苦しかった。闇は深く、どこまでも続いているようであった。実際には歩いていないのに、どこまで歩いて行ってもずうっと続く闇だということが、何故か、すでに分ってしまっていた。
 闇の空気には粘りがあった。息苦しさはそのせいかもしれないが、空気は気体ではなく、一塊りずつの圧迫する物体となって響子の胸に押し入って来た。響子は手を伸ばした。闇のぶあつい層をかき分けようとした。すると掌のなかに、奇妙な手応えが起った。
 そう、確かに手応えが起ったのだ。闇は、茶碗や椅子といった物がそこにそうして在るような形で在るのではないので、もちろん掴むことはできない。掴むことができないのに、どうして手応えが起るのだろう。
 響子は拳を握りしめた。すると手応えは消えた。闇は響子の掌のなかで消えて、さらに向うへ拡がって行った。
 響子は目を凝らした。闇の奥から近付いて来るものがある。闇の奥だから、本当はどれだけ目を凝らしても見えないはずなのだが、それでも気配が見えるような気がするのだ。しゅるしゅると花火が燃えて行くときの音までが聞こえて来る。響子は周囲を見廻した。
「……」
 目をあげると、火の弾けるさまが行手に望まれ、初め一粒の火種だった赤い色が次第に大きくなり、黄色い色を伴って炎の形に揺れ出した。
 ――焚火が拡がって行く。
 響子は立ちあがった。焚火を消しとめなければならない。このままにしていたら、山火事になる。
 しかし、それでいて響子は動かなかった。炎の色に見とれていた。炎は闇のなかを舐めるようにうねって空へ空へと舞いあがった。空は周囲の闇よりも幾分薄い藍色で、頭の上を突き抜けて涯てもなく拡がっていた。空には闇とは別の深さがあって、見きわめ難く遠かった。それは手許へたぐり寄せて来るときの底無しの深さではなく、飛んで行く風船が、どこまでも遠ざかりながら見え続けている、そんな深さなのだった。
 炎は、その闇と空のあいだを自在に駈けめぐっていた。
 炎の色は次第に鮮かになった。赤い部分と黄色い部分が明瞭に区別されていて、しかも素早く混りあっては、再びほどける動きを繰り返していた。炎が大きく動く度に、ぼっという音と共に火の粉が弾けた。弾けた火の粉は、瞬時、無数の粒子になって空の色を赤く染めた。
 雲が流れて来た。風もないのに、雲は早い速度で東の山から西の山に向って流れた。
 雲の色は濃い紫黒色だった。周囲は不定型で、きれぎれに空に溶けているが、中心に向って、ぶあつく色素を集めた塊りだ。塊りは凝縮作用と拡散作用を同時に繰り返しながら、空を走った。
 時折、炎と雲は一つに溶けた。一つに溶けて空を占有した。
 響子はじっと座っていた。じっと座って空と闇の端境いにいた。
 どれほどの時間が経ったろう。響子の身体は次第に透明になり、空との区別がなくなった。闇との区別もなくなった。空へ飛び去って行き、闇へ溶解して沈んだ。それでいて、なくなってしまうのではなく遍満していた。
 響子は目に見える身体を失った。身体を失った響子は、炎になったり、雲になったりした。自分が炎になり雲になり、それでいて炎も雲もはっきりと見えて来るのが不思議だった。
「ああ」
 響子は叫んだ。不意に自分が面になって飛んでいるのを自覚した。いつ自分が面になったかは分らない。ふと気がつくと面になっていた。自覚したと同時に面が見えて来た。
 面は、ひたと響子の顔を見据えた。自分が面になっているのに、それと真正面から向きあっている。奇妙な、わくわくするような体験だった。
 面は山姥が真中で、その両脇に二つずつの般若がいて、鈍く黄金《きん》色に輝く角を振り立てていた。五つの面は真直ぐにこちらを向いて空を飛んで来るところだった。
 ――やっぱ、西の山の祠へやって来る。
 響子は興奮のために逆上しそうになった。振り返って祠を確めようとしたが、何故か祠は無かった。祠は無く、背後はぶあつい闇だった。
 ――でも、東の夜久神社から飛んで来たんだ。
 響子は面がやって来た方角を確めようとした。しかしそこには夜久神社の社は無く、涯てもなく遠い空が拡がるばかりだ。
 五つの面は、空から闇へ向ってまっしぐらに飛んで来る。疾風のような速さだと分っているのに、涯てもない空から底もない闇へ向って飛び続けているので、一見、中空にぴたっと静止したままのように見える。
 中空に、ぴたっと静止した般若の面が、いま次第に大きくなって行くところだ。炎が運んで来たせいか、どの面も目から火を吹いている。目から火を吹きながら、面は次第に大きくなって行くのだ。
 響子は走った。いつのまにか、目から火を吹きながら走っていた。
 いま、響子は山姥の面だ。両脇に般若の面を従えている。般若の面は、右に福子、さわ子、左に萩乃、アサだ。面のなかは見えないけれども、それはもう決まっている。
 響子たち少女五人は、絵馬堂の面になって夜久村の闇と空を駈けめぐった。少女たちが駈けめぐる夜久村の闇と空は、無限に深く涯てがなかった。
 響子は夢と現《うつつ》の端境いを走った。
「響子が、何を寝呆けて」
 斉が、さも小馬鹿にしたように鼻でせせら笑った。しかし響子は断固として言い募った。
「しやけど、うちは見たんやもん」
 それから「なあ」と福子、さわ子、萩乃、アサに順に同意を求めた。
「うん」
「見た」
「走ったもん、一緒に」
「さいな、もの凄う速かった」
 福子、さわ子、萩乃、アサは一斉に頷く。
「ちぇっ。あの晩、帰ってからの夢じゃろが」
「帰ってから、夢は見とらん」
 響子は言い張る。
「そんなこと、分るか」
「しやけど、眠らなんだんやもん。なあ」
 すると少女たちは、もう一度、一斉に、
「さいな」と頷く。
「したが、女にだけ見えたんかもしれんぞ」
 不意に大発見をしたように勝夫が叫ぶ。
「はあ、ん」
 少年たちは、口をとがらして、目を大きく瞠る。
「なして、女だけに見えるん」
「そら、山姥が女やもん」
「ふうん。般若も女じゃろか」
「あなな怖い顔が?」
「女じゃ。うちのおばあが言うとった」
 響子が断言する。
「な、今夜も見えるじゃろか」
 萩乃が、何か愉しいことでも待つみたいに言う。
「うちは、もう、あの晩から毎晩見るんよ」
 響子は首筋を真直ぐに伸ばしてみんなを見廻す。必ずしも毎晩ではないような気もしていたが、誇張して、そう言い切ってしまう。
「へえ、毎晩なあ」
 アサが感に堪えぬよう首を振る。「うちは、あかんし。毎晩は見られん」
「見よう思たら見られるし。見られるよ」
 響子は次第に言葉尻に力が入る。
「どないして見るん?」
 さわ子が間の抜けた声で質問する。
「どないせんでも」
「ふうん。響子には山姥がついとるんじゃろか」と福子。
「うちも、自分で、そう思うん」
 響子は重おもしく頷く。
「したが、このこと、誰にも言うたらあかんよ」
「家の者にもか」
「きまっとるやんか」
「響子には、山姥がついとるてか」
 勝夫が心細い声を出す。
「恐いのん」
 響子は笑う。
 勝夫がその笑い声に、ぴくっと頬の肉を震わす。小さな声で、
「そら恐いし」と呟く。その声がひどく真剣だったので、みんなは、はっと緊張する。
「何や、何や。阿呆らし。響子の寝言、信用するな」
 硬ばった雰囲気を解きほぐすように言うのは斉だ。しかし斉の言葉も、いまは何だか力が無い。誰もが、響子には山姥が憑いても、それは決しておかしくないと納得させられているからだ。
「うちは、きっと、誰にも言わん」
 福子が、ひどく思いつめた声で小指を差し出した。
「指切り」
「ふん」
 響子は尊大に頷いた。
「うちも」
「うちも」
 さわ子、萩乃、アサに響子は次々と指をからませた。
「おれも、誰にも言わん」
 気弱い嗄れ声で指を差し出したのは義一だ。
「……」
 響子は、義一の手を取って、軽く首を傾けた。
「男は遣りかたを変えるし」
「……」
 義一は響子に手を取られたまま、まごついた表情になった。
「そう。膝をつくん、な」
 響子は義一の左膝を地面につかせ、右膝を立てさせ、西洋の騎士のような姿勢をとらせた。
「ほんで、うちの手の甲に接吻するん」
「せっ、ぷん、て?」
 義一は、目をぱちぱちさせた。アサとさわ子が、きゃあ、と声を揃えて笑った。
「こないするん」
 響子は、義一を立ちあがらせ、自分が先ず型を示した。
「こそばゆい」
 義一は、すぐさま手を引っこめたが、教えられた通り、ひざまずいて響子の手に接吻した。
「よし」
 響子は言った。
「おれもやる」
 勝夫が次に進み出た。
「よし」
 響子は右手を差し出し、左手を勝夫の肩に置いて頷いた。
「おれも」
 ぐずの建司もゆっくりと進み出た。
「よし」
 響子は、ちらっと斉の方を見た。斉ちゃんは誓わんの、と目では言ったが、声には出さなかった。
「斉は?」
 勝夫が促した。
「おれ?」
 斉は、ちょっと口ごもった。
「斉ちゃんは、な、響子ちゃんが好きのん。それで出来んのよ」
 さわ子が甲高い声で言った。
 何か言おうとして、斉は真赤になった。
「何が? 何で?」と抗議するように首を振りながら後退りした。
「斉ちゃんは、うちに山姥が憑いとるなんて思うてえへんのやろ」
 響子は挑発するように言った。
「……」
 斉は困惑して、目を逸らした。
「逃げんかて、ええん」
 響子は鋭く言って遮った。
「けど……」と真直ぐに斉の目を見た。「ここでの話、誰にもせんと誓うのん。ええね」
「……」
「連れ、じゃろが、うちら」
「うん、連れじゃ」
「したら、誓うのん」
「うん」
 斉は、ちらっと響子を仰ぎ見るようにしてひざまずいた。みんながぱちぱちと柏手した。
「……」
 響子は、斉の接吻の仕方が、一番恰好よくて上手に思えたが、感想は述べずに、元気のよい声で、
「ほなら、これで終り」と叫んだ。みんなは立ちあがり、
「わああっ」と河原へ向けて走り出した。
 響子はしかし、その日以来、山姥の話をしなくなった。時折、アサなどが思い出したように、
「な、響子ちゃん、いまでも、あんた、山姥の面を見るん?」と話しかけて来ても、激しくかぶりを振った。
「その話、秘密やったんやないのん?」
「けど、仲間うちやし」
「ほんでも、誰が聞いとるか分らんやない?『七』の日にしか喋らんの」
「『七』の日にな」
「ふん」
「『七』の日に集まったら、この話、してくれるんな」
「さいな」
 今度の集まりは十月七日である。皆は、めいめいにその日の来るのを心のなかで秘かに待った。
「七」の日の集まりは、彼らのなかで次第に盟約の形をとり始めた。
 十月三日、吉生が退院する日の朝だった。学校へ行こうとする響子の背中へ母親が怒鳴った。
「今日は道草せずに帰るんよ」
「……」
 響子は振り向いた。母さんは口やかましいから嫌いだ。此の頃、特にその傾向が強まって来た。
 もう十一なんだから、と口癖のように言って用事を言いつける。今日はまた、何の手伝いをしろと言うのだろう。
「吉生ちゃんの退院の日やよってな」
「あ」
 響子は口のなかで呟いた。すっかり失念していたのだ。
「忘れとったんか。薄情な友達やな」
 忘れていたわけではないが……。やっぱり遊び呆けて忘れていたのだ。響子は吉生に対して済まないような、変に落着かない気分になった。母親は響子のせいで手遅れになって退院が長びいたことを負担に感じていて、始終見舞ったり、吉生の母親と代りあって泊って来たりしていた。病院から帰る度に響子に報告し、見舞いの手紙を書くようすすめたが、響子は、いつも逃げた。
「学校から、みんなと一緒に寄せ書きして出したんやもん。他に書くことあらへん」
 それは本当だったが、吉生のことに関して、まるで熱意が湧いて来ないのだった。
 学校へ行くと、すぐ田代先生に呼ばれた。
「吉生ちゃん、今日、退院ですってね」
「はい」
 響子は、よかった、と思った。出がけに母さんに聞いていなければ、すんでのことで田代先生にまで薄情な子だと思われてしまうところだった。
「何時?」
「二時に病院を出て、バスはきついので、うちの親戚の長戸の兄ちゃんが、親方さんの車を借りて運転して帰るん」
「じゃ、遅くとも、三時に着くわね」
「お母ちゃんは手伝いに行くけど、うちも学校が済んだら、じっき帰れって」
「それがいいわ」
 先生は言った。「退院しても、しばらくは家で寝ていないといけないんでしょうね。様子訊いといてね。先生、今日、会議があるから、よろしく言うてね」
「はい」
 田代先生が向うへ行ってしまうと、すぐにアサ、福子、勝夫たちが取り巻いて来た。
「吉生、今日、退院てか」
「何で昨日教えてくれなんだん」
「分らんかったの?」
 響子は答えないで、
「な、みんなで一緒に迎えてやらん」と言った。
「さーん、せいっ」
 福子が面白い遊びごとに乗るときの口調で叫んだ。
「さーん、せいっ」
 他の者も一斉に叫んだ。
 学校が二時に終り、二時半には吉生の家の前へ、響子を先頭に、勝夫、斉、義一、建司、福子、さわ子、萩乃、アサ、とずらり並んだ。
「まるで出征兵士の凱旋の」
 おばあが呆れたように笑い、皆にお八つのふかし芋を一つずつくれた。
「ガイセンて何?」
 アサが訊ねた。
「知らん」
 響子は首を振った。
「シュッセイ、何たらて?」
「知らん。うちのおばあは、時々、おかしなことを言うん」
 いつもの響子なら、それ何? と執拗《しつこ》く訊ね、おばあはゆっくりと説明してくれるのだが、今日はそんな暇も無さそうだった。
 三時五分前頃、
「帰って来た」
 斉が怒鳴った。「あの車、あれと違うか」
 見るとバス道から一台の白いライトバンが、ゆるゆると左へ曲って、瀬ノ端に向って来る。みんなが表へ飛び出すと、ライトバンは堤の道へ入り百米ほど走って停止した。そこから先、吉生の家までは道幅が狭くて、車が進入することができない。
「担架でも借りて来たかの」
 おばあが言った。しかし車から降りた吉生は、そのまま、兼多の背中に負われてこちらへ向って来た。小走りに先に立って来るのは吉生の母親で、病院まで迎えに行った響子の母親は、車を出たり入ったりして荷物の後片付をしている様子だ。
「吉生ちゃん、お帰り」
 真先にアサが叫んだ。
「お帰り」
 他の者も一斉に叫んだ。響子だけが黙っていた。
「――」
 吉生は、びっくりした顔をあげた。一瞬、大きく目を瞠り、それから嬉しそうに笑った。ひらひらと、兼多の肩の上で手を振った。
 ――吉生ちゃんの顔、人形みたい。
 しかし響子は口には出さなかった。雛祭に飾る対の市松人形の男の方の顔、あの紋付袴の、色の白い……。
「どしたん、響子ちゃん。気分悪いん?」
 吉生の母親が訊ねた。
「……」
 響子は、はっとみんなを見廻した。話の継ぎ穂が分らない。
「響子は、の」
 斉が何も彼も呑みこんでいる、ふうな口の利きかたをした。「お夜久さんの宵宮の日からおかしいのや」
「何言うのん。響子ちゃん、一生懸命やったんよ」
 アサが反論する。
「吉生の快気の願ごめしてくれたんやて?」
 吉生の母親が、みんなに向って、ちょっとあらたまって頭を下げる。
「響子の言い出しや」
 萩乃が、じろっと斉の顔を見返しながら、みんなに同意を求める。
 響子は、それでも黙っている。一言「うん」と大きく頷けばよいのだ。するとみんなが認めてくれる。それが分っていて、できない。あのときは山姥のことを確めたい気持が先行していて、吉生のことは付けたりだったという反省のせいからではない。吉生に関わりあうのが、何となく疎ましいのだ。
 吉生は奥の間に敷かれた蒲団に横になって顔だけこちらに向けていた。みんなの話に合槌を打つように時折笑った。吉生の笑顔は、病院に行く前とひどく違った印象になっていた。前は、けろけろと笑った。目が先に笑い出して、それから八重歯がこぼれ、声があとまで残る。おかしいのを我慢して、いつまでも身をよじって身体で笑うのだった。しかし、いまは、ふわっとしか笑わない。声を出すと腹の傷にひびくのだろうか、笑いかたに力が無い。
 吉生の家は六人暮しだ。おばあは先年亡くなった。おじいと父母と、姉と兄である。吉生は末っ子だ。父は仕事で姉は隣町の高校だからまだ帰っていない。兄は中学三年だ。みんなが座敷にあがりこんだとき帰って来たが、家の様子があまり賑やかなのに驚いたのか、鞄を提げたまま隠れるように台所を通り抜けた。
「行儀知らずが、挨拶もせん」
 吉生のおじいは呟いたが、母親は客に菓子を配るのに気を奪われていた。
「ほな、そろそろ引き揚げにゃ。吉生ちゃんも疲れが出るといかん」
 響子の母親が言った。それを合図に、みんなは一斉に腰を浮かした。
「……」
 響子は田代先生の言伝《ことづ》てを言う機会を逸してしまった。もじもじしているうちに、みんなが靴を履きはじめた。仕方なく、一番後ろに立って順番を待っていると、
「響子――」
 吉生が呼び止めた。振り向くと、例の力の無い笑いかたで、ふわっと唇を歪めた。
「田代先生に、もう一週間休みます、言うてくれや」
「ふん」
 響子は頷いた。ほっとして、
「田代先生、今日、会議やねんて」と付け加えた。
「まあ、ほんまに用の足りん子よの」
 響子の母親は舌打ちした。「このぶんやと、田代先生は言付けてなはるよ。幼稚園やあるまいし、それしきの口上、言えんかの」
「……」
 響子は、ぷいと外へ出た。自分でも、自分の気持を扱いかねていらいらしていた。
「吉生ちゃん、病気になってから、人が変ったみたいと思わん」
 福子がいきなり言った。
「人が変ったて?」
 萩乃が首を傾けた。
「色が白うなっとるだけじゃ」
 斉が言った。
「けんど、物の言いようとか、なあ」
「ふん、物の言いようは変ったの」
 アサが頷いた。
「町ふうぞ、あれは、のう」
 建司が、おっとりと合槌を打った。
「何じゃやら、もう、おれらと遊ばんような気がせん?」
 義一までが言い出した。
「何言うとるん」
 響子は叫んだ。急に腹立ちがこみあげて来た。
「吉生は、ええ恰好しとるだけや」
「ええ恰好て? 何で?」
 さわ子がきょとんと問い返した。
「何ででも。ええ恰好しとるんや」
 響子は声を荒くした。みんなは白けて、ちょっと黙った。
「どないしたん。また響子のヒスの」
 斉が言った。
「……」
 響子は斉を睨みつけた。
「おお怖わ」
 斉は大袈裟に首を疎め、「東の山の入口に黄しめじ捜しに行かん?」と、気分を変えるふうにみんなを誘った。
「黄しめじ? まだ早いのと違う?」
「見るだけや。去年と同じところに出てるかどうか」
「ああ、斉ちゃんの発見したつぼ[#「つぼ」に傍点]な」
「さいな、もの凄いぞ」
「秘密の場所じゃろが」
「こんだけの者《もん》同士の秘密な」
「行ってみよか」
「うん、行ってみよ」
 しかし響子は、みんなと同じ方向に走り出そうとはしなかった。
「どしたん、響子」
「やっぱ、気分悪いん?」
「熱があるのと違う?」
 と口々に言うのに頷きもせず、真直ぐ自分の家の裏庭へ入ってしまった。いつもの響子なら、たとい自分が参加しなくとも「その前に、ちょっと寄って行かん?」と誘って、おばあにねだって気前よく飴菓子の一袋や二袋は持ち出すところなのだ。
「響子行かな、しょうもな」
「響子行かな、しょうもな」
 囃したてるように叫びながら、しかし子供たちは一団になって東の山の麓に向った。
「……」
 響子は垣根越しに遠ざかって行く友達の後ろ姿をじっと見送った。不思議に、仲間はずれになっているという気持はない。響子は、自分のなかで起りつつある変化の実体を掴むことができなかった。それでいて、確実に変化が起ってしまっていることは分る。仲間と一緒にいなくても少しも淋しくはない。それどころか何となく一緒にいたくないような気さえする。
 響子は踵を返した。家へは入らず裏道伝いに西の山の方へ歩き出した。日没が近いせいか、西の山の全体が赤っぽく滲んで見える。西の山の紅葉は、まだ始まっていないのに、此の頃になると、夕方だけ赤く染まる。山肌が裡に隠し持っている紅葉の予兆が夕陽にあぶり出されるのかもしれない。
 目的もなく響子は歩いていた。捉えどころのない淋しい気持が、響子を身体の奥の方から突き動かして、あてどなく歩いているのだ。
 以前は山道を走っていても、目的がはっきりしていた。沢蟹捕りとか。蝉採りとか。目的が立たないうちに走り出していても、走っているうちに、次第に目的が見えて来た。しかし、いまは本当に奇妙な工合だ。どれだけ歩いても満たされない何かが胸の内側にわだかまり続けて、それが肉のなかにまで喰いこんで、棘みたいに時折鋭く痛んだ。
 響子は立ち停まった。いつのまにか東向き観音堂の前に出ていた。
 東向き観音堂は、一坪ほどの小さな建物だ。いつの頃から、そこにそうして在るのかは、村のうちの誰も知らない。しかし夜久村で一番古い建物であることは確かだ。夜久神社の社殿よりも、西法寺の鐘楼よりも古めかしくて、雨曝しの廻廊などは、板が腐って二、一二ヵ所抜けてしまっている。もっとも小さな観音堂だ。廻廊は歩くために造られているのではない。東向き観音堂は、外から眺めるように精巧に造られている。彫物をほどこした手摺が付いて居り、擬宝珠《ぎぼし》は緑青《ろくしょう》がふき出てはいるが、ちゃんとした銅《あか》なのだ。
 本尊は千手千眼観世音菩薩。呼び名の通り東向きに立っているらしいが、誰も直かに見たものはない。毎月十八日が観音さんの日なので、西法寺から法印さんがやって来て、短いお経をあげて帰る。その間だけ、堂の扉が僅かに開かれる。そのときにお姿を拝もうとおばあたちは伸びあがって覗きこむが、法印さんの背中の陰になって奥までは見えない。お経が終ると、法印さんは元通り正面の六枚に折れる扉を閉め、半蔀《はじとみ》の突っかい棒を下ろして、
「ほな、これで。どなたはんも御苦労やの」と帰って行く。おばあたちは、お供えのあられ[#「あられ」に傍点]や酒饅頭などをお互いに分けて家路につく。
「東向きさんは堂が狭いで、観音講が持てんの」
「そのうち、部落費で、堂の脇に集会所でも建ててもらいまひょ」
「けんど、やっぱ、あれは後ろに観音さんの居てはる堂でないとな」
「さいな。前向いて拝んで、後ろ向いてお重を開くが愉しみよ、の」
 おばあたちの話は毎回同じだ。それでいて「前の月もこの話出たの」とは誰も言わない。飽きもせず同じ話を繰り返し、集会所も建たなければ観音堂の改築もされない。何十年も何百年も、そんなふうに話しあうだけで、ずうっとこの小さな観音堂で済ませて来たに違いない。
 響子は堂の階段に腰を下ろした。堂の階段は響子の小さな尻がすっぽり納まって、なお両脇に二十糎ばかりの余裕があった。
 東向きさんは背後から夕陽に包まれていた。光が粉を撒いたように周囲の空気を染めていて、堂は、そのなかでふわりと浮いているようであった。瀬ノ端は集落の真中を川が流れているので、土地がせせこましい。田園も両岸に分割されていたりする。しかし東向きさんの建っている場所だけは広やかに感じる。田園が南に拡がって行く安隆寺村と隣接しているせいかもしれない。ただでさえ小さい東向きさんが、そのため一層小さく見えるのも止むを得ない。
 響子は、野面に降りそそぐ夕陽がこしらえるシルエットの赤味を含んだ紫色の輪郭のなかに、東向きさんと共にいた。収穫を待つばかりの早稲と、まだ青い晩稲《おくて》の部分が際立った対照をこしらえていた。鴉が数羽連れだって、くき、くき、と翼の音を軋らせて飛んで行ったあと、不意に陽がかげって来た。
「響子――」
 呼ばれて、響子は、はっと顔をあげた。いつのまにか、とろりと眠っていた。
「こななところで何しとるん?」
 突っ立ったまま、声を掛けたのは兼多だった。酒でも呑んだのか、目の縁が赤い。シャツのボタンを三つはずして、胸の前で金鎖をちらちらさせている。
「……」
 響子は返事をせずに、じっと兼多を正面から見た。
「吉生のとこで振舞酒をよばれての」
 兼多は言いわけめいた薄笑いを浮べた。
「この調子では、とてもやないが運転して町へは帰れん。彦多に代れと言いに戻ろうとてな」
 そして、ふうっと臭い息を吐いた。「じゃが、お前の顔見たら急に酔いが廻って、一歩も動けんようになった」
「……」
「頼みや。自転車で一走りしてくれ。彦多にな……」
「いやや」
 響子は首を振った。彦多に会いたくなかった。
「……」
 兼多は、びっくりしたふうに、まじまじと響子の顔を見た。
「どして?」
「どしてでも」
 彦多に会いたくない、などとは言えない。仕方なく「兼多兄ちゃん、酔うてるし」。
「酒呑みが嫌いか」
「うん」
 しかし響子は別に目の前にいる兼多が酒呑みのような気がしたわけではなかった。響子の知っている酒呑みというのは、父親の友達などが土曜日にやって来て、夜更けまで呑む、あのひとたちのことである。響子と弟の茂が蒲団を敷いて寝ていると、その側までやって来て、
「よう、響子ちゃん、もうおねんねか。こっちい来て、おっちゃんと一緒に踊りまひょ」などと叫ぶひとたちのことである。母親がおばあと声をひそめて、
「あのぶんじゃと泊めずばなるまい。酒呑みは晩はともかく、朝の支度が厄介ぞ、なあ」と溜息をつく、あのひとたちのことである。
 ――ほんまは、兼多兄ちゃんは嫌いやないのに。
 しかし、自分の気持を説明できないので黙ったままでいると兼多は、ふらふら体をゆすった。
「酒呑みが嫌いとは、これはまた、あっさり振られたもんじゃ」
 しかしそれ以上は頼まず、大きく右手をあげると、元来た道を引き返し始めた。
「ほな、さいなら。響子も早う帰れよ」
「さいなら」
 響子は観音堂の階段に腰掛けたまま手を振った。
 いつのまにか辺りの空気が湿っぽく重くなっていた。いったい何時頃だろう。西の山も東の山も黒々と静まり返っている。ただ野面には薄明りが残っていて、それが物の輪郭を一様にやわらげている。どこか遠くで犬の啼声がする。
 響子は立ちあがった。不意に家に帰りたくなった。響子は走った。東向き観音堂の前の畝道を一目散に瀬ノ端の村なかへ駈けこんだ。
 村のなかへ入ると、甘い煮物の匂いが漂って来た。どの家でも夕餉の支度なのだろう。甲高い赤ん坊の泣き声の聞こえるのは飯村の家だ。それから少し行くと深間、船木の新宅と続いて泉沢だ。泉沢は吉生の家である。その筋向いが須田、響子の家だ。それから奥へ福館、福館の新宅、荒瀬、花岡とあって、川の西側の家はそれだけだ。あとの十二軒は川の東側で、寄合いの度にお互いが川上の橋を利用しなければならないのが不便である。
「響子か。今頃まで、どこをほっつき歩いてた」
 声を掛けたのは深間のおばあだ。響子は自分の家のおばあの次に好きなのが、深間のおばあだ。
「ん? 東向きさんに居てた」
 響子は浮き浮きと答えた。
「東向きさん?」
 おばあは年に似合わない甲高い声だ。
「十八日でないに、東向きさんで何してたぞ?」
「何にも」
 それから響子は、ふと、深間のおばあをからかってみたくなった。
「あのな、おばあ。何やしらん、今日、東向きさんの戸、開いてたみたいやったよ」
「何やて?」
 深間のおばあは入れ歯の口を、もごもごと歪める。入れ歯がおばあの口のなかで歯茎ごと左右に動く。
「お前、なかを見たんか」
「見いひん。けど、戸が、ずれてたみたい」
 すると、本当に東向き観音堂の扉が、いつもと違って隙間が開いていたような気がして来た。
「ことじゃ」
 深間のおばあは頭を振った。
「もし、それがほんまやったら、ことじゃ。明日の朝にでもお詣りして、よう確めんことには、の」
 響子は、ぶつぶつ言っている深間のおばあを道に残したまま自分の家に駈けこんだ。明日、おばあが本気で東向きさんに出かけるだろうと思うと愉快でたまらない。

 翌日、響子が学校から帰ると、縁先で、おばあと、深間のおばあと、荒瀬のおばあと、船木の新宅の嫁さんが何やら談合中である。響子の姿を認めると、みんなが一斉に、「あ」と声を挙げた。
「響子、ちょっとこれへ」
 おばあが物々しく手招きした。「お前が東向きさんの扉が開いているのを見たんは、いつのことじゃ」と真剣な口調で訊ねた。
「……」
 響子は戸惑った。そんなふうに改まって訊ねられると答えられない。
「――昨日……」と口ごもった。
「昨日は分っとります」
 おばあは喰ってかかるように言った。「昨日の何時頃かと訊ねとります」
 おばあは改まったり興奮したりすると、馬鹿丁寧な尻上りの節廻しになる。響子は、おばあの見幕に押されて泣き顔になった。深間のおばあも荒瀬のおばあも、一様に目をつりあげて響子を睨んだ。船木の嫁さんも、おばあたちと響子を見比べて怖い顔をしている。
 響子は怯んだ。
「長戸の兼多兄ちゃんが……」
「何《なあん》て?」
 おばあが甲高く叫んだ。「この子は口から出まかせを――」
「ほんまやもん」
 響子は涙ぐんだ。「兼多兄ちゃんが酔っ払うて……」
「長戸の息子が酔っ払うて観音堂を引き開けたてか」
「ううん。違う。酔っ払うてやって来て、……そんとき、見たの」
「酔っ払うて引き開けるところを見たの」
「違う。兼多兄ちゃんは何もしてない」
「響子――」
 おばあが首をしゃんと擡げた。「身内やからいうて、かばうことないぞ」
「そんでも、兼多兄ちゃんは何もしてない」
 おばあたちは顔を見合わせた。何やら、ひそひそ囁きあった。
「とにかく、戻ってみんと」
 船木の嫁さんが言った。
「さいな。おっつけ法印さんも見えなさる」
 深間のおばあが頷いた。
 響子は、おばあたちに囲まれて、東向き観音へ引ったてられて行った。
 道で、法印さんに出会った。法印さんは花岡の嫁さんに案内されて畝道を急いでいた。おばあたちは法印さんの姿を認めると、わらわらとお辞儀した。
「御苦労はんの」
 法印さんは頷いた。
「えらいことになってしもうて」
 おばあが泣き出しそうな声で訴えた。
「ふむ」
 しかし法印さんは別に驚いた様子もなく、ぶつぶつ口のなかで何やら呟いて歩いて行った。
 東向き観音堂には福館のおばあが待っていた。
「これはこれは。お揃いで御苦労はんの」
 法印さんは、もう一度みんなを見廻して頷いた。
「このまんま、びりっとも触っとりまへんが、覗いたところ、なあ」
 福館のおばあが、十糎ほど開かれている観音堂の扉を指さした。
「響子――」
 おばあが厳しい声で呼んだ。「お前が昨日見たときも、これくらい開いとったかの」
「……」
 響子は尻ごみした。
「よう見て」
 深間のおばあが叱りつけるように言った。
「分らん」
 響子は首を振った。
「分らんて、お前――」
 おばあは響子の肩をぐいと前へ押した。
「そんでも、分らんのやもん」
 響子は泣き声になった。
「まあ、ええ」
 法印さんがなだめた。それからひざまずいて観音堂に向って丁寧に手を合わせた。
「……」
 おばあたちは顔を見合わせ、めいめいに法印さんを真似た。
 法印さんは一礼すると立ちあがって、観音堂の階段に足をかけた。両の手で、その閂《かんぬき》のはずれている扉をゆっくりと押し開いた。暗がりの観音堂いっぱいに光が流れこむのが見えた。
「ふうむ。お在《いでま》さんの」
 法印さんは溜息まじりに呟いた。「よほどのことがあったと見える。お出かけじゃ」
「東向きさんが、お出かけなされたてか」
 おばあが頓狂な声で問い返した。
「どうも、そうらしいの」
 法印さんは落着き払って堂のなかの空らの台座に向って数珠を押し揉んだ。
「お出かけなされたとして……」
 おばあが皆を代表するふうに一歩進み出て息を呑んだ。
「うん」
 法印さんはおばあたちの顔を一人一人、にこやかに眺め廻した。
「東向きさんは、お出かけなされたとして、お帰りは、いつでしょうな」
「さいな」
 法印さんは大きく頷いた。「それじゃがな」
「……」
「わしらの裁量《さいりょ》では、ちとはかりかねる」
「法印さんも、分らんて言いなはるか」
「さいな。わしらの裁量の及ばんことじゃと、それだけは分るがな」
「はて、したが、一年程の後にはお戻りあろうかの」
「何の」
「もっと後ですかいな」
「はて、それが分らんと言うておる。明日にもお戻りあるか、それとも百年の後であろうか」
「百年?」
 深間のおばあが悲鳴に近い声を挙げた。「したら自分《めめ》らは、東向きさんを拝まずに死なんなりませんがな」
「何で」
 法印さんは手を振った。
「おばあたちは、いつも東向きさんを拝んどるぞ。いまも拝んだぞ」と空らの台座を指さした。
「目に見える御姿が無いだけで、な」
「……」
 おばあたちは半信半疑の顔になった。
「まあ、よい」
 法印さんは笑った。「もうちいと待ちましょうぞ」
「……」
 おばあたちは法印さんを囲んで歩き出した。誰もが何となく心残りであった。
「したが、はんまに東向きさん、戻らっしゃるじゃろか」
 福館のおばあが溜息まじりに言った。
「出かけはったのやよって、いつかは戻らっしゃるじゃろ」
 法印さんが慰めるように言った。
「百年、二百年の後にでも、な」
 荒瀬のおばあが、自分に確めるふうに頷いた。
「したが、観音さんが――」
 響子が突然言い始めた。みんなは、ぎくっと響子の口許を見た。みんなの注目を浴びて響子は言い淀んだ。
「響子、何か知っとるんか」
 法印さんが優しく促した。
「……」
 響子は首を振った。昨日、夕陽の沈むのを見ながら、長いあいだ観音堂の階段に腰を下ろして、ぼんやりと考えていたことを思い出そうとしていた。
 ――般若の面が、何処かから飛んで来て夜久神社の絵馬堂にいるように、そして時折、西の山の祠へ遊びに行くように、観音さんも何処かからやって来て……。
 響子は大発見をしたような気持になった。
「したが、観音さんが、もともと東向きさんに出向いて来なはったのやったら、元のところへ去《いな》はったのかもしれん」
「ほう」
 法印さんは、二度も三度も頷いた。
「お前は、ええことを知っとる。そうかもしれん。そうかもしれんぞ」

「東向きの観音さん、彦多とこの兄さんが何処ぞへ隠したのやて?」
「七」の日の集まりに、最初に口を切ったのは萩乃だった。例によって、響子を中心に絵馬堂の石段に腰を下ろしているときだった。
「……」
 響子は答えず、みんなの顔を見廻した。
「吉生ちゃんの退院の日に呑んだ酒で酔っ払うてやそうの」
 アサが吉生の顔を見た。吉生は病後初めての出席なので、眩しそうに眉をしかめていた。
「そんなこと言うたかて、吉生ちゃんの責任やないし」
 福子が庇った。
「よう、よう。福子、ええぞ」
 勝夫が冷やかした。しかし響子は、相変らず口を利かなかった。
「どしたん、響子。噂じゃと、長戸の兼多が東向きさんを持ち出すとこをお前見たそうの」
 斉が言った。
「何言うん。うちは何も見とらんよ」
 響子は、きっとなった。東向きさんは兼多とは何の関係もない。しかし響子は後悔していた。
 自分が彦多のところへ使いに行くのを断らなければ、こんなことにはならなかったのではないかという思いに苦しめられていた。しかし、何故、彦多のところへ使いに行きたくなかったのだと問い詰められると答えられないので、これは絶対口外すまいと心に決めてもいた。
 噂がどんなものか、響子にも、およそのことは分っていた。家ではおばあに詰問された。本当のことを言えと迫られた。兼多が、泥酔していて覚えはないが、東向きさんのところで響子に出会ったことは確かだと言ったものだから、いよいよ響子が目撃者だ、ということになった。
「したが須田の響子も、ふわふわと魂の在《あ》り処《ど》の知れん女《おなご》やよってな。肝腎のことを、しかと見とらんのではないかの」
 兼多は、観音さんを氷見川に流してしまったのではないか、というのが年寄たちの意見だ。焼けば灰が残る。道に捨てればすぐ見付かる。家に持ちこめば、酔いが醒めれば知れることだ。
 しかし、響子は拘泥《こだわ》っていた。あのときの兼多の様子は、後で言っているほど酔っていなかったのではないか。兼多は、何かを隠すために、自分がひどく酔っ払っていた、ということにしているのではないか。
「響子、何考えとるん?」
 建司が言った。吉生が傍で力の抜けた声をたてて笑っていた。
「……」
 響子は、ぼんやりしていた。
「此の頃の響子、まっこと、おかしいぞ」
 斉が吉生の顔を見て言った。「お前が病院へ入ってからかの」
「響子は、大きゅうなっとるん。ちいと見ん間《ま》に」
 言ってから吉生は不意に顔を赤くした。「みなは、あんまり変っとらんのに、響子だけ」と付け加えた。
「背が伸びたんかの」
 みな一斉に立ち上り、勝夫が爪先立って響子の横に並んだ。勝夫は響子より低い。義一がもっとも背高のっぽで次が建司だ。四月の身体検査のとき、建司より二糎低かったが、言われてみれば、いまはほとんど同じだ。
「背も伸びたかもしらんが、太ったのぞ」
 建司が言った。
「太ったんやないぞ、な」
 斉がにやにやした。「な、違うな、響子。太っとりはせん」
「何じゃ、斉。何が言いたいん。いやらし」
 アサが横から口を挟んだ。
「いやらしいて? 何が? おれがいやらしいてか」
 斉はアサにからんだ。妙な恰好で掌を前へ突き出して「ふう、ふう、と膨らんだとこがあるぞ、響子は。アサはどうな」
「止めよし、斉」
 さわ子が言った。斉は鼻白んで、「ちぇっ。此の頃は『七』の日も面白うのうなった」と呟いた。
「遊び飽きた。なあ」
 福子が突然に言った。
「さいな。遊び飽きた」
 勝夫が欠伸しながら合槌を打った。
「もう、何にもすることが無うなってしもたの」
 義一が、おっとりと応じた。
「響子が悪いんよ」
 萩乃が不満顔に言った。「これまでは、ちゃんと遊びを考え出してくれたのに」
 しかし相変らず響子はみんなの喋るのを眺めているだけであった。
「響子――」
 吉生が遠慮勝ちに呼びかけた。
「……」
 響子は吉生の方へ顔だけを振り向けた。
「あと一週間もすれば茸採りに行けるもんな。すりゃ、もっと面白うなる」
 吉生は機嫌をとるふうに言った。
「さいな。吉生ちゃんが学校へ出れば、な」
 福子が言った。
「いつから出られるん」
「十日」
「ふうん。あさって、しあさってね」
「今日も、あと三十分ほどしたら帰らんならん」
 吉生は恥しそうに言って、腕を覗いた。
「あ、時計!」
 アサが目ざとく見つけた。「ひゃあ、吉生ちゃん、時計持っとるん」
「……」
 吉生は白い頬を傾けて笑った。得意を押し隠して、何でもない、とシャツの袖を下ろした。
「ちっと、見せろや」
 義一と建司が両脇から吉生の腕首を引っ張った。吉生は二、三度抗議してから、すぐに二人に腕を預けた。
「はずしてもよい?」
「あ、漫画の文字盤?」
「玩具とちがうの」
「玩具なもんか。ちゃんと動くぞ」
 吉生は力んだ。
「ほんま。秒針もついとる」
 みんなは一斉に溜息をついた。吉生がなまじっか、大人の時計を持っていないことで、かえって確実に、それが借物ではなく吉生のものであると分るので、羨ましさが噴きあがって来たのだった。
 しかし響子は、相変らず無表情で、心ここにない様子であった。漫画の文字盤の時計に群がって、もの珍しそうにいじり廻す友達をぼんやり眺めていた。
 響子たちの二学期は素早く過ぎて行った。
 冬休みに入って、響子には退屈な日が続いた。年末にかけて、どの家も忙しそうで、誘いをかけるわけにはいかない。
「正月になったら、また、みなで寄って遊ばん、な」
 昨日、農協マーケットの前で出会った建司が言った。ぐずの建司までが、いっぱし大きな荷物を抱えさせられて母親の買物のお伴をしていた。自分一人が暇をもて余しているようで、響子は何故かいらいらしていた。
 冬休みの宿題は少いので早目に済ませてしまった。家の手伝いも片付けた。母親に言いつかっている毎日の拭掃除や鶏の世話など、十時前に総て終ってしまう。学校の勉強が無いんやもん、時間が余り過ぎる。それでいて仲間に召集がかけられない。
 ――したが、集まっても、何《なあん》もすることないなあ。
 沢蟹浦りも蝉採りもできないし、早く雪が降れば雪合戦、と期待しているのだが、おばあが嬉しそうに、このぶんでは初雪は年越してからの、先ずしのぎやすい正月ぞ、と言っているから、冬休み中は駄目にちがいない。おばあの天気予報は、よく当るのだ。
 退屈のあまり、猫のニイニイの鼻先で、はたきを振ったが乗って来ない。生まれたときからニイニイ蝉のような潰れた声で啼くこの若い雌猫は、此の頃様子がおかしい。響子の顔をちらりと見ただけで、炬燵の上から飛び下りると、縁先へ出て行った。
「どこへ行くの、ニイニイ」
 響子は呼び戻そうとして、止めた。塀の上に見馴れない白黒斑の猫がこちらを見て低い唸り声を挙げている。
「あ」
 響子はニイニイの方を見た。ニイニイも同じ姿勢で低く唸っている。二匹のあいだに、ぴいんと張りつめた空気がある。響子も一緒になって息が詰って来た。夏の終りの、牛舎の気配がよみがえって来た。五分くらいそうしていたろうか。唸っていた斑猫の声が、ふっと止んだ。身を翻えして鬼瓦の向うへ逃げた。弾かれたようにニイニイがそのあとを追いかけた。
「響子、何をぼやっとしとるぞ」
 裏口から入って来たのは彦多だった。響子は口も利けないくらい驚いた。目的のはっきりしないまま彦多の家へ行って、使いの口上忘れたのかとからかわれ、泣きながら帰って来て以来のことである。心臓が激しく音を立てて打ちはじめた。
「猫のさかり見とったんか」
「うん」
 大きな声で返事してから、突然、恥しくなった。何故恥しいのか、自分でもはっきりしなかった。
「いまは序の口じゃ。神さんの(旧)正月頃になると、近所廻り、喧しゅうて夜も寝られん」
 彦多は笑った。響子は、彦多の笑顔が好きだった。彦多は、少し元気を回復したようであった。学期末には高校へも行ったのかもしれない。響子は嬉しくなった。浮き浮きと答えた。
「うちとこのニイニイ、夜は騒がんよ」
「何の。響子が眠りこけとるから分らんだけぞ」
 彦多は唇の端を軽く曲げた。響子をからかうときの癖だ。「知らんのか。夜の方が派手で、とことんまでやるぞ」
「とことん、て?」
「響子は猫のさかり[#「さかり」に傍点]、ほんまに見とらんな」
「見たし」
 響子は叫ぶように言った。「雄猫が雌猫の上にかぶさるでしょ。うち、ちゃんと見たし」
 ――照やんも、そないしてたの、と言いかけて、自分自身に狼狽して口を噤んだ。
「まあな」
 彦多は笑い出した。「そないに力んで言うことやない」
 それから、この話題から逃げたい素振りを示した。彦多は響子をからかったことを後悔した。早熟だと思っていたが、案外何も知っていない。
「うちな、猫のさかりの声聞いとると、気持が悪うなるん」
 響子は彦多の気持に気付かず、一生懸命に言い続けた。「な、彦多兄ちゃん、そんなことない? 気持悪うならんの?」
「おれか……」
 彦多は口ごもった。何と返答してよいか、分らない。響子はお構いなしに言った。
「おばあは、うちと同し。気持が悪うなるんやて。そやから、さかりのとき、あんまし構うな、って」
「そら、そうやな」
「彦多兄ちゃんも、そう思う」
「ああ」
「しやけど、うちは放っとけんの。あの声聞いとると、胸がどきどきするん」
 言ってしまってから、響子は不安になった。何だか落着かなくなった。彦多が眉を寄せ、ぎくりとしたような表情を見せたので、自分が、ひどく変なことを口走ったにちがいないと直感した。
「おばあ、居る?」
 彦多は思い出したように言った。
「見て来る」
 響子は駈け出した。久し振りに彦多がやって来たので思わず声が弾んだ。
「おばあ、おばあ、長戸の彦多兄ちゃんぞ」
「……」
 縁先の障子を開けたおばあの顔が少し曇った。目で、なかへ入れと合図した。
「……」
 彦多は、おばあが無言で出した茶を、無言で呑んだ。おばあは立って戸棚を開けて、煎餅をすすめた。彦多は、煎餅をつまんでから、思い直したように菓子鉢に戻した。それから、「おれな、夜久村を出ようと思うとる」と、ぽつりと言った。聞いていた響子はびっくりした。「何で?」と大声を挙げそうになったが、思い留まった。おばあは予期していたらしく、深く頷いた。
「坊川へ養子に行くのは、辛いか」
 その話は響子も聞いていた。顕子を村から出してしまったあとの坊川の家は、老人夫婦二人きりだ。彦多の父があとの絶えることを心配して、彦多を養子にと話をすすめているらしい。
「顕子とのことで、坊川の、特におばあはお前を憎んどるじゃろうから、そななところへ、みすみす、とわしも思うぞ」
 おばあの声は次第次第に小さくなる。
「違うん。坊川の家のことは、関係ない」
 彦多は、何かを我慢しているらしく慄え声になった。
「ふむ」
 おばあは探るような目で彦多を眺めた。ゆっくりと首を振って、大きな溜息をついた。
「やっぱ、諦めきれんかの」
「……」
「わしは、お前が顕子と一緒になることに反対やない」
「もう、ええんや、その話――」
 彦多は叫んだ。
「ええことはない」
 おばあは圧えつけるように言った。「はっきりと確めたわけやないが、お前も、自分が長戸の息子やないと、うすうす察しはついとるんじゃろ」
「……」
「お前の母さんが、父さんに初めて会うたとき、もうお前を身ごもって居っての。打明けられたが承知した。どうせ、こちらも再婚じゃ、と父さんは言うて居った。誰の子かは知らんが、どうせ可哀そうな故あってのことじゃろから、わしの子として育てるよって、おばの胸に畳んでおいてくれ、とな」
「……」
 初めて聞く話に、響子は息を呑んでいた。よく分らないところもあるが、彦多が長戸の子でないとしたら、顕子とは異母姉弟ではないことだけは、はっきりしている。
「あの――」
 何か言いかけて、彦多は苦しそうに身をよじった。泣くのを我慢しているのではない。響子には、彦多がひどく腹を立てているふうに見えた。
「これはの、いっぺんは言わんならんことじゃった。ここを間違えんようにな。今度のことで、わしは長戸と喧嘩したのぞ」
 おばあの声は一層厳しくなった。
「お前と顕子のことでの父さんの処置は、な、苦しかったに違いない。お前は、ほんまの子やないにしても、顕子は実子じゃ。実の娘をあななふうに放り出すよりは、打明けて、許してやりたいが、それでは、ここまでやって来た父さんの筋が立たん、な……」
「それは、ええ。もう、それはええんじゃ」
 彦多の声は悲鳴に近くなった。「おれは、もう決して顕子とは一緒にならん。よって、それは、もう済んだことじゃ」
「……」
 おばあは大きく頷いた。
「ま、いきなり、こんなことを言い出しても、お前は信じられんじゃろが、お前のおっ母さんは打明けられる立場やないよって、の」
「違うのじゃ、おばあ」
 彦多は立ちあがった。首を振った。言葉がうまく出て来なくていらいらしている。
「とにかく、おれは夜久村を出る」
「……」
 おばあは、口を噤んだ。長いあいだ考えこんだ。彦多も黙ったままだ。響子は、おばあと彦多の顔を交互に眺めているうち、言いようのない悲しさがこみあげて来た。
 彦多が、村を出ていくから淋しいのではない。それもあるけれど、しかし、いま、響子が感じている悲しさは、もっと別のものだ。
「どしたん? 響子」
 彦多が言った。「何や、お前、泣いとるんか」
「……」
 響子は激しくいやいやをした。赤ん坊のような大きな泣き声が出そうになって、それを押えるために歯を喰いしばった。
「響子は、彦多兄ちゃんが好きやで、な」
 おばあは、そんなふうに言って、しんみりと頷いた。「ちょっと渡すものがあるで、そこで待っといや」と奥へ立って行った。襖を開け閉めする音が三回聞こえ、自分の部屋へ入って行った様子だった。
 涙は収まったのに、おばあがなかなか出て来ないので、響子は落着かなかった。彦多はと見れば、縁側の障子を開け、ぼんやりと塀の上の猫を眺めている。塀の上には、いつのまに帰って来たのか、ニイニイが暖かそうな真白な毛をふくらませて眠っているのだ。
「彦多、これを、の」
 おばあが戻って来た。手に大きな祝儀袋を持っている。
「婚礼用の袋で、おかしな工合やがの」
 おばあは笑って、「御せん別」と書いた包を彦多の前に、そっと置いた。
「お前、家出するにも金が無かろうが。おばあのたしなみの内からやで、大けなことはでけんが、当座は何とかなる」
「……」
 彦多は肩を震わせた。おばあの書いた「御せん別」という字の歪んでいる上へ、ぽとんと涙を落し、慌てて手拭を置いた。「御――」の字が滲んで字画が分らなくなった。
「わしのしたことは内緒じゃ。響子も黙っとるぞ」
「うん」
 響子は力んで頷いた。彦多は涙の目のまま響子を見て笑った。
「おばあのこと、一生、忘れん」
「何の。わしの生きとるうちに一人前になって、ちょこっと顔見せに帰ってくれ。それだけが望みじゃ」
「……」
 彦多はおばあの手を取った。それから響子の手を取った。
「さいなら」
 響子は言った。
「身体に気いつけてな」
 おばあが言った。「住所が決まったら、おばあにだけは知らせとくれ」
「ああ」
 頷くと彦多は身を翻えし、庭先を突っ切って田圃道へ走り出た。ニイニイが驚いたのか、塀から屋根へ駈けあがって何処かへ姿を隠した。

   V

 二月に入ると、日あしが一日、一日と延びて行くのが目に見えた。氷見川の堤では、猫柳が固い蕾をつけ始めた。寒い日と暖かい日が不規則に訪れて来る不順な気候の移り変りを繰り返しながらも、ようやく春が間近かに感じられるようになった。
 ――そや、明日は「七」の日や。
「草摘みはまだ早いか」と吉生が言い、
「まだまだ、十七の日でも、ちょっとの」と斉がわけ知り顔に答え、萩乃が、
「したら、今度の『七』の日は、うちのお雛様に来ん?」と誘った。
 夜久村では昔から雛壇は一ヵ月置いておく風習である。三月三日に飾りつけ、四月四日に納める。新暦で祀るのでもなく、旧暦で祀るのでもなく、しかし自然に桃の便りを聞き始める頃から満開までのあいだ飾っていることになる。村の春は、少し遅いのである。
 雛壇は家によって異る。毛氈を敷いて段飾りをするのは村に五軒もない。地主とか山持ちに限られていた。しかしどの家でも、それぞれ、そこで生まれた女の子が祝ってもらった雛が置いてある。嫁に行くとき持って出る習慣がないので、雛人形は代々のその家の女の子の形代《かたしろ》である。親王雛が四つも五つもあるのに官女が無かったりする。此の頃は、ばら買いをしないが、昔は長女が親王雛、次女が官女、三女が五人囃子、というふうに段々に祝い与えられたりもした。響子の家は新宅の二代目なので古いものはない。その上、父親には姉が一人いただけなので親王雛が一組、と淋しい。響子のぶんは親王雛と三人官女だ。茂が生まれたとき、女の子として育てるため市松人形の一対を買った。それらを違い棚を利用して飾りつけてあるのだ。
 萩乃の家の雛人形は夜久村でも評判だった。江戸時代からのものが、大切に保存されていると聞いた。みんなに否やのあろうはずはない。
「先生も行きたいな」
 いつのまにか、横に来て話を聞いていたらしい田代先生が言った。
 ――田代先生が「七」の日に来るん?
 みんなは口に出さずに、ちょっと顔を見合わせた。しかし断るわけにはいかない。「七」の日ということにしなければよいのだ。
「嬉しい。先生が来るんなら、お母ちゃんに言うて、お寿司巻いて貰お」
 萩乃は大はしゃぎだ。響子は何となく面白くなかった。みんなと別れてから一人河原を歩いて帰った。
 ――お雛さんなんか、しょうもな。「七」の日と何の関係もないやん。
 響子は爪先で河原の土を蹴散らしながら歩いた。萩乃の家の雛祭に「七」の日が利用されているようで、むしゃくしゃする。
「あ」
 響子は左右に激しく動かしていた足を思わず引っこめた。地面に頭を出したばかりの土筆を見つけた。足などで蹴って、可哀そうなことをしてしまった。
「……」
 響子は慌ててしゃがみこんだ。土筆はまだきっちりと固い頭で、三本、土のなかに転がっていた。
「響子。響子」
 呼ばれて振り向くと兼多が立っていた。堤に自転車を置いて、こちらへ向って歩いて来るところだった。
「一人で、こななところで何しとるん」
「……」
「土筆摘みか。まだ早かろうが」
「うん」
「帰るんなら、送って行くかち自転車の後ろに乗れや」
「うん」
 兼多は響子の手を取って、荷台へ引きあげようとして、はっとためらった。
「どないした。お前、怪我しとるんか」
「……」
「脚、脚じゃ」
 言われて、響子の方がびっくりした。打ちつけたり、つまずいたりした覚えはないのに、白い靴下が両方とも血に染まっている。
「見せてみ」
 兼多は、しゃがみこんで響子の靴下を脱がせた。それから、
「あっ」と小さく叫んだ。「響子、これは、早う家へ戻らにゃ」
「どこぞ切っとるん?」
「違う」
 兼多は手早く丸めた靴下で響子の両脚を内股のあたりまできれいに拭った。それからハンドルの前の籠に入れてあった大工道具の袋のなかから新聞紙を取り出した。荷台に自分のジャンパーを脱いで座蒲団代りに置き、さらにその上へ新聞紙を載せた。
「またがるな。横座りにせい」と抱きかかえて座らせてから、ペダルに足をかけた。
 自転車がつうっと流れ出したとき、響子は、はっと気がついた。自分の身に何が起ったかを、突然諒解した。五年生になった一番最初の体育の時間、女子だけを教室に集めて田代先生が話して聞かせた、あのことに違いなかった。
 しかし、それは本当に忘れてしまっていたのだ。田代先生の説明のとき、他事《よそごと》を考えていたのだろうか。あのことだ、と思っているだけで、あのことが何なのか、朦朧としている。
「――」
 響子は周囲を見廻した。鼻の先には兼多の茶色のセーターがある。急いでいるのか、セーターは前後に激しく揺れている。響子は、何だかぼんやりしている。セーターは見えるのに、セーターの中味が兼多だということが何だか信じ難い気持だ。兼多だけではない。いまここにいる自分も、何だか自分でない。変な工合だ。身体が脱け殻みたいで、遠いところから操作されているように覚束ない。自転車に乗せられていることも分る。家へ連れて帰ってもらっている途中だと納得もしている。しかも自転車は目的もなく宙に浮いているのだ。どこへ行くというあてもなく、夕暮の野道を、つうっと流れている……。
 ゆったりと前方から拡がって来るのは野焼の煙だ。枯草の焼けていく甘いにおい。ぱちぱちと炎の音は聞こえるのに赤い色は見えない。道より一段低い田圃の畦が焼かれているのだろうか。
 休耕の切株が灰色に寒々と並ぶ。麦作は三分の一くらいだ。黒い土の、僅かな緑だが、そこからは春の息吹きが伝わって来る。
 目の前を走って過ぎて行く橋の欄干、辻の地蔵さん、道標、番小屋。総てがずうっと遠くに在るもののように小さく見える。目の前を過ぎて行くのに、無限の距たりが感じられる。ただ、空はずいぶん近い。薄みどりに微かに夕焼の名残の紫が混って、手でも掬えそうだ。どこかで梅のにおいがする。梅のにおいのなかを走っている。身体から、また血が溢れこぼれたような気がする。響子はいま、血のにおいになって走っている。早春の夜久村の夕暮には種々のにおいが交錯しあい、溶解しあい、うねって一つのぶあつい気層をつくっている。響子の血のにおいが、そのなかをつうっと流れていく。
「あ」
 突然、響子は声にならない声を挙げて身をよじった。前方に柚原の一軒屋の牛小屋が見えて来た。薄暗い闇のなかでうねっていたものが、次第に明瞭な形をとって、実直ぐ響子めがけて突進して来る。巨大な角をふり立てて、真赤に火を噴く目を持った牛……。牛の背中に乗っているのは照やんではなく響子だ。牛の両の角の上で、サーカスみたいに素裸の脚を大きく開いている。牛の角が、響子の内股を伝い落ちる血で染まっている。
 ――あ、また流れ出す。
 響子は自転車の荷台の上で座り直そうとした。
「どした。危ないぞ。動くな」
 兼多が言った。それから優しい声で、
「気持悪いか。もうちいとの辛抱ぞ」と左手を伸ばして、髪を撫でた。
 柚原を横切ると、もう一度橋を渡る。今度は氷見川の橋で、それを渡ると、瀬ノ端の村は目の前だ。
「ここで、ええ」響子は首を振った。
「ここで、降ろして」
「何言うか」
 兼多は構わず逆にスピードをあげた。「このまま歩いては帰れんぞ。ひとが見る」
「……」
 響子は悄気た。こんなふうにして送ってもらうと、おばあに叱りつけられそうな気がして、それが恐かった。
「他人さんやない。恥しことなんかない」
 兼多は響子の内心を見透したように自分で自分に言って頷いた。「おばあが何で怒ろ。そう、祝いするんじゃぞ、これは」
 ――何で?
 響子は質問しようとして、声を呑みこんだ。吉生の家の前を通り過ぎるところだった。
「さあ、着いた。じっとしとれ。おれが呼んで来るからな」
 兼多は響子を自転車の荷台に置いたまま家のなかへ入っていった。響子はすぐにも荷台から飛び降りようとしてためらった。あの牛小屋の側を通ったとき、座蒲団代りにしたジャンパーを汚してしまったような気がした。
 家のなかでは、おばあと母親が、こもごも何か言っている。響子は、そっと腰を持ちあげて見た。新聞紙は大丈夫だ。よかった。それで、そのまま、ずうっと爪先を伸ばして滑り落ちるようにして荷台を降りた。新聞紙の片隅に、いま付着したばかりの赤い汚点があったが、ジャンパーは無事だった。不思議にそれらは汚れて居ないのに、脚のあいだはぬるぬるしている。
「ああ、響子。よかったなあ、お兄ちゃんが居て」
 母親がいつになく優しい声でかけ寄って来た。「そのまんま、裏へ廻って風呂場へ入んなはれ」と言う。
 おばあはにこにこ笑って頷いていたが、ふと荷台に目を留めて、
「あ、その汚れもんは洗わしてもらいます」
「いや、大事ない。何も付いとらん」
 兼多は新聞紙を除けてからジャンパーをぱっ、ぱっ、と振って見せた。
「したが穢れもんやでの。いっぺん浄めんと、のう」
「はっ、はっ。古いの、おばあ」
 兼多は払ったジャンパーを素早く身にまとった。
「ほん、はや、これは響子の女《おなご》のあったかさぞ。温《ぬく》たい」
「よう、まあ、兼多ちゃん」
 おばあと母親は顔を見合わせ、響子がこれまで聞いたこともない派手派手しい声を挙げて笑い崩れた。
「ほな」
「まあ、おおきにでした」
「のちほど、赤飯を持って参じるでな」
「待っとるぞ」
「響子、礼を言や」
「――」
 響子は黙ったまま、上目遣いに、ちらっと兼多の顔を見た。
「さいなら」
 兼多は言った。
「さいなら」
 響子は兼多の後ろ姿に手を振ろうとして、止めた。

 萩乃の家の雛祭に結局響子は出席しなかった。本当は学校も休みたかったのだが、それはおばあが許さなかった。
「病気やないでな。こういうときに、ちゃんと働く女に躾けんといかん」
 しかし母親は不安だったらしい。
「学校で恥かくと可哀そうやでな」と従いて来た。職員室に入って田代先生に何やら頼みこんだ。
 田代先生は頷いて出て来て、響子にごく何でもないふうに、
「御手洗に行きたかったら、授業中でも構へんし、黙って立って出なさいよ」とだけ言った。
 雛祭は夕方の六時頃から始まった。田代先生が真先に来て、萩乃の母親から人形の説明を聞いていた。
「わたしは大阪から嫁入って来ましたよって、はじめはここの慣習《しきたり》が分らんで」と笑って、これが自分の人形だと部屋いっぱいに組まれた段の脇を指さした。
「この村は、嫁入りのときには持って来ず、代々の家の女の子が、それこそ人形《ひとがた》みたいに残して行きますのなあ。しやから、まあ、わたしの人形は、毎年、ここで小そうなって」
 萩乃の母親の人形は京風で御殿のなかにいる。小そうなって、と言うけれど、他の人形が雑然としているのに比べて、すっきりまとまっている。御殿の階段《きざはし》には三人官女と随身が並び、下段には箪笥、長持、鏡台、御所車などの精巧な細工物が飾られている。杉本家は夜久村一の旧家、庄屋で、地主で、山持ちではあるが、所詮は田舎の分限者だ、と萩乃の母親の人形は言っているようであった。しかし田代先生は、雑然と飾られた時代も贈り主もばらばらな人形の方を興味深く見ていた。
 最上段の屏風と雪洞《ぼんぼり》は漆の剥げ工合と金の燻みかたで、時代は明治より古いと知れる。「こんな屏風があるというのは、江戸から、誰かが土産に買って来たということでしょうか」
「ここは昔、天領でおましたな。川下の喜多川には代官所が、ほら、いまの安隆寺村の倶楽部あとですがな。江戸との往来も、そら、ありましたやろな」
 田代先生は頷きながら、針箱とお膳を手にとって眺めたり、白に緋の袴の三人官女と、金欄の打掛を着たそれを何度も見比べたりしている。「仕丁の持物、これは傘の袋ね」などと呟いている。
 子供たちは錦紗の着物を着て出て来た萩乃に、あっけにとられて声も出ない。
「みんな揃うたら、お寿司食べましょうねえ」
 萩乃は口の利きかたまで普段と違う。
 最後にやって来たのは吉生だった。
「響子、何ぼ誘うても身体の工合が悪い、言うて出て来んの」
「まあ、どして。しょうもな」
「響子が居らな、弾まんの」
「熱があるの?」
「今日一日、蒼い顔しとったの」
「風邪か」
「よう分らん。したが、おばあが、これを持っていて、みなさんであがって、て」と重箱を差し出す。萩乃の母親が受け取って、
「まあ、お赤飯!」と叫ぶのに、田代先生が耳打ちする。
「そうどしたか。そらそらおめでたい」
 萩乃の母親が奥へ引っ込むと、子供たちは一斉に、
「先生、あれ何?」
「響子が、どしたん?」と口々に訊ねる。
 田代先生は、みんなを見廻し、
「女の子には体育の時間に話したことがあるでしょ。響子ちゃんが今日から大人の仲間入りをしました」
「ああ」と小さく叫んで頷きあったのは、アサと福子だ。
「何が? なあ、仲間入りがどしたて?」と言っているのは萩乃とさわ子だ。
「あとから言うてあげる。あとから」とアサが勿体ぶる。田代先生はそれ以上説明せず、雛壇の方へ戻って行く。男の子たちは、みんなきょとんとしている。
「わあ、おれ、知ってる。おれ、知ってる」
 突然、叫び出したのは斉だ。しかし田代先生は取り合わないで、丁度巻寿司の桶を持って来た萩乃の母親に、
「でも、こうやって、この家で生まれて、この家を出て行った代々の女のひとたちの形見みたいなお雛さん見てると、まるで人形が生きてるような気がしません?」と話しかけている。萩乃の母親は、子供たちのために銘々の小さなお膳に塗りのお椀を載せながら、
「さよどす。その左側の、わたしのお離さんの近辺に飾ってあるのは、まだ生きてはるひとのぶんどすが、右側は、全部亡くならはったひとのどす。わたしの知ってるひとも、知らんひともいやはりますなあ」と、いつのまにか夜久村言葉が脱けて、京、大阪ふうの言い廻しで答えている。
「あかりをつけましょ、ぼんぼりにー」
 突然アサが歌い出した。みなが一斉にそれに和した。
「ごーにんばやしの、ふえたいこー」
 巻寿司が子供たちのお椀に盛られ、その脇に黒塗りの菓子皿に入った赤飯が添えられている。
「響子ちゃんのおしるしどすさかいな」
 萩乃の母親は娘に命じて吸物を運ばせながらも細々と気を配っている。
 白酒が出る。田代先生の希望で、座敷の電灯が豆電球に落され、雛壇の雪洞に昔ながらの蝋燭の火が入る。
 雪洞の明りは弱いが、上段の一対と、四段目と畳の上にそれぞれ一対ずつ、あわせて六個が灯ると、ぼうっと柔らかいが明るい雰囲気になる。毛髭の緋の色を含んだ華やかな光だ。
「うちのは、あれ」
 萩乃が最上段の内裏雛を指さす。古い屏風の前で、不釣合に大きく新しい人形だ。
「お見せしたら」
 母親に促されて、萩乃は踏み台を持ち出す。壇の脇から慎重な手つきで先ず男雛を降ろし、それから裏を左へ廻りこんで女雛を降ろす。みなの前に置かれたのは立派な木目込み人形だ。
「京都の田中で誂ましたんえ」
 母親が得意そうに説明する。「此の頃は、みなさん段飾りを祝いはりますが、うちは、こななふうどっしゃろ。そいでお内裏さんだけ、特別に張りこんでもらいました」
「やっぱり、お母さんの御実家からなさるんですか」と田代先生。
「さよどす。長女のぶんだけどすがな」
 田代先生は大きな吐息をつく。この家を去っていった代々の女たちの人形の背後から、この家へ嫁入って来た代々の女たちの実家の気配がのしかかって来て息苦しい。
「いつやったかしらん、首のもげた人形さんがあって、飾らなんだら、その年、この子が病気しましてな。おばあにきつう叱られて、それからというもん、どなな壊れかけの人形でも祀りますのん」と、いつのまにか、また村言葉に返った萩乃の母親が、指先が欠けたり、衣裳が崩れている人形を納めた硝子ケースを指さす。壊れた人形は藁苞でこしらえた舟に載せて、四月初め、旧の三月三日を暦で調べて川へ流す家もあると言う。
 夜久村では、現在、女の子の居ない家でも、雛のある家は毎年の祀りを欠かさない。雛があるということは過去において、その家に女の子が居たことになるので、その祀りを抜かると、崇りがあると信じられていた。
 帰りは微かな新月の周囲に、おぼろの雲が靄う暖かな夜だった。柚原の福子、アサ、義一、斉が一組になり、車で迎えに来たアサの父親がみんなを送り届けることになった。根岸へは勝夫、建司、さわ子だが、勝夫と建司は隣組なので、少し遠廻りしてさわ子を送って帰ることにした。
 田代先生は響子の家へ顔出しして帰るということで、自転車の荷台へ吉生を乗せて出発した。
「先生、響子の」
 後ろから吉生が言った。「昨日《きんの》の夕方、彦多とこの兄ちゃんに抱かれて帰ってから病気になったんぞ」
「まあ、兼多さんに?」
 田代先生は驚いたのか、ハンドル操作がぐらぐらして吉生は落っこちそうになった。
「先生、響子、何の病気ぞ」
「病気じゃあないわ」
「……」
 吉生は納得がいかないのか返事をしない。
「吉生ちゃんたちは、中学に入ってから教えてもらうわ。病気でないけど、女の子は身体の工合が悪くなるの」
「彦多とこの兄ちゃんは知ってるん」
「そりゃ、大人ですもの」
 言いながら田代先生は、また、ぐらぐらした。
「ふうん。ほな、響子、大人になったん」
「そうね」
「昨日から?」
「そう」
「あのな、先生。おれ、響子は、もっと、ずっと前から大人のような気がするん」
「へえ、いつから?」
 田代先生は笑いながら訊く。
「おれの病気の……いや、もっと前から」
「どうして、そう思うの」
「……」
 吉生は、ちょっと息を呑む。少しのあいだ考えこむ気配があって、
「あのな、先生、響子、きれいと思わへん」
 響子は学級一の美少女だ。いや、学校一かもしれないとみんなが認めている。
「そう、響子は美人よ」
 田代先生は当然のことだ、という口振りだが、吉生はもどかしいらしい。いつ、この少年に響子が特別美しく見え始めたのだろうと思うと、田代先生は、吉生が可愛らしいやら、おかしいやらで、思わず頬が緩む。
「笑ろた。先生、笑ろたな」
 吉生が荷台から田代先生の背中を軽く叩く。
「あ、吉生ちゃん、危ない、危ない。冗談《てんご》してたら、先生は新米やよって、ひっくり返るよ」
「あのな、先生」
 吉生は再び真面目な口調になる。田代先生に送ってもらうのが嬉しくて堪らず、色んなことを喋りたいらしい。
「おれらのクラスの男の子、みんな響子が好きやけど、誰が、いっち好きか知っとる?」
「さあ、誰やろ。吉生ちゃんか」
「ううん。おれも好きやけど、いっち好きなのは斉や」
「ああ、斉君ね」
 田代先生は、今度は本当に声に出してくすくす笑ってしまう。あのこましゃくれた、真黒の顔の斉が、と思うと吹き出しそうになる。
「しやけどな、響子は斉が好きやない」
「へえ、そんなこと分るの」
「響子が言うたもん」
「ふうん。響子ちゃん、吉生ちゃんにそんなこと言うのん」
「うん」
「したら、響子ちゃんが、いっち好きなのは誰やろ」
「おれらのクラスとは違うのん。響子は大人やし」
「あら、あらそうなの」
 田代先生は後ろの吉生の真面目くさった顔が目に見えるようで、軽くからかってみたくなる。
「同じクラスの子が好きになるのは、子供なの?」
「うん。おれと響子みたいに、一年生のときから、ずっと手を繋いで学校へ行っとるもんは好き同士にならんて」
「へえ。響子ちゃんが、そんなこと言ったの」
「うん。響子は、色んなこと言うよ」
「好きな男の子のことも言ったのね」
「男の子やない」
「男の子やないって?」
 田代先生は、ちょっと心配になる。村では子供たちの世界は、裏返ってすぐに大人に結びつくことがしばしばだ。あの子とあの子は組合わせぞ、などという冷やかし言葉を、子供同士の遊びだと思っていると、本当に家と家で取りきめられた許婚者だったりする。響子にも、そんな相手がいるのだろうか。
「先生、当ててみ」
 吉生は愉しそうだ。
「そうねえ、わたしの知ってるひと?」
「知ってるだんかいなあ」
 吉生は大人の言いかたを真似てはしゃぎ気味だ。
「じゃあ、六年のクラスね」
「ぜーん、ぜん」
「ふうん、中学かな」
「もっと、もっと、大人」
「あら、大人なの」
 田代先生は何だか胸騒ぎがして来る。昨日、兼多が響子を抱いて帰ったと聞いたばかりだ。響子の家と兼多の家は、事情がからまりあっているので、不自然と思われる関係でも、家同士の取りきめで成立しているのかもしれない。それで口に出して言ってみる。
「あ、分ったぞ。先生も分った。――兼多さん」
「違う、違う。あんなおっさんと違う。響子の好きなのは、顕子の相手の彦多や」
 吉生が大人の口裏似で、「顕子の相手の――」と言ったのがおかしくて、田代先生は何度目かの笑いを噛み殺す。
「へえ、彦多さん。響子もおませねえ」
「先生、びっくりした?」
「びっくりしたわ」
「したが、秘密やし、言わんといてね」
「響子ちゃんが、あんたにそう言ったの」
「ううん。けど、おれには分るん」
「……」
「響子のことは何でも分るん。何でやろ」
「……」
 田代先生は、吉生の心の動きが、あまりにも手に取るようなので、かえって言葉に詰った。そのとき、瀬ノ端の村の灯が見えて来た。
「着いたわ」
 田代先生は吉生を促した。しかし吉生は、まだ興奮の脱けきらない様子で返事をしない。
「どう、響子ちゃんの家へ寄ってみる?」と問われて、初めて我に返った子供っぽい口調で、
「いや、帰るん。おれは帰るん」
 それから田代先生がまだ自転車を停めないうちに荷台から飛び降りた。
「先生、彦多兄ちゃんのこと、響子に言わんといてね」
「きまってるじゃないの」
 田代先生は吉生の手を握った。「今日の話は全部、先生と吉生ちゃんの秘密――」
「うん」
 吉生は強く田代先生の手を握りかえすと、「先生、さよなら、おやすみなさーい」と怒鳴って、一目散に家の方へ駈け出して行った。
 桜が散ってしまうと、急激に気温が上昇した。楓の若葉が音をたてて伸びて行く。色も日一日と鮮かになる。椎の樹は新しい芽を揃え終った。新しい葉に競り落されて、古い葉が緑のまま、しきりと落ちて行く。松、槙、杉の類いの花が満開なのは気配で分った。それらの花は小さく目立たぬ色なので、遠目には捉えられないが、樹全体が生臭くにおうのだ。待ち構えて風が吹いた。黄色い花煙が、ぱっと飛び散って、雄の樹から雌の樹に向って突進した。
 風媒花のまぐわいの季節になると、夜久村では東の山裾から西の山へかけて、空気が一斉に黄色く濁った。山沿いの家では縁先などが拭いても拭いても花粉で汚れた。風は、まるで樹々の体の一部ででもあるかのように、樹々と一つになって動いた。まぐわいは壮大で激しく、山全体がむせかえる臭いを発して身悶えた。幾種類もの樹々が一斉に動いて、目指す雌の樹を間違いなく捉えた。毎年、風の方向が定まっていて、雄から雌へ向って用意されたものが開くと同時にひたすら、吹きに吹いて運ばれて行くのである。
 運ばれて行く雄花の花粉は層をなしていた。黄色い靄のようなものが樹を包んでいると見えるのは、そのせいだった。
 響子は風に逆らって歩いていた。まともに吹きつける花粉の煙のなかを、一歩、一歩、足を踏みしめ歩いていた。身体のなかに起っている変化が、内側から突き動かす力となって、響子を風早山へと運んでいる。
 自分が何のために風早山へ向っているのか、響子は知らない。知らないのに、何かに促されて風早山へ向っている。
 ――響子。響子。
 響子は、自分を呼ぶ声を聞いている。声は身体の内奥深くから噴きあがって来るようでもあり、どこか遠いところからやって来て、しっかりと全身を包みこんで揺さぶるようでもある。
「響子。須田の響子とちがうか」
「……」
 響子は立ち停まる。山裾の細い道に中学の制服を着た少年が三人突っ立っている。三人とも顔立ちと背の高さが不釣合で、顔の少年らしさに比して身体が大き過ぎる。みんな小学校のときの上級生だったにちがいなく、見覚えはあるのだが名前が浮かんで来ない。
「こなな風の強い日、どこへ行くぞ」
 真中の一番背の高い少年がズボンに両手を突っこんだまま、生意気な口を利く。
「風早山――」
 響子は、にこっと笑って答える。以前のように上級生の男の子が恐しくないのが不思議だ。
「風早山てか」
 左端の少年が、面皰《にきび》面を赤らめながら問い返す。
「さいな」
 響子は真直ぐ左端の少年と向かいあう。視線を逸らそうとする少年の目を捉えて、じっとみつめる。
「何しに行くぞ」
「何しに行くか、知らんの」
 響子は何だか浮き浮きと答える。自分でも気持が暢やかに愉しくなっていくのが分る。
「何しに行くか、知らんて、お前……」
 真中の少年が咎めるように言いかけて、言葉に詰る。右端の少年は、微かに蒼ざめ、緊張した表情で黙っている。響子は、ゆっくりと三人の顔を等分に眺め廻す。
「しやかて、何しに行くでもなく、風早山へ行ったってええやん」
「目的なしか」
 右端の少年が初めて口を利く。
「さいな」
 響子は、もう一度、にこっと笑う。
「何やったら、歌でも歌おうかなあ、と思とった」
「ひとりでか」
「さいな」
「どんな歌?」
「どんな歌でも。田代先生に習うた歌――」
「ああ。おれらも田代先生に習うてる。音楽だけ」と左端の少年が言い、右端と真中が大きく頷く。
「よかったら、おれら、一緒に行って歌うてもええか?」
 真中が、初めとは打って変った口の利きかたになり、
「そう、一緒に行ってもええ?」と左端も靴先で土を蹴りながら照れ臭そうに笑う。
「……」
 響子は、ちょっと眉を寄せる。
「いや、おれらな……」
 真中が言いかけ、「よう、お前が言い出したのぞ。卑怯やぞ、ちゃんと申し込め」と右端の少年を前へ突き出す。
「……」
 突き出された右端の少年は、急に幼い表情になって尻込みする。
「お前、あかんたれやな」
 左端の少年が代りに一歩前へ進み出る。
「あのな、おれら、響子に交際申し込みに来たんや」
「コーサイ?」
 響子は何のことかよく分らない。
「うん。中学では、女の子と交際するんや。こないして歌、歌いに行ったり、日曜に遠足したり……」
「なあんや。そんなら、うちらもやっとるよ。『七』の日の集まりで、みんなと遊ぶん」
「おれら三人とだけ遊ばんか」
「ええわよ。『七』の日、もう退屈しとったん」
「わあ、ばんざい」
 三人は飛びあがって、それから一人一人響子と握手した。少年たちの掌は汗でぐっしょり濡れていたが、響子は気持悪くはなかった。
 それは響子にとって奇妙な体験だった。「七」の日に吉生たちと遊ぶより、何故か、ずっと愉しかった。しかし愉しさとは別に、響子は自分の身体のなかに大きな熱い塊りのようなものがあって、それが少年たちといる間中、出口を捜してざわめき立っているのを感じていた。何かの拍子に少年たちと手が触れたりすると、塊りは指先にまで奔り出て、その部分から胸の奥まで、一気に痛みが駈け抜けるのだった。
 ――うちは、気がふれたんやろか。
 響子は、ぼんやり考えこむ。確かに風早山での経験は響子のこれまでに無いものだった。風早山の中腹までのぼって行って歌を歌い、それから何の話をしたか忘れたが、とりとめなく喋り散らして別れたのだったけれども。
 史郎、祐一、透、と彼らは自己紹介した。響子は三人のことを一日のうちに何度も思い起した。特に、透と名告《なの》った右端の少年のことを何度も思い起した。そして、こんなふうになったのは、気がふれた証拠ではないのかと心配になった。響子は風早山のことは誰にも打明けなかった。
 夜久村では、木の芽どきには山の縁を歩くな、という戒めがある。花粉の煙に巻きこまれると息苦しく、小さい子供だと失神しそうになる。その上、年寄はともかく、血気の若い者は風媒花たちの、さかんな生殖行為に圧倒されて、ほとんど気がふれそうになるとも言われている。
 男と女のまがまがしいことは、たいてい木の芽どきに起るぞ、なあ。
 さいな。今年もややこしの。
 聞いたか。
 ふん。人目につかんよう、押しこめとるそうじゃが。
 顕子が村へ帰って来ているという噂は、どうやら真実のようであった。それも、あのぶんでは、気がふれとるぞ、と囁きあわれていた。
「戻ったら戻ったで、どして挨拶に来ん」
 響子の家では、おばあが憤慨していた。
「そんなこと言うたかて、あちらさんにはあちらさんの言いぶんがありましょうが」
 母親が棘を含んだ物言いをするのは、あるいは彦多への餞別の件を察しているのかもしれない。しかしおばあは空っとばけて、
「彦多が家出したよって顕子が帰ったとなると、とんでもないことになるぞ」と呟いている。
「それにしても長戸も筋を通さん。いったん出したものを、何でまた坊川へ入れる」
「坊川へ復籍したのではなかろうと思いますが。彦多ちゃんが村に居らんのやから長戸へさして帰れましょうがな。長戸に居るに間ちがいおまへんな」
「何で、そんなことが分る」
「坊川へ入れるんなら、おばあに挨拶に参ります、な」
「ふん」
 おばあは不承不承頷いている。響子の母親の推察通り、顕子は戻って来てはいるが、養家の坊川へは帰らず、長戸の実家で暮していることはすぐに分った。何でも子供を堕ろしたあと、身体をこわしているらしい。
「はて、男に欺されたんじゃろか」
「ちがいますがな。彦多とのあいだの子じゃそうな」
「ほんなら、何で堕ろすぞ。長戸も長戸じゃ。つまらん見栄張って、一人の娘の身体を台無しじゃ」
「これは見栄じゃ、ありませんでしょうが」
「いんにゃ、見栄じゃ。彦多は長戸の子じゃないと、はっきり知れて居るのじゃから」
「……」
 母親は目を瞠った。そんなこと誰に訊いたか、という言葉を呑み込んで、じっとおばあの次の言葉を待っている。しかしおばあも、はっと気付いて口を噤んだ。
「前々から思うとったが、長戸は、何か、大けな間ちがいを仕出かしよるの。誰も忠言するもんがないで、可哀そうなは、可哀そうじゃが」
 ――それを言う役目は、おばあ、あんたでしょうが、と言ってほしくて、おばあは、うずうずしているのだが、響子の母親は、夫から釘を刺されているので黙っている。「おばあをおだてて出しゃばらすなや。長戸と坊川の間柄は、手がつけられんほどこじれとるでの」
「響子じゃ。響子、ちょっと来てくれんか」
 おばあは学校から帰って来たばかりの響子を見付けて呼びたてた。「わしが行くと、事が大きゅうなるでな。あれに様子を見さしょ」
「あの役立たずを使いに出しなさるんかいな」
 響子の母親は不満だった。何か、また失敗を仕出かさないとも限らないと、それが心配でもある。
「そらあ、見当違いぞ」
 おばあは母親をたしなめる。「響子の、あれでなかなかの利け者《もん》ぞ」
「はて、おばあの孫呆けにも困りもんでおます」
 響子の母親は取りあわないで奥へ引っこんでしまった。母親は、おばあが茂を可愛がらないで響子一辺倒なのが気に入らない。折角、男の子が丈夫に育っているのに、おばあは、それさえも響子のせいにしてしまうのである。
「響子、御苦労やが、いまから長戸へ行てくれんか」
 おばあはにこにこした。
「いまから?」
 響子は首を傾けた。風早山へ行こうと思っていたのである。
「何や、宿題でもあるんか」
「ううん」
 透たちとは約束しているわけではない。「ええよ、自転車で行って来る」
 響子は鞄を上り框に置いたまま、裏へ廻ろうとした。
「これこれ、用事を訊かいでどうする」
「顕子姉ちゃんのことじゃろ」
 響子は何でもないふうに言った。おばあは慌てた。
「村うちで、評判か」
「評判、て言うほどでもないけど」
 響子は大人びた口調で言う。しかし、知っていておばあの耳に入れなかったことの言いわけはしない。母親に止められたのか。そんなはずはない。母親が口止めしたりしたら、却って言い募る性格である。おばあは何だか響子が突然、手許から滑り落ちてしまったような心許ない気分になる。しかし、
 ――何で隠しとったん?
 とは追及できなくて、響子の顕子に対する気持を量りかねている。やっぱ、響子は彦多が好きで、それで我知らず顕子と張りあっとるんじゃろか。
「長戸のおばちゃんは顕子に会わさんかもしれんが」
 おばあは、そこで考えこむ。おばあが彦多の家出に関わったことを、長戸では、うすうす察しているかもしれない。だから、顕子の問題も……。
「そんなこと、どうでもよいやん」
 響子は面倒くさそうに首を振る。「昨日、学校で、顕子姉ちゃんが、中学校の男子便所をうろうろしとるいう噂が流れてたけど、ほんま、て訊くし」
「ええっ」
 おばあは仰天した。「ほんまに、そんな噂が流れとるんかいな」
「ふん」
 響子は何でもないふうに頷く。「みんな言うてる」
「それを、どして……」
 言いさしたまま、おばあは口が利けなくなった。何を考えとるやら、この子は……。
「しやけど、うちは、まだ見とらんもん」
 響子は、のんびり答えると「ほなら、行って来るわな」と走り出た。
 響子は釈然としない。おばあをはじめ、お母ちゃんやお父ちゃんまで、長戸の顕子の気がふれた話になると顔色の変るのがおかしい。三人とも、それでいて彦多兄ちゃんを呼び戻そうと言わないのもおかしい。
 ――彦多兄ちゃんが帰って来たら、顕子姉ちゃんの病気なんか、いっぺんに癒るのに。
 すると、響子の胸の奥の方に、鈍い痛みが走った。どういうわけか、不意に悲しくなって、涙がこぼれそうになった。此の頃、彦多のことを考えると、必ず胸の奥が痛むようになった。
 響子は、大急ぎでペダルを踏んだ。
 ――彦多兄ちゃん、いま頃、どこで何をしとるんやろ。
「まあ、まあ、響子ちゃん」
 自転車を裏へ廻そうとしていると、彦多の母親が薄汚れたエプロンのまま飛び出して来た。少し見ないあいだに、頬骨が高くなって、ひどく痩せてしまっている。警戒心をむき出しにして、何の用? というふうにじっと響子を見た。
「顕子姉ちゃん、居るん?」
 響子は友達の家へ遊びに行ったときと同じ口調で言った。
「顕子――」
 彦多の母親は、言いさして、ぶるぶる慄え出した。「顕子さんは、ここには居なさらんよ」
「ほんま。うち、今日、学校で出会うたん」
 すらりと嘘が出た。「ここに居らんのやったら、坊川へ行って来るわ」と自転車の向きを変えた。
「響子ちゃん、ちょっと待ち、響子ちゃん」
 彦多の母親は気の毒なくらい狼狽した。「学校で顕子さんに出会うたて、学校の、どこで? どないしてたの、顕子さん」
「……」
「あの、響子ちゃん――」
「うち、おばさんと話しとうないの。顕子姉ちゃんに直接訊く」
「……」
 彦多の母親の顔は泣き出さんばかりになった。響子の自転車のハンドルを、しっかりと掴まえて、「おばあ、怒ってなさるやろな」と言った。
「何が?」
 響子は空とぼけた。「うち、何も、おばあに顕子姉ちゃんのこと、喋っとらんよ」
 また、すらりと嘘が出た。嘘を言いながら次第に、顕子がこの家に居ることを確信していた。
「うちがなあ、うちが失敗《しくじ》ってしもて」
 彦多の母親は、悄気かえっていた。「顕子さんは二階から脱け出しますん。なかで梯子をはずしといても、帯を垂らして、窓から外へ、なあ」
「……」
「お父さんは、あと1週間ほど様子を見て、病院へ入れようと言いなさるけど、その一週間が恐《おとろ》しゅうて、恐しゅうて」
 響子は、みなまで開かず二階へ駈けあがった。
「顕子姉ちゃん――」と襖を引きあけた。
「……」
 顕子は部屋の真中に座って、蒼い顔をしてこちらを向いていた。こちらを向いていたけれども、
 響子の顔を見ているわけではなかった。
「顕子姉ちゃん、響子なん」
「誰? 誰いな」
 顕子の目が微かに動いた。それからじっと確めるように響子に焦点を絞って来た。
「あ、今日は大丈夫かもしれん」
 彦多の母親は言った。「そのときどきによってな、お父さんの顔も分らんようになるかと思えば、うちを見て『おばちゃん、お世話になります』て挨拶するの。『彦多ちゃん、元気してる』て訊ねたり……」
「そや、彦多兄ちゃんの話したら癒るわ。な、おばちゃん」
 響子は勢いこんだ。彦多の母親は、はじめて、少し余裕のある表情になって首を振った。
「そうは簡単にいかんの。下手すると、怒らしてしもて、大騒ぎになる」
「大騒ぎ、て?」
「花瓶投げたり、障子をめちゃめちゃに破ったり……」
「……」
 しかし、いま、目の前の顕子には、全くそんな気配はない。静かに、淋しそうにこちらを向いて座っている。彦多の母親のものを借りているのだろうか、洗いざらしの紫色のネルの寝間着を着ているので、まるで長患いの病人みたいだ。
「顕子さん、分りますかいの。須田の響子ちゃんじゃ」
 彦多の母親が子供に言いきかすように、ゆっくりと言った。
「――」
 顕子は頷いた。それから突然、へらへら笑い出した。
「おかしなおばちゃん。うちが響子ちゃん忘れたと思うたの」
「あ、分ったの。分ったんやな」
 彦多の母親は、嬉しそうに何度も自分で言って、自分で合点した。「響子ちゃん、顕子さんは、あんたが分ったんぞ。分ったんじゃ」
 しかし響子は、何だか信用ならない気がしていた。この物の言いかたは、やはり普通と違う。
 それが証拠に、顕子の顔に少しも気持が出ていない。笑いかただって、唇の先だけで声を出しているみたいで変だ。
 ――ひょっとしたら顕子姉ちゃん、うちのことなんか忘れてしもて、ただ、おばちゃんに調子合わせてるだけかもしれん。
 響子は、急に顕子が恐くなって来た。
「おばちゃん、うち、もう帰るわ」と突然に立ちあがった。
「どして?」
 彦多の母親は驚いて引きとめた。「せっかく顕子さんの調子がようなっとるのに。な、響子ちゃん、もうちいっと居ってやって」
「しやけど、家に黙って出て来たから」
「ああ、そうか。そらそうやな」
 彦多の母親は、再び、落着かないそわそわした表情になった。「響子ちゃん、家へ帰ったら、この話な……、お父さんが、じっき病院へ入れるで、この話な……」
「家では、顕子姉ちゃんの話なんか、せんよ、うち」
 響子は少し乱暴な口調で遮った。おばちゃん、いったい何をびくついとるんやろ。しかし、それは口に出さず、「さいなら」と階段を降りかけると、
「響子――」
 後ろから顕子が声をかけた。呼び止められたのかと振り向くと、そうではなくて、顕子は、ぼんやり一人言を言っている。
「響子、て、男の児につけた名前やそうなの。男の児が育ちにくいし、女名前にするて、阿呆みたいの。ほんで、歎したんやて。神さん歎したんやて」
 それから、低い、歔欷《すすりな》きみたいな声をたてて笑った。
「……」
 響子は、引き返して何か言いたかったが、どう言っていいか分らなかったし、その上、彦多の母親が、早く帰れ、と目で合図したので慌てて階段を降りた。
 道に出てからも、顕子の笑い声が耳の後ろに貼りついて甘えなかった。響子は風に逆らってペダルを踏みながら、その笑い声と戦っていた。
 ――顕子姉ちゃん、弱虫。
 響子は、はっとした。言葉に出して呟いてみて、自分でも思ってもみなかった顕子の姿が見えて来た。顕子が彦多と、どんなふうにして別れさせられたのか、響子には、まだその形がよくは分らないが、子供を堕ろしたとか、それがもとで病気になったとか聞くと、情無いような気持でいたたまれなかった。
 ――弱虫なんや。
 すると、響子の顔色まで読んで、いやにおどおどしていた彦多の母親の方が、逆に強《したた》かに思えて来た。
 ――なんか、顕子姉ちゃん、可哀そうやったなあ。
 しかし、それはおばあには言うまいと思った。

 史郎、祐一、透の三人組が顕子を襲ったという噂は、三日も経たぬうちに夜久村中に知れ渡った。
 まだ中学生が、なした大胆な。
 いんにゃ、顕子の方が色気振る舞うて、中学生たちを引っ張り廻したが実際ぞ。
 三人が押えつけて、代りばんこにやった、ちゅうやないか。
 風早山で、てか。
 さいな。あすこは、まがまがしい。
「響子、ちょっと」
 放課後、校庭の掃除をしていると斉が呼んだ。
「えらい評判やぞ」と耳打ちした。
「あの三人組は、そなな悪いことせんよ」
 響子は、庇った。透の気の弱そうな顔が真先に浮んだ。
「そななことせん、て、お前、知っとるんか」
「うん、うち交際しとるもん」
「交際?」
 斉は大きく日を瞠った。「交際て、お前‥…」
「ときどき一緒に遠足に行こう、いうて約束しとるん」
「いつ行ったん」
「まだ、約束だけ」
「響子、やめい。田代先生に言うて、中学校で注意してもらえ」
「何で? 何にも悪いことしとらんよ」
「家で喋ってみい、叱られるぞ」
「家でなんか、喋らんもん」
 響子は、にこにこした。
「したら、これからはおれが従いて行ってやる」
 斉は勢いこんだ。「おれだけでは頼りないで、吉生も建司も義一も勝夫も、皆で従いて行ったる」
 そこへ義一がやって来た。
「何の話?」
「響子が、あの三人組と交際しとる言うから……」
「ああ、あの不良な」
 義一はすぐさま頷いた。「近所で喧しゅう、評判悪い連中の」
「それ見い」
 斉は勝ち誇った。「知らんのは響子だけよ」
「ふうん」
 響子は納得がいかない。斉が彼らを不当にけなしているとしか思えない。
「響子、響子――」
 吉生が走って来た。赤い顔で、はあはあ息を弾ませている。
「中学校の門の前へ、また顕子が来とる」
「……」
 響子は斉と顔を見合わせた。
「中学の門の前やなんて、なぶられに来たようなもんやないか」
 斉が叫んだ。響子は悪い予感に身体中が震え出した。
「じきに行ってやろ」
 義一が言った。
「よっしゃ。勝夫と建司を呼んで来い」
 斉が大人っぽい口調で吉生に命じた。響子は既に校庭を横切って走り出していた。
 夜久村の小学校と中学校は、道を挟んで向いあっている。顕子の姿はすぐに分った。真赤なストールで髪を包み、夜久村ではまだ誰も見たこともないような真赤なロングドレスの裾を翻えしている。
「……」
 響子は立ち竦んだ。顕子の恰好があまり突飛だったので、すぐには声がかけられなかった。顕子はいったい、どこであんな衣裳を仕入れて来たのだろうか。
「ひゃあ、これはキャバレぞ」
 斉が知ったか振りをした。
「キャバレて何な?」
 義一が訊ねた。
「男の遊びに行くとこぞ。女が仰山居ってな」
「ほな、おばあたちのいう女郎屋か」
「まあな。ピアノがあって、バンドが居って踊るというぞ」
「したら西洋女郎屋か」
「すっと、顕子は西洋女郎か」
 みなは、めいめい勝手なことを喋り散らす。響子は唇を噛みしめている。顕子姉ちゃんは西洋女郎とはちがう、気がふれとるだけや、と主張したいが、何となく確信が持てない。ひょっとしたら、あのどこか遠いところへ行っていたあいだ、自棄《やけ》をおこして西洋女郎をしていたのかもしれない。
 中学校の生徒も顕子の異様な恰好が薄気味悪いらしい。女生徒などは避けるように顕子の立っている反対側の路肩を歩いて急ぎ足に通り過ぎる。
「居らんの。ねえ、居らんの」
 顕子は甲高い声で呼びたてると、突然に、けらけらと笑い出す。居らんの、とはいうけれど、別に誰を捜しているのでもないみたいだ。ロングドレスの裾を顔の前のところまで持ちあげ、激しく左右に振る。
「ひゃあ、パンツ丸見え!」と義一が叫び、
「響子、早う、止めさせ、止めさせ」と吉生は赤い顔をしている。
「顕子姉ちゃん」
 響子が後ろから顕子の腕を掴もうとしたとき、
「見い、三人組が出て来る」と斉が注意した。
 彼らは、そうやって並んで歩くのが習慣なのか、今日も左端に史郎、真中に祐一、右端に透だ。
 三人同時に顕子の姿を認めて、はっと顔を見合わせた。史郎が合図し、校門脇の杉の生け垣の破れ目から這い出し始めた。
「あ、逃げる」
 吉生が叫んで駈け出した。響子と斉は両脇から顕子を引っ張って後に続く。
「待て。待てぇ」
 吉生を先頭に、義一、勝夫、建司が一斉に叫びながら走る。三人組は氷見川の河原まで走って、不意に立ち停まる。息を切らして追いついて来た小学生たちを、じろりと睨みつける。真中の祐一が肩を聳やかし、
「何の用や」と言う。
 響子と斉は顕子がちゃんと走らないので五十米ほど後ろだ。
「ふん。お前ら、響子の子分か」
 史郎が、堤の向うを顎でしゃくる。
「響子が、お前らに訊きたいことがあるんやそうな」
 義一が元気を出して一歩前へ出る。
「へえ。それはまた、何の御用で」
 史郎は祐一と顔を見合わせ、にやにや笑う。透は不機嫌な表情で黙っている。
「響子、どないしとるん」
「何をもたついとるん。早う、こっちい来いや」
 史郎と祐一が、めいめい親し気に呼びかける。
「……」
 吉生たちは、ちょっと顔を見合わす。
「響子、おれたちに訊きたいことがある、て?」
 史郎が言う。
「さいな」
 響子は叫んだものの、次の言葉が出て来ない。ここまで駈けては来たが、自分が何をしようとしているのか、ふと分らなくなる。おまけに、顕子が、まるで他人事みたいに、面白そうに鼻歌を歌いながら、小学生グループと中学生グループを見比べている。
「お前ら、響子の一統筋の顕子に何をしたぞ?」
 斉が響子を代弁するつもりなのか、声を励まして難詰する。
「へえ、顕子は響子の一統筋か」
 祐一が頭を振る。
「話逸らすな。村うちで評判ぞ」
 斉は後へ引かない。
「評判? ほう、どんな評判?」
 史郎は茶化す。透は相変らず口を利かず、響子の顔を真正面に見ないようにしている。
「顕子姉ちゃん」
 響子は情無くて、涙が出そうになる。顕子は、アイシャドウが流れ落ちて、ちんどん屋が俄か雨に遭ったような顔になっている。
「顕子姉ちゃん、言いたいことがあるんでしょ。ちゃんと言えば」
「……」
 しかし顕子は三人組に対して何の反応も示さず、ロングドレスの裾をいじっている。
「顕子姉ちゃん、聞こえとるの」
「おい、響子、何ぼ言うてもあかん。顕子は気がふれとるのぞ」
 祐一がにやにやする。
「……」
 響子は、かっと全身の血が逆流したのを感じる。卑怯な、と腹が立って来る。
「あんたら、顕子姉ちゃんの気がふれとるの、知っとって、あんなことしたん?」
「あんなこと、って、何ぞ」
 祐一はからむように言う。「あんなこと、って、響子、知っとるのか」
「知っとるし」
 響子は、きっとなる。持ち前の負けず嫌いが頭を擡げて来る。
「あんたら、顕子姉ちゃんの気がふれとるのにつけこんで、恥しことをしたのや」
「恥しことてか。ほう、響子は、あれが恥しことやと言うぞ」
 史郎は黙っている透を突っつく。「透、お前も、あれは恥しことやと思うか」
「……」
 透は困惑して肺いていたが、やっと聞こえるくらいの声で、
「別に、恥しことやない」
「そやろ。あれは何にも恥しことやない。誰もがやっとることや」
「そうなん?」
 響子は昂然と三人組を見廻す。「それが、恥しことやなかったら、いまここで、みんなの前で、やって見せて」
「……」
 三人組は、一様に生唾を呑みこんだような顔になり、頬をひきつらす。
「響子――」
 斉が後ろから響子の腕を引っ張る。「お前、自分が何言うとるか、分っとるのん」
「分っとるし」
 響子は甲高く叫ぶ。斉は見幕に押されて黙ってしまう。吉生たちも息をつめるようにして成り行きを見守っている。
「ほう、ええのん、響子――」
 史郎が、少し嗄れた声で言う。「お前、それが見たい、言うのん」
「見たいとは言うてえへんし。あんたらが恥しことやない、て言うから、そやったら、やって見せて、言うとるだけや」
 言い募りながら、響子は、きりきりと眉を吊りあげた。唇を噛み、拳を握りしめた。
 ――うちは負けへんよ。一歩も後へは引かん。
「おい」
 史郎が透に言った。「どないする気や」
「えろう構えとる」
 祐一も透に言った。
「きついの」
 透は苦笑いした。
「負けや、おれらの負けや」
「おれは嫌や」
 史郎は言った。「お前は響子が好きやよって負けるつもりやが、こななことで引っ込めるかい」
「どないしょういうんや」
「やってやろうかいな」
「やるて、お前」
「顕子を脱がしたらええんや。きっと途中で止めてくれ、言いよるて」
 史郎は一歩前へ出た。「ほな、顕子をこっちい廻してもらいまひょか。おれたちがやったことを、ま一度やってみますよってな」と嫌らしい口調になる。
「なあ、響子――」
 斉がおろおろする。しかし響子は身じろぎもしない。宙の一点を見据えたまま、狐に憑かれたような顔をしている。
「河原や。河原に引きずり下ろせ」
 史郎は祐一と透に命令するが、二人とも動かない。
「ふん、そうか。ほんなら、おれ一人でやってやるわ」
 史郎は顕子の腕を掴む。
「何すん?」
 顕子が鋭く叫んで身をよじった。「嫌らし、離して」
「ちぇっ、こないだとえらいちがいや」
「蹴るえ、ほら、蹴るえ」
 顕子は身構える。腕を掴まれたまま、上半身を後ろへそらし、片脚を後ろへあげて史郎の向う脛を狙う。
「――」
 史郎は構わず、飛びつくように顕子の腰を両腕で抱き締める。
「いやっ」
 顕子はのけぞって叫ぶが、声の調子が変っている。史郎はそのまま自分の身体を預けるようにして押し倒す。堤の斜面の緑の草の上へ、顕子の真赤な服が飛び散る。
「史郎――」
 祐一と透が駈け寄るが、制止するのか、援けるのか、あいまいな表情だ。
「ふん」
 顕子は乱れた髪のあいだから目をぎらつかせて三人の顔を等分に眺め廻す。はだけた胸から盛りあがった乳房が弾んだ呼吸に合わせて揺れている。
 史郎は血走った目で祐一と透を睨む。
「そっちゃから、両手を押えんかい」と嗄れた声で命じる。
「――」
 祐一が弾かれたように顕子を頭越しに飛び越えて、両手をしっかり押えこんだ。
「よし」
 史郎は顕子の身体の上へ馬乗りになってドレスの裾をまくりあげた。ストッキングを穿いていない顕子の脚が陽光のなかへむき出しになった。
「ああ」
 透が首を振った。「そこまでにせい、そこまでに」と懇願するように史郎の肩を揺さぶった。
「うるさい」
 史郎は透を振り切った。透はいったん弾き飛ばされた身体を立て直し、もう一度、武者振りついた。
「今や、顕子を助け出せ」
 斉が叫び、小学生たちが一斉に走り出した一瞬早く、黒い大きな影が飛び込んで来た。
 影は史郎と透を同時に突き飛ばした。
「何を」
 史郎が負けじと影に飛びかかった。
「危ない、刃物持っとる」
 透が叫んだ。影は、右手に鑿を握った兼多だった。
「――」
 しかし史郎には透の叫び声は聞こえない。後ろから兼多に組みついて足を払った。足を払われた兼多は、組みつかれたまま前へ倒れた。
 そのとき、異様な叫び声が、倒れた兼多の喉から洩れた。
「ああっ」
 透と祐一は仰天した。史郎はまだ何が起ったか分らないで倒れこんでもがいている兼多を眺めている。倒れこむ拍子に、兼多の右手に持った鑿が、自分の左の胸に突き刺さったのだ。
「早う、医者や。それから駐在――」
 透が上ずった声で怒鳴った。
「医者て、医者て、どこやったかいな」
 祐一は足許がふらついて立てない。
「ほら、柚原の――」
 しかし透も説明できない。唇がぶるぶる震えるだけだ。
「萩乃ちゃんの親戚や、斉が行けば」
 響子が叫ぶ。言われて、斉は、はっと気付く。
「そや」と祐一を促して走り出す。
「自転車、兼多兄ちゃんの自転車があるやん。何をぼやぼやしとるん」
 響子に怒鳴りつけられて、斉と祐一は自転車に二人乗りしようとして、横倒しになる。
「阿呆。自転車なら一人の方が早いぞ」
 今度は透が怒鳴り、祐一は、再びその場にふらふらと座りこむ。
 事態がやっと判り、史郎は真白な顔で物も言えず、首だけ、がくがく振っている。兼多は呻き声の合い間に、むせるように二、三度咳きこんだ。
「あかん。どないしょう。口から血が出とるぞ」
 祐一が泣き声になる。
「お前はここに居って、おれと史郎で駐在を呼んで来る」
 透が走り出そうとする。
「いやや、行かんといてくれ。怖い」
 祐一は首を振る。
「何を言うとるか。さ、行こ」
 透は、呆然と立っている史郎を引ったてるようにして堤へ駈けあがる。
「わあ。いやや。おれ、よう見ん。おれ、よう見ん」
祐一は泣きながら、その場に突っ伏してしまう。
「……」
 兼多が何か言ったみたいだった。
「響子、兼多兄ちゃんが――」
 吉生が不安そうに覗きこむ。
「寒い、て。寒い、言うとるのとちがうか」
 勝夫が途方に暮れたふうにみんなの顔を眺め廻す。寒いと言われても、みんなの着ている上着は薄手のオープンシャツだ。
「何でもええ。三、四牧重ねれば」
 響子は真先に自分のブラウスを脱ぐ。続いて、吉生、勝夫、義一、建司がそれぞれに上着を取り、響子はそれを互いちがいに重ねて、いくらか幅の広い布をつくり、俯せになっている兼多の背中へ、そっとかぶせる。
「さ、兼多兄ちゃん――」
 しかし、兼多は、ぴくりとも動かない。
「どないしょう。死んでしもたんやろか」
 義一が心細い声を出し、
「縁起の悪いこと言いな」
 響子が叱りつける。
「けど、こなな血や」
 吉生が、真赤に染まっている河原の石を指さす。「まだ、あとから、あとから流れてるみたいや」
「――」
 言われて響子は、初めて気付いた。夥しい血だ。
 ――ひょっとして、兼多兄ちゃんは……。
 強い怖れが響子の全身を突き抜けた。
「兼多兄ちゃあん」
 響子は大声で呼んだ。肩を掴まえて揺さぶった。
「動かしたらいかん。血が余計噴き出るかもしれんやないか」
 吉生が注意した。
 響子は慌てて手を引っこめた。しかし何となく心許ない。
「な、吉生ちゃん。兼多兄ちゃん、もう、呼吸《いき》しとらへんみたいとちがう?」
「どないしょう。医者遅いな。おれ、見て来る」
 祐一は、そこにじっと座っているのが辛いらしく、堤の上へ上っていく。顕子は草の上にぺたんと尻を落して、ぼんやりした顔でみんなの動きを眺めている。
「兼多兄ちゃん、兼多兄ちゃん」
 吉生は這いつくばって脇から覗きこむ。兼多の身体に触れないようにして様子を確めている。
「やっぱ、おかしい。勝夫、そっちゃからも覗いてみい」
「ああ」
 勝夫は青い顔で首を振る。
「こっちゃからは、顔中血塗れで、よう見えん。もう、全然、呼吸しとらん」
「引き起してみよか」
「いやや。おれ、怖い」
 そのとき、突然、顕子が立ちあがった。
「あんたら、いつまでもぐずぐずと、何しとるん?」と脱いだサンダルを指先に引っかけ、一人一人の鼻先で振ってみせた。
「ふっ。あんたらの目、どこについとるん。この男、とうに死んどるやないか」
「顕子姉ちゃん――」
 響子は思わず激しく怒鳴ってしまう。
「そのひとが分らんの。兼多兄ちゃんやないの」
「誰が?」
 顕子は、にやっと笑う。
「これは、な、うちを暴行しようとした男や。よって、殺してやったん、な」
「響子――」
 吉生が叫ぶ。「やっぱ、もう、死んでる」
「嘘吐け!」
 堤の上にいた祐一が駈け降りて来る。「そんなはずあるかあ、そんなはず――」と慄えながら肩を揺さぶる。
「兼多さん。兼多さあん」
 すると、兼多の身体が、ぐらりと仰向けになる。
「……」
 みんなは一斉に息を呑む。
「響子、どないしょう」
 吉生が悲痛な声で叫んだのをきっかけに、唇を噛みしめて兼多を見ている響子に取りすがって、小学生たちは、わあっと声を放って泣き出す。
「これが兼多兄ちゃんてか。は、は、は」
 いきなり顕子が笑い出す。仰向けに転がって空を掴んだ兼多の身体の周囲をぐるぐる廻りながら、いつまでも笑い止めない。
「これが兼多兄ちゃんてか。は、は、は」

 響子は、その夜から原因不明の高熱を発した。熱は三十九度八分まであがり、翌日になっても下らなかった。
「そりゃ、大変なショックでしたでしょうからねえ」
 兼多の通夜の帰りに、おばあと連れになったからと、田代先生が見舞いに寄った。田代先生は、すっかり目を泣き腫らしていて、おばあと二人、ぐったりと上り框に腰を下ろして動かなくなってしまった。響子の見舞いもあるが、誰か兼多に縁のあるひとと一緒に居て、兼多の話をしていないと落着かない様子だった。
 おばあは、ろくろく口も利けない状態だった。
「因果なことよの。因果なことよの」と繰り返すだけだった。
「長戸はんは、弱っておいでたやろな」
 響子の母親は田代先生とおばあに茶を掩れながら、どちらへともなく訊ねた。
「顕子さんが昂ってしまわれてなあ。坊川のおばあさんが家へ連れて帰ろうとなさるのやが、手に合わんので、長戸のお父さんが顕子さんを殴られて…‥」
 田代先生は遠慮がちに模様を語る。おばあは、いちいち頷いて大きな溜息をつく。
「ほんに、もう地獄や。わしは、明日のお葬式、とてもやないが、堪忍《かに》してもらいます。お父さんと、あんさんとで頼みます」
「……」
 響子の母親は言葉もなく頷く。葬式好きのおばあが、自分から欠席を申し出るのはよほどのこ
とだ。
 響子は、丸二昼夜うなされた。熱が下るとそれを待っていたように生理が始まった。大量の出血だった。
「初潮から一年くらいは不順でも心配は要りませんよ」と医者は言った。しかし響子は、自分の身体の変化が自分で掴めなくて怯えた。夥しい血は、兼多の身体から流れ出した血を連想させた。
 微熱になってから、響子は夢を見た。一日のうちに幾度も同じ夢を見て、はっと飛び起きた。いや、厳密には同じ夢ではないかもしれないが、目覚めのときの雰囲気が、毎回、全く同じなのだ。
 夢には色んなひとが立ち現われた。吉生、斉、勝夫、建司、義一、それから例の三人組に牛小屋の照やん。不思議にみんな男の顔だ。先ず、男の顔が近付いて来るのだった。初めのうちはそれが誰か分らない。ただ非常に息苦しい。響子自身も息苦しいが、向うも、はあはあ喘いでいる。それから、どっと身体が重くなる。男にのしかかられていて、撥ねのけようとするのだが、下半身が鉄のたがを嵌められているみたいに全く動かない。
「いやよ、何すんの、吉生ちゃん――」
 思わず声を挙げて、そのとき、初めて、のしかかっているのが吉生だとか、斉だとか、分るのだ。分るけれども、分ったとたんに、のしかかっていた雰囲気はすうっと遠ざかりもう一つの顔が現われる。いつからその顔はそこにいたのか。彦多だ。響子は、声をかけようとして、喉に大きな塊りがあがって来る。言葉が出ないで、呻き声みたいになる。
「兼多兄ちゃんが死んでしもうた……」
 しかし、目の前の彦多の顔は何も言わない。ただ悲しそうに首を振る。首を振られると、響子も言いようもなく悲しくなる。どうしていいのか、分らない。ただそうやって、睨みあうのではない、何かを訴えあっているふうな気分になったとき、現われた顔が、はっきり兼多の顔に変るのだった。
 兼多は、あの河原での空を摘んだ死人の顔で、しかし、どこから出て来るのか、情無い、泣き出しそうな声で、
「響子――」と言う。
「あ、兼多兄ちゃん、生き甦《かえ》ったの」と叫ぼうとして目が覚める。
 目覚めのあと、響子は必ず泣いた。泣き寝入りして、また同じ夢を見た。
 熱が治まった翌日、響子は、自分が全く変ってしまったように思った。どこが、どんなふうに変ったか、自分では明瞭に掴むことはできないが、いま自分がいる世界は、あの事件が起る以前に自分がいた世界とはちがう、そのことだけは確かなのだった。
 響子は堤を歩いていた。身体が軽いように思えた。本当は軽くなんかはないのだ。最近は胸が膨らんで歩く度にたぷたぷと揺れる。腰廻りも何だか大きくなったみたいだ。もう少年のように野山を走ることはできそうにもない。それだのに軽い、それが不思議だ。
 響子は周囲を見廻した。風に薄っすらと色がついていた。何色とは言えない色だが、そのために夜久村が清冽な香気を発しているように見えた。
 響子は立ち停まった。風早山の稜線がくっきりと紫色に際立って、その向うに立夏の空が涯てもなく広かった。瀬ノ端から柚原、笠方へかけての一望の麦畑。麦の穂の鋭い青さ。ところどころ休耕のげんげ田は掘り返され黒土が陽光に輝いていた。苗代では薄緑の稲の芽がふき出たばかりだ。氷見川の流れは、きらきらと眩しい。魚が跳ねているのだろうか。時折水面が硝子のように割れて光る。
 響子は、しばらくのあいだ、ぼんやりとその場にたたずんでいた。自分がどこか遠いところからやって来て、初めて夜久村を見ている、そんな感じだった。
 ――ひょっとしたら、うちは、夜久村でなんか生まれてないのかもしれん。
 そう思うことは、自分が現在の父親と母親の子であると確かに信じていることと少しも矛盾しなかった。女の子は村の者《もん》やない、預りもんやでの、といったおばあの言葉とも繋がっている何かだ。
 もちろん、自分はどこから来たのだろうかという問いに答はない。安隆寺村だとか、隣町だとか、そんなものではない、もっと別の場所からやって来たのだとだけは分っている。熱にうなされていたあいだに、夢を見続けていたあの不思議な体験のあいだに、響子は自分がどこからかやって来た、その場所へ行って来たような気がするのだった。丁度、去年の夏の終りに、さあっと一刷け、風早山から西の山へ大きな魔法の手が動いて消えていった蝶や蝉が、もうすぐ前と同じ形で再び現われるように、うちもあの熱病のあいだにさあっと消えて、また同じ恰好で現われて来たのではなかろうか。

 兼多の葬式が済んで二週間ばかり経った朝、氷見川の鮎の生簀《いけす》のところに三十糎くらいの細い棒が挟まっているのを、釣に出掛けた根岸の村の爺さんが見つけた。
「ふだんは、そななとこ覗きもせんのやが、あと三日で解禁やで、ちょこっと様子を見よとてな」
 夜久村では一風変った鮎漁がある。一本釣は毛針で、これは他所と同じ方法である。友釣をやる習慣はない。変った鮎漁というのは氷見川が杉谷川と合流する二百米程手前の低い滝を利用する。滝といっても岩の組合わせが複雑な場所で、二、三段に分れた大小不揃いの段差が十数個集まって、小さな滝の集まりをこしらえているだけのことだが、ここへ五月に入ると若鮎がのぼって来る。低い滝なので若鮎たちは難なく乗り超えて更らに上流へ遡るのだが、なかには運の悪いのがかなりいて、跳ね損ねて、複雑な岩場に落ちてまごまごする。岩場の直下には生簀が仕掛けてあるので、まごまごして流れながら、なかに滑り落ちる。生簀は解禁の五月十日に仕掛けられるが、ふだんは固定さすための枠が置いてあるだけだ。細い棒は、その枠と岩のあいだに、突き刺さった形で流れついていたのである。
 爺さんの見るところ、棒は古いもので、欅か何かで、彫刻がしてある。顔と胴体の関係から立像のようである。
「はあ、これは観音さんじゃ。東向きさんじゃ」
 爺さんは慌てた。早速、瀬ノ端の観音講のおばあたちが集まって来た。おそるおそる晒の布に包んで堂の階段に立てかけた。線香に花、饅頭に甘夏みかんなどが供えられ、使いが西法寺へ走った。
「ふうむ」
 西法寺の法印さんは観音像を見て唸った。
「大分、さま変りなされたの」と扇子をぱちり、ぱちりと鳴らした。
「兼多が死ぬと、観音さんが帰って来なはった。何ぞの因縁でっしゃろか」
「そやなあ」
 法印さんは否とも応とも言わず、観音像を手に取って眺めている。
「やっぱ、兼多は、観音さんの罰《ばち》が当ったんでっしゃろか」
「いや、観音さんは罰を当てはることはないの」
「……」
 響子のおばあは、そのときまで俯いて黙っていたが、はっと顔をあげた。
 ――観音さんは罰を当てはることはない。したら兼多は……。
「死ぬちゅうことは、遅かれ早かれ、誰でもの定めやでな。罰やない」
 法印さんは、おばあの顔を見た。
「……」
 おばあは落着かなかった。あのような死にかたをした兼多が可哀そうでたまらず、それをどんなふうに言えば法印さんに解ってもらえるか、と唇をもごもご動かした。
「兼多は哀れじゃが‥…」
 法印さんは、おばあの心のうちを見透したふうに頷いた。
「兼多を哀れに思うのは、こっちの裁量《さいりょ》での。観音さんは、どななふうに量《はか》らわはったか、わしらには知れんことじゃ」
「……」
「とにかく、はやばやとお帰りあった。これでおばあたちの十八日の観音講が、また弾むぞ、なあ」
 法印さんは笑った。
「はいな。やっぱ、御本体が無いと、なあ」
 福館のおばあがみんなの顔を見廻し、深間のおばあが浮き浮きと合槌を打った。
「そら、なんぼ、観音さんがお出かけで、いつかは戻らはると知れてても、留守にお供えもんをするのは甲斐がなかったでの。わしは、いつもの半分しか供えなんだ」
「へえ、ちゃっかりの」
 荒瀬のおばあが頓狂な声を挙げ、おばあたちは一斉に笑い崩れた。おばあたちは東向きさんが帰って来て、嬉しくてたまらないのだ。
 やがてお経が始まる。
 響子のおばあは、法印さんの真後ろに座ったが、釈然としない。東向きさんは、何となく前の東向きさんではないみたいだ。法印さんもそれを知っているような気がする。
 おばあは目を閉じる。
 おばあが響子くらいのやんちゃ娘だった頃、坊川の家に主《ぬし》みたいにして暮していた爺《じい》やが九十三で死んだ。死ぬ前の日、おばあを枕許に呼んで、お嬢ちゃん、頼みや、と言う。爺やは、もうじき死ぬよって、爺やの呼吸《いき》のあるうちに、滝の生簀の観音さんにお供物をあげて来てくれ、と手を合わす。滝の生簀に観音さんが居やはるん? と訊ねると、川をよう遡《のぼ》りきらんで人に食べられてしまう運の悪い若い鮎を、可哀そうなもんやのう、と観《なが》めてくれはる観音さんが水のなかに居やはるよって、それへさして、吊橋の上からお米を撒いて来てくれ、爺やは生簀から引き揚げた若い鮎を売って暮して居りましたでな、後生が悪いで、毎月一回、観音さんの日にお詣りしとったが、もう、今日は行かれん、代参をな、と手を合わされた。爺やに頼まれたお米を撒いて帰って来ると、ああ、おおきに、これで心おきのう、彼岸《あっちゃ》へ行けます、この世のことは、この世で観音さんに応えておかんとな、と、あとはぶつぶつ呟きながら眠ってしまった。爺やは、それから翌朝死ぬまで、ずうっと眠りっぱなしに眠って、一度も目を覚まさなかった。
 おばあはお経が終ったあと、それを法印さんに話そうか、どうしようか、迷った。それで、他のおばあたちが西の山へ通じる四つ辻のところで法印さんにお辞儀をして別れたあとも、一人、ぼんやりと道に立っていた。
「――」
 法印さんは歩きかけて、立ち停まった。何ぞ用かの? というふうにおばあを振り返った。
「……」
 おばあは口ごもった。あれは鮎の観音さんではないか……と言うつもりだったのに、全く別の言葉が出て来た。
「わしには、どうも、先の東向きさんと、今度の東向きさん、何やら、ちがうように思えてなりまへんが……」
 法印さんの表情が、ちょっと真剣になったが、すくいつもの笑顔に返った。
「ふうむ。ちがうと言えば、ちがうが、同じと言えば同じぞ」
「はあ」
「あのな、おばあ。観音さんは現われなさるときは色々なお姿でな。わしらは色々に出会うが、元は一つぞ。案じることはない」
「……」
「思うにな……」
 法印さんは、ちらっとおばあの顔を見た。
「東向きさんが、どこぞで鮎の観音さんの代りをしたはるんや。それで鮎の観音さんが東向きさんになって上って見えたの」
「さいな。その通りでおますな」
 おばあは思わず叫んで、大きく二度、三度頷いた。法印さんは鮎の観音さんのことを知っていた。そう思うと嬉しくなった。
「兼多が彼岸《あっちゃ》へ行って、鮎の観音さんに申し送りしたな、それに違いない」
 法印さんは笑った。
「したら、兼多は――」
 おばあは自分でもびっくりするくらい弾んだ声を挙げた。
「したら兼多は、浮ばれとりますな」
「浮ばれいでどないする。あなな可哀そうな者《もん》の」
 法印さんは涙ぐんだ。
「はいな。はいなあ」
 おばあは泣き声を押えるのに必死だった。
 響子は東向き観音堂の階段に腰かけていた。ここに来るのは、実に久し振りのことだった。
「東向きさんが戻らしゃったでな、兼多のために拝んで来なはれ」
 おばあが線香とお供えの甘酒饅頭を持たせた。「本尊さんの扉は、開けようと思たら開くが、お供えはなかへ入れるでないぞ。扉の外へ置きなはれや。お下りを鳥たちが待って居るでな」
「……」
 響子は黙って立ちあがった。おばあは不安だったのか念を押した。
「心得とるんかいの。お下りを鳥たちが食べてくれることも、兼多の後生のためになるんぞ」
 響子は振り返っておばあの顔を見た。
「ごしょうて、何?」とぼんやりした声で呟くように訊ねた。
 おばあは答に詰った。「一言では言えんがの」と首を振ったが、響子のこれまでにない無表情に出会って何となくたじろいだ。いつもの響子なら、ここでどうしてもおばあの答を聞こうと、きらきら目を輝かせていたのだが、今日はちがう。そんな答はどうでもよいが、一応質問しているだけだという顔つきにも見えるし、答をすでに知ってしまっている顔にも見える。
「兼多は、あなな死にかたをしたでの……」
 おばあは響子の心を傷つけぬよう、言葉を選びながら喋る。「今度は、きっとええとこへ生まれ変って来るにちがいないがの、残っとる者で供養して、それを願うてやらねば、のう」
「兼多兄ちゃん、生まれ変るん?」
「ほいな、誰でも生まれ変るぞ。人間になるとは限らんがな」
「ふうん」
 響子はじっとおばあの顔を見た。おばあが嘘を言っているとは思えなかった。
「兼多兄ちゃん、今度生まれ変るとしたら、人間でない方がええな」
 響子は言った。
「……」
 おばあは驚いて響子の目を覗きこんだ。響子の目は、遠くをみつめていた。
「そう。人間やのうて……蝶……蝶がええなあ」
 響子の視野に去年の黒い揚羽蝶がゆっくりと飛翔して来た。今年の揚羽はまだ現われないが、間もなくだろう。そのなかに兼多兄ちゃんが混っていると思いたい。
 響子は東向き観音堂に腰かけて、堂の周囲に植えられている躑躅《つつじ》の蕾の大きさを確めていた。躑躅の花が開き始めると揚羽蝶が現われることを響子は知っていた。黒揚羽は躑躅の花が好きである。鬼百合が咲くまでは、長いあいだ躑躅を目当てにどこからともなく飛来し、鮮かな朱の花から花へと、黒い大きな翅を翻えして飛び廻った。
 ――兼多兄ちゃん、きっと、もうすぐ生まれ変って来る……。
 響子は心に念じた。いつのまにか縁から下りて、堂の前にひざまずいて東向きさんに祈っていた。
 そのときだった。遠くから、ゆっくりと歌声が近付いて来た。
「ねんねこほーい、ねんねこよ。
 おきてなくこは、おににやろ」
 顕子だった。顕子の声は調子はずれで、少し悲し気だった。調子はずれの歌を歌いながら観音堂への道を歩いて来る。
 ――顕子姉ちゃんもお詣りに来たんやろか。
 顕子はあの事件以来、自由に村うちを歩いていても、男たちの玩弄者《もちやそびもん》になることはなくなった。兼多の霊が憑いとるようで顕子と遊ぶ気がせんの、というのが、村の若い衆のおおかたの意見だった。
「顕子姉ちゃん」
「……」
 顕子は、はたと歌い止めて、陽光のなかに立ち疎んだ。恐しいものを見るようにじっとこちらを窺った。
「あ、響子」
 それから、にっこり笑った。顕子は例によってちぐはぐに眉を描き、歯まで真赤に染まるくらい口紅を塗りたててはいたが、気持は比較的平静なのか、淋しそうな表情をしていた。
「響子も、東向きさんへ、逢いに来たん?」と、幾分舌にもつれる口の利きかただ。顕子から、こんなふうな甘えた様子を示されたことのなかった響子はどぎまぎした。顕子は遠くをみつめるふうに、ぼうっと焦点の合わない目をあげた。
「うちは、ここへ来て、彦多に逢うのん」
「彦多兄ちゃんに?」
 響子は胸の奥が、どきっと大きな音をたてて軋んだ。
「そう。彦多――」
 顕子は、その名前を懐しむように丁寧に発音し、もう一度にっこりした。
「彦多は、うちのために死んだんよ。響子、知っとるでしょ」
「……」
「ほら、響子かて、一緒に見てたでしょ。彦多は、うちのために、自分で自分の胸を刺して死んだんよ」
「……」
「彦多に会いたかったら、東向きさんへ行けや、て、教えてもろた」
「誰に?」
「兼多兄ちゃん」
「ふうん。そうな、そうなあ」
 響子は頷いた。涙がこぼれそうになった。
「兼多兄ちゃん、どこに居るん?」
「家に居るよ。奥の部屋に、一日座っとる」
「ふうん。そうな、そうなあ」
「響子――」
 顕子はずいと手を伸ばした。一瞬、真剣な目になって、お供えものの甘酒饅頭を掴んだ。それから、一つを二口くらいの早さで次々と呑みこんだ。
「あ、顕子姉ちゃん、喉に詰るえ」
「――」
 しかし顕子は水も呑まず、平気な顔でその十個の饅頭を全部平らげてしまった。
「東向きさん、堪忍え」
 響子は手を合わせた。しかし鳥が食べても顕子が食べても、同じように東向きさんは許してくれるような気はしていた。
 顕子に庚申塚のところで別れてから、響子は吉生に逢った。吉生は週番の襷をかけて、学校帰りだった。遠くから響子の姿を認めて早足になって来た。
「中学の前を通ったら、三人組の透に出会うたぞ」
 響子は黙っていた。あれから、出来るだけ三人組に出くわさないよう、中学の前はよそ見をせず急ぎ足で通り過ぎている。そのせいか、以来、一度も逢っていない。
「透が一人だけで歩いてたぞ」
 吉生は、もう一度駄目を押すように言って響子の反応を窺うふうだった。
「それが、どしたん」
 響子は冷淡に言った。
「三人組は解散したんやて」
「ふうん」
「響子ちゃん、元気してるか、て訊ねよった」
「……」
「熱が出たんやてな、見舞いに行きたかったけど、おれが行ったら須田の家では塩を撒くやろし、遠慮した、言うてた」
「……」
 吉生は黙っている響子の顔を、そっと横目で偸み見た。道端の小石を強く蹴った。小石は傍らの苗代田へ転がりこんだ。
「あ」
 吉生は苦笑した。走って行って、屈みこむと苗代田から小石を取り除いた。響子は立ち停まって、吉生が道へ戻って来るのを待ってやった。
「堤を通って帰らん?」
「……」
 吉生は不審そうに響子の顔をみつめ、それから急いで頷いた。堤を通るのは廻り道だ。しかし響子は何となく川を見ながら歩いて帰りたくなったのだ、と言った。
「三人組の透な……」
 響子が大股で歩いて行くので、吉生はそれに合わそうと、慌てて小走りになりながら呼吸を弾ませた。「透な、きっと響子が好きなんや。な、そうとちがうか」
「……」
 響子は答えない。何故か、透や三人組のことなど、もうどうでもよいような気持になっている。風早山で一緒に歌を歌ったことも、ひどく遠い昔の出来ごとのようで、そんなこと、無かったようにさえ思えて来る。
 響子は深呼吸した。周囲の空気を胸いっぱいに吸いこんで、吐き出した。身体が、ふっと軽くなった。
「見よし。川がきれいや」
「……」
 吉生はじっと響子を見た。とっさに、響子が何を言っているのか、理解できない様子だった。
 河原から爽やかな風がさっと吹いて響子の髪を捲きあげた。風に吹かれて、響子の髪は炎のように舞いあがった。吉生には、響子の舞いあがった髪の向うの空が川に見えた。青い水のなかで髪が激しくうねって、響子をそのまま川底へ連れ去るように思えた。
 響子は川上の風早山から川下の安隆寺村の方までをずうっと見渡し、もう一度、
「きれいや、な」とにっこり笑った。
「うん。きれいや」
 吉生は合槌を打ったが、川よりも、川と一つになった響子がきれいに見えたのだった。
 陽は僅かに西の山に傾きかけてはいるが、日没にはまだ一時間以上もある。日中の陽ざしよりは弱まり、しかしまだ夕焼の赤さには及んでいないこの時刻、川の面が一日のうちで最も青く冴えて見える。この冬は奥の山に雪が多かったせいか、水量も豊かである。川はいま、巨大な一本の透明な硝子の管のように曲りくねって、夜久村を貫いて流れている。
 静かだった。水音以外は何も聞こえなかった。
「……」
 響子は、いっぱいに目を瞠った。何も聞こえないけれども、この夜久村の野山からは、さまざまな音が湧き出ているような気がした。目を閉じるのではなく、目を瞠いていると、山も空も足許の虎杖《いたどり》も、いっせいに揺らいで、音のない楽曲を奏しているのが分るのだ。
「あ、揚羽――」
 突然、吉生が大声を挙げた。
 指さす方を見ると、一羽の開張十四、五糎の真黒な蝶が、ゆらゆらと川を越えて来るところだった。
「おれ、今年、初めて見た」
 吉生が興奮した声で言い、響子は深く頷いた。
 ――あれは兼多兄ちゃんだ。
 しかし口には出さなかった。
「東向きさんの躑躅さして飛んで行くな」
 吉生が言った。
「うん。東向きさんさして飛んで行く」
 響子は応えた。
 蝶は堤の上で一度高く空へ舞いあがり、それから、すうっと地面すれすれまで下りて来て、再び舞いあがり、ゆっくりと光のなかへ溶けて行った。

注:ルビは《 》で表示。(例)徒歩《かち》。