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フェミニズムの帝国

村田基



   第一章

 思いもかけない残業だった。
 広い玄関ホールにはまったく人気がない。厚いドアガラスの向こうには、すでに濃い闇が降り立っている。
 木下いさぎは、靴音を響かせてホールを一直線に歩いた。かすかなうなりを立ててドアが左右に開く。外へ踏み出す。冷えた外気が、ほてった頬に快い。
 玄関の両側を、研究所直属のたくましい警備員が固めている。一人がちらりといさぎを見やり、おや、男か、という顔をした。
 通りには人影はほとんどない。建ち並ぶビルも、窓の明かりを消して、闇の中に溶け込んでいる。ぽつりぽつりと設けられた街灯が、路上にぼんやりとした光を投げかけているだけだ。
 いさぎは普段まったく残業をしないから、闇に包まれた街路を見るのは久しぶりだった。
 ちょうど研究所の前を、一台のおんぼろ車が通りかかった。今にも壊れそうなへんなエンジン音を立てながら、のろのろと通りすぎていく。いさぎは、警備員がそれを真剣な目つきで見送っているのに気づき、少し緊張した。
 このごろ治安状態が悪化し、ことに夜になると危険だといわれる。

 いさぎは足早に駅へと向かった。
 警備員の目の届かないところまでくると、急に不安になり、周囲に目を配りながら歩いた。
 十月の初めにしては、風が肌を刺すように冷たい。
 だが、いさぎは寒さを感じるどころではなかった。歩くに従い、心の中の屈辱感と腹立ちがしだいに熱く燃えさかってきたからだ。
 今日の午後三時、いさぎは上司の秘書課長から、経理課への配置転換をいい渡された。それも、明日の朝から経理課で勤務できるようにというのだ。
 そんな突然の人事異動は前例がなかったし、緊急に異動すべき理由があるとも思えなかった。
「どうしてですか」といさぎは課長に食ってかかった。「なにかぼくに落ち度でもあったんですか」
 課長は、大学時代バレーボールの選手だったという長身の三十三歳の女性だ。
「落ち度とか、そういうことじゃないのよ」
「では、どういうことなんですか」
「研究所としての方針。それだけよ」
「理由を教えてください」
「いちいち教える必要はないわ」
「どうして教えられないんですか。それでは納得がいきません」
「あなたには関係ないことよ」
 なおもいさぎが食い下がり、押し問答を繰り返していると、課長は突然声の調子をぞんざいにして「あのね」といいながら、椅子を回していさぎと向き合い、少しスカートを引っ張っておもむろに足を組んだ。そして、乳房を突き出すように胸を張り、悩ましい目つきでいさぎの目をのぞき込んだ。
「いい若い男の子がそんな聞き分けのないことをいうんじゃないの。これはちゃんと上のほうで考えて決めたことなんだからね。男らしく素直に従いなさい。わかった?」
 その悩ましい視線から逃れようと目を伏せると突き出した胸があり、さらにスカートのすきまから太股の奥のほうまで見えそうになって、いさぎはどぎまぎした。
「いえ、あの、従わないとかじゃなくて、できたらわけを聞かせてもらえないかと」
「まだそんなことをいってるの。かわいくないわよ。あなたはいくつだったっけ」
「二十四。先月なったばかりです」
 課長は膝小僧がさらに高くなるよう深く足を組んだ。ふくらはぎの肉が横にふくれる。いさぎはますます居心地の悪い思いがした。
「もうそろそろ結婚でしょう。今のうちから男を鍛えて[#「男を鍛えて」に傍点]おかないと、結婚してから困るわよ」
 それから男の生き方に関する説教になり、おとなしく聞いているうちに、強く主張できない雰囲気になってしまって、結局理由がわからないまま異動させられることになった。仕事の引き継ぎをし、経理課のほうに机を用意してもらって、私物をまとめて運んだりしているうちに、こんな時刻になってしまったのだ。
 いさぎは、課長のやり方に改めて腹を立てた。「あのね」といったのをきっかけに、突然課長から女に変身したのだ。部下を押さえ込むのに女であることを利用するなんて……実にきたないやり方だ。
 いさぎはそう腹立ちを覚える一方、相手に女を感じたとたんにうろたえて、なんでもいいなりになってしまう自分自身が情けなくてならなかった。
 配置転換の通告を前日にするなんて、どう考えても不当だ。だが、組合だって、いさぎのような若い男のことには真剣に取り組んでくれないに決まっている。
 自分の靴音だけがうつろに響く。夜遅いビジネス街はほとんど無人の街だ。
 紙切れが風に吹かれていさぎを追い越していく。印刷された文字が読めた。

  たくましい男は美しい

 男性解放運動のビラだ。そういえば、今日の昼間もデモがあった。
 たくましい男は美しい――この、言葉はいさぎの胸に響いた。いさぎは別にスポーツもしないのにたくましい体をしていて、小さいころからずっと劣等感を憶えてきたのだ。
 この言葉が時代の価値観になればいいのに――。
 このところ男性解放運動がかつてない高まりを見せていた。世紀末になったということが、人々の意識に微妙な変化を与えているのかもしれない。
 今年は西暦二一九八年。二十二世紀もあとわずか三年だった。
 だが、まだまだ世の中の大勢はかわらない。社会のあらゆる実権は女が握っている。
 男は結婚して家庭に入り、家族に尽くすのが義務とされる。二十五歳をすぎても結婚しない者は、ハズレ者といわれて世間からつまはじきされ、まともな職にはつけず、水商売などに従事して生きるしかない。
 ハズレ者がいる分、結婚できない女もいるわけで、それはアブレ者といわれて、欲求不満のため粗暴になった。
 このごろハズレ者とアブレ者がふえてきており、それが治安の悪化した理由だった。
 ハズレ者になるほどの覚悟のない普通の男は、女にかわいがられなければ生きていけない。そのためには、おとなしく素直でなければならないのだった。
 いさぎがそうして悔しさをかみ殺しながら駅に向かって歩いていると、「助けて」というかすかな叫びが聞こえた。ちょうどいさぎが通りがかったところの横道からだ。
 いさぎは立ち止まって、耳をすました。だが、もうなにも聞こえてこない。気のせいだったのだろうか。
 その横道は三メートルくらいの幅で、なだらかに下へ傾斜していっている。まったく明かりがない。表通りの街灯の光がわずかに差し込んでいるその向こうは、まさに漆黒の闇だ。
 このあたりはビルが雑然と建っていて、狭い道が入り組んでいる。
 いさぎは一人で入っていくのにためらいを覚えた。周りを見回してみるが、かなり後ろに、男と思われる人影がひとつ見えるだけだった。
 ここから奥に向かって大きな声で呼びかけてみるか。あるいは、なにも聞かなかったことにしてこのまま通りすぎてしまうか。あるいは――。
 いさぎは足音を忍ばせて横道に踏み入った。
 必ずしも真っ暗なわけではない。星明かりもあるし、ところどころにビルの入口の外灯や非常灯がともっている。ということは、自分の姿も見えてしまうわけだ。いさぎはいっそう足音を忍ばせた。
 両側は、四、五階くらいの小さなビルばかりで、大部分は老朽化している。廃ビルも多いはずだ。ビルとビルの間の、人ひとりがやっと通れそうなすきまは真っ暗で、いかにも気味が悪い。
 かすかな話し声が聞こえた。
 声の調子からは異常なものは感じられないが、いさぎは警戒をゆるめず、その声のほうへと接近していった。しだいにはっきりと聞こえてくる。女の声だ。二、二人いる。
 見えてきた。ビルの裏側の非常階段の下だった。三人の女がうずくまってなにかしている。
「ズボンは全部脱がせないの。そう、そこまで。そうすれば暴れられないでしょ」
「こわがらせちゃだめよ。やさしくするのがこつなんだから。あんたももうちょっと力をゆるめて。さ、やってごらん」
ごそごそと一人が動く。
「こんなのでいいの?」
「そう、その調子。もっと動きに変化をつけて」
 それからしばらく沈黙。
「ほらね」
「こんなに」
「もっと大きくなるわよ」
「ほんとだ。すごい」
 くすくす笑い。
「簡単でしょ。男なんて、すました顔してても、みんなこんなもんよ」
「最初はわたしだからね」
 男が一人、押さえ込まれていた。三人がかりでレイプしようというのだ。
 いさぎは自分がレイプされているような怒りを感じて、思わず「やめろ」と声を出してしまった。
 三人はびくっとし、いさぎのほうを見た。いさぎはじっと立っていた。三人が逃げ出すかもしれないというかすかな期待は裏切られた。二人がこちらに向かってきた。残った一人は男を押さえている。
 こちらに向かってくる二人は、固太りの体をしていて、とりわけ腕と肩がたくましい。年は三十代か四十代。暗くてはっきりしないが、凶悪な雰囲気を発散させている。アブレ者に違いない。
 いさぎはあとじさった。表通りからかなり入り込んでいた。逃げても逃げ切れそうもない。
 二人は何度も周りを見回して、いさぎ一人だと見きわめをつけたらしい。
「飛んで火に入る夏の虫とはこのことだわね」
「けっこういい男じゃない」
 二人はいやらしい笑みを浮かべながら、ゆっくりと近づいてきた。いさぎは自分の愚かさを激しく悔やんだ。大声を出して助けを呼ぼうと思った瞬間、その気配をかぎとってか二人はいっせいに飛びかかってきた。
 まず口をふさがれた。口をふさいだ女は後ろに回り、もう一方の腕でいさぎの首を絞めた。もう一人の女はいさぎの胴に抱きついた。
 いさぎはなんの抵抗もできなかった。体に力が入らない。恐怖で体がこわばっているのだ。そのままずるずると奥へ引きずられた。
 そのとき、鈍い衝撃があって、胴に抱きついていた女がすっ飛び、ビルの壁にたたきつけられた。
 いつのまに現れたのか、一人の男が立っていた。その男が女を蹴ったのだ。
 後ろからいさぎの首を絞めていた女は、いさぎをほうり出した。いさぎは路上に転がった。
 その女は男にゆっくりと向かっていった。自信のある動きだった。男に負けるわけがないと思っている。だが、そこに油断があったのかもしれない。男がくり出したパンチがもろに女の顔面をとらえた。さらに一発。そして、脇腹に渾身の力を込めた蹴りが入った。女は一瞬体を浮き上がらせてからどっとコンクリートの路上に落ち、苦しそうに体を丸めた。
 いさぎは倒れたまま、信じられない思いでそれを見ていた。こんな強い男がいるなんて――。
 ビルの壁にぶつけられた女が体勢を立て直し、それに、さっきまで男を押さえつけていた女も加わって、二人して男と向き合った。今度は女たちも警戒している。
 男はかなり背が高く、やや細身ながら強靭な筋肉を秘めた体つきだ。表情は暗くてわからない。二人を前にして、ただじっと立っている。
 勝負はあっけなくついた。一人の女が先に行動を起こしたが、男はそれをかわし、そのあとは、男のこぶしと靴先が女たちの肉にめり込み、骨を打つ音が響いて、二人の女はたちまち路上に転がっていた。
 いさぎはのろのろと起き上がった。状況がうまく把握できない。
「大丈夫か」と男はいった。
「ええ」
 いさぎは自分がほんとうに助けられたことがわかって、安心してズボンの汚れを払った。
「どうしてこんなところに入ってきたんだ」と男はいった。
「助けてという声を聞いたんです。そこで誰かが襲われていて――」
 いさぎは非常階段の下を見たが、レイプされかかっていた男はすでにいない。
「そういえば、一人向こうのほうへ逃げていったな」
 女の一人がうめき声を出した。
「そろそろ起き上がるな。その前に退散するか」
 いさぎは男と肩を並べて歩きながら、助けてもらったことの礼をいった。
 表通りに出た。相変わらず人通りはない。
 街灯の光のもとで改めて見ると、その男は、いさぎがこれまでに見たこともないような独特の雰囲気をもっていた。
 背が高く、骨太で、筋肉質で、肌は浅黒い。顔の造作も精悍なものを感じさせる。こうしたタイプは一般に、劣等感からくる暗さをもっているものだが、彼の場合はそれがまったくない。むしろ自信に満ちているように見える。
 年齢は三十歳前後というところだろう。だが、背広もネクタイもしていない。灰色のジャンパーに枯れ草色の厚手のズボンをはいている。ただのハズレ者ではなく、男性解放運動をやっている者だろう。
 男も駅のほうへ行くらしく、二人で並んで歩き出した。
「おれは氷上ただしというんだ。お前は?」
 いさぎは「おれ」という言葉にショックを受け、うろたえた。
「ぼ、ぼくは木下いさぎです」
「このごろアブレ者は凶悪になる一方だからな。注意したほうがいいぞ。なんだってこんな時刻になったんだ」
「ちょっと残業があって」
「男でも残業させられるのか」
「今日は特別なんです」
「どんな仕事をしているんだ」
 配置転換になったので、一瞬どう答えるか迷った。
「普通の事務です」
「男が働くのはなにかとたいへんだろう」
「ええ」
「たいした仕事はさせてもらえないし、結婚すればそれまでだからな」
 そのとき、いさぎはふと不審に思った。なぜどこに勤めているかとたずねないのだろう。
 考えてみれば、この氷上ただしという男はなぜあそこまで助けにくることができたのだろう。おそらくあのとき後ろのほうに見えた人影がこの男だったのだろうが、「助けて」という叫びはあそこまで聞こえなかったはずだ。
 もしかすると、いさぎが研究所を出たときからあとをつけていたのではないだろうか。
 氷上はそれからもいろいろ話しかけてきたが、むりに猫なで声を出しているような感じがある。いさぎはあいまいな答えを返して、話に乗らなかった。
 やがて氷上は話しかけるのを諦め、しばらく沈黙のまま二人は歩き続けた。
 だが、助けてもらった恩義もある。今度はいさぎのほうから話しかけた。
「氷上さんはとても強いんですね。まるで女みたいだ」
 氷上は笑った。
「女みたい、か」
 いさぎはばかにされたような気がした。
「だってそうでしょう。三人もやっつけるんだもの」
 氷上はいさぎの体をじろじろと見た。
「お前だって、その気になればあれぐらいの女には負けないんだぜ。力はお前のほうが強いはずだ」
「まさか」
「ほんとうさ。おれがけんかのしかたを教えてやろう」
 また「おれ」だ。この男はいったいどういう育ちなのか。
 おれというような下品で荒っぽい言葉は、あまり育ちのよくない男が、よほど腹を立てたりしたときに使うくらいだ。もうほとんど死語と化している。その言葉を氷上はどうやら常用しているらしい。
「要するに、皮膚と皮膚が接触しないようにしてやればいいんだ。組みつくのもだめだ。ひっかかれたり、かみつかれたりするからな。だから、殴るか蹴るかだ。ただし相手の顔は殴らないように。おれはいつも手袋をしているからいいが」
 氷上は手を見せた。目立たない肌色の手袋をしている。
「相手の顔面を攻撃したいときは――すぐ近くに寄られたときなんかそうだが、こうやって(と彼は動作をした)肘で打つんだ。肘なら服で守られているからな。こぶしで殴るのなら相手の服を着た部分だが、ま、効果があるのはみぞおちぐらいだ。あと、ここ、レバーだな。しかし、ある程度離れているのなら、殴るよりは蹴るほうが効果がある」
 それから彼は、型を示しながら説明した。硬い靴をはいていればつま先で蹴ればいいが、そうでないとつま先を痛める恐れがあるので、足の甲で蹴る、正面に向かって蹴り上げる場合は足の裏を使う、といった具合だ。
 実に熱心な口調で、彼は本来の自分に返ったようにいきいきとしている。
 いさぎはとまどいながら聞いていた。なるほどさっきのようなこともあるから、護身術として知っておいたほうがいいのかもしれないが、やはり男としてそんなことはとてもできないと思う。
 だが、氷上という男には、ある種の好意を感じた。
 けんかするのも、おれという言葉を使うのも、ここまであっけらかんとしてやられると、なんだかそれでいいような気がしてくる。
 いさぎは氷上に興味を感じて質問してみた。
「氷上さんはメンズ・リブの運動をやっているんですか」
「ああ」
「どんな主張なんです」
 男性解放運動といってもひとつではなく、過激派から穏健派まであり、その主張もさまざまだった。
 男も結婚後も働けるようにという主張がだいたい中心になったが、男の家事労働に正当な報酬を、というのもあれば、妻の暴力に苦しむ夫を救済する運動、男もスカートをはく運動などというのまである。
「お前はメンズ・リブに興味があるのか」
「ええ、本も何冊か読みました」
「どう思った」
「だいたいは同感です。男の中には、社会に出ても女性に負けずにやっていく能力のある人もいるわけですから、結婚後だって働いてもいいと思うんです。もちろん家族に迷惑をかけず、あくまで男らしさを失わない範囲で――」
 いさぎは、隣にいるのが男らしさのかけらもない男であることを思い出して、口をつぐんだ。
「そういう本には肝心なことが書いてないと思わなかったか」
「肝心なこと?」
「ああ。要するに、なぜこんなふうに男は女に支配されちまったのかっていうことさ。昔は男のほうが支配していたことは知っているだろう」
「ええ。でも、それは二百年以上も前のことでしょう」
「ああ。だが、それにしても完全に逆転するなんて、おかしいと思わないか」
 いさぎは考え込んだ。
 二百年前までは男性が社会の実権を握っていた――それは常識だし、学校の教科書にも書いてある。理由もちゃんと説明されていた。
 それは時代の価値観がかわったからだというのだ。
「近代」という時代は二十世紀末に終わり、二十一世紀からは「後近代」となった。このふたつの時代は、価値観の変化によって区分される。つまり、近代とは生産力、資源、財産など物質的なものに価値が置かれた時代であり、後近代とは愛情という精神的、情緒的なものに価値が置かれるようになった時代である。この移行は、一応の物質的豊かさが実現し、人々が精神的に成熟したことで達成された。
 そして、価値観の変化に伴って男女の役割が交代した。男姓は、愛情の源泉たる家庭で中心的役割を担うことになり、一方女性は、妊娠・授乳期に休職するだけで、あとは家計のささえ手として外で働くことになった。
 もちろんそうしたことは氷上も知っているはずだ。
「どういう意味ですか。時代がかわって価値観が変化したから、男が家庭に入るようになったわけでしょう?」
「それじゃあ、まるで男が望んで家庭に入ったみたいじゃないか」
「違うんですか」
「もちろん違う。望んで入ったならメンズ・リブなんか必要ないだろう」
「それは、だんだん女が横暴になってきたから」
「どうして横暴になってきたんだ」
 いさぎは少し考えて答えた。
「結局、経済力を握った女性が優位に立って、男女に上下関係が生じてきたからでしょう」
「そうだ。だがな、男が家庭に入った以上、そうなるに決まっている。昔の男にもそんなことがわからないはずがないだろう」
 いさぎは考え込んだ。
「真相は別にある」
「真相?」
「ああ。男はむりやり家庭に押し込められたんだ。二十一世紀の前半にな。それからの百五十年で、その真相はしだいに歴史の表面から消されていった」
 氷上はジャンパーのポケットから白い小冊子を取り出した。
「これを読んでみな。すべてがわかるから」
 いさぎは受け取った。
 表紙も裏表紙もなにも印刷されていない。表紙をめくると、そこに表題らしいものがあった。

  男性差別の起源
   ――男はいかにして弱い性にされたか――

 本文は細かい文字でびっしり埋まっていた。
 いさぎは一番最後のページを見てみた。普通の奥付けにあるようなことは書かれていない。ただ発行所として、

  「男はおれだ」運動推進本部

 とある。
「『男はおれだ』運動ってなんですか」
「『男はおれだ』というのがおれたちのスローガンなんだ。お前はおれという言葉をどう思う」
「どう思うって、ま、あまり品のよくない言葉ですよね。どうしても男らしくない」
「だがな、昔は男らしい言葉だったんだ」
「えっ? あ、そうか、二百年以上前の男らしい″ですね」
「そうだ。昔は強くて荒っぽいことが男らしいことだったんだ。そして、そうした男らしい男たちは、好んでおれという言葉を使った。だから、今の男も、おれという言葉を積極的に使うことで、そうした昔の真の男らしさを取り戻そうというわけだ」
 いさぎは一応うなずいたが、自分がおれを使うなどとうていありえないことに思われた。もし家や職場で使ったら、みんなどれほど驚き、あきれ、眉をひそめることだろう。
 駅が見えた。駅前はさすがに開いている店もあり、人もいる。といっても、女ばかりだが。
 道路に座り込んでいる酔っぱらいが声をかけてきた。
「よう、兄ちゃん。二人でホモってないで、あたしと遊ばないか」
 氷上がその女を鋭い目で一瞥した。女はびっくりして、興醒めした顔になった。
「でも、そうやって男が強くなっていったら、男も女も区別がなくなって、世の中がへんなぐあいになるんじゃないですか」
「男が男らしくなった分、女は女らしくなるさ。もちろん本来の女らしさ、という意味だが」
 いさぎは頭の中で、本来の女らしさ″をイメージしてみた。
「つまり今の男みたいに、おとなしく素直になるというわけですか」
「ああ」
「それはむりでしょう」
 今の女がそんなふうになるわけがないではないか。
「むりではない。昔のような男性優位社会を実現させれば、女は男に頼らないと生きていけなくなる。当然従順になるさ。むりにも従順にするんだ」
 いさぎはあっと驚いた。これはとんでもない過激派なのだ。
 メンズ・リブといっても、たいていは男性の地位をなんらかの形で改善しようとするものだ。完全な男女平等を目指すという考えは、もっとも過激な思想とされてきた。「男はおれだ」の思想はそれ以上になるわけだ。
 思想信条の自由は一応あることになっているが、男性の場合、社会問題に関心をもったりするのはそもそも歓迎されない上、過激な思想をもっているとなると、公然と迫害される。まともな職場にはいられないし、まず結婚もできない。
 いさぎは白い小冊子を手にしたままとまどった。こんなものをもっていると、どんな誤解を招かないとも限らない。
 しかし、くれるというものを突き返すわけにもいかない。いさぎはあわててショルダーバッグの中にしまった。
「どこに住んでいるんだ」と氷上は聞いた。
「千葉のほう……」
 いさぎはあえてはっきりいわなかった。この男とはこれ以上かかわらないほうがいい。
 駅のすぐ前にきた。
「じゃあ、おれはここで失礼する。気をつけて帰るんだな」
 氷上は意外とあっさりいった。
「どうも、ありがとうございました」
「そのパンフレット、読めよな。もしおれたちの運動に興味がもてたら連絡してくれ」
 彼は、新宿歌舞伎町の「まろうど」という店にくれば連絡がとれるといった。
「じゃあな」というと、氷上は軽やかに走り出し、ぐんぐんスピードを上げて都会の闇の中に消えていった。
 いさぎはそれを見送りながら、なんとも名状しがたい感慨を覚えていた。
 それは一種の爽快感だった。
 いさぎは小さいころからずっと――男は誰でもそうだが――男は男らしくということを、ことあるごとにいわれ続けてきた。まるで男らしくなければ生きていけないみたいに。それがあざやかにひっくり返されたのだ。目の前の実例によって。
 いさぎは改札を通り、プラットホームで電車を待った。
 待ちながら、バッグの中の小冊子のことを考えた。こんなものを読むと、過激な思想に染まって人生が狂ってしまうのではないだろうか。
 いさぎはまずまずの学校を出て、就職も総合医学研究所という一流のところにできた。これまでの人生にはなんの汚点もなく、育ちのよい男として、かなりの縁談も望める立場にある。ここで踏み外してしまってはばからしい。
 このままホームのくずかごに捨ててしまおうか――。
 だが、なにが書いてあるのか知りたいとも思う。彼のいった真相″とはなんだろう。
 そういえば、いさぎはこれまで何冊かのメンズ・リブの本を読んで、いつもなにか本質的なことが書かれていないという歯がゆさを味わってきた気がする。
 電車がホームに入ってきたとき、読むぐらいはかまわないだろうと結論を下した。
 いさぎは電車に乗り込んだ。電車は高架の上を走った。窓の外には、東京の市街が黒く不気味に広がっていた。

   第二章

 電車は高架の上を、単調な振動音を立てながら走っていた。
 朝の鋭い光が、窓ガラスのくもりをきわだたせて、車内に差し込む。
 車内は互いに体がふれ合うほどに人が詰まっている。みな物憂い表情だ。朝の通勤電車は、けだるい空気で満ちている。
 いさぎは吊り革につかまり、眠気をこらえながら本を読んでいたが、どうにもつまらない本で、集中できない。
 本から顔を上げると、窓の外に、東京の市街が薄汚れた灰色に染まって広がっている。
 いさぎは昨夜読んだあの小冊子の一節を思い出した。

 もし二十世紀末期の人間が、タイムマシンに乗って今の時代へきたとすれば、ほとんどなんの進歩も見られないことに驚くであろう。女の時代の二百年は、まさに停滞の二百年であった。

 確かにそれはいえている。いさぎは多少歴史の知識をもっているからわかるが、この二百年、人々の暮らしぶりはそれほど変化していない。実際に二百年前の人間がタイムマシンできたとしても、たいして違和感なく生活していけるだろう。男女の役割が交替したことを別にすれば。
 目立った変化といえば、都会の景観だろうか。多くの建物は老朽化し、薄汚れて、灰色に見える。人目を引く、斬新で華やかな建物といえば、結婚式場くらいだ。
 二十世紀末の映像記録によれば、当時の東京は、近代物質文明最後の華やぎに満ちていて、色とりどりの広告が街を飾り、とりわけ夜景は電飾の輝きに目もくらむばかりだ。現代では、広告はきわめて限られたものとなり、一部の歓楽街を除いては、夜になるとほとんどの明かりは消える。
 科学技術や経済力が停滞した理由は一応説明されている。二十世紀末からのエイズ大流行が原因だというのだ。
 エイズの流行は、二十一世紀の初めにワクチンが開発されたことで終焉を見たが、かなりの死亡者が出、その後も人口はなかなか回復しなかった。それが経済成長を妨げたというのである。
 また、エイズ流行時代に性道徳意識はかなり保守化し(それが人口が回復しなかった原因でもある)、そのことが人々の自由な発想を妨げ、科学技術の停滞を招いたとされる。
 ところが、あの小冊子の主張するところはまるで違う。女は単純作業の反復に耐える性質があり、男はつねに変化を求めて創造性を発揮するから、男が社会的に活躍できる世の中でないと停滞するのが当然だというのだ。
 これは危険な思想だった。女には創造性がないといっているわけで、女の反発を買うのはもちろん、家庭の中に生きがいを見いだそうと努力している男たちをも憤激させるに違いない。
 いさぎはショルダーバッグをそっと手で押さえた。中にあの小冊子が入っているのだ。
 昨夜は、眠かったので全部読まずに寝てしまった。
 前半の、男性優位社会こそ正しい社会のあり方であり、現在の状態は男女の本性に反するというくだりを読んだだけで、内容の十分過激なことがわかった。この分では、男性が弱い性にされた真相≠烽ゥなりショッキングなものに違いない。
 家に置いてこなかったのは、家族――とくに妹に見つかるといけないと思ったからだ。
 妹の千早は高校三年生になるが、このごろいさぎが二十四歳になってもまだ結婚しないことをしきりになじるようになった。学校で、お兄さんはいつ結婚するのかとよく聞かれたりするらしい。いさぎの本棚に男性解放論の本が何冊かあることも気にしているようすだ。もしこの小冊子を見つけられたら面倒なことになる。
 というわけで、その小冊子はバッグの奥深くしまい込まれ、その代わり手にして読んでいるのは、話題のベストセラーである『男の決断に関する十二章』という本だった。
 著者は有名な評論家で、もっぱら男の生き方に関する本を書いて、そのことごとくがベストセラーになっている。もっとも、いさぎも何冊か読んだが、題名と構成が違うだけで、内容はみな同じようなものだ。それでいてまた買ってしまったのは、題名に引かれるものがあったからだ。
「男の決断」というのはひとつの成句になっていて、男がプロポーズを受け入れることを意味する。
 女は比較的気楽にプロポーズする。断られてもたいしてこたえない。いさぎもこれまで、この年の男としては平均的と思われるくらいの数のプロポーズを受けてきたのだが、まさにこの「男の決断」が欠けていたわけだ。
 だが、読んでみると、やはりまったく新味がなく、うんざりすることおびただしい。どうしてこんな本がベストセラーになるのか不思議でならない。
 そう思いながらもずっと読むふりを続けているのは、右隣の女がしきりに体を押しつけてくるのを、本をもった右手の肘で防ぐためだ。
 右隣の女は、三十歳前後のひじょうに肉感的な女で、いさぎの苦手なタイプだった。腰は黒いタイトスカートがはち切れんばかりに張り、両の乳房は重力の法則を無視するように、薄いピンクのブラウスをもち上げてまっすぐ前方へ突き出している。顔は、目鼻の造作がやけに大ぶりで、肌は脂ぎっている。鼻から鼻毛が派手にはみ出している。その女が、車内の込みぐあいに比して、どう考えても不自然にくっついてくるのだ。右肘でつっぱっていると、その肘に乳房を押しつけてくる。相手に背中を向けると、体を重ねてくる。
 そのうち困ったことに、股間のものが硬くなってきた。前に座っている女に気づかれないよう、いさぎはショルダーバッグを体の前に回した。大き目のショルダーバッグを愛用しているのは、こういう効用もあるからだ。
 だが、右隣の女は、バッグで見えなくなったのをいいことに、手をいさぎの腿から、そして硬くなったものへと這わしてきた。いさぎは怒りで全身が熱くなる。声を立てていやらしい行為をあばき立ててやろうかと思うが、決断がつかない。いさぎは前に見たことがある。やはり電車の中で、若い男が女の手をつかみ、声を上げたところ、女がいい返したのだ。お前だって、おっ立ててるじゃないか。
 周りの女たちからひわいな笑い声を浴びせられて、男は真っ赤な顔をしてうつむいてしまった。今のいさぎも、怒りで頭に血が昇っているのに、下のほうにもさらに血が集中しているのだった。
「男の業《ごう》」という言葉が思い浮かぶ。
 いさぎはようやく思いを決し、むりやり人ごみに体を押し込んで、その場を離れた。だが、今度は四方からもみくちゃにされることになった。もちろん女ばかりだ。やはり不自然な、わざとらしい動きがある。いさぎは唇をかみしめ、身を固くして、じっと耐え続けた。
 いくつかの駅を経るうちに、しだいに車内に余裕ができてきた。いさぎの周りの女たちも、やっと体を離す。
 いさぎは呼吸を整えた。ズボンの中のものは、さっきからずっと硬くなったままだった。
 いさぎは唐突に、男はなぜズボンをはくのだろう、と考える。ズボンというのは、どう考えても、ペニスの存在を目立たせる服だ。興奮しているかどうかがすぐわかってしまう。まるで女を喜ばせるためにはいているみたいではないか。
 スカートならば――いさぎはスカートをはいたことはないが――そんなことはないに違いない。
 そう考えると、「スカートをはく男たち」と称する連中が、男もスカートをはく運動というのをやっているのも、そうばかにしたことではないかもしれない。
 いさぎは再び吊り革につかまった。やがて興奮も収まる。ほかにすることとてなく、また『男の決断に関する十二章』を読み出した。

 結婚前の若い男性とじっくり話をしてみますと、ためらいがちに性への恐れを口に出されることがよくあります。その恥ずかしそうな風情には、若い男性ならではの清潔な色気が感じられます。性のことをあけっぴろげに語ったり、結婚を前提としないで平気で体を許したりする男性は、少なくともまじめに結婚を考えている女性には、なんの魅力もないものだということを知っておいてください。
 さて、若い男性が性を恐れるのは当然のことですが、そのために結婚をためらい、婚期が遅れるとすれば、愚かなことといわねばなりません。結婚は男の幸せといいますが、この幸せのかなりの部分は性の歓びによっているのです。
 男性の性の歓びは、女性のそれの数十倍、数百倍であるといわれます。それは、体の違いを見ても明らかです。
 女性の体ときたら、ふくらんだ乳房、大きな腰、厚い皮下脂肪と、まったく実用本位にできています。
 それにひきかえ男性の体は美的に統一され、すべて女性に愛されるためにつくられたようなものです。用をなさない乳首があるのも、これが強い性感帯だからです。また、皮下脂肪が薄い分、愛撫にも敏感で、男性の体は全身これ性感帯といえます。
 そして、男は歩く性器だといわれるように、男性の体でなによりも特徴的なのは、ペニスがきわめて大きいことです。女性において解剖学的にペニスに相当するものをクリトリスといいますが、これはしばしばどこにあるのかわからないほど、小さな退化したものとなっており、この両者を比べるだけで、男性の性の歓びは女性のそれの数十倍、数百倍であるといわれることが納得いただけるはずです。
 女性器が体の中にあり、男性器が体の外に露出しているのも、男性が愛撫される性であるからです。
 いさぎは本から顔を上げ、窓の外を流れていく景色をぼんやりと眺めた。
 二百年以上前とはいえ、男性優位社会が存在したというのは、実に不思議に思える。
 当時も男性は性を恐れていたのだろうか。愛撫される側だったのだろうか。まさか体の機能がかわったということはあるまい。
「男はいかにして弱い性にされたか」という小冊子の題が思い出される。今夜は必ず読もうといさぎは思った。
 いさぎは四ッ谷駅で電車を下りた。人の流れに乗って勤め先へ向かう。
 昨夜女たちに襲われそうになった横道に通りかかるが、昼間見るとあたりまえの道でしかない。
 やがて研究所が見えてきた。
 正しくは国際総合医学研究所という。研究者数五千人余り、医学と生物工学を中心に、生理学、薬学、心理学など関連領域をカバーした研究所で、世界最高の規模と権威を誇っている。研究者は各分野の最高の頭脳として尊敬され、給与も破格のものが支給されていた。
 建物は、二十階建ての正方形になっていて、防疫と秘密保持のために建物への出入りは厳重に監視されている。
 建物の壁面はすべて真っ白で、採光と温度調節のための自動式ブラインドも同じ白。ブラインドが閉じると、壁全面が真っ白となった。自動式ブラインドが夜になるとすべて閉じるのは、照明効率をよくするためであるが、どの部門が夜も仕事をしているかを知られないためであるともいわれた。
 壁の白は発光しているような純白で、ボロ切れのようにくたびれきった街の中にあって、まっさらのワイシャツのように燦然と輝き立っている。白亜の殿堂とよく形容された。
 また俗に「女の城」ともいわれた。五千余人の職員のうち、男性はわずか五十人ほどだからだ。
 研究所は大きく研究部門と事務部門に分けられるが、研究部門はすべて女性である。五十人ほどの男性は、約半数がコンピュータ室にいて、あと受付、電話交換室、そして各課に配属されていた。男性はいわば職場の花であった。
 いさぎは正面玄関に向かった。朝日を浴びた白い壁が目にまぶしい。
 玄関の両脇には警備員がいて、入っていく人に鋭い視線を投げかけている。警備員は鍛えられたたくましい体をしていて、胸のふくらみも筋肉かなにかわからないほどだ。
 いさぎはすぐさま経理課へ行った。
 経理課は十二、三人いて、総務課と同じ部屋に入っている。
 経理課には、いさぎのほかにもう一人男がいた。若林みさおといって、いさぎの一歳下だが、短大卒なので職場では一年先輩になる。きゃしゃな体をしていて、女に好かれそうなタイプだ。
 まだ始業前だが、若林がお茶くみの用意をしていたので、いさぎは「手伝います」といった。
「いいよ。これはぼくがするから」
 親切というよりも、歓迎されていないのかもしれない。
「いえ、手伝います」
 いさぎは給湯室までついていった。そこで茶碗を洗っていると、昨日まで秘書課でいっしょだった岡崎がやってきた。彼は今日から電話交換室勤務なのだ。彼はいさぎにささやいた。
「知ってる? ぼくらのあとがまは二人とも女なんだ」
 岡崎はいつもトイレや給湯室でおしゃべりしていて、驚くほど情報通なのだ。
「じゃあ、ぼくたち二人を出して、代わりに女を入れたわけか。なぜだろう」
「もちろん、機密保持のためさ。男は信用ならないってわけ」
「どうして」
「そりゃあ、いろいろおしゃべりするから」といって岡崎はにやりと笑った。
 結婚すれば退職しなければならない男は、組織への帰属感が薄いから、組織の秘密も気楽に口外したりする。岡崎が情報通になれるのもそのためだ。
 所長室と秘書課は、研究部門との接点になっていて、全体的な動きがつかみやすいところだとはいえる。
「でも、なぜ今ごろ」
 岡崎は声をひそめていった。
「やっぱりLH計画があるからじゃない」
 いさぎはうなずいた。
 このところ、LH計画と称する大規模な研究プロジェクトが進行しているのだった。外国からもかなり研究者がきている。元来、所内の研究プロジェクトはすべて秘密なのだが、これに限っては動きが派手なので、いさぎや岡崎にもなんとなくわかってしまう。
 もっとも、内容まではわからないし、いさぎもそんなことを詮索するつもりはなかった。
 だが、こうなってはかえって知りたくなる。そんなに秘密にしたいこととはなんだろう。もしかして男に知られると困るようなことだろうか。
 そういえば、きのうの氷上もいさぎのあとをつけていたのかもしれないのだ。なにかをさぐっているのだろうか。
 それぞれの机にお茶を配ったところで始業となり、いさぎは課員全員に紹介された。そのあと、課長から仕事の心構えなどを説教され、仕事の具体的なことは、いさぎと机を並べている若林から教わることになった。
 課長は五十歳くらいの温厚な感じの人物で、まずは働きやすそうな職場と思われた。
 ところが、若林があまり仕事を教えてくれない。いじわるをしているということもあるようだが、そもそもあまり仕事がないらしい。
 男がするのはどうせ雑用的なことばかりで、いさぎがきたからといって二倍にふえるものでもない。
 しかたなくいさぎが机の引き出しの整理などをしていると、若林が机の上に置かれた本に目をつけた。紙カバーのかかった『男の決断に関する十二章』だ。
「それなんの本なの」
 いさぎは扉のところの表題を見せた。
「あっ、それ読みたかったんだ。読んだら貸してくれる?」
「今でもいいですよ」
「まだ途中なんだろう。読み終わってからでいいから」
「じゃあ、あしたにでも」
 ほんとうはもう読む気がなかったのだが。
 仕事に関係ないものを机の上に置いておいてはまずいかと思い、バッグの中にしまおうとした。
「大きなバッグだね。なにが入ってるの」
「ろくでもないもんばっかりです」
「その本はなに」
 若林は目ざとくあの小冊子を見つけた。
「それ、かわった本だね。なにも書いてなくて」
「ええ、まあ」
 いさぎはあいまいにごまかして、バッグを机の一番下の引き出しにほうり込んだ。
 そうしてまっすぐに座り直したとき、はっと胸をつかれる思いがした。部屋に所長が入ってきて、いさぎと目が合ったのだ。いさぎはあわてて目を伏せた。
 高原厚絵――三十代半ばの若さで国際総合医学研究所の所長になり、世間を驚かせた女性。マスコミにもしばしば登場し、その美貌と知性、人柄で人気を博している。夫と死別して現在独身中であり、さる男性雑誌の「結婚したい女」読者アンケートでは第一位にもなった。
 四分の一アメリカ白人の血が混じっているということで、軽くウェーブして肩にかかる髪は栗色、目も黒より少し茶色がかっている。顔立ちは整いすぎて冷たいようにも見えるが、おだやかな語り口とバランスがとれている。かなりの長身、のびやかな肢体。強さと美しさを兼ね備えたプロポーションだ。
 仕事の能力も、若くして所長になったことを十分に納得させるものだ。いわゆるやり手くささがまったくなく、いさぎは、真に自信ある人間とはどのようにふるまうのか、高原所長をみて初めてわかった気がした。
 いさぎが秘書課に配属されてから、所長への尊敬が高まって、恋心と区別がつかないものになるまでに、そう時間はかからなかった。
 いさぎがきのう配置転換をいい渡されたとき、思わず反発したのも、所長の近くにいられなくなるということがあったからだ。
 思えば、身のほど知らずのことではある。いさぎはごく平凡な家庭の息子で、まるっきりつり合わない。
 今日の高原所長は、ライトブルーのスーツを着ていた。部屋に入ってきた瞬間に、部屋の空気がまるでかわってしまう。総務課長と二言、三言やりとりすると、再び部屋を見渡してから出ていった。
 秘書課にいたときは、しょっちゅう姿が見られたし、事務的ながら言葉を交わすこともあった。だが、これからは、こうしてたまに姿を見るくらいだろう。
 そのほうが自分にとってはいいのだろうと思う。もう夢を見るのはやめて、真剣に結婚を考えなければならない年齢なのだ。
 昼休み近くなって、いさぎは課長に呼ばれた。
「木下君はいくつだったかしら」
「二十四歳です」
 さらにつけ加えた。
「先月なったばかりです」
 若い男性の年齢はきわめて重要だ。二十四、五歳では一か月刻みの問題になってくる。
「結婚の予定はあるの?」
「いいえ」
「まるっきり?」
「ええ」
「そう」と課長はわざとらしく顔をしかめた。「あなたのお父さまは、確か英雄でいらっしゃったわね」
「はい」
「英雄の息子として、恥ずかしくないようにしなければね」 いさぎはしおらしくうなずいた。
 英雄の息子――この呼び名はいさぎの人生につきまとってきた。一人英雄が出ると、その家族はみな、英雄の父、英雄の母、英雄の妻、英雄の兄弟姉妹、英雄の息子、英雄の娘になる。だが、中でもいちばん重みがあるのは、英雄の息子だ。英雄の息子は英雄になるものと期待される。いさぎはこれまで、その期待の重みを感じながら生きてきたのだ。
 もっとも、得をした面もある。この研究所に就職できたのも、英雄の息子ということがあったからに違いない。
「男として生まれたからには、やはり英雄になりたいでしょう。だったら、結婚は早ければ早いほどいいのよ」
「はい」
「経理には独身が三人いるんだけど、天野さんはこの前婚約したから、あとは畑さんと角田さんだけね。気に入った人がいたら、わたしにいいにいらっしゃい。うちの課でなくてもいいのよ。誰でもわたしから話をしてあげるから」
 いさぎは赤面してうつむいた。課長の机の横で話をしていて、みんなにも聞こえているのだ。
 課長の話はそれだけだった。
 仕事のことなどどうでもいいようだ。どうせすぐに結婚で退職すると見なしているのだろう。
 それならそれで適当にやろうといさぎは思った。
 どうせあの課長の下なのだから。
 人に結婚を勧める者にあまり有能な人間はいないというのが、いさぎがこれまでの経験からえた智恵だった。
 まもなく昼休みになったが、いさぎの気持ちはなんとなく重かった。「英雄になる」という言葉がひっかかっているのだ。
 結局、男の人生というものは、すべて英雄になるということを中心に組み立てられているといっても過言ではない。
 男は結婚すると、妻にかしずき、子どもの世話をし、親の介護をする。それは愛に基づくものである。男がそうして愛をひたすら追求していき、至上の境地に達すると、〈男の花道〉と称する死が訪れる。
〈男の花道〉とは、病気の概念を超えたもので、病気でない病気″といわれた。相手のすべてを許し、受け入れる――そういう精神の働きとしての愛がついに身体に及んだものだというのだ。
 そして、〈男の花道〉で死んだ男は、至上の愛を体現した者としてほめ讃えられ、英雄と称する霊的存在として、ますらお神社に祭られた。
 老年にいたっても〈男の花道〉で死ねなかった者は、生き恥をさらしたとしてさげすまれた。
 英雄になることこそ男の最高の名誉であった。
 生きるという本能を超えて英雄を目指す――それこそが、女に決してまねできない、男の崇高な生き方であるとされるのだ。
 そうした価値観に背を向けて結婚しないと、ハズレ者としてさげすまれることになる。これは、本人のみならず家族、親戚にとっても不名誉なことだった。
 なぜ男にだけそのような死があるのだろうと、いさぎも疑問をもつことがあったが、男と女は本質的に違うのだといわれ、愛の神秘″とか男の崇高さ″という言葉で飾り立てられると、そんなものかと思ってしまう。
 二十六歳になってまだ未婚だと即ハズレ者の烙印を押されてしまう。いさぎの猶予はあと二年足らずだった。
「きゃっ」という悲鳴がした。若林が、食事が終わって雑談している女たちの横を通るとき、お尻をさわられたのだ。
「なにするんですか」
 若林は女の一人に文句をいった。
「わたしじゃないわよ。こちらよ」
 その女は隣を指差す。
「うそばっかり。こんないやらしいことするのは、畑さんに決まってます」
「わたしがいつこんなことをした」といいながら、畑といわれた女はまたお尻にさわろうとした。
「もー、いや」
 若林は身をかわすと、もっていたバインダーで畑を殴るふりをし、さらに騒ぎを大きくした。
 若林の声は、いつもよりトーンが高い。
 男として当然のことだった。
 だが、いさぎはなかなか男らしくふるまうことができなかった。自分があの立場に立たされたら、まるで女みたいに怒ってしまうかもしれない。
 やがて騒ぎは収まり、若林は隣の席に戻ってきた。
 女たちの雑談は、婚約中の天野をめぐる話になった。
「しかし、天野さんが婚約するとは思わなかったわね。独身の中でいちばんアブレそうな感じだったもの」
「おあいにくさまね」
 天野というのは、小柄で色が白く、どことなく気弱な感じがある。あまり出世しそうにないタイプだ。
 出世しそうにない女は当然アブレやすい。
「相手はどんな人なの」
「わたし知ってる。すっごくかわいい」
「そんなことないわよ、第一、わたしより背が高いの」
「でも、スマートだからいいわよ」
「いくつなの」
「二十五歳と三か月」と天野はちょっと悔しそうにいった。
「やっぱり、それぐらいが狙い目ね」
「そうよ。畑さんは若いのばっかり狙うからだめなの。男はみんな二十五になると目の色がかわるからね」
「だって若いほうがいいもの」
「そんなぜいたくいってちゃアブレるわよ」
「みさおちゃんはいくつで結婚するの」と突然若林のほうに質問が飛んだ。
「ぼくですか。いい人がいればいつでもいいです」
「だったら、畑さんと結婚しておやりよ」
「えー、そんな」
「そうよ、それがいいわよ。これでここから、アブレ者もハズレ者も出さなくてすむんだから」

「そんなあ」といいながらも若林は、はっきりとした否定の言葉は口にしない。実に男らしい態度だ。
「木下君はどんなタイプが好きなの」
 太った年配の女がいさぎにいった。確か蓑田という名前だ。
「ぼくですか。やっぱりやさしい人ですね」
 いさぎはいつもこう答えることにしていた。
「女はやさしいだけじゃだめなのよ。仕事ができなきゃ」
「女がやさしくないほうが、男は英雄になりやすいっていうわね」
「そうよ。だから、やさしくない女を選んで結婚するぐらいでなきゃ立派な男とはいえないわけよ。
 妻としても、夫にはきびしくするのが愛情というものなの。わかった? 天野さん」
 天野はあいまいな笑みを浮かべた。
 蓑田はさらにいった。
「どうも頼りないわね。亭主ってものはね、最初の教育が肝心なのよ。最初にガツーンとやっとかないと、すぐつけ上がるんだから」
「そうですか」
「そうよ。亭主は殴って教育せよって、昔からいうじゃない。わたしの知っている人なんかね、新婚第一日目の夕食のときに、料理の味が濃すぎるといって、全部つくり直させたの。そしたら次の日は最初から全部薄味になってるのね。そしたら、きのうみたいな濃い味のにつくり直せというの。夫が文句をいったら、バーンと殴りつけて、妻に口答えするな」
「それはあんまりだわ」
「でも、それですっかり男らしくなったって。だいたい男って理屈だけは達者じゃない。だから、世の中は理屈通りいかないし、気分だってその日によってかわるということを教えとかなきゃいけないのよ」
「そう、そう。うちの亭主なんかも、理屈をよくいうのよ。前にいったことと矛盾しているとか、それは科学的でないとか。そういうペースにはまったらだめよ」
 いさぎはいたたまれない思いになり、そっと席を立って部屋の外に出た。
 トイレに行く。中に男が四、五人いた。鏡を見ながら化粧を直している者もいる。いさぎは化粧はしない。
 岡崎もいて、いさぎのそばにきてささやいた。
「管理部ってね、やっぱりスパイみたいなことやってるんだ。外部の組織を使って、秘密保持のために職員を監視しているんだって。とくに研究者はそうとう監視されてるみたいだよ。情報管理っていう意味で管理部っていうらしい」
「へえ」といいながらいさぎは、岡崎を電話交換室に配置転換したのは、機密保持の上ではマイナスだったに違いない、などと思った。
 管理部というのは、人相の悪い女が七、八人いるだけの妙なところで、いさぎと岡崎は前に、なんの仕事をしているのだろうと話し合ったことがあるのだ。
「だからね、今度の異動も武田部長の発案じゃないかな。このところよく所長室に出入りしていただろう」
 いさぎは思わずうなずいた。
 管理部の武田久子部長というのは、うさんくさげな雰囲気をもっていて、いさぎは好きでなかった。
 前日に通告するという強引なやりかたは、いかにも武田部長のやりそうなことに思われた。
 それから、なぜそんなに秘密が外部にもれることを恐れるのだろうかと考え、ふと前からいだいていた疑問を口にした。
「この研究所って、権威とか規模の割に、あんまり成果が上がっていないと思わない?」
「そう?」
「これだけ第一級の研究者を集めて、たくさんの経費をかけているんだから、もっとはなばなしい新発見とかがあっていいんじゃないかな。ぼくは就職して一年半だけど、この間にマスコミに出たような成果ってとくになかったし、考えてみると、過去にもほとんど記憶にないんだよね」
 いさぎはここに就職できたことを誇らしく思って、そうしたことに注意していたのだ。
「いわれてみるとそうだね。でも、医学ってここまで進歩すると、新発見なんかめったになくなるんじゃない」
「そうかな」
 いさぎはまだ釈然としなかったが、それ以上いうのはやめた。
 それから、みんなとほかの職員についてのうわさ話をした。
 昼休みはたいていこうだ。男同士だと、むりに男らしくふるまうこともないから、つい気が楽になって、いろんなことをしゃべってしまう。
 昼休みが終わるぎりぎりに自分の席に戻った。
「なにかやることありますか」と隣の若林に聞いた。
「そのまま待ってて」
 若林の声は驚くほど冷ややかで、いさぎはとまどった。なにを待つのかと聞きたいが、拒絶する雰囲気がある。
 いさぎは周りを見回す。課員は普通に執務している。課長はいない。
 いさぎは憮然として、じっと待ち続けた。
 そのうち、本でも読んでやろうかと思ったとき、ひらめくことがあった。
 一番下の引き出しを開けて、バッグを取り出す。中を調べると、小冊子がない。
 いさぎは若林をじっとにらむが、若林はそしらぬふりで机の上にかぶさるようにして書類に書き込みをしている。
 いさぎは体が沈んでいくような不安を感じた。権威を重んじる研究所だけに、風紀の乱れにはきびしいものがある。あの小冊子は最大級の過激さなのだ。その運動にかかわっていると誤解されたら……。
 やがて課長が戻ってきた。
「木下君、武田部長がお呼びよ。管理部へ行きなさい」
 なるほどこういうのが管理部の管轄になるのか、と思う。
 いさぎは管理部へ行った。この部屋に入るのは初めてだ。
 中に武田部長はいない。女が一人いるだけだ。
「木下です。武田部長に呼ばれてきました」
 女はこちらも見ずに、面倒くさそうに親指で後ろのドアを示した。
 応接室がある。いさぎが中に入ると、武田部長がソファーに座って、あの小冊子を読んでいた。
「かけなさい」
 いさぎは部長の向かいに座った。
 部長はそのまま読み続ける。いさぎはじっと待った。
 武田部長は、四十代半ば、色が黒く、ずんぐりした体形。ぎょろりと大きい目が顔のバランスを崩している。唇も分厚い。首が極端に短くて、いつも肩をいからせているように見える。岡崎はブルドッグに似ているというが、いさぎはガマガエルのほうが近いと思う。
 部長は小冊子をテーブルの上に投げ出した。
「まったく胸くそが悪くなるねえ。これを書いたのはどんな男なんだ」
 いさぎがなにから説明しようかと迷っていると、
「あたしはね、男らしくない男を見ると、性根をたたき直してやりたくなるんだ」
 いさぎをじろっとにらむ。処世術として身についた恫喝的態度。
「あの、それは――」
「たいした想像力だわ。中には信じるやつもいるだろうね。経理課に移ったとたん、さっそくこれを読ませて隣の男を引き込もうというわけか。その当の男に密告されたんじゃ世話ないけど」
「それはたまたまもってただけなんです。きのうの夜、帰り道でもらって」
「ばかをいうんじゃないよ。英雄を冒涜する文書を街頭で配ってたというのかい」
「配ってたんじゃなくて――」
「所内に仲間は何人いるんだい。岡崎も仲間なんだろう」
「違います。ぼくの話を聞いてください」
 いさぎは声を張り上げた。部長は一瞬とまどい、次に不機嫌な顔になった。
 いさぎはかまわず、昨夜のことを順を追って語っていった。残業で遅くなったこと、レイプされかかった男を助けようとして逆に自分が襲われそうになったこと、一人の男に助けられたこと、そしてその男から小冊子を渡されたところまで話した。
「これを渡されたときは、危ないものだなと思いましたが、一応助けてくれた人ですから、突き返すのも悪いと思って受け取ったんです。でも、家には置いておけないし、機会を見て捨てようとバッグに入れたままにしておいたわけです」
 いさぎの話に真実味があったのだろう。部長は判断に迷ったようすだ。
「ぼくのことは入所のときに十分身元調査をなさったはずです。それに――」といさぎは切り札を出した。「ぼくは英雄の息子なんですよ。英雄を冒涜するような考えをもつはずがないでしょう」
 部長はいさぎの目をじっとのぞき込んでいった。
「これは読んだのかい」
「最初のほうをちょっとだけ読んでやめました」
 うそではない。
 部長は腕組みしてソファーの背にもたれ、考え込んだ。そして、目を細めて、いやらしくいさぎの全身を眺め回した。
「いいわけとしてはお粗末なものだわ。信じろっていうのはむりね。こうして証拠物件もあるんだから。でも、あなたがもう少し努力したら、話はかわってくるかもしれないわ」
 いさぎは、なにをいうのかと思って聞いていた。
「わたしがあなたは過激思想にかぶれていると判断したら、あなたはクビよ。でも、それだけですむわけじゃないわ。次に就職しようとしても、まずまともなところは雇わないわね。縁談にもさしつかえるわ。総合医学研究所のようなよい勤め口を辞めたなんて、誰でもわけを知りたがるでしょうからね。反対に、わたしがあなたのいうことを信じたら、あなたはこのまま勤められる。ここに勤めているというだけで、縁談もかなり有利になるはずよ」
 部長はじっといさぎの目を見た。
「わたしのいうことがわかるわね」
 いさぎはじっとしていた。
「今日仕事が終わったら、クイーンホテルのロビーにいらっしゃい」
「どうしてですか」
 部長は立ち上がって、そして、いさぎの隣に座った。
「だから、わたしを信じさせるのよ」
 部長は肩をくっつけ、いさぎの膝の上に手をはわせた。
「わかるわね」
 いさぎは目の前が暗くなるほど考え、そして答えた。
「わかりません」
 部長はじろっといさぎをにらみつけた。
「よく考えなさい。自分の将来がかかっているのよ」
 部長はいさぎの耳もとでささやき、手を握った。
「なにもこわいことなんかないんだからね」
 いさぎは握られた手をふりほどこうとした。そのつもりだった。だが、実際にはいさぎの肘が部長の顔面に、突き上げるようにして当たった。かなりの衝撃だった。部長はソファーから転がり落ちた。
 部長が起き上がろうと四つんばいになったとき、緑の絨緞の上にぼとぼとと赤い血が――鼻血が落ちた。
「よくもやったわね」といいながら部長は立ち上がった。
 血を見てすっかり動転してしまったいさぎは、あと先を考えずに応接室を飛び出し、管理部の部屋を抜けて廊下へ出た。誰もいない廊下を走るが、どこへ行けばいいのかわからない。とにかくトイレに入り、個室の中から鍵をかけ、便座に腰を下ろして、やっと息をついた。
 それから一人で考え続けた。悔やまれることばかりだが、あれしかなかったような気もする。氷上からけんかのしかたを聞いたことが頭に残っていて、あんなことになったのだろう。それにしても、男が女を殴り倒したなんて一大スキャンダルだ。みんなに知られたらどういうことになるだろう。これからどうすればいいのだろう。
 いさぎはようやく結論を下して、個室から出る。鏡で顔を見ると、青ざめたみじめな表情になっている。なんとか表情をとりつくろって、経理課へ戻った。
 課長の席の前に行く。
「研究所を辞めさせていただきます」
「部長にそういわれたの?」
「いわれませんけど、同じことです」
 課長はちょっと首をかしげた。
 いさぎは自分の席に戻り、私物の整理を始めた。きのうと同じことをしていることに気づき、一日よけいだったと思った。
 課長は部屋を出ていった。
 いさぎが私物を整理している間、若林はいさぎのほうをまったく見なかった。いさぎは若林にはほとんど腹が立たなかった。そんなことより、自分のこれからが問題だった。
 課長が戻ってきていった。
「もう一度武田部長のところへ行ってきなさい」
「いやです」
 課長は驚いた顔をした。
「どうして? 辞めるにしても、するべきことはきちんとしたほうがいいわよ」
「どうしてもということなら、ここで会います」
 課長は困惑の表情を浮かべた。
「いったいなにがあったの。部長はずいぶん怒っておられたけど」
「説明するほどのことではありません」
「とにかく、部長がこいとおっしゃってるんだから、さ、いっしょに行きましょ」
「いやです」
 課長はしばらくためらったが、いさぎの決意の固さを見てとって、また部屋を出ていった。
 やがて戻ってくると、一枚の用紙を差し出した。
「部長のほうはもういいから、これを書きなさい」
「退職願」とある。不当な気もしたが、とにかく書いた。
 課長はその用紙をもって出ていき、誰かに渡したのだろう、すぐに戻ってきた。
 私物はすぐまとまった。こんな際だから、終業時までいる必要はないように思うが、なんとなくためらっていると、課長の机の電話に所内通話が入った。「はい」と答えた課長は、いさぎにいった。
「木下君、所長室に行きなさい」
 なにが起こるのかわからなかったが、いさぎとしてはもう開き直った気分だった。
 所長室には所長一人だった。大きい重厚な机の向こうに座っている。この時刻、自動ブラインドは開いていて、薄曇りの淡い光が、所長の背後から差し込んでいた。
 いさぎは机の正面に立った。
「なにかご用でしょうか」
 白いシルクのブラウスは上のボタンが外れていて、鎖骨の浮き出ているところまで見える。
「あなたはほんとうに過激派組織に属してスパイ活動をしていたの?」
 意地を張っても見破られる気がしたし、所長にはほんとうのことをいいたかった。
「いいえ、違います」
「武田部長はそういっているわ」
 いさぎは黙っていた。
「なにがあったの」
 いさぎは説明するかどうか、ためらった。
 所長はいさぎの顔をじっと見つめ、そして立ち上がると、室内にある応接セットのほうへ歩んだ。
「そこへおかけなさい」
 いさぎは所長と向かい合って座った。
「どうしてそんなことになったの」
 いさぎは、信じてもらえなくてももともとと思い、なにもかも話す気になった。
 まず過激派の小冊子をもっていて見つかったことを話し、次に小冊子をもらった昨夜のいきさつを話した。そして、武田部長との話し合いの場面になった。
「その話を信じてもらいたかったら、今日仕事が終わったらクイーンホテルのロビーにこいといわれました」
「それで?」
「断りました。そしたら、ぼくが座っている横にきて、手を握り……ぼくはそれをふり払おうとしたんです。ところが、いやだという気持ちが先に立って、肘が部長の顔にあたって――」
「あたって――」
「部長は椅子から転がり落ちて、そして、鼻血が出て……」
 それまで真剣に聞いていた所長の顔に笑みが浮かんだ。
「それは、あたったなんてものじゃないわね」
「すみません」
 いさぎは真っ赤になって、うつむいた。
「なるほど、武田部長がなんの説明もせずにあなたを過激派だと決めつけるから、おかしいとは思ったの」
「信じていただけるんですか」
「もちろんよ。上司に肘打ちをくらわせたなんて、つくり話とは思えないわ」
「ぼくが過激派でないことは?」
「もしあなたが過激派でスパイ活動をするつもりなら、部長の誘いに乗っていたでしょう。それに、部長があなたを誘ったということは、たぶん部長もあなたを信じたのよ」
 いさぎは所長の鋭い見方に、思わずうなずいた。
「あなたは辞める必要はありません。わたしから指示しましょう」
「ありがとうございます」
 いさぎはどんなに感謝してもし足りない気持ちだった。そして、こうして所長と向き合って二人だけでいることが、しみじみと幸福に思われた。
 いつも感じることなのだが、所長の体からは、なにかきらびやかなものが放射されているような気がする。今それを自分一人で受け止めているという喜び――。
「あなたはいくつだったかしら」
「二十四歳と一か月です」
「結婚の予定は?」
「まるっきりありません」
 今日この会話は二度目だ。若い男はこうして圧力をかけられる。
 だが、所長はなにか真剣な目でいさぎを見ている。いさぎは若い男らしく、恥じらって面を伏せたが、胸にほのかな希望がきざした。
「お父さまは確か英雄でいらっしゃったわね」
「はい」
「いつお亡くなりになったの」
「ぼくが五つのときです」
「じゃあ、記憶はあるのね」
「ええ。でも、もうほとんどベッドから出られない状態でしたけど」
「男らしいかただったの?」
 いさぎは瞬間的に判断した。英雄になった男はつねに「男らしい」という言葉でたたえられるが、そういう建て前の答えを求めているのではないのだ。
「母の話を聞くと、必ずしもそうでなかったようです。母があんまり女らしくないところがあって、似合っていたんじゃないでしょうか」
「お母さまはあまり男らしさや女らしさにこだわらないかたなの?」
「そうですね。平気でずっと家事をやってきましたし、ぼくを黙って大学に行かせてくれましたから。おかげでぼくはほとんど家事をしていないんです。妹にいわせると、うちは男と女が逆で、そのためぼくは男らしくならないんだそうです」
「ある程度女らしい男のほうが魅力的なものよ」
 いさぎの希望はふくらんだ。もしかして所長はいさぎに好意をもっているのではないか。
 だが所長は、唐突な感じで質問した。
「子どもは好き?」
「ええ」
「赤ん坊を見て、かわいいと思う?」
「ええ。ぼくのいとこの子どもでまだ一歳にもならない赤ん坊がいるんですけど、この前抱かせてもらって、ほんとにかわいいなと思いました」
 所長はうなずき、なにごとか考え込んだ。
 どうも話題の展開が不可解だ。いさぎはひとつ聞いてみた。
「どうしてぼくなんかのことを、わざわざ助けてくださったんですか」
「間違ったことは見すごしにできないからよ」と所長はそっけなくいった。
 その瞬間、いさぎは自分の心のあり方に気づいて、恥ずかしくなった。
 個人的な好意からだという答えを期待したのだ。
 女の好意をあてにして生きねばならない男の性《さが》だった。
 所長はそれから、武田部長と経理課長を呼び、いさきが過激派だというのは間違いだから職にとどめるようにと指示した。そして、経理課長を先に帰し、武田部長にはさらにいった。
「あまりみっともないまねはしないでちょうだいね。まあ今回のことは大目に見ておくけど」
 部長は頭を下げた。
「あなたはこのごろ少しやりすぎみたいね。職員の信頼を失うようだと、かえってマイナスになるのよ。そこのところを考えなさい」
 いさぎはそれを聞いて、所長は武田部長に一本くぎを差しておく必要を感じて、こうした機会をさがしていたのかもしれない、と思った。
 武田部長は所長室を去るとき、例の威嚇的な目つきでいさぎをにらむのを忘れなかった。
 再び二人きりになった。
 所長がいさぎをとどめておいたのは、武田部長の反論を封じるために違いない。いさぎは、自分から退出しなければと思うが、所長と二人きりになることなど今後まずないだろうから、この機会にもっと親しくなりたいと計算が働く。
 いさぎは二人の接点になりそうな話題をさがした。
「所長のご主人も確か英雄になられたんですね」
 夫が妻の奴隷のようなものである時代に、夫を主人と称するのは皮肉な風習だ。
「ええ」と所長はうなずいた。
 いさぎはそこで立ち往生した。
〈男の花道〉とはなんですか、どうして男だけがそんな形で死ぬことがあるんですか、と聞きたくなったのだ。所長なら知っているのではないか。
 だが、そんな質問をすれば本物の過激派みたいだ。
 代わりに所長が口を開いた。
「英雄の妻というと名誉だけど、そんなことより、生きていてほしかったわ。あなたのお母さまもそうお思いになったのかもしれないわね」
「はあ」
 いさぎはなんとなくがっかりした。所長はいさぎ個人のことではなく、いさぎの親とか親子関係のことに関心があるようだ。
 所長はごく事務的にいった。
「もういいわ。行きなさい」
「失礼します」
 いさぎはあわてて所長室を出た。
 そうしていさぎは研究所にとどまることになった。
 若林はいさぎに、本を読ませてもらおうとバッグを開けたらたまたま目にとまったので、わざと調べたわけではないと、くどくどといいわけをした。
 あの小冊子は没収されたままになり、とりあえず真相″は隠された。
 いさぎは所長との会話を何度も反芻し、所長に好意をもたれているかもしれないと思ったのは、希望的観測がすぎると結論した。
 すべては平常に復し、再び平凡な毎日が始まった。
 だが、いさぎの内部では、決定的な変化が起きていた。氷上との出会い、武田部長とのいざこざが、いさぎの中に眠っていたなにかを目覚めさせたのだ。
 いさぎは男らしさと女らしさについて考え、この社会のありかたについて考えた。
 考えれば考えるほど、この社会はどこか根本的に間違っているのではないかという思いが強まってきた。


   第三章

 朝から花火の音が響いていた。近くの学校で運動会をやっているらしい。もう十月も終わりに近かった。
 いさぎは昼近くに起き出してきた。今日は休日だ。
 顔を洗ってタオルを使おうとすると、少し濡れているのが気になって、思わず声を張り上げた。
「千早、ぼくのタオル使ったんじゃない」
 妹の千早は、さっきから居間でエキスパンダーやダンベルをがちゃがちゃいわせている。
「使ってないわよ」
 いさぎはそれでも気になって、タオルのはしの濡れていないところで顔をふいた。
 食堂に行き、母の啓子に「今日の午後は結婚式だから、ご飯はあんまり食べないよ」という。
「じゃあ、パンは一枚でいい?」
「うん」
「へえ、兄さん、誰の結婚式なの」
「お前の知らないやつ。大学の同級生だ」
「もう同級生もほとんど結婚したでしょう」
「そうでもないよ」
「ふうん。男が大学へ行くと婚期が遅れるってのはほんとうなんだ」
 いさぎは、ダンベルをもって腕の屈伸をしている千早を見て、ふと思いついた。
「ちょっと、そのエキスパンダーをやらせてくれないか」
 千早は目を丸くした。
「えーっ、なに考えてんの。第一、それ強すぎるからむりだよ」
 バネが四本人っている。千早は高校三年生で、ラグビー部とレスリング部に所属していて、女でも力が強いほうだ。
 いさぎはティッシュペーパーを差し出した。
「これで持つとこをふいてくれよ」
「別にいいじゃない」
「だめ。汗がついているから」
「もう乾いているわよ。男ってほんとに細かいんだから」
 千早がふいたエキスパンダーを、いさぎは両手に握った。
 いつも妹のやるのを見ているから、要領はわかる。
 両腕をやや上方にまっすぐ伸ばし、思いっ切り力を入れる。簡単にいっぱいに開くことができた。
 慣れないせいか関節が少し痛むが、たいしたことばない。
 いさぎは調子に乗って二回、三回とやったところで、ふと動きを止めた。
 千早が唖然として見ている。
「千早は何回ぐらいできるんだ」
「五回か六回」
 いさぎはエキスパンダーを床に下ろした。
「そうか。さすがにそんなにはできないな」
 それはうそだった。まだかなり余力がある。
 千早はいかにもあきれたという口調でいった。
「信じられない。お婿に行けないのもむりないわ」
 いさぎ自身は、こんなものだろうと思った。これまでは本気で力を出したことがなかったのだ。
「お母さんの教育が悪いのよ。やっぱり男の子は、小さいころからコンピュータを習わせたりして、おしとやかに育てなきゃ」
「そういえば、いさぎは子どものころいつも外で遊び回ってたね」
 母は割とさばさばといった。母は昔からこの調子だ。
 女のくせに家事が好きで、男の子どもがいるのに手伝わせないというのも、少しかわっている。遺族年金があるので勤務時間の少ない仕事をしているということもあるが。
 軽い食事をすませたあと、服を着替え、祝儀袋を確かめて、家を出た。
 雲ひとつない、まさに快晴だ。心地よい微風が頬をくすぐる。
 いさぎの服は有名デザイナーの作品で、青地に白とピンクの花模様の入った上着とズボン。陽光のもとでは、ひときわ色が引き立つ。
 独身の男には、正式の礼装というものがなく、結婚式にもなにを着ていってもよいことになっている。まだ一人前と見なされていないからだ。
 独身男は、日常生活においても服装は自由である。ただ、ひとつだけ禁じられた服装がある。それは背広とネクタイだ。背広にネクタイという格好は、どんな場合にも許されない。
 反対に既婚者は、外出の際は必ず背広にネクタイでなければならない。近所に買い物に行くときもだ。また、ネクタイは家の中でもするのが夫のたしなみとされる。
 したがって、道を歩いている男を見れば、結婚しているかどうか一目瞭然だ。
 二十五歳をすぎて背広を着ていなければ、即ハズレ者と見なされてしまう。
 ふけて見られる独身男は、いやな目にあうことが多い。だから、たいていそういう男は早く結婚する。
 小学校の横を通りかかると、運動会をやっていた。金網越しに校庭が見える。
 いさぎは立ち止まって見物した。
 リレーをやっていた。もちろん走るのは女子だ。男子は激しい運動はしない。クラス対抗なのだろう、いくつかのクラスが大声で応援している。
 見ていると、女子と男子の態度がまるで違うことがわかってくる。女子は声が大きいし、はしゃいだり動き回ったりし、席を離れる者も多い。男子はすべてに対照的だ。おとなしく席についている。
 もっと応援しろと女子にはっぱをかけられたりしている。
 次の競技の準備をしたりする進行係を見ると、もちろん全体の指示は先生がするのだが、まず動くのは女子で、男子は女子に指示されて動いている。平均台を二、三人がかりで運ぶときなど、女子は自然に連携プレーができるが、男子はもたもたして、女子に指図されないとうまくやれない。
 もうすでに、男と女の違いがはっきりと出ている。
 男は成長のふしぶしで、自分の体を通して男であることを意識させられる。小学校入学の直前、六歳になると、割礼が行われる。声がわりのときは、女の子のからかいの対象になる。精通があると、赤飯を炊いてお祝いされる。それからは、夢精にせよマスターベーションにせよ、そのつど男の業を思い知らされるのだ。
 だが、いったい男らしさ、女らしさといっても、どこまでが生まれつきのものなのだろう。
「男は男に生まれるのではない。男になるのだ」と、ある男性思想家の有名な言葉にあるように、生まれつきの男らしさというのはそれほどないのかもしれない。
 なにしろ、そう考えないことには、かつて男性優位社会が存在したことが理解できないのだ。
 それにしても、男性優位社会というのは、どういうふうに維持されていたのだろう。未発達な社会はいざ知らず、近代ともなると相当高度な社全体制だったはずだ。
 考えてみると、いさぎは近代社会の内実はほとんど知らないのだった。
 歴史の授業では、「暗黒の近代」として教わった。人々は理性の牢獄に閉じ込められ苦悩にあえいだ時代、大量生産と大量殺戮の時代、物質至上主義のために文化的には見るべきものはなにもなかった時代――。
 いさぎが近代というと思い出すのは、中学校の教師が雑談のようにしていったことだった。
 ――赤ん坊が生まれたとき、近代人が最初にすることはなんだと思う? 赤ん坊を秤に乗せて重さをはかるの。近代人は、生まれた瞬間から数字に管理された人生を送るわけね。
 また、文学の授業では、近代のベストセラー小説の一部が載っていた。それは、貧乏な男子学生がひたすら苦悩して、しだいに人殺しを正当化していく過程を、おどろおどろしい筆致で描写したものだった。これが理性の牢獄かと、いさぎはふるえ上がる思いだった。
 だが、あの小冊子には、まるで違うことが書かれていた。近代とは、理性の光に満たされた輝かしい時代だったというのだ。
 理性の牢獄に閉じ込められた暗黒の近代か、理性の光に満たされた輝かしい近代か――。
 あの小冊子の後半になにが書かれていたかは、新宿歌舞伎町の「まろうど」に行って氷上に連絡をとればすぐにわかることだろうが、過激派にはかかわりたくない。それに、歌舞伎町なんてところへは、箱入り息子として育ってきたいさぎにはとても行く気にならない。
 いさぎは、自分なりに調べることにした。歴史の本には公式的なことしか書かれていないから、昔に出版された本を図書館などでさがした。しかし、二百年ぐらい前の本はひじょうに少ない。当時の本は大部分、酸性紙という保存性のない紙でつくられていたからだ。結局、保存されているのは、やはり公式的なことを書いた本ばかりということになる。ただ、近代の古典文学には、当時の平均的な人々の暮らしがかなり詳しく書かれていて、ある程度参考になった。
 そうして調べてみて、いさぎはすっかり驚いてしまった。二百年以上前と今とでは、男と女の関係がなにもかもさかさまなのだ。
 男女の逆転は、二十世紀末から起こり始めたようだ。そして、二十一世紀前半に急速に進み、中葉にほぼ完了した。
 だが、肝心の二十一世紀前半の書物はほとんど残されていない。当時は、近代から後近代へ移りかわる過渡期にあったため、文化的な成果が少なかったからだとされるが、一説には、英雄を冒涜する記述が多いからだともいう。
 二十世紀末は、女性の社会進出が盛んになり、一方で男性の女性化という現象も起きて、男らしさと女らしさの概念が接近し始めた時代である。
 だが、接近することと、交差し逆転することとは、根本的に違う。
 二十一世紀前半にいったいなにがあったのか。
いさぎは、〈男の花道〉が重要な鍵になっているのではないかと考えた。
 なにしろ、〈男の花道〉が発生したのは二十一世紀前半だとされるのだ。
 そして、エイズ大流行期が二十世紀未だから、ちょうどエイズのあとに〈男の花道〉が発生したことになる。
〈男の花道〉とはエイズではないのか。
 いさぎはそういう仮説を立てた。
 そして、いよいよ危険なところに踏み込み始めたことを知った。これは英雄を冒涜する道だ。
 だが、この仮説を実証しようとしても、これがまたなかなか調べられない。
 いさぎは、エイズはペスト、コレラ、天然痘と並んで、人類が過去に直面した四大疫病であるということは知っているが、どういう症状を呈するのかといった具体的なことは知らない。百科事典を見ても、はるか過去に絶滅した病気のことなどあまり詳しく書いていない。
 医学関係の専門書ならわかるだろう。だが、そこまでする気にならなかった。
 歴史や文学を調べるときでさえ、女性向きの分野に首をつっ込む男らしくないやつとして白い目で見られたのだ。
 男が医療関係に従事することは、男性保護法によって禁止されている。本を読むだけなら法律違反ではないかもしれないが、どんな疑いをかけられないとも限らない。
 男性保護法は、弱いとされる男性を守ることを目的とする法律で、男性が激しい労働に従事することなどを禁止している。医療関係は勤務時間が不規則である上、病気感染のおそれがあり、メスや注射器などを扱うこともあって、禁止されたようである。
 総合医学研究所において研究員が女性ばかりなのも、そのためである。
 そうしてエイズのことが調べられないだけでなく、〈男の花道〉というのもなんだかよくわからない。
 なにしろ、愛の奇跡などといわれて神秘化されるため、たとえば、結婚した男性の何人に一人が死ぬのかといった資料も発表されない。いさぎが自分の周りを見て判断した限りでは、たぶん十人に一人か二人ぐらいだろうと思う。結婚して三、四年で症状が現れるケースがいちばん多いが、五十歳くらいでなるケースもある。症状が現れると二、三年で死にいたる。
 症状は人によってかなり違うみたいで、その点でも、普通の病気とはやはり異なっているようだ。
 夫婦のあり方というのは、外から見たのではわかりにくいものだが、やはり愛し合っている夫婦の場合に起きることが多いような気がする。
 結婚して数年のうちに起こることが多いのも、やはり愛情が深い時期だからかもしれない。
 となると、やはり〈男の花道〉は、愛が体にまで及んだもので、究極の愛の姿、愛の奇跡なのだろうか――。
 いさぎは運動会見物を切り上げて、駅へと向かった。
 このあたりは静かな住宅街で、ハズレ者もアブレ者もいない。ときどき背広姿の男が買物籠を下げて歩いている。公園では子どもたちの喚声が聞こえる。もちろん女の子の喚声だ。
 銀行の前には、美人がにっこり笑ったポスターが張られている。旅行代理店の店頭には、ヤシの木陰で水着姿の美人がたたずんでいるポスター。
 広告は必要な情報を伝えるだけの簡単なものが多いが、美人の写真はしばしば利用される。
 美人といえば男に決まっている。女を美人とはいわない。
 美人の基準というのは、細い体、小さな尻、平たい腹、白い肌、高めの鼻、ぱっちりした大き小目、といったところである。
 ポスターなどのモデルになるのは、たいてい十代、せいぜい二十一、二歳までである。
 いさぎは電車に乗り、途中地下鉄に乗り換えて霞が関へと向かった。休日だから電車はあまりこまない。
 だが、霞が関の地下ホームは正装した乗降客でごった返していた。今日は大安吉日だった。
 薄汚れた地下通路を通って地上に出る。
 地上には、青空のもと、奇怪な形をした建物がひしめいていた。
 このあたり、つまり霞が関、永田町、丸の内あたりは、東京の結婚式場の八割が集中する広大な結婚式場街になっている。
 いさぎはここへくるたびに、結婚式場というのはどうしてこうどれもこれも俗悪な造りなのだろうと思う。
 多くは寺院や城を模している。アラビアンナイトの挿し絵に出てきそうなアラビア風の城、騎士物語に似合った中世ヨーロッパ風の城、尖塔があるゴシック建築の寺院、多数の円柱に囲まれたギリシャ神殿風のものなどである。有名建築物を模したものも多い。ベルサイユ宮殿、ホワイトハウス、ピラミッド、昔の名建築家アントニオ・ガウディのまるっきりのコピーもある。そのどれも色あざやかで、一見豪華であるが、煉瓦にしても大理石にしても本物であるわけがないので、豪華であればあるほど悪趣味に見える。
 現代建築もあるが、とにかく目立つように、奇抜でありさえすればいいといった感じにつくられている。
 どの建物も互いに関連なくひしめいているので、いさぎはいつもここへくると、グロテスクな悪夢の世界に迷い込んだような気がする。
 通りには、正装した黒っぽい服装の人たちがぞろぞろと歩いている。手に日の丸の小旗をもった人もいる。
 日の丸の小旗は、道路のあちこちにも投げ捨てられていて、風が吹くと弱々しくひるがえる。
 建物の中からは、ときどき万歳の声が聞こえてくる。
 いさぎは外務記念館へ向かって歩き出した。
 結婚式場は公営と民営があり、公営のほうが格式が高いとされるが、中でも外務記念館、大蔵プラザ、通産パレスは三大結婚式場として権威を誇っている。
 永田町の小高くなったところへ行く道にも、たくさんの人が行き交っている。ますらお神社への参拝者だ。
 外務記念館へ着いた。クレムリン宮殿を模した建物だった。
 披露宴会場はやけに大きかった。列席者も三百人にはなるだろう。
 会場のぐるりと、各テーブルの上には、花のついた桜の枝が飾られている。
〈男の花道〉を象徴する桜の花は、縁起ものとして結婚式には欠かせない。このごろは季節を問わず本物の花が供給されるようになっている。また、桜の咲く三月、四月はもっとも結婚式の多い季節で、「三月の花婿」「エイプリル・ブライドグルーム」という言葉がある。
 いさぎの座ったテーブルには、大学の同級生でまだ独身の者ばかりが集められていた。合計六人だ。
 ほかの同級生は夫婦同伴で列席している。
 このごろ結婚披露宴は豪華に、大規模になるばかりだ。たいていは花婿側のほうが派手にしたがる。
 男子一生のことだからというのだ。
 そのおかげで、あまり親しくなくても招待状が舞い込む。いさぎは今年もう七、八回披露宴に出た。
 列席者がすべて席につくと、まず新郎新婦の入場である。
 新婦は白いレースのウエディングドレス。ごくシンプルで、すその長さもほんの少し引きずるくらいだ。
 新郎はフリルのついた白いシャツの上に赤いジャケツ、大きな羽根飾りのついた帽子をかぶり、腰には広い革のベルトをし、白いタイツをはいている。ヨーロッパ貴族風というところだろうか。
 拍手の中を新郎新婦は歩いていく。新婦は胸を張って、まっすぐに前を見つめて歩いている。新郎は――荒井ひかるといっていつも元気のいいやつだったが――まるで刑場に引かれる罪人のように、肩をすぼめて、うつむいて歩いている。
 新郎新婦が正面の席に着いて、司会者のあいさつから式は始まった。
 あまり厳粛なムードはない。いたずらに人数をふやしただけで、本気で祝福しようという列席者は限られているのだから、当然だろう。
 ケーキ入刀に続いて、断髪式が始まった。
 式場おかかえの理容師が椅子を押しながら登場し、新郎を椅子に座らせる。髪の毛が床に落ちないために、傘が上向きになったようなものを新郎の首のところにとりつける。そして、理容師はバリカンを一度高く掲げてから、新郎の頭を刈り出した。いかにも手慣れた動作で、丸刈りにするまで一分とかからなかった。
 丸刈りになった新郎は、列席者に向かって一礼した。会場は大きな拍手に包まれる。
 そして、新郎はお色直しのために退場した。
 新婦はこの場に残る。新婦にお色直しはない。
 断髪式は古くから行われ、男が俗世間を捨てたり、死地に赴いたりする決意を示すものだとされる。
 髪の毛は再び伸ばしてさしつかえないが、このごろは数年間丸刈りのまますごす男も多い。丸刈りは新婚時代の象徴だからである。
 新郎は白無垢になって再び式場に現れた。真っ白のスーツ、シャツもネクタイも靴も白だ。あおあおとした頭が痛々しい。
 何人かのスピーチがあったあと、二度目のお色直しが行われ、新郎は今度は紺の三つ揃いに地味なえんじ色のネクタイで現れた。
 お色直しは必ず二度行われる。結婚式とは、花婿が衣装をかえる儀式であるともいえる。独身時代の華やかで自由な衣装から、既婚者の象徴である地味な背広へと――。
 男は結婚式を経て初めて、背広を着る権利と義務を手にするわけだ。
 背広とネクタイは一人前の男の象徴であり、男はみな子どものころから、結婚して背広を着る日を夢見るものということになっている。いさぎも小さいころからよくそういわれた。
 だが、つい先日のことだ。電車の中で、座ったいさぎの前に、背広を着た男が立っていた。男はひょいと手を伸ばして、網棚の上の荷物をとった。たったそれだけのことで、背広の型が大きく崩れた。その瞬間、いさぎは背広とはなにかということがわかった気がしたのだ。
 背広ほど機能性に乏しい服はない。腕を上や横に伸ばしただけで、あるいはほんの少し体をひねっただけで、たちまち型が崩れてしわが寄る。いったん背広を着れば、上体をまっすぐにし、腕を下げた姿勢を保たねばならず、許される動作といえば、肘から先を動かすことぐらいなのだ。なるほど買物籠を下げて道を歩くことはできるが、なにか仕事をするとなれば、コンピュータ操作など机の上に限定された仕事だけだろう。
 背広につきもののネクタイも、考えてみれば恐ろしい意味をもっている。自分の首を締めたひもを体の前に垂らすのだから、相手にいつでも殺してくださいといっているようなものだ。
 徹底的に体の機能を奪う背広と、自分の命を相手に預けてしまうネクタイ。これは奴隷の服装だというしかない。
 ということは、結婚生活とは男にとって奴隷の生活だということになる――。
 いったんそんなことを考えると、結婚式がばかばかしいものに見えてくる。
 いや、そればかりか、ますます男の決断≠する気にならなくなる。
 こうした考えはいさぎだけのものではなく、時代の底流として存在している。ハズレ者がふえ続けるのもそのためだ。
 結婚している男たちも現状に不満をいだき、出口を求めてさまざまなあがきをしている。
 そうした時代背景もあって、今日のスピーチも男の生き方に関するものが多い。
 新婦の上司である部長は、新婦は前途有望な社員であると簡単に述べたあと、新郎に向けて、男としての心構えを説き始めた。
「父親は一家の大黒柱と申します。これは、父親はつねに家の中心にあって家をささえるものであるという意味でしょう。ところが、最近はなんともなげかわしいことに、家の外に青い鳥を求める男がふえているようです。家の外に出ては大黒柱とはいえません。女性が社会で活躍できるのも、家庭を守る男性がいればこそです。つい先日の新聞にも、父親が留守がちの家庭の子どもは問題行動を起こす率が高いということが出ておりました。男子たるもの、しっかりと家庭を守るという本分をまっとうしてもらいたいものと思います」
 やはり新婦側であいさつに立った者に、男性科の医者がいた。
 男性科というのは、六歳児の割礼を行い、〈男の花道〉の診断を下すほか、不能症の治療などを行ぅものである。結婚したものの満足に性行為が行えない男性はかなり多く、妻に勧められて男性科を受診することになる。不能症は、器質的な原因のあるものは少数で、多くは性行為に対する恐怖や嫌悪などの心理的なこだわり、ないしは性倒錯が原因になっている。男性の性倒錯は同性愛、サドマゾヒズム、幼女姦願望、フェティシズムなどまったく多彩で、多くは治療が困難である。
 男性科の心理療法には、新精神分析理論が用いられる。新精神分析理論の中核をなすのはペニス・コンプレックスといわれる理論で、男性はすべて子どものころに、女性にペニスがないのを見てみずからのペニスを恥じ、ヴァギナ羨望、去勢願望をいだく、というものである。したがって治療は、患者に自分はペニスをもつ性であるという事実を宿命として受け入れさせることを目的として行われる。
 不能症の治療がうまくいかない夫は「役立たず」といわれ、妻から離縁されてもしかたがない。離縁された男は、結局ハズレ者になるしかなかった。
 その医者はこんなことをしゃべった。
「このごろ、男女の役割についての議論がかまびすしいようですが、もちろん男と女では体の構造からして違います。それはもう、わたくしは医者ですから、しかとこの目で確かめております(数人の女性のわざとらしい笑い)。もちろん違うのは構造だけではありません。男の体の機能は、あらゆる面で女性より劣っています。病気やけがに対する抵抗力、精神的ストレスに対する抵抗力が格段に違うのです。男性の体で女性よりすぐれていると思われるのは、筋肉の瞬発力が、鍛えれば女性以上になることくらいでしょうか。ですから、このきびしい現代社会において、男性が女性に伍して活躍するというのは、肉体的にもむりなのです。女性ももっとそのへんのことを理解して、男性にいたわりをもって接しなければなりません。
 しかし、男性は肉体的に劣っている代わりに、精神的に優れています。具体的にいえば愛情の面です。母性愛というのは、どんな動物にも共通した本能的なものです。わたくしも二人の子どもをもっているのでわかりますけれども、自分の産んだ子どもというのは自分の分身のようなもので、ですから、子どもをかわいがるのは本質的に利己主義とかわるところがありません。その点、父性愛というのは、本能を超えた、きわめて人間的な営みです。それだけに意識的な努力も必要とされるわけで、女の愛は本能、男の愛は努力と称されるゆえんです。また、そのことから男性特有の悩みも生まれてくるわけですが、それを乗り越えたところの愛の境地というものは、女性にはとうてい理解しえない崇高なものでありまして、わたしなど心からうらやましく思うしだいです。この男性の愛、無私の献身的な変こそ、人類の進歩の証といってもいいでしょう。そして、その愛の極致には〈男の花道〉という、人知を超えた奇跡が到来するのです」
 新郎の先輩で現在二人の子どもがいるという男はこうしゃべった。
「ぼくはひかる君に、男にとって結婚とはゴールインではなくスタートだと申したいと思います。実際、男の人生とは結婚から始まるというのがぼくの実感であります。結婚とは、それまで他人であった男女がいっしょに暮らすことであり、双方の家族とおり合っていくことであり、そして、生まれてくる子どもを育てていくことであります。こうした中で、さまざまな行き違いというか困難が生じてくるのは当然で、そこでこそ男の真価が試されるわけです。ま、ぼくなどまだまだ未熟ですけれども、この困難を日々乗り切っていくことで自分の男を鍛えていきたいと思っているわけです。これは地味なことですし、人目にふれることでもない。だけど、男として生まれたからにはこの道を行くしかないと信じております。ひかる君は男として立派に決断され、本日より男として試練の道を歩まれることになりました。ともに頑張っていこうではありませんか。そして、まだ決断していない諸君も(と彼はいさぎたちのあたりを見回した)一日も早く男になってほしいと思います」
 独身の男には居心地の悪いスピーチが多い。
 いさぎの隣の日下部はこの前婚約して、来年に挙式を控えている。自分がする予定の式と比較してか、しきりにけちをつけた。
「料理はどうってことないな。だいたい公営の式場って、値段の高い割に料理もサービスも落ちるんだよね」
「人数は多いけど有名人はきていないな」
「目新しい演出もなさそうだし」
 前はこんなことをいうやつではなかったのに、といさぎは思った。
 男はもっぱら結婚によって社会的なランクづけをされてしまう。そのため、結婚をめぐる男同士の嫉妬は激しく、陰湿になる。
 いよいよ式は終わりに近づいて、列席者全員に日の丸の小旗が配られた。
 会場の中央に、新郎新婦の席から出入口まで道がつくられている。それをチェリー・ロードという。
 みんなは小旗をもって、チェリー・ロードの両側に列をつくった。
 新郎新婦退場の儀式である。
 新郎は紺の三つ揃いの上に、肩から斜めにたすきをかけた。たすきにはすでに新しい名前で「新婚男子大原ひかる」と墨書されている。
 新郎はまなじりを決するといった表情で、悲憤感すら漂わせている。一方新婦は、照れくさそうににやにや笑いをしている。
 媒酌人の音頭で万歳三唱が行われ、それとともに新婦が新郎の手を引いてチェリー・ロードを歩き出す。万歳三唱のあとみんなは日の丸の小旗を振りながら、くちぐちに「がんばれよ」「立派に男の務めを果たせ」「男子の誇りを忘れるな」などと激励する。式場の係の者が、大きい桜の枝をもち、二人の頭上から花吹雪を散らす。そして、会場を出るあたりでまた万歳三唱をし、それで式は終了となった。
 いさぎは同じテーブルの独身者たちといっしょに、引き出物をもらって会場を出た。
 まだ三時だ。みんなでどこかへ行こうということになった。二人は用事があるということで帰り、隣にいた日下部とあと二人とでぶらぶらと歩きながら、どこへ行くか相談した。
 とにかく結婚式場街を出ないことには始まらないということで、日比谷へ向かった。
 日下部が周りの式場を見ながら、「どうしてここにだけ式場が固まっているんだろう」といった。
「昔このあたりは官庁街だったらしいよ」といさぎはこの前読んだばかりの知識で答えた。
「官庁街?」
「お役所が固まっていたわけさ」
「ああ」と日下部はうなずき、少し考えてからいった。「そうすると、昔は年金の申請なんかでも、みんなここまでこなきゃならなかったのかな」
「さあ」
 考えてみると、こんな広大な地域に役所があったというのは不思議な話だ。
 式場街を抜け、やがて日比谷の映画街にきた。中途半端な時間だから、一本映画を観てそれから飲みに行こうということになり、どの映画を観るかを、みんなで検討した。
 映画は大別して、女性向けと若い男性向けとに分けられる。結婚した男はほとんど映画を観ない。
 女性向けは、仕事もでき男にももてるというスーパーヒロインが波乱万丈の活躍をするというもの、別世界を舞台にした特撮もののファンタジー、そしてポルノ映画などである。
 いさぎたちはもちろん女性向けは除外して考えたが、若い男性向けといっても、アベックでも観られるから、かなりある。
「新婚物語パート6」これは毎年製作される人気シリーズ。妻が仕事で失敗したり、ほかの男に気を移したりして騒動が起こるのを、賢明な夫が陰で手を回して解決し、それに気づいた妻が夫の愛に感謝するというパターンになっている。
「タケ子とヤサ夫の新婚日記」これはコメディで、ドジばかりしている夫が、妻に暖かく見守られて一人前の男に成長していくというものらしい。
「短くも美しく燃え」これはベストセラーになった少年小説の映画化。孤児院で育った心の美しいヒーローが、さまざまな苦難の末、大富豪の老婆と結ばれるが、新婚まもなく〈男の花道〉となって死んでいくというストーリーだ。
 ほかに「男が愛に目覚めるとき」「悲しき新婚/桜とともに散った命」などがある。ヒーローが最後に〈男の花道〉で死ぬという、お涙ちょうだいものが多い。
 結局、「翔んだ男と翔べない男」というのを観ることになった。これは事実をもとにしたという話で、映画評でもかなりほめられていた。もっとも、いさぎはあまり乗り気でなかった。題名を見ただけで、どういう教訓がつくのかわかってしまうからだ。
 館内はけっこうこんでいた。ちらほら背広姿の男も見える。以前は一家の主が映画を観に行くなど考えられなかっただけに、少しずつ世の中もかわってきている。
 映画の主人公は、服飾デザイナーを目指す青年。彼は男の自然な美しさを引き出す服をつくるという夢をもっているのだが、地味なためなかなか認められない。一方、ライバルの男は奇抜な服をつくって注目を浴び、たちまち有名デザイナーになる。二十五歳になっても芽の出ない主人公は、親に勧められるままに結婚し、子どもも二人できるが、まだデザイナーになる夢を捨て切れず、子どもに手がかからなくなると、昔のつてを頼って再びデザインの仕事を始める。デザインのような、個人の才能がたいせつな分野では、既婚男性でも仕事をすることが可能なのである。理解のある妻は、子どもの世話だけはきちんとすることという条件で許してくれた。だが、ある日、打ち合わせのあと魅力的な女性と酒を飲み、誘惑され、よろめきかかるのをやっと振り切って家に帰ると、下の子が高熱を出している。入院させて助かるが、もう少しで手遅れになるところだったといわれる。また、上の子から、離れて住んでいる舅がよくきて世話してくれていたことを聞かされる。主人公はきっぱり仕事を諦め、家族のために生きる決心をする。舅や姑も引き取る。以来、家庭にほんとうの暖かさが生まれる。そして、愛に目覚めた証としての〈男の花道〉が……。かつてのライバルで、今も一流デザイナーとして活躍している男が病床に見舞いにきて、「どんな美しい服よりも君の人生のほうが価値がある」という。今も独身の彼は、表面の華やかさの陰で寂しさをかみしめているのだ。主人公は仕事を捨ててからの日々があったことに満足し、家族の愛に包まれて死んでいく。そして、遺族がそろってますらお神社にお参りするシーンで終わりとなる。
 どこまで実話かあやしいような、よくできた話だ。だが、とにかく主人公が最後に死んでしまうというのは、それだけである程度感動的になってしまう。周りの観客はほとんどみな、目に涙をためている。日下部など、ぼろぼろ涙をこぼして、しゃくり上げている。
 映画館を出ると、有楽町へ飲みに行った。男性グループだと割安になるという店だ。このごろは男性も飲める店がふえてきている。
 有楽町、銀座かいわいは風紀もよく、夜遅くなってもそれほど危険はない。
 少し前までは、男だけで飲むなど考えられなかった。男は先天的に酒量の限度がわからないといわれたのだ。
 しかし今でも、若い男が夜遊びするなどもってのほかと考える人も多い。
 飲み始めてもなんとなく重苦しい雰囲気が漂う。みんなあと一、二年のうちに結婚しなければならない年齢だ。今日の結婚式と映画で、男の人生をまのあたりにつきつけられたような気がする。
 日下部一人だけがはしゃいでいて――それもどこかわざとらしいのだが――よけいにみんなの気持ちが重くなる。
 結局、たいして盛り上がらないまま、もう一軒行こうという話にもならず、お開きになった。
 家に帰り着くと、テレビでますらお神社に英雄を祭るセレモニーをやっていた。
 このセレモニーは、月に一、二回、なにかよくわからない間隔でもって行われる。時間は午後六時から九時まで。もっともテレビ視聴率の高い時間帯だ。全チャンネルがこの中継をする。
 ますらお神社は、永田町の小高くなったところにある。入口に赤い大きな鳥居があり、本殿までの間に玉砂利が敷きつめてあるのは普通の神社と同じだが、本殿の建物がかわっている。すべて御影石でできていて、左右に長く広がるかなり大きな建物だ。中央の高くなったところはピラミッド型の屋根になっていて、頂上に日の丸の旗がひるがえっている。
 セレモニーはまず、黒塗りの大型車が鳥居の前につぎつぎと到着するところから始まる。車からは総理大臣、その他の各大臣が降り、本殿前で整列する。遺族など招かれた列席者も境内に入る。そして、列席者と報道陣の前で、全員で本殿に向かって、英雄をたたえる参拝の儀を行う。
 次いで全員が本殿内に入り、内部でいちばん大きいとされる部屋に集合する。この部屋は儀場と呼ばれ、正面の祭壇に向かって扇状に多数の座席が設けられている。
 祭壇のもっとも高い位置にある儀長席というところに座るのは、ますらお神社の最高位の神官である。そのすぐ下にある演壇という席には、総理大臣が立つ。そして、その左右にある雛壇《ひなだん》といわれるところに各大臣が座る。みんなすでに服を着替えて、神子《みこ》装束といわれる、白い着物に赤いはかまという格好になっている。
 もちろん儀場にいるのはすべて女性だ。精通のあった男はケガレているとされ、神事に携わることはもとより、本殿に入ることもできない。
 祭壇に向かい合う扇状の席には、公式に招待された遺族や社会的地位のある有名人などが座る。その後ろの高くなったところにはかなり窮屈な席があって、そこには招待されなかった人が座席の数だけ入れてもらえる。
 ここでのセレモニーは、儀式化された細かい手順もいろいろあるのだが、中心となるのは、〈男の花道〉で死んだ男の名前を総理大臣がつぎつぎと読み上げていくことだ。
 名前が書かれた紙は、セレモニーのあと、本殿のどこかの部屋に安置される。
 本殿は、大小無数の部屋が入り組んだきわめて複雑な造りになっているとされる。また、儀場は本殿の向かって左端にあるのだが、右端にもほとんど同じ造りの部屋があるといわれている。
 名前を読み上げていくだけの退屈なセレモニーだから、テレビ中継では、それは随時はさみ込まれるだけで、一流歌手のショー、高度な技術を集約した芸術的映像(もちろんそれらはなんらかの形で英雄をたたえるものになっている)を主体に、英雄になった人の短い実話ドラマ、死ぬ寸前の言葉、遺族の言葉なども織り込み、全体としてなかなか見応えのある番組に構成される。
 全チャンネルで放映するのだから、視聴率もかなりのものになり、こうして、英雄になった男は国民の多くに見送られたという体裁がつくられる。
 諸外国でも同じようなものだ。
 アメリカでは、〈男の花道〉は|男の栄光《メンズ・グローリー》と呼ばれる。死者を祭るセレモニーはワシントンのアーリントン墓地で行われ、これも大統領などが列席する壮大なセレモニーだ。
 ソ連では、〈男の花道〉は|男の名誉《スラーワ・ムシチーヌイ》と呼ばれ、死者は大祖国防衛英雄としてクレムリン宮殿に祭られ、セレモニーとして赤の広場でパレードが行われる。
 すでに軍備は全廃され、世界平和が実現しているので、国家のもっとも重要な役割はこれらのセレモニーをとり行うことだった。
 いさぎは、死者を讃える風習が全世界的に存在しているとはなんと奇妙なことだろうと思う。
 いさぎは妹と母とともにテレビを見ていた。
 妹の千早は真剣に見ている。〈男の花道〉は愛の奇跡で、英雄は偉大なものだと信じているのだ。
 母はときどき台所に立ったりして、あまり真剣ではないようだ。
 いさぎは所長の言葉を思い出した。
 ――英雄の妻というと名誉だけれど、そんなことより、生きていてくれたほうがいいと思うものよ。あなたのお母さまもそうお思いになったのかもしれないわね。
 おそらくそうなのだろう。生きていてくれたほうがいい――それは当然のことだ。そう思わない人間のほうがどうかしている。しかし、世の中は、そのどうかしている人間ばかりがあふれ返っているように見える。
 いさぎは今日の結婚式を思い出し、あの二人のこれからのことを考えてみた。
 万歳三唱で送られるとき、新郎は悲憤な顔をして、新婦はにやにや笑いをしていたことから、だいたい予想がつく。
 そうでなくても、どこの夫婦も同じようなものだ。
 妻は夫のことを、ただ働きの家政夫のように考えている。けんかをすると二言目に出てくるのが、「食わせてやっている」という言葉だ。
 いかに妻が横暴であっても、夫が妻に反抗的な態度をとるのは男らしくないとされる。
 夫婦は妻の親と同居するのが普通で、夫は舅とうまく折り合っていかなければならない。妻の親が老いれば世話をするのはもちろん、しばしば自分の親の世話もすることになった。子どもの教育も大部分夫の責任だった。なにしろ父性愛は一家を包み込む大きなものなのだ。
 だが、そうして家族に尽くしても、不思議と報われることがなかった。父親は子どもからもばかにされた。細かい、口うるさい、融通がきかない、けちだ、社会性がない、ばかだ――これがたいていの父親の評価だった。
 だから多くの男は、自分が〈男の花道〉になって、みんなに惜しまれながら死んでいくところを夢想して、かろうじてそれを慰めとした。
 テレビでは、セレモニーが終わりに近づいていた。そして最後に、儀場にいる全員で万歳三唱が行われた。
 万歳で結婚生活へ送り出され、万歳であの世に送り出される。それが男の人生だった。


   第四章

 いさぎは定時に仕事を終えて、研究所を出た。
 まるで冬のような鉛色の空だ。風が音を立てて雲をかき回している。
 もう十一月の初め、経理課へ異動してから約一か月がたっていた。
 表向きは平穏にすぎていった。仕事も適当にやっている。暇をもてあますことも多いが、そんなときは本を読んだり考えごとをしたりしている。
 この一か月の問に、四人からデートに誘われ、一人からいきなりプロポーズされた。若林は、君は女に興味ないみたいな顔をしてるからかえってもてるんだ、と悔しそうにいった。だが、これは異動した当初だけのことに違いない。
 またある友人は、二十五歳になったらろくなのにあたらないから今のうちに手を打っておけ、とはなはだ現実的な忠告をしてくれた。
 しかしいさぎは、今の世の中では女と男が上下関係になってしまうことを思うと、とても結婚する気にならないのだった。
 ただ、高原所長のことはときどき考える。あれくらいすばらしい女性なら、自分も納得して男らしくなれるのではないか。
 だが、やはりいさぎには高嶺の花というしかない。
 なにか特別な才能があれば、結婚しなくても通るが、残念ながらいさぎにはなにもない。
 このままずるずる「男の決断」を延ばしていけば、ハズレ者の格印を押され、新宿にでも流れていくことになるかもしれない……。

 いさぎは駅に向かって歩き出した。
 この時刻、人通りはかなり多い。若い男もいるが、大部分は女だ。
 女はたいてい地味な、趣味の悪い服を着ている。中年になるとみんな太って、不格好な体形になる。いや、若くてもけっこう太っているのが多い。勤め帰りのせいもあるが、足を引きずり、背中を丸めて歩いている。
 そうした人の流れの中で、いさぎは一人の女を見つけ、胸にときめくものを感じた。通りの向こう側を歩いている。白いひらひらしたワンピース。この前と同じ服だ。
 四、五日前だった。いさぎが研究所を出てこの道を駅に向かって歩いていると、白いワンピースを着た女が、街路樹に片手をついて立ち、周りを見回していた。
 いさぎはその女を見た瞬間、少なからず動揺した。なぜなら、一瞬男ではないかと思ったのだ。もちろんスカートだし、胸もふくらんでいるのがわかったから、男であるはずはないのだが、しかし、全体の雰囲気がどう見ても男なのだ。ほっそりとして、繊細で、弱々しかった。
 その女はいさぎに目をとめた。
 いさぎが近づいていくと、女は「ちょっとおたずねします」といった。
 いさぎは立ち止まった。
「四ッ谷駅はどちらでしょうか」
 いさぎは自分の進行方向を指差した。
「こちらです。まっすぐ行けばわかります」
「どうもありがとうございます」
「いいえ」
 いさぎが歩き出すと、女は「あの、すみませんけど」とさらにいった。
 いさぎは立ち止まって、振り返った。
「この荷物が重くて困っているんです。駅までいっしょにもってくれませんか」
 街路樹の根元に、なにが入っているのか重そうな袋が置いてあった。
 だが、その言葉を聞いた瞬間、いさぎが感じたのは怒りだった。女のくせに男に重いものをもたせようとするなんて――。
 だが、いさぎは怒りをそのまま出すようなことはせず、男らしくいった。
「すみません。ぼくじゃなくて誰かほかの人に頼まれたらいかがですか」
「そうですか」
 女は力なく顔を伏せた。いさぎは意外に思った。普通の女なら、舌打ちして、不機嫌な顔のひとつもするところだ。
 いさぎの横を何人もの人が通りすぎていく。
「どうしてぼくに頼まれたんですか」
「たくましいかただったので」
 申し訳なさそうな弱い声だ。男に向かってたくましいとはずいぶん失礼ないいぐさだが、ばかにしていっている感じはしない。
 女は二十歳くらいに見えた。ぱっちりした目、通った鼻筋、白い肌、少し赤みを帯びた頬、ほとんどテレビで見る美少年タレントだ。
 いさぎはその妖しい倒錯的な魅力におじ気を覚え、そうそうに女の前から立ち去った。
 そして、あとになってから反省した。男とか女とかにこだわらず荷物をもてばよかったのではないかと。
 あの女よりいさぎのほうが力が強いのは間違いないし、あそこを通りかかったたいていの女よりもいさぎのほうが強かったかもしれないのだ。
 さらに、しばらくするうちに妙にあの女の面影が脳裏にちらつき始めた。記憶の中でしだいに魅力をましてきたのだ。
 いさぎはこれまで、高原所長と武田部長を、女性の両極端のタイプだと思ってきた。だが、白いワンピースの女はそのどちらでもなく、そうなると女性のタイプは三極に分かれるのだろうか、などと妙なことを考えた。
 もちろんあの女のようなタイプはこれまでにも見ていた。だが、男に似たタイプということで、女らしさから除外していたのだ。
 いさぎがこれまでに見てきた、小柄で、色が白く、弱々しいタイプの女は、決まって性格がひねくれていて、世をすねた態度をとるか、虚勢を張るかのどちらかだった。
 そんな女よりは、多少強引で自分勝手でも、強い女のほうがいい――これはいさぎのみならず、ほとんどの男が思うことだ。
 だが、あの女は、そうした女とは違っているようだった。
 いさぎは昔の女とはあのようなものではなかったかと考えた。
 昔の女――男性優位社会において、男に支配され依存していた女、弱いことを当然としていた女、男に強さを求める女。
 今の時代にそうした女がいるというのも妙なことだが、いさぎはもう一度会って確かめたいと思った。
 あの女となら、今の時代の男女関係とはまた違った関係がもてるのではないだろうか。
 もっとも、あの女がこのあたりの地理を知らなかったことからして、もう一度会える可能性はきわめて少なそうだった。
 だが、こうして再びあの女の姿を見ることができたのだ。
 女はいさぎと同じ方向へ歩いていた。いさぎは女から目を離さずに、次の交差点で向こうへ渡ろうと思っていると、女のほうがその前にこちらへと渡ってきた。いさぎは歩み寄り、声をかけた。
「この前はどうも」
 女はいさぎのことを覚えていて、すぐに笑顔を返してきた。
「ああ、あのときのかたね。むりなお願いをしてすみませんでした」
「いいえ、こちらのほうこそ。あれからどうなさいましたか」
「あとからきた女の人に頼みました」
「すみませんでした。あのときは、女の人からそういうことを頼まれたのが意外だったもので……」
「ええ、当然ですね。頼んだのがいけなかったんです」
 女の控えめな態度に、いさぎは自分の中の力強さ、あの昔の男らしさが刺激されるような気がした。
 昔の本で読んだ女を抱く″という言葉が思い浮かんだ。女はいさぎの肩くらいまでしか背がなかった。見下ろすと、肉の薄い肩は鋭角的で、胸のふくらみはまだおとなになる前の少女のようだった。
 ほっそりとして、きゃしゃで、抱くと壊れてしまいそうな感じがした。
「もしよかったら、そのへんでお茶でも飲みませんか」
 女のようなせりふが、意外とすんなりといえた。
 女はいさぎを見上げ、少し考えてから「ええ、いいですわ」といった。
 同じ職場の者に見られるのがいやだったので、駅に向かう道から外れて店をさがした。
 歩きながら話すと、女は真理子と名乗った。いさぎは、なぜ姓をいわないのだろうと思ったが、あえて聞かなかった。
 そうして裏通りを歩いていると、アマゾネスの一団と出くわした。宣伝カーが三台止まっていて、周りに十数人のアマゾネスがたむろしている。
 アマゾネスというのは、男性解放運動に反対する過激派組織の女たちの通称である。
 いさぎはその横を通るのがいやで、一瞬引き返そうと思ったが、かえって彼女らを刺激しそうで、そのまま歩いていった。隣の真理子も緊張しているようだ。
 全員が肌をあらわにした同じコスチュームを着ている。ワンピース型の水着と同じ形だが、乳房は上半球が見え、股ぐりは腰骨のあたりまである。赤と緑の二色で、銀の縁どりがされている。足には、ふくらはぎまで革紐をまきつけるサンダルシューズをはいている。全員が大柄でたくましい。マントで体をおおっている者もいるが、たいていはそのコスチュームのままで、肌は褐色に日に灼け、肩や腕、足には筋肉が盛り上がっている。
 宣伝カーの腹には大きく「男は男らしく女は女らしく」と書かれ、その下にやや小さく「日本精神振興女性団」とある。
 アマゾネスといっても単一の組織体ではなく、多数の組織に分かれている。その数は数十とも数百ともいわれる。
 彼女たちは、日本精神とか伝統道徳とかいう名のもとに、女は強くたくましく、男はしとやかで従順であれ、ということを主張する。そして、みずから女らしさを体現するべく、格闘技などで体を鍛え、集団で威圧的に行動する。
 コスチュームは組織ごとに違うのだが、どれも派手で、肌を露出する点で共通している。ビキニ型でほとんど裸体に近いものもある。
 男性解放運動の高まりに対抗して、近年急速に組織が拡大し、行動も活発になってきた。リブ派の男に暴力をふるうことはしばしばだし、「日本精神をしぼり出す」と称してレイプすることもある。
 いさぎと真理子がアマゾネスの前を通り抜けようとしたとき、中の一人が真理子に目をとめて、声を上げた。
「おい、そこの女、しっかりしろよな。どちらが女かわからないよ」
 そこにいた十数人のアマゾネスが二人に注目し、野卑な笑いが起きた。
 宣伝力ーの上で日の丸の旗をもち、仁王立ちになっていた女がいった。
「女がそんなんだから男がつけ上がるんだ。その男をあたしたちに貸してごらん。男らしさを教え込んでやるから」
 一人がいさぎにふれんばかりに近づいてきた。
「ふん、生意気そうな顔しやがって。きさま、それでも日本男子か」
 後ろから口々に声がかかる。
「かわいがってやろうか」
「はら、もうおっ立ててるよ」
 また笑い声。
 いさぎは表情をかえず、まっすぐ歩いた。いさぎのほうがアマゾネスの側にいたので、真理子を守っているような形になった。
 やがて安全なところまでくることができた。真理子がため息をついた。見ると青ざめた顔をしている。かなりこわかったようだ。やはり普通の女とは違う。
「ごめんなさい。わたしのためにいやな思いをさせて」
「いや、君のせいじゃないよ」
「でも、わたしいつもあんなこといわれるんです」
「ぼくもよくあんなことをいわれる」
 二人は顔を見合わせて笑った。
 大きな通りに出た。喫茶店をさがそうとするより前に、男性解放運動のデモ隊がこちらに向かってくるのが目に入った。
 それは背広姿の、つまり既婚者を中心としたデモ隊だった。「家事は労働だ」というシュプレヒコールを繰り返している。
 一般には、家事は愛情ということがいわれていた。料理は愛情、掃除は愛情、洗濯は愛情、要するになんでも愛情なのだった。愛情であるがために、代償を求めることができない。家族から要求されると、無限に応えなければならない。そうした状況をかえていこうという運動なのだ。
「家庭にもコンドームを」というプラカードも見える。コンドームは娼夫《しょうふ》の使うもので、まともな男は使ってはいけないとされているのだ。
 男性解放運動はかなり盛んになっていたが、マスメディアはすべて女性に握られているため、その主張を広めていくには、書籍や少部数の雑誌に頼るほかは、こうして街頭行動に出て、ビラを配るなどするしかなかった。
 いさぎの目に、背広姿の男たちのデモはかなり異様に見えた。この時刻にデモしていては、夕食の準備などできない。人の家庭のことながら、家族はどう思っているのだろうかと心配になる。
 沿道の女たちは冷ややかな目で見ている。メンズ・リブに賛同する女などまずいない。
 男はみな無表情だ。男もまだ保守的な意識をもった者のほうが数としては圧倒的に多いし、それに、内心支援している者がいても、表しにくいということもある。
 デモ隊は二、三百人くらいで、車道を四列縦隊で進んでいる。その横に二、三十人の警官隊がついている。警官はアマゾネスほどではないが、かなりたくましい体をしている。腰に警棒をぶら下げているが、実際に使われることはまずない。
 デモ隊の進行方向に、数台の宣伝カーとともにアマゾネスの一団がいた。さっきの連中とは違う。肌色のコスチュームで、遠くから見るとほとんど全裸のように見える。
 どうもいやな状況だ。
 デモ隊はしだいにいさぎのいるほうに近づいてくる。このままだと前方のアマゾネスと衝突して、それに巻き込まれてしまいそうだ。どこに避難しようかと思っていると、デモ隊の後ろのほうが騒がしくなった。どこからか現れたアマゾネスの一団が不意に襲いかかったのだ。
 いつのまにか警官隊は道路の反対のほうへと遠ざかっている。警官隊も男性解放運動に敵対感情をいだいているから、アマゾネスが不法行為を働いても、見て見ぬふりをするのだ。
 デモ隊は、たちまち後ろのほうから隊列を崩し始めた。
 襲いかかった一団は二十人ほどだから、数ではデモ隊のほうが圧倒しているのだが、みんなまるで抵抗しようという気がなく、一方的に殴られ、逃げまどうだけだ。「暴力はやめろ」「押し返せ」などの声が上がるが、どんどん隊列は崩れ、歩道へ上がる者も出てきた。
 こうなっては、いさぎもデモ隊の一員と見られかねない。真理子といっしょにとにかくこの場から逃れようと思ったとき、はたとアマゾネスの作戦が読めた。
 さっき裏通りで出会った一団はまだ姿を現さない。デモ隊が逃げてくるのを待ち伏せしているのだろう。ほかにももっといるかもしれない。群衆の目のないところでつかまったりすれば、なにをされるかわからない。暴力だけではなく、どこかに拉致された上で、さんざんに「日本精神をしぼり出される」かもしれない。
 このごろアマゾネスになる者がふえているのは、そんなふうに男をレイプできる余得≠ェあるからだといわれる。
 いさぎは真理子と離れないようにしながら、通行人とデモ隊とで混乱する歩道の上を逃げた。
 いつのまにかアマゾネスの数はふえ、さまざまなコスチュームの者が入り混じっている。混乱の中に宣伝力ーが乗り入れ、「既婚男子は家を守る気概をもて」「それでも日本男子か」「非男子め」などと叫び立てる。アマゾネスにつかまって背広とシャツを引き裂かれ、肌をさらしてしまった男もいる。
 いさぎはピンクのビキニを着たアマゾネスに目をつけられた。いさぎより大きく、たくましい。腕をつかまれ、引っ張られた。女の汗にぬれた肌を間近に見て、いさぎは動転し、腕をふりほどくこともできないまま、ずるずると引きずられた。そのとき、真理子が、精一杯の声で叫んだ。
「わたしの男になにするのよ」
 アマゾネスは真理子を見て、いさぎのことをいっているのがわかると、舌打ちして手を離した。
「だったら、ちゃんとつかまえておきな」
 そのアマゾネスは別の男に目をつけ、追いかけ始めた。
 真理子はいさぎの手首をつかんで引っ張った。
「こちらへ逃げましょ」
 裏通りはあぶないと思ったが、真理子といっしょならなんとかなりそうな気がして、いさぎは真理子とともに走った。
 細い道を二度三度と曲がると、真理子は遅れがちになった。あまり体力がないらしい。走るのはやめて歩くことにした。
 いさぎは方向がつかめなくなっていたが、真理子はわかっているのかどんどん歩いていく。いさぎは先ほど助けてもらって以来、真理子をかなり頼る気持ちになっていて、そのままついていった。
 もうかなり暗くなってきた。そろそろ表通りに出なければ危険だと思いながら角を曲がると、アマゾネスに出くわした。
 三人いた。黄色のコスチュームに赤いマントをはおっている。なにをするでもなく、ただ待機していたようだ。
 いさぎと並んで歩いていた真理子は、アマゾネスを見たとたん、驚いていさぎの後ろに隠れた。それを見たアマゾネスは色めき立った。いさぎを「非男子」と見たのだ。
 いさぎは真理子という女がわからなくなった。いさぎを従えるようにして歩いていけば、普通のアベックということですんだだろうに、まったく男みたいに、いや男以上にこわがりのようだ。
 アマゾネスはこちらに向かってくる。いさぎは真理子をどうするか迷った。普通だとアマゾネスは女には危害は加えないから、自分だけ逃げればよさそうだが、しかし、この場合はどうか。真理子をメンズ・リブの同調者と見て、ヤキを入れるとかするのではないだろうか。
 真理子はいさぎの腕を強く握っている。ほんとうにおびえているのだ。いさぎは、守らなければならない、と思った。こうなれば、男も女も関係ない。
 もちろん三人を相手に闘っても勝ち目はない。いさぎは真理子の手首をつかんで走り出した。アマゾネスも走って追ってきた。薄暗い街路にひたひたと足音だけが響く。
 三人のアマゾネスはしだいに近づいてくる。真理子はあまりにも足が遅い。とても逃げ切れそうもない。四つ辻にきたとき、いさぎはとっさに判断して、「君は右に行け」といって、真理子を突き放すように押し、そして、自分はスピードを落とした。
 案の定、三人ともいさぎのあとを追ってきた。それを確かめると、再びスピードを上げた。
 アマゾネスは意外と速くない。というより、いさぎが速いのだろうか。どんどん差は開き、やがてもうあとを追ってこなくなった。
 いさぎはスピードをゆるめ、立ち止まった。追ってくる足音はまったくなかった。
 真理子のことが気になったが、女一人であればまず大丈夫だろう。
 それよりも、自分のことのほうが問題だ。
 もうすっかり日は暮れて、またあの恐ろしい闇が立ちこめている。方角はさっぱりつかめない。
 結婚して家庭をもった者はほとんどみな郊外に家を構えるから、都心部に住んでいるのは、独身女性とハズレ者くらいだ。ハズレ者は歓楽街に固まっているから、このあたりで出会うとすれば、まず独身女性、それも中年の、つまりアブレ者である可能性がきわめて高い。
 それに、まだアマゾネスに出会う可能性もある。
 いさぎは足音をひそめて歩いた。誰かの足音が聞こえると、物陰に身を隠した。
 やがて、前方にたくさんの明かりが見えてきた。新宿歓楽街だ。新宿の近くまできてしまったのだ。
 家庭が重視され、男に貞淑が求められる世の中だからこそ、社会の底辺にはその裏返しのものがはびこる。郊外や地方へと人口が分散していく一方で、都市には歓楽街が広がってきた。中でも新宿歓楽街は世界一の規模を誇り、新宿駅の周りをすべておおって、さらに増殖を続けている。
 いさぎは新宿に足を踏み入れたことはないが、電車で新宿駅を通過すると、乗降客はすべて、派手で崩れた感じの男か、欲望をぎらつかせている女ばかり。なんともおそろしいところだと思ってきた。
 だが、なにがあるにしても、暗闇の中で襲われるよりはましだろう。
 いさぎは明かりのほうへと歩いていった。あの中心に新宿駅がある。そこへ行きさえすれば大丈夫だ。
 通りの両側に、ぽつりぽつりと店が現れる。やがて店は急にふえ、たちまち電飾の赤や青の光、白い閃光が氾濫し、呼び込みの声、店から流れ出る音楽などに包まれる。酔っぱらいの女、嬌声を上げる男などとすれ違う。新しい、派手な造りのビルもあり、各ビルには上の階まで店が入っている。看板には、営業内容を直截に示す文句。実際、ここにはありとあらゆる商売がある。
 歓楽街の実態は、いさぎもテレビなどで見て知らないわけではない。酒や食事を提供するだけの店ももちろん多いが、やはり男によるなんらかのサービス、セックスや疑似セックスを売りものにする店こそが、歓楽街を歓楽街たらしめているといえる。そして、そうした店の種類は数えきれないほどあり、つぎつぎと現れては消えていく。こうした分野での日本人の創造性は世界的にも有名になっていて、東京にきた外国人観光客が必ず訪れるのが、結婚式場街とここ新宿であった。
 たとえば軍服キャバレー。ここはすでにこの世から消滅した軍服を着た男が見られる唯一のところということになっているが、実際には意味もなく肌を露出した軍服″を着た坊主頭の男が酒のサービスをする店である。同様に、すけすけ背広を着た男のいる店もある。ふんどし喫茶、猿股クラブ、ランニングシャツ・バーといったバリエーションもある。男装した女のいる店もあって、中でも、まだ若い、少女といえる年齢の者ばかり集めた店がこのごろ話題になっている。男装した少女こそエロチシズムの極致として愛好する女がかなり多いのだ。ストリップ劇場は、ただ裸になって踊るというのは飽きられ、ホモ、SM、獣姦、オナニー、本番などを実演するものになっている。ストリッパーたる条件は、体が美しいことよりも、とにかくよく立つことである。男は女に裸を見られただけでもすぐ立てるという、女たちのいだいている神話″に応えられる男でなければならない。
 そして、疑似セックスを売る店。これは要するに、女がベッドに横になり、ヌード姿の男がクリトリスなどを愛撫して行かせる″というもの。乳房も愛撫したり、あるいは女も男の体にさわれたりと、いろいろバリエーションはある。女の興奮の度合いを、心拍数、発汗、体温、筋肉の緊張などから判定して表示する装置があり、その表示を見ながらもっとも効果的な愛撫を行えば、″行かせる″ことば容易である。この疑似セックスは、なんといっても安いという利点があって利用されている。
 そして、歓楽街の華である、本物のセックスを売る娼館。これは当然、娼夫の年齢、美醜などで値段が違うのだが、おしなべて高価である。もっとも安くても、給料の二、三か月分にはなるとされる。
 だから、めったに行けないあこがれのところであり、また娼夫は、街のハズレ者たちの中でも一目置かれる存在であった。
 いさぎはなにもかもが物珍しくて、目をきょろきょろさせながら歩いた。女の欲望のすさまじさをまのあたりにする思いだった。
 ときどき客引きや通行人に奇異の目を向けられる。しろうとの男だと一見してわかるのだろう。
 酔っぱらいの女にからまれた。
「おや、若い子じゃないの。あんた、どこのお店にいるの」
 キャバレーのホストかなんかだと思っているのだろう。抱きつこうとするのを、はねのけたとき、別の者に腕をつかまれた。
「こっちへきな」
 中年の男だ。ずいぶんと厚化粧をしている。ほかにも中年の男が二人いる。いさぎは、引っ張られるままに、暗い路地へ連れ込まれた。
「お前、どこの店の者だ」
 いさぎは壁を背にして、三人の男に囲まれた。質問したのは、いちばん大きい男だ。イースター島の石像みたいな長い顔をしている。坊主頭で、ピンクの背広を着ている。「花婿キャバレー桜の園」と書かれたたすき。
 いさぎがなにもいわないでいると、
「このごろ派手にやってくれるじゃないか。みんなわかってるんだからな。若い男で客を引いて、身ぐるみはいでしまうって寸法だろう。お前らのおかげでこっちが迷惑するんだ」
「ぼくはそんなんじゃありません」
「うそをつけ」
「ほんとです」
「じゃあ、どうしてこんなところにいる」
「道に迷ったんです」
 大きい男にむなぐらをつかまれた。
「いい加減にしろよ。若い男がこんなところにくるわけがないだろう。二度と商売できねえ体にしてはしいのか。早く店の名前をいうんだ」
 いさぎはとっさに頭を働かせた。
「わかったよ。ほんとのことをいうから、その手を離しな」
「なんだと」
「まろうどって店をさがしにきたんだ」
「なんのためだ」
「ある男と連絡をとる」
「誰だ、それは」
 いさぎは男の目をにらみ、少しためらうふりをしてから答えた。
「氷上ただし」
 男はおやっという顔をして、少し手の力をゆるめた。
「氷上さんとどういう関係なんだ」
「おれの友だちさ」
 男はしばらく考え、半信半疑の顔ながら手を離した。
「ほんとうか。おれがついていって確かめるぞ」
「案内してくれよ」
「よし」
 男はあとの二人を帰し、いさぎの先に立って歩き出した。
 やがて街の様相がかわり、さらににぎやかになった。歌舞伎町に入ったのだ。
 小さな広場があった。女たちがいっぱい、なにをするでもなしにたむろしている。意外にきちんとした感じの女が多い。
 もともと歓楽街は、若い独身女性、アブレ者、それに英雄の妻が主な客層だったのだが、近年、家庭をもった女がふえてきて、社会問題になっている。
 まろうどは、狭い道を入ったところにあって、一人でさがしていたら絶対に見つかりそうにない店だ。
 いさぎは男に続いて店の中に入った。
 細長い店だ。入った左にカウンターがあり、奥にテーブル席が三つほどある。カウンターの中には、初老の男が二人いた。
「おや、中西さん、こんな時間に珍しいね」
 カウンター内の白髪の男が声をかけた。いさぎを案内した男は中西というらしい。
「この若い子が氷上さんに会いたいというんだ」
 白髪の男はうなずいて、どこかに電話をかけた。そして、受話器をもったまま、いさぎに聞いた。
「なんていうんだね」
「木下いさぎが会いにきたって」
 いさぎはそういいながら強い不安を感じた。氷上は果たしていさぎのことを覚えているだろうか。
「氷上さん? うちの店に木下いさぎって人がきてるんですけど……ええ」
 男はしばらく黙って向こうの話を聞いていて、受話器を置いた。そして、いさぎに向かっていった。
「すぐ迎えにくるそうです」
 いさぎはほっとため息をついた。
「誤解して悪かったな」
 中西はそういって、いさぎの肩をぽんとたたくと、店を出でいった。
 いさぎはカウンターに座り、改めて店の中を見回した。
 まったく飾りけのない店で、四、五人いる客はみな男だ。どうやらここは、この街で働く男たちのための店らしい。酒が飲め、一通りの食事もできるようだ。
 客はみな、もの静かで、疲れた感じを漂わせている。そればかりか、枯れた感じすらある。これはいさぎには意外だった。こうした街にはみだらな男たちが集まるのだと思っていたのだ。
「なにか飲むかね」と聞かれていさぎは、急にのどの渇きを意識した。
「ビール」
 ほどよく冷えたビールはうまかった。
 人心地がつくと、真理子のことを思い出した。たぶん無事だと思うが、果たしてまた会えるだろうか。
 やがてドアが開き、誰かが入ってきた。いさぎはそちらに顔を向け、驚きのあまり声をもらした。
「真理子……」
 別れたときと同じ白いワンピースを着た真理子が立っていた。
「よかったわ、無事で。つかまったんじゃないかと心配してたの」
 いさぎがまだ茫然としていると、真理子はそばに寄ってきた。
「やっぱりわかったのね。よくいわれるの、顔が似てるって」
「き、君は……」
「ええ、氷上ただしの妹なの」
 そういわれてやっといさぎは飲み込めてきた。
 氷上ただしはなにかの目的があっていさぎに近づいてきた。だが、いさぎがいつまでも連絡をとらないので、第二弾として、今度は真理子が接近してきたのだ。
「じゃあ、行きましょうか。兄も待ってるわ」
 いさぎは残りのビールを飲み干し、代金を払った。ずいぶんと安かった。実質本位の店なのだ。
 立ち上がったいさぎは、ふと店の中の空気がさっきとまるで違うことに気づいた。沈黙は同じだが、みんなねっとりとした視線を真理子に送っている。真理子にある種の魅力を感じるのはいさぎだけではないのだ。
 店の外に出ると、真理子は「ありがとう」といった。
「えっ?」
「わたしのこと心配して、わざわざここまで確かめにきてくださったんでしょう」
「うん、まあね」
 わざわざ訂正するほどの勘違いでもないだろうと思った。
 真理子はいさぎの左腕に手をからめてきた。
「こちらよ」
 いさぎは真理子と体をくっつけて歩いた。この街ではそうしているほうが自然に見える。
「兄妹であることをいわなくてごめんなさい。ある程度親しくなってからいおうと思ったの。ほんとよ。だますつもりなら、最初からなにか別の姓を名乗ってるわ」
「うん」
「ありがとう、信じてくれて」
 真理子はいさぎの左腕にすがり、肩に頬をすりつけた。まるで子どもがするようなことだが、真理子がすれば少しも不自然でなかった。
「でも、どうしてぼくに近づこうとしたの」
「お願いしたいことがあるの」
「どんなこと」
「ここまできたんだから、兄からいってもらうわ」
 いさぎはいささか不安になった。とうとう過激派とかかわることになってしまいそうだ。
 いさぎが男性解放論に共感するのは、せいぜい男女平等論までだ。男性優位社会復活という考えは、女性が今の男性のようにしいたげられることになるはずで、それには賛成することができない。
 だが、これであの真相≠ェ聞けるという期待もあった。
 真理子はひとつのビルを指し示した。
「ここよ」
 一階にラーメン屋が入っている細長いビルだった。エレベーターに乗り込むと、真理子は五階のボタンを押した。ボタンは五階までしかない。しかし、外から見たときはもっと高かったように思った。
 案の定、五階で降りると、裏にある非常階段を登ることになった。
 省エネルギーのためこういうビルもつくられている。五階まではいろいろな店が入っていて、その上は従業員が住んだりする。
 非常階段には、古びた家具などがいくつも置かれていて、その間をすり抜けて通らなければならなかった。
 最上階の八階にある部屋の前にきた。真理子はちょっとかわったふうにドアをノックした。
 やがて内側からドアが開いて、氷上が顔を出し、いさぎにいった。
「やあ、よくきてくれたな」
 中に入った。大きなリビングキッチンだった。ほかにもいくつか部屋があるようだ。兄妹で住んでいるらしい。
 いさぎは氷上と向かい合ってテーブルについた。
 氷上は真理子に「お茶をいれてくれ」といった。
 真理子は文句もいわず、お茶をいれる用意をした。
 いさぎは改めて部屋を見回した。かなり乱雑になっている。部屋の隅に本や紙の束が積み上げてある。この前の小冊子もどこかにあるかもしれない。
「ちらかっているだろう。こいつがまだ女の役割を十分にわきまえてないもんでな」と氷上がいった。
 男性優位社会の復活をいうだけあって、兄妹もそういう役割分担を目指しているらしい。
「アマゾネスに追いかけられてたいへんだったそうじゃないか」
「ええ」
「こいつはまるで頼りにならないだろう。かえって足手まといなくらいで」
「いいえ、助けられました」
「そんなことないわ。木下さんのおかげで逃げられたの」
 こうして見比べてみると、なるほど顔に似たところがある。
 それにしても、見れば見るほど妙な兄妹だ。兄はたくましく、妹はか弱い。世間の基準とちょうど正反対になっている。
「とにかく、ここにきてくれたのはなによりだ。真理子の接触のしかたがわざとらしいんで、不信をもたれるかもしれないと思っていたんだが」
「どうしてぼくに目をつけたんですか。最初のときも、あとをつけていたみたいですが」
「ああ、あのときは、研究所の近くをうろついていたら、たまたま君が出てきただけさ。別に君をねらっていたわけじゃない。話をしてみると、メンズ・リブにも理解があるみたいだから、なんとか君に協力してもらいたいと思った。だけど、君のほうから連絡がないので、今度はおれの代わりに真理子が近づいたというわけさ」
「協力というのは?」
「このところあの研究所では大規模な研究プロジェクトが行われている。君もだいたい察しはついているだろう?」
「ええ」
「それがもしかすると、われわれのワクチンを無力化するものかもしれないんだ」
「ワクチン?」
「ああ、実はもうほとんど完成段階にあるのだ」
 氷上はおもおもしくいった。
 いさぎは頭をめぐらせた。もしかすると〈男の花道〉に関するワクチンだろうか。
 氷上は首をかしげた。
「君はあのパンフを読んだだろう」
「いや、それが……」
「読んでないのか」
 氷上はあきれたようにいった。
「半分は読んだんですけど、そこでじゃまが入って……あれは没収されたんです」
「没収? 研究所に没収されたということか」
「ええ。まずかったですか」
「あんなパンフはどうでもいいが、君は大丈夫だったのか」
「組織の一員じゃないかと疑われましたが、きのう会った男にもらっただけだと事情を話して、わかってもらいました」
「だったらいいが。しかし、少しでも疑われていると、やりにくいな」
 氷上は考え込んだ。まるでいさぎが協力するのは当然と考えているみたいだ。
「余ってたら一部ください。ぼくもなにが書いてあるのか知りたかったんです」
「あんなものはいくらでもあるが、それよりもおれから教えよう。そうでないと、話が先へ進まない。どこまで読んだんだって」
「これからいよいよ歴史をさかのぼって、男が女より弱くなった理由を明らかにしようというところです」
「なるほど」
 氷上はなにからしゃべるか頭の中を整理している様子だ。
 真理子が紅茶をもってきて、自分もテーブルについた。いさぎは紅茶をすすった。
「二十世紀末に突如エイズという病気が流行した。これは性行為を通じて感染し、発病すると必ず死に至るという病気だ。死者の数はうなぎのぼりにふえた。そして、二十一世紀の初めにようやくワクチンが完成し、それによってエイズは絶滅した。少なくとも公式にはそうなっている。知ってるな」
 いさぎはうなずいた。
「だが、真実は違うんだ」
 それから氷上が語った真実は、驚くべきものだった。

        *        *

 二十一世紀の初め、エイズ予防ワクチンが開発された。感染を恐れる人々は争って接種を受け、たちまち全世界の人々に行き渡った。
 だが、その後、接種者の中からもエイズの発病者が出た。発病者は全世界に平均的に分布し、それも男性ばかりだった。ワクチンは欠陥ワクチンだったのだ。
 エイズはウイルスによって起こる。ワクチンのひとつの原理に、弱毒化したウイルスを接種し、それによって毒性のあるウイルスの侵入を防ぐ、というのがあるのだが、エイズウイルスは体内でつぎつぎと形をかえていく性質があるから、弱毒化されたものもいつ毒性を取り戻すかわからない。そこで、いわば半分に切断したウイルスを接種するという方法が考えられた。これだと少々形がかわっても毒性をもつことはない。そして、これでも予防効果をもつことが確かめられた。これがつまり二十一世紀初めの予防ワクチンの原理だった。
 だが、この半分のウイルスが、ごくまれにふたつ結合して全体性を取り戻すことがあったのだ。しかもそれは、Y染色体の中においてのみ起こる。Y染色体が触媒の役割を果たすのだ。確率的に少ないので、臨床実験の段階ではわからなかったらしい。
 Y染色体とは男性のみにある染色体で、ゆえに男性のみエイズ死の可能性があることになった。このエイズは、変性エイズと呼ばれた。
 変性エイズは、男のワクチン接種者の体に、別のワクチン接種者の血液やその他の体液が侵入したときに起こる。ただ、いわば鍵と鍵穴が合うように、ある型とある型のウイルスが出会ったときだけに起こるので、可能性としては小さい。しかし、すでに全人類がワクチンを接種していたので、誰と接触しても可能性はあった。
 もちろん完全なワクチンの開発が進められることになった。しかし、いったん体内に侵入したウイルスは遺伝子にまで入り込む。それに打ち勝つワクチンをつくるのはきわめて困難だった。いつまでもワクチンが完成しない間、男にだけエイズ死の可能性のあることが、男と女のありかたを大きくかえていった。
 それまでは、性行為に関しては男性のほうが積極的だった。だが、変性エイズ発生以降、男にとって性交相手の数がふえればそれだけ発病の可能性がます。一方、女性のほうは、人口増加策として妊娠、育児中の女性に対する社会保障は手厚くなり、しかも未婚で子どもをもつことは女の甲斐性として賞賛されるようになったから、性交をしりごみする理由はなくなった。だから、性に関しては、女性はつねに挑発する側になり、男性は抑制する側になった。
 また、男は暴力場面も回避しなければならなかった。殴ったりひっかいたりして双方に傷ができると、ウイルスが侵入する可能性があるからだ。
 こうして、性衝動と暴力衝動を抑制するべく義務づけられた男は、社会的な場においても女にせり負けるようになった。社会の要職はしだいに女によって占められていった。
 次の世代になると、もっとはっきりした。
 欠陥ワクチンによるウイルスは、ほとんどの場合、母から子へと伝えられる。伝わらなくても、周りの人間がすべて保菌者だから、たいてい誰かから感染させられることになる。
 男の子はけんかを厳禁されて育った。女の子がけんかを売ると男の子は逃げなければならない。彼らは最初から男は女にかなわないものと思い込んだ。
 こうして女性優位社会はいっそう堅固なものになったのだが、それ以前に解決されなければならない大きな問題があった。男が性行為と結婚を忌避し、人口が急速に減少してきたのだ。
 子どもをつくるだけなら人工授精という方法があるし、コンドームを使えばセックスもある程度安全になる。だが、家族制度が崩壊すれば社会のありかたが根本からかわってしまうし、感染を恐れながらのセックスでは歓びもない。そこで、結局それまで通りのやりかたが奨励されることになった。つまり、結婚して、普通にセックスして、子どもをつくるということだ。発病の可能性はそれほど高くないからだ。
 結婚した二人のウイルスが結合型であった場合、数回から十数回のセックスでウイルスが男の体内で結合し、結婚二、三年で発病することになる。結合型でない場合も、体内で型がかわっていくから、男にとって一回一回のセックスはつねに死の危機をはらんでいることになる。当時で、二十五歳で結婚して五十歳まで持続的に性交渉をもった場合、死亡率は二十パーセントといわれた。
 現在は、死亡率はかなり低下して、十パーセント以下になっていると思われる。ウイルスの型がさらに多様化したためだ。
 社会の実権をにぎった女たちは、男を結婚させるためにさまざまな方法をとった。当時はどこの国も人口減少による国力の低下に悩んでいたから、結婚して子どもをつくるのは国のためだということになった。結婚式は男を主役にした豪華なものになった。結婚した男と未婚の男が一目で見分けられるように、服装が区別されることになった。そして、エイズで死んだ者は、愛に殉じた者として最高の栄誉が与えられた。日本では神社に祭られることになった。
 結婚した男は、家庭生活を営むことはすばらしいことだとむりにも思い込もうとした。それに、いつ死ぬかわからないので、長期的な展望が必要になる仕事への意欲を失い、家事をするだけで満足するようになった。
 そうした中で、いつの時期かははっきりしないのだが、社会の上層部の女たちの問で秘密結社が結成された。〈女の平和《パックス・フェミナ》〉というスローガンで、それが組織名にもなっている。人頬の平和のために女性優位社会を維持するべきだというのが大義名分だが、実際は、欠陥ワクチンのおかげで思いもかけず高い地位についた女たちが、その地位を守ろうとして結成したものだ。
 この秘密結社は、世界各国で男性保護法の制定を推進し、男が医療行為に携わることを禁止した。
 患者の血液にふれたりして危険だという理由をつけたのだ。こうして女性ばかりになった医学界は完全に秘密結社の支配下に置かれ、ワクチン開発は実質的にストップされた。
 そのころ、社会のありかたに不満を覚える男たちは、男性解放運動を展開した。秘密結社の存在はまだ知られていなかったが、ワクチンの開発がなおざりにされていることば明らかだった。彼らがもっとも強く主張したのは、ワクチン開発に力を入れよということだった。ワクチンさえできれば、女性優位社会はおのずと崩壊するはずだからだ。
 だが、多くの男たちは、ワクチンへの期待を断念して、死を運命として受け入れる覚悟で結婚に踏み切り、あるいは踏み切ろうとしていた。彼らは、変性エイズによる死を愛に殉じた偉大な死であると思いたがったので、ワクチン開発をいわれることを好まなかった。英雄の遺族たちも、英雄を冒涜する行為だとして反感を示した。男性解放運動はあまり広がりをもたなかった。
 しかも、そのころ男性解放運動の一部から、ワクチンが開発されたという情報が流されたことがあった。男はみな色めき立っただけに、間違いとわかったときの失望と怒りは大きかった。こういうことは何度かあって、そのたびに男性解放運動は打撃を受けた。さらに、秘密結社は第一線の行動部隊としてアマゾネスをつくり、警察と連携して解放運動を弾圧した。
 ときとともにエイズ死の神聖化は進み、エイズという露骨な言葉は嫌われ、日本では〈男の花道〉という呼びかたになった。また、ワクチンについて語ることもタブーになり、いつしか〈男の花道〉が病気であるという事実すら忘れられるまでになった。そして、性と暴力に対する恐怖心だけが残ったのだ。
 男性優位社会のありかたはすべて「暗黒の近代」として否定し去られた。解放運動も、社会改革や権利要求に関するものになっていった。
 だが、それはあくまで社会の表面でのことだ。真実の解放を目指す勢力は地下にもぐり、非合法の医学研究を行ってきた。そして今、ワクチン完成まであと一歩というところにまでこぎつけたのだ。

        *        *

 氷上は冷えた紅茶をすすった。真理子は隣でじっといさぎを見ていた。いさぎは身じろぎもできなかった。頭の中に異物のように詰まっていた漠とした疑問が、ひとつひとつ脈絡をもって整理されていった。
 自分が性的なものを感じるとひどく混乱すること、また、アマゾネスが肌を露出した服装をしていて素手で殴りかかること、男がきわめて潔癖であること、などが明快に理由づけられた。
 いさぎは、氷上が薄い肌色の手袋をしているのに目をとめた。初めて会ったとき、氷上はけんかのしかたを教えるのに、肌と肌をふれ合わすなといったが、いさぎはそれにはなんの疑問もいだかなかった。肌をふれ合わすことへの恐怖は、疑問の対象にならないくらい深く男の意識に入り込んでいるのだ。
「なんか質問はあるか」と氷上はいった。
 そういわれると、疑問がわいてきた。いさぎは問題点を整理した。
「男も女も、生まれつきの性質は昔とかわっていないわけですね」

「そうだ」
「昔は男のほうが肉体的に強かったそうですけど」
 氷上はうなずいた。
「男は本来、肉休的にも精神的にも女より優位にあるのだ。しかし、女社会になって、女が経済力や権力を独占するようになると、男はそれと引き換えるものとしては、自分の肉体的、性的魅力しかないわけだ。女は、愛玩の対象になるような、繊細で美しい男、性格的には未熟で依存的な男を好んだ。だから、男は、よい女、つまり金と力のある女に選ばれるように、女好みにかわってきたのだ。自分の小さいころのことを思い出してみたまえ。男はみな、運動をして筋肉が強くなることを極端に恐れただろう。一方、女たちはスポーツをして体を鍛えた。たくましい体は社会での生存競争に有利だと信じられているからだ」
「今は男女の身長差はほとんどありませんが、昔は男のほうがかなり高かったとか」
「そうだ。運動と食べ物の影響がそれだけ大きいということだろう。あるいは、大きくなりたくないという意志も関係するのかもしれん」
「〈男の花道〉がそういう病気だとすると、結婚しなくてもなる場合もあるはずですよね」
「もちろんだ。家族同士の日常的な接触からなることはまずないようだが、レイプされた男がなることはときどきある。そういう場合は、適当なアブレ者とすぐに結婚させるのさ。そうすれば、男は英雄になれるし、女も遺族年金がもらえる」
「赤ん坊が母乳からなるということは?」
「生まれてしばらくはウイルスが母親と同じ型だから、それはない。母親は赤ん坊と安心して接触できるわけだ。しかし、父親はできない。父親があまり子どもから慕われないというのは、そのへんにも理由があるようだな」
 肌のふれ合いというのは、人間関係の根本にもなるものだろう。それを恐れなければならないとはあまりに不幸だ。
「それから、娼夫もよく死ぬな」
「この街の人はみな、〈男の花道〉がそういう病気だということを知っているのですか」
「過去の歴史までは知らなくても、病気だということはわかるさ。この街では愛の奇跡≠ネんてことがあるわけないからな」
 氷上はかすかに笑った。
 沈黙が訪れた。氷上の話に疑問の余地はなかった。ただわからないのは、自分のこれからの生きかただった。
「ワクチンの完成はほんとうに近いんですか」
「ああ」
「女の協力者が研究しているんですか」
 男の医者はありえないのだから、ほかにも真理子のような女がいるのだろうかと思った。
「女はほとんどいない。おれたちの運動は長い歴史をもっている。少しずつ研究を積み重ねてきたのだ。そうだな、ちょっとおれたちの組織のことを説明しておくか。〈女の平和〉と称する秘密結社は、医学界を支配下に収め、ワクチン開発を実質的にストップさせた。それに対し、解放運動の一部の勢力は、地下研究所をつくり、そこに命運を託した。研究所は徹底的に秘密にされ、一般の組織は資金供給の役割を担った。こうしたことは日本だけではなく、アメリカやヨーロッパでも行われた。
〈女の平和〉は警察力では不十分だと見て、アマゾネスをつくった。アマゾネスは警察にはできない非合法の活動、つまり拷問で自白させたり、令状なしに押し入ったりということをし、さらに資金源になる一般組織をつぶすという役割を負った。こうして警察、アマゾネス対真の解放勢力という図式のもと、長い間闘争が行われてきたのだ。
 これまでには、ワクチンがほとんど完成しかかったことも二、三度あったようだが、そのたびにアマゾネスないし警察にかぎつけられ、果たされなかった。
 そうした経験を通して、われわれはしだいに進歩し、成長してきた。今のわれわれの組織は、きわめて巧妙だ。いくつもの小さなグループに分かれ、ひとつのグループには二人ないし三人の連絡員しか置かず、一人の連絡員は別のグループの一人の連絡員とだけ接触するという方式をとっている。グループの間に上下関係はなく、中心もない。おれにも全体の状況はよくわからない。また、それぞれのグループは穏健派の中にもぐり込み、同化している。これはカムフラージュのためでもあるが、同時に、いざというとき男性解放運動全体に影響力を発揮するためでもある。また、研究所は随時データを別のところに移して、研究所が摘発、破壊されても、研究成果が失われないようにしてきた。こうした努力の成果がようやく実ろうとしているわけだ」
「氷上さんは、どういう立場にいるんですか」
「おれはひとつのグループのリーダーにすぎんが、ただこの新宿では顔がきく。ワクチンの臨床実験を新宿でやっているから、だいたいのことは知っているのさ」
 それまで黙って聞いていた真理子が初めて口をはさんだ。
「歓楽街にはたくさんの店があるけど、ほとんど女が経営していて、労働条件がすごく悪いの。兄は男の共同経営で店をつくる運動をしていて、もういくつもそういう店があるのよ」
「商売は生き物だから観念的な男にはむりだ、なんていう常識をぶっつぶしてやろうと思ってな。それはともかく、ワクチンの効力を確かめるのに、ここの娼夫に協力してもらっているんだ。人体実験というと聞こえは悪いが、娼夫の死亡率はきわめて高いから、だめでもともとというところだ。今のところ、おれの知っているワクチン接種者はみな無事で、平均的な死亡率を考えると効果は歴然としている。もっとも、専門的にはもう少し様子を見なければいけないらしいが、もしこれでよいとなればすぐに量産体制に入ることになる」
「量産体制?」いさぎは首をかしげた。「秘密のうちにですか」
「ああ」
「公表はしないんですか」
「公表なんかしたら、警察とアマゾネスにぶっつぶされて、全部うそだということにされてしまうだろうさ」
 いさぎはワクチン接種者が秘密裏にふえていくところを想像してみたが、それで世の中がどうかわっていくのかよくわからなかった。
「とにかく、そういう情勢にあるわけだが、そこで問題になってくるのがあの総合医学研究所なんだ。あそこは〈女の平和〉の牙城で、高原とかいう所長は最高幹部の一人なのだ」
 いさぎはかなり意外に思った。高原所長は女としては珍しく、あまり男を軽視するようなところもない。
「おれたちのワクチンが完成間近いということは、やつらも感づいている。アマゾネスや警察も必死でかぎ回っている。だが、どうもそれだけじゃないのだ。あの研究所で最近なにか大規模な研究をやっているらしい」
 LH計画のことだろうといさぎは思った。
「それがどうも、おれたちのワクチンに対抗するものらしいのだ」
「対抗するもの?」
「ああ。というのは、その研究は男の被験者を使い、特別に力を入れて行われているらしいからだ。どういう内容かはわからんが、ひとつ考えられるのは、新しいウイルスの開発だ。おれたちのワクチンでは効かないウイルスを広められたら、なんにもならないことになってしまう」
 いさぎは思わず感嘆の声をもらした。そこまで双方必死の攻防を行っているのか。
「あるいは、なにか思いもよらない内容なのかもしれん。いずれにせよ、それをぜひつきとめたい。実はおれたちのグループがそれをさぐる任務になっていてな」
「ぼくにそれをさぐれというんですか。ぼくはただの下っ端の事務員ですよ。とてもそんなことは……」
「いや、それはわかっている。あそこはかなり秘密保持に神経をつかっているからな。君は普通に勤務していてくれればいいんだ」
「ほんとうにそれだけでいいんですか」
「君は普通の生活をして、誰にもあやしまれないようにしていればいい。ときどきおれたちと連絡をとって、なにか目立った動きがあったときには報告してくれ。将来、なんかのときに役立ってくれればいいんだ」
 いさぎは迷った。過激派の一員になれば、それだけのことではすまないだろう。あの研究所には確かにおかしなところがあるから、そうとうややこしいことに巻き込まれる可能性がある。だが、真実を知ってしまった以上、もはや普通の生活には戻れない気もする。
「連絡は真理子を通じてやってもらおう。真理子ならあやしまれないからな」
 真理子はうれしそうな笑顔を見せた。
「あれ、これまでとずいぶん態度が違うじゃないか。この前木下君に接触してうまくいかなかったときは、腹を立ててたのに」
 そういわれて真理子は、恥ずかしそうにうつむいた。
「あのパンフレットを読んでいたら、断ったりしなかったと思うけど」といさぎはいった。
 そんなやりとりのうちに、いさぎが仲間になることは既定の事実となってしまった。
 いさぎはそれからもいくつか質問をし、また、聞かれるままに自分の生活について話した。
 ずいぶん長居をしてしまった。いさぎがもう帰る旨を告げると、氷上は真理子に駅まで送っていくようにいった。
 再び薄汚れた家具の間をぬって階段を下り、さらにエレベーターで一階までいった。いさぎは、氷上がここに住んでいるのは安全のために違いないと思った。
 ビルを出ると再び光と喧騒の洪水だった。いさぎと真理子はなにもいわず歩いた。
 街はにぎわいもたけなわらしく、新宿駅に近づくにつれて、まるで朝のビジネス街並みの雑踏になってくる。
 いさぎは歩きながら、きわめて強い孤独感を味わっていた。自分はもはや社会に同化できなくなるのではないかと思った。
 ただ、並んで歩いている真理子の存在がひとつのささえだった。いさぎが昔の男らしさを取り戻して、社会から浮き上がってしまっても、真理子ならむしろそういういさぎを受け入れてくれそうな気がした。
「あなたも組織の一員として活動しているの?」といさぎは話しかけた。
「わたしはただ兄のいう通りにしているだけなんです」
 いさぎは思わずよろめきそうになった。こんな考えかたをする女がいるなんて。妹の千早とはえらい違いだ。
「でも、男性優位社会になれば困るんじゃない?」
「わたしはそういう社会的なことはわからないんです。ただ、男のかたは強いほうがすてきだと思うだけで」
 いさぎはまた、なんとも名状しがたい感銘を受けた。と同時に、自分の中でなにか力強いものが動き出すような気がした。
「どうしてそんな考えかたをするようになったんだろう」
「さあ……」
 真理子は困ったように首をかしげた。
 やがて新宿駅に着いた。
 いさぎは真理子に手を振って別れ、遊び疲れと後ろめたさを背負ったような女たちに混じって改札をくぐり、電車に乗り込んだ。
 電車にゆられながら、男と女のことについて考えようとしたが、いったいなにから考えてよいのかわからなかった。

   第五章

 目からうろこが落ちるとはこのことだろうか。
 氷上の話を聞いてからというもの、いさぎの目には、世の中がまるで違ったものに見え始めた。
 以前は生まれつきだと思っていた男らしさ、女らしさが、単に文化的なものだとわかってきたのだ。
 文化的というと聞こえはいいが、要するになにもかも、権力を握った女たちの都合のいいようになっているのだ。
 いさぎは念のために、医学書を見てエイズについて調べてみた。男が医療関係に携わるのが禁止されたのは、女の陰謀によるのだとわかったとたん、調べる勇気が出たのだ。
 それによると、エイズの症状には、やせて衰弱すること、皮膚に斑点ができることなど、確かにいさぎが以前に見た〈男の花道〉の症状と一致したところがある。それに、病気でない病気≠ニか究極の愛の姿″とかいったレトリックにもうなずけた。エイズというのは、ウイルスが白血球を冒すことで免疫機能が低下した状態になることをいい、そこにいろいろな病原体が侵入することで衰弱し死に至る。普通の病気と違うから病気でない病気″といい、どんな病原体も受け入れてしまうから究極の愛の姿″というのだろう。
 そのことからも、氷上の話は間違いないものと思われた。
 そして、そう思うと、今までと違っていろいろなことが見えてくるのだった。
 たとえば、小さい子どもでもすでに男は男らしいということも、生まれつきのものではないことがわかる。
 いさぎが幼稚園のころ、女の子は自由に遊び回っているのに、男の子はたいてい室内で先生にいわれた通りのことをしていた。先生は男の子のほうにつきっきりだった。外に出て、女の子といっしょに遊びたいといっても、許されなかった。
 小学校でも同じだった。先生はいつも男の子に目を光らせていて、けんかや激しい動きをしたりすると、すぐに止めに入った。女の子と争うと、先生は必ず男の子に対して、男らしくしなさい、といった。どちらが正しいかよりも、まず男らしくすることがたいせつなのだ。
 おとなしくしなさい、男の子はけんかするものじゃありません、女の子には譲りなさい、激しい運動をしてはいけません、もっと男らしくしなさい、辛抱しなさい――いつもいつもそういわれてきた。
 思春期になるとまた様相がかわる。
 中学、高校は、たとえ共学のところでもクラスは男女別になっていて、男子生徒と女子生徒ができるだけ近づかないようになっている。そして、女と気安く話したり、つき合ったりするのはとてもはしたないこととされた。だが、実際には、女に対する強い関心と欲望があるので、男同士お互いに牽制し合って、男たちの世界はいつも陰湿だった。
 それに反して女たちは明るく積極的だった。彼女たちはのびやかな肢体を誇示しながら男たちを挑発し、男たちが恥じらいしりごみするのをはやし立てた。
 これらのことはすべて、性行為をすれば男だけ死ぬ可能性があることからきていたのだ。
 もしそれがなければ……とは考えたが、よくわからなかった。肉体的な力は本来男のほうが強いということは、比較的簡単に受け入れることができた。だが、性に関することにはなぜか心理的な抵抗が強く働いて、たとえば男が積極的にリードするといったことは、頭の中で想像することもなかなかできなかった。
 ただ、そんなときいさぎはいつも真理子のことを思い浮かべた。真理子に関してなら、昔の本で読んだ女を抱く≠ニいうことがなんとなく理解できるような気がしたのだ。
 ともかく、女性優位社会ができて、男は屈辱的な立場に置かれている。
 要するに、男の価値を決めるのは女なのだ。
 女は男に、性的魅力と家庭的であることを求めた。そして、女の求めたことがそのまま社会の価値観になった。
 美しくて、女によく尽くす――それがよい男なのだった。
 それ以外の尺度、たとえば仕事の能力、知性、創造性、自分なりの考えをもっていることなどで評価されることはまったくなかった。
 知性は、男の魅力を引き立てる点でのみ価値があり、女以上になるのはもっとも嫌われた。
 ただ、知性が非社会的な狭い分野に向けられるときは、男らしくてかわいいと評価されることがあった。たとえば、収集癖、ゲーム好き、コンピュータや機械への興味などである。
 男たちは、生まれたときからそうした価値観のもとで生きているから、とりわけ自分の美しさがどの程度に評価されるのかということについてきわめて敏感だ。男はつねに、美しさをほめられることを渇望していた。
 自分の美しさにあまり幻想をもつことのできない男たちは、自分が家庭的で世話好きで、結婚すればいかによい夫になるかということを強調して、女の気を引こうとした。
 しかし、そんなふうにして結婚しても、今の世の中では、幸せな結婚生活が送れることはめったになかった。
 いさぎは男たちすべてに真実をふれて回りたい気持ちだったが、もとより公然とできることではなく、やはりワクチンの完成を待つしかないようだった。
 いさぎは氷上の話を聞いて以来、精神的に強くなって、いくらか本来の男らしさを取り戻した気がした。しかし、電車の中などで人と体を接することへの恐怖と嫌悪はまだ根強い。血液やなにかが自分の体内に入り込まない限り大丈夫だと理屈ではわかっていても、肌を接すると、万が一という心配をしてしまう。やはりワクチンができないことには、男は解放されないのだ。
 いさぎは氷上に協力することを約束したが、それによってなにかがかわったわけでもなく、以前と同じ平凡な生活が続いていた。真理子がいさぎに連絡するときは、偽名を使って職場か家に電話することになっていたが、以来一か月、まだ一度もなかった。
 いさぎはその間に、二度見合いをした。結婚する気はないが、この年では断ってばかりもいられないのだ。
 最初の女は、仕事の話ばかりした。ほかに話題がないか、あるいは仕事の話をすれば男は感心すると思っているのだろう。部長ったら、めんどうな仕事は全部わたしに押しつければいいと思ってるの。ほんと、まいっちゃうわ。またその頼みかたがうまいの。この仕事ができるのは君しかいないなんて。
 しょっちゅうそれなんだから、いくらわたしだって、いい加減にしてよっていいたくなるわよ。いさぎはあいづちを打つ気もなくして聞いていた。
 次の女は、二人きりになると、いきなり男の性欲を話題にした。男の性欲は女の数十倍も強いんですってね。知ってました? 男の体では精子がつくられるでしょう。あれをどうしても放出しなければならないからなんです。男ってたいへんですね。それも二十歳くらいがいちばん強いっていいますから、ほんとは男は十八くらいで結婚したほうがいいそうですよ。女だって若い男のほうがいいですものね。木下さんは性欲は強いほうですか。
 いさぎはいつもながら、女の鈍感さにへきえきする。男心にうといとかいった程度のものではない。
 女にはなにか先天的に人の心を理解する能力が欠けているのではないかとまで思える。
 だが、そうなる理由もわからないではない。今の社会には恋愛というものがほとんど存在しないのだ。
 男はみな、女と深くつき合うことを好まない。結婚もしない相手と性行為にいたるのを避けるためだ。そのため、ある程度親しくなり始めると、つまり数回デートしたくらいで、結婚するかどうか結論を出さなければならない。これでは恋愛になる暇がないわけだし、異性に対する理解も表面的なところで終わってしまう。
 結婚すれば結婚制度という枠に守られて、もはや相手を理解しようという熱意も必要性も生まれてこない。
 男はまだ結婚に命がけというところがあるから、どうすれば相手に気に入られるかということぐらいは自然と学んでいる。
 ともかくいさぎは、ワクチンができようができまいが、当面結婚する気はなかった。
 いさぎはひそかに体を鍛え始めた。妹のダンベルなども利用した。たちまち体に筋肉がついてきた。
 世の中がかわれば、これが男らしいということになるはずだった。
 研究所での日常にも、とくに変化はなかった。秘密のプロジェクトに関しても、なにひとつ察知することはできなかった。
 ただひとつ、不審に思ったことがある。経理課という仕事の性質上わかったのだが、かなりの数の研究者に、報奨金という名目で給料とは別に多額の金が支給されているのだ。
 報奨金の制度があることは不思議でもなんでもない。だが、その金額がどう考えても世間の常識からして高すぎるのだ。ただでさえこの研究所の給料は高いのだし、それに、前からいさぎが疑問に思っていたように、たいして研究成果が上がっているようでもない。研究所の運営資金は各国政府から出されており、もとはといえば税金だ。こうした使われかたでよいのだろうか。
 いさぎがそうしたことを考えながら日々をすごしていると、ようやく真理子から連絡があった。十二月の初めだった。
 電話をとった千早は、「女の人からだよ」と意外そうな顔でいった。
 いさぎは妹や母に聞かれていることを意識して、デートの約束をしているような感じで受け答えした。今度の日曜の午後一時に、あの部屋にきてくれということだった。「おもしろい話が特別に聞けるから、ぜひきてね」と真理子はいった。
 当日は、鉛色の空から雪がちらつく寒い日だった。
 いさぎは厚いコートを着て出かけた。街で見かけるたいていの人がコートかオーバーを着ている。
 いさぎはこうした季節が嫌いではなかった。未婚と既婚の区別がつきにくくなるからだ。
 電車から外を見ていると、「男の義務エステティック」という看板がよく目についた。ほとんど駅ごとにある。このごろ急成長している全身美容のチェーン店だ。
 男の義務か、といさぎはつぶやいた。確かにうまい広告文だ。男は、義務とか使命といった言葉に弱いのだ。
 いさぎは新宿駅で電車を下りた。
 真昼間だというのに、すでに街には人があふれている。店もほとんどが営業しているらしい。
 いさぎはもう街に慣れた気になって、悠然と歩いた。人が見たら、キャバレーのホストが出勤するところと思うかもしれない。
 例のビルに着き、八階の部屋に行った。真理子がドアを開けてくれた。
 部屋の中は、この前と違ってずいぶんかたづいて清潔になっている。真理子がさらに女の役割≠ノ目覚めたのだろうか。
 氷上のほかにもう一人男がいた。やけに大きい男だ。まるでゴリラだ。
 氷上が紹介してくれた。
「こちらは矢島たかしといって、おれの右腕的存在だ」
 いさぎはあいさつを交わした。
「これからおいおいグループのほかの者にも会うことになると思うが、総合医学研究所に勤めていることはいわないようにしてくれ。どこで秘密がもれないとも限らん。君はなにしろ研究所内の時限爆弾だからな」
「たいした爆発力はありませんけどね。ただ、ちょっと気づいたことがあるんです」
 いさぎは報奨金のことを話した。
 氷上はたいして意外でもなさそうにいった。
「あの研究所はそもそも、女どもの秘密結社が医学界をぎゅうじる目的でつくったんだ。そのために金をばらまくわけさ」
 いさぎはそんなものかと思ったが、さらにいった。
「それと、前から疑問に思ってたんですけど、あそこって規模の割にあまり研究成果がない気がするんです」
 それには矢島が答えた。
「女ってのは頭が悪くて、複雑で高度なことは考えられないんだ。だから、いくら研究しても成果なんか出てこなくて当然さ」
 いさぎは、その言葉で真理子が傷ついたのではないかと思って表情をうかがったら、目が合った。
 矢島はさらに強い調子で女の悪口をまくし立て始めた。女は動物的存在で、想像力が欠如し、自己中心的で、うぬぼれやすく……。
 真理子は電話で、おもしろい話が聞けるといったが、まさかこんな話ではないだろう。
 いさぎは矢島の言葉がとぎれたときをねらっていった。
「ところで、今日はなにかあるんですか」
 氷上が答えた。
「ああ、そのためにきてもらったんだ。君は大杉ミチル博士という人を知ってるか」
 いさぎは首をかしげた。
「男で文学博士になったというので一時有名になったかたなんだが、君の年では知らないかな。われわれの運動の理論的指導者で、『男はおれだ』というスローガンも大杉博士の考えたものなのだ」
「そういえば聞いたような……。確か民話の研究をした人では」
「そうだ。正確にいうと、二十世紀末の通俗小説を昔の民話と関連づけて研究したのだ」
「二十世紀末の通俗小説というと、ほとんど失われてしまったのではありませんか」
 いさぎは前にその時代のことをいろいろ調べたことがある。
「マイクロフィルムや磁気テープに収録されたものがあるし、一部には保存処理された書物もあったそうだ。なんでも、ますらお神社に巨大な地下書庫があって、そこにかなり保存されていたらしい。博士はそうしたものを苦労して収集されたのだ」
「でも、そのころの通俗小説というのは、みんなワンパターンで、内容的に見るべきものはないということになってますが」
「個々の小説をとってみると、確かにそうだ。ひとつの作品がヒットすると、同じような作品がつぎつぎとつくられていく。だが、大杉博士は、それを全体として見たとき、民話や昔話といわれるものが生まれ、形をかえながら各地方に伝わっていくのと共通していることを発見し、これら通俗小説をマスメディアの生んだ民話と位置づけられたのだ。そして、この両者を統一的に分析することで、民話研究と文学研究の両面で画期的な業績をもたらされたのだ。だが、そのために女どものねたみを買って、それに、博士の研究が革命的な方向に進んでいったこともあって、学界から追放されることになった。だが、それからも独力で研究を積んでこられたのだ」
「その博士の話が聞けるんですか。でも、民話とか小説の話では……」
「いや、博士は小説の研究を通して男性文化にもお詳しいのだ」
「男性文化?」
「二十世紀までの男性優位社会をささえてきたもの、それが男性文化だ。ま、そういうことば話を聞けばわかる。今日、キャバレー・ビルの上のほうで博士の講義がある。今後、数回にわたって行われることになっているが、おれたちのグループからは特別に二人受講できるようにしてもらった。木下君と真理子に行ってもらう」
「どうしてその二人なんだ。どうも納得がいかねえな」と矢島がいった。
「講義は録音してきてもらうから、ちゃんと聞けるさ」
「だったら、おれが行ってもいいじゃないか」
「おれの決めたことによけいなことをいわないでくれ」
「大杉博士の話を聞きたいというやつはいっぱいいる。どうして新入りと女なんだ」
「これは必然的な人選なんだ」
「どうも納得がいかねえな」
 氷上はいら立ちを示した。だが、矢島はかたくなな表情を崩さない。
「それじゃ、わけをいってやる。真理子は向こうから出てくれといってきたんだ。木下君は、今後重大な任務をやってもらう可能性があるから、早く本来の男らしさを身につけてもらわねばならん。そのためには、直接話を聞いたほうがいいからだ」
 矢島は反論のしようがなくて、不機嫌そうに黙り込んだ。
 矢島はシャツの上のボタンをふたつ外し、そでをまくり上げて、けむくじゃらの胸と腕を見せている。暖房がきいているとはいえ、この季節にはいかにも不自然だ。いさぎは、これも男らしさなのだろうかと思いながら、「男の義務エステティック」という言葉を思い出して、やはり男の義務を果たしてほしいような気がした。
「もうすぐ始まるから、そろそろ行ったほうがいいな」という氷上の言葉をきっかけに、いさぎと真理子は部屋を出た。
 エレベーターの中でいさぎはいった。
「矢島さんはあなたに気があるのかな」
「どうして」
「ぼくと真理子さんが行くことに不満そうだったから」
 真理子は肯定とも否定ともとれるあいまいな微笑を浮かべた。
 真理子は矢島のことをどう思っているのだろう、といさぎは考えた。真理子が本来の女らしさを身につけているなら、ああした男らしさに魅力を感じるのだろうか。
 キャバレー・ビルは西新宿にある。二人はガードの下をくぐった。やがてキャバレー・ビルが見えてきた。
 キャバレー・ビルとは、四十八階に達する高層ビルである。中にたくさんのキャバレーが入っているので、この名がある。ビルの外側はけばけばしい大きな看板がいっぱいにとりつけられ、昼間から電飾が輝いている。
 東の歌舞伎町、西のキャバレー・ビルといわれ、新宿歓楽街を象徴する存在である。
 今日本で高層ビルと呼べるのはこれひとつだけだった。
 以前は、ここ西新宿にたくさんの高層ビルがあったというが、すべて老朽化して取り壊されてしまった。跡地には、いかがわしいバラック建ての性風俗の店がひしめいている。高層ビルは建築費と管理費がかさむので、今は建てられない。
 ただひとつだけ残ったのがキャバレー・ビルである。以前は都庁が入っていたという。今都庁は亀戸の六階建ての駅前ビルの中に入っている。
 どうも昔と今とでは、行政機構の大きさがずいぶん違うようだ。
 ビル内には、キャバレーに限らずありとあらゆる性風俗の店があるのだが、中でもストリップ劇場が有名である。劇場のつくりがますらお神社の儀場とほとんど同じ――つまり正面に儀長席、演壇、雛壇があり、それに向かって客席があるという形になっていて、儀場ストリップという名で知られている。やりかたがかなりかわっていて、最初背広姿の男が演壇に立ち、観念的で難解な言葉を連発しながらわけのわからない演説を始める。そこへ女が出てきて、男の服を一枚ずつ脱がせていく。その間も男はまったくかわりなく演説を続ける。女は裸にした男をさまざまに愛撫して、興奮を高めていく。ついに男が興奮のあまり演説ができなくなると、女は男を演壇の上に押し倒して、本番行為に移る。これが基本のパターンである。獣姦もSMもないが、しかしこの儀揚ストリップは伝統と格式を誇り、根強い人気を保っている。
 儀場ストリップは、いつ始まったのかわからないほどに起源は古く、いかなる意味をもっているのかも判然としない。しかし、なにか象徴的な意味を読みとる人は多く、さまざまな議論を呼んできた。
 中でも有力なのは、男の時代から女の時代への転換を象徴的に演じたものではないかという説と、昔あった形而上学が解体される過程を示したものではないかという説であった。
 いさぎは真理子に案内されて、ビルの裏のほうへ回った。ごみがうず高く積まれたすきまに、小さな出入口があった。
 ごみは残飯のほかに、空きびん、使い捨ての紙おしぼり、古いタオル、それにコンドームやハンド・コンドームも見える。ハンド・コンドームとは、男が女の体を愛撫するときに使う、ほとんど手肌と同じ感触の薄い手袋である。
 出入口を入ってしばらく行ったところに、男が二人いた。いさぎは氷上から教えられた合言葉をいった。
 一人が真理子を見て驚いたが、もう一人は心得ているらしく、講義の行われる場所を説明した。
「この通路をまっすぐ行くと、突き当たりにエレベーターがありますから、いちばん奥のに乗って三十八階まで行って、それからは階段で最上階まで上がってください。あとは、行けばわかります」
 通路にはまるで人がいなかった。どうやらごみ捨て専用の出入口らしい。エレベーターも荷物用だった。
 エレベーターは三十八階までしかない。降りたところのすぐ近くに階段があった。
 廊下や階段の天井や壁には、大小さまざまなパイプが走っている。足元にもあって、ときどきまたがなければならないし、頭を低くしなければならないところもある。ところどころ水がもれて階段が濡れていて、藻や苔でぬるぬるする。
 ビルが古くなると、給排水のパイプがまっ先にだめになる。取り替えるのは面倒だから、別のところに代わりのパイプを取り付ける。そのため、廊下がパイプだらけになるのだ。
 これぐらい上の階にくると大衆的なキャバレーはなく、秘密クラブ的な、なにをやっているのかわからないような店が多い。客同士のレズビアン、夫婦交換、のぞき見などだ。ほかにポルノ撮影用のスタジオ、もぐりの美容整形医、刺青師、占い師といった商売もある。
 階段を登るのにうんざりしたころ、やっと最上階に着いた。そこにも男がいて、示された方向へ行くと、講義の行われる会場があった。
 百人以上入れそうな部屋だ。すでにかなりの数の男たちがいる。いさぎがこれまでに味わったことのないような、熱っぽい雰囲気が満ちている。男くさい、とでもいうのだろうか。
 いさぎと真理子が入っていくと、いっせいに視線が集中した。女がきたので、みんなびっくりしたのだろう。
 部屋の中ほどに席を見つけ、二人並んで座った。
 まだみんなは真理子の存在を気にしている。それどころか、しだいに緊張が高まってくる感じだ。
 スパイではないかと疑っているのかもしれない。
 そのときいさぎは、後ろから肩をたたかれた。振り返ると、見覚えのある顔があった。いさぎが初めて新宿歓楽街に足を踏み入れたとき、まろうどという店まで案内してくれた男だ。確か中西といった。今日はもちろんピンクの背広ではないし、頭にはかつらをかぶっているので、この前とはだいぶ感じが違う。
「この前は悪かったな」と中西はいった。
「いいえ」といさぎは応じた。
 中西は今度は真理子にいった。
「久しぶりだね。元気?」
「ええ」と真理子はほほえんだ。
「お兄さんによろしく」
 それだけいうと、中西は少し後ろの席に戻った。
 部屋の中の空気が微妙に変化していた。先ほどまでの緊張はなかった。警戒心が消えて、代わりに積極的な関心が芽生えているようだった。多くの男たちが、素知らぬふりをしながら、真理子に好色な視線を送っていた。真理子はそれを感じて、消え入りそうな風情で顔を伏せていた。そんな様子がさらに男たちの気をそそるらしかった。
 真理子がここにくることになったのは、そういう効果を見越した上でのことなのだろう。
 やがて、人数がそろったのか、後ろの扉が閉められた。そして、前の壇上に三十歳前後の男が立った。男は、よく通る力強い声でしゃべり始めた。
「同志諸君、われわれは今、歴史の重大な転換点に直面している。二百年にわたる暗黒の時代に今まさに終止符が打たれようとしているのだ。われわれが二百年にわたって待ち続けたものは、みなも知っての通り、すでに事実上完成している。今や秒読み段階である。腐りはてた女どもの支配に鉄槌を下し、二百年の恨みを晴らすときがついにきたのだ。
 今日ここに集まった同志諸君は、解放闘争の中心的な担い手になる精鋭ばかりである。十分に男としての自覚をもち、女どもをうちのめさんとする闘志に燃えていることと思う。しかし、われわれの解放闘争は、物理的に女に打ち勝つことだけで成就するものではない。並行してイデオロギー闘争を行い、女どもの押しつけた誤ったイデオロギーを粉砕していかなければならない。
 そのことを考えれば、こうして大杉ミチル博士をお招きし、今日より数回にわたって男性文化の講義を聞ける機会をもてたことは、誠に意義深いことといわねばならない。女の時代の二百年によって失われてしまった男性文化を学び、男と女の正しい関係のありかたを知ることで、われわれの闘争はよりいっそう勝利に近づくものと確信する。
 なお、ここでの講義内容は、諸君らの所属するグループの全員に伝えられ、さらには、いわゆる穏健派の、まだ目覚めていない男たちにも広めていくことが期待されている。
 キャバレー・ビル最上階で行われたこの講義は、男性解放闘争史上においてきわめて重要な役割を担ったものとして、のちのちまでも語り伝えられることになるだろう。
 では、講義に先立って、博士について簡単な紹介を行っておく。
 大杉ミチル博士は、若くして結婚されたが、幸運にも[#「幸運にも」に傍点]すぐに奥さんを亡くされ、それから本格的に文学研究に取り組まれるようになったかたである。それまでまったく顧みられることのなかった二十世紀末の通俗小説を独創的な角度から研究し、女どもにはとうていまねのできない大きな成果を挙げられた。博士はさらに、小説というよりも、小説に書かれたところの男性文化そのものの研究に向かわれた。この研究は当然、今の女社会の建て前を突き崩すことになる。ために博士は学界から追放される結果となったのだが、博士はその後も独力で研究を続行されて、今では男性文化に関しては世界的な権威となられたのである。
 今回の一連の講義では、まず博士の得意分野である二十世紀末における男性文化について語っていただき、さらには男性文化の発生と展開についての歴史的な研究も披露していただく。それから、なにか歴史上の重大な発見も初めて発表されるということで、楽しみにしたいと思う。では、先生、どうぞ」
 前のほうのドアが開いて、大杉博士が登場した。その姿を見たとたん、いさぎはあっと驚いた。驚いたのはいさぎだけではない。部屋全体にどよめきが広がる。
 大杉博士は、かつらもせず、はげ頭そのままで現れたのだ。額から頭の真ん中までがつるつるになっていて、耳の上から後頭部にかけて帯状にかろうじて髪が残っているだけだ。
 かつらをつけず、はげ頭を人目にさらす――それが男性文化なのか、といさぎは強い衝撃を受けた。
 はげという現象は、男性ホルモンと関連しているらしく、女性にはほとんど見られない。考えてみれば、むしろ男らしさの象徴として誇ってよいはずだ。隠さなければならないとする価値観は、まさに女の押しつけたイデオロギーに違いない。
 博士は五十代くらいで、背はむしろ低いほうだ。それに、かなり腹が出ている。まるっきりシェイプアップなどしていない感じだ。これもまた男性文化なのだろうか。
 いずれにせよいさぎは、この博士は本物だと思った。学問のための学問ではない。自分の生き方と結びついている。
 博士は壇上の椅子に坐り、マイクの位置を正してからしゃべり始めた。
「学問の最大の敵とはなにか。君たちにわかるかね」
 博士はゆっくりとみんなを見回した。低い、威圧感のある声だ。
「それは権威主義である。権威主義の支配するところに、新しいもの、独創的なものは生まれないのである。わしの研究は、まさに権威主義への挑戦であった。それまでもっとも価値がないとされてきた二十世紀末の通俗小説をあえて取り上げたのも、そういう意図からである。ところが、わしが低俗な嗜好をもった人間だからだと勝手に決めつけるやからが少なくない。こういうのを下種のかんぐりというのだ」
 いさぎは話の内容よりも、「わし」という言葉が実際に使われるのを初めて聞いて、力強さの中にもみやびやかな響きをもっていることにひたすら感心していた。
「わしがそうして研究した結果、通俗小説の大いなる価値が明らかにされた。つまり通俗小説には、当時の民衆の深層意識が反映され、したがって、より真実な人間の姿が表れているのである。一方、古典文学には、作者個人の、合理主義的枠組みにとらわれた思考しか反映されていない。ここにおいて、古典文学と通俗小説は、完全に上下ところをかえることになったのである。だが、古くさい権威にすがろうとする女どもは、わしを非難し始めた。まったく女というのは、思考を革命的に転換することができないのである。はっきりいって、ばかだということだな。
 そして、わしの研究は歴史観の修正をももたらすことになった。これまで暗黒の近代ということがいわれてきたのは、古典文学に描かれた苦悩する近代人を主たる根拠としていたわけだが、通俗小説には、性と暴力をエンジョイする大らかな近代人の姿が描き出されていたのである。当時、古典文学の出版部数はごくわずかで、読者は一部の好事家だけであったことを考えると、通俗小説における人間像こそ近代人の真の姿と見なさざるをえない。考えてみれば、これまで古典文学が称揚されてきたのは、そこに描かれる人間像が女社会の歴史観につごうがよかったからにすぎないのである。
 わしはさらに、通俗小説の研究から、通俗小説に現れる当時の男性文化の研究へと向かった。男性文化というのは、広い意味では男性のつくった文化全般を指すが、ここではより限定して、男性優位社会をささえる文化という意味である。男のほうが腕力が強いから男性優位社会になるというような単純なものではない。社会のすみずみにまで男性文化がゆきわたらなければ男性優位社会はありえないのである。こうした研究は当然、女社会の欺瞞に抵触することになる。その結果、男だてらに文学や歴史に首をつっ込むなといわれて、学界から追放されたのだが、それはむしろわしの学者としての勲章だと思っておる。勲章というのは、男の名誉といった意味だ。
 ところで、昔の男性文化を研究するのに、なぜ事実を記した文献でなく小説に基づくのかを説明しておこう。二十世紀末の通俗小説には、エロスないしはバイオレンスという言葉を冠して出版されたものがひじょうに多い。そして、男性文化の本質は、まさしく性と暴力にあるのである。これだけいえばもう十分だろう。当時の通俗小説こそ、男性文化をもっとも正しく伝えているのである。
 もちろん小説であるから、書かれているのは事実ばかりではない。なにしろ昔の人間にはわれわれには思いもよらない想像力があって、怪物や妖怪と戦ったりセックスしたりするという小説も多いからな。それをそのまま信じるほどわしはばかではない。
 したがって、わしがこれから述べることが、いかに奇妙なことであっても、それは通俗小説に基づいているからだといった批判をしてはならん。それではばかな女どもと同じだ。わかったか」
 博士は、聴衆の反応を見るように、また部屋を見回した。
 いさぎは隣の真理子の様子をうかがった。博士が「ばかな女」と繰り返すからだが、真理子は別に気にしているふうはなかった。
「今もいったように、男性文化の本質は性と暴力にある。まず性から説明していこう。
 男性優位社会における性行為の本質は、一言でいって、所有権の確認と定義づけることができる。
 つまり、男と女の関係は所有と被所有の関係にあるのだということを確認することが、性行為の第一の目的になっていたのである。表現が抽象的でわかりにくいかもしれんが、これから具体的に述べていく。
 小説に書かれている性行為は、大きくレイプ型と非レイプ型に分けることができる。ただしこの両者は、性器を結合してからの区別はそれほどない。今の時代と比べても同じようなものだ。同じ人間のすることだからな。違うのは、そこにいたるまでの手順だ。レイプ型においては、目的に向かって直截に、短時間にことが運ばれる。非レイプ型においては、かなり手の込んだ儀式化した手順を、時間をかけて行うわけだ」
 そのときたまりかねたように、一人の男が声を上げた。
「質問していいですか」
「なんだ」
「当時は、一般的にいって男のほうが力が強かったと聞きましたが」
「そうだ」
「それでもレイプがあったんでしょうか」
 大杉博士は一瞬ぽかんとしたが、すぐに声を張り上げた。
「ばかもん、なにを考えておる。レイプするのは男のほうだ」
 今度は質問した男のほうがぽかんとし、かろうじて気をとり直して質問を続けた。
「でも、男と女は体の構造が違いますから、男が女をレイプすることはできないはずですが」
 男は少し恥ずかしそうにいった。まだ若い、色白の男だ。
 ちなみに、ここにきている男たちは、見た目にはごくまともな男たちばかりだ。どこか屈折した感じはあるが、少なくとも、メンズ・リブをやるのは醜男ばかりだという説はあたっていない。
 博士はいら立ちを抑え、かんで含めるようにいった。
「そういうのが女社会の間違ったイデオロギーなのだ。もちろん男でもレイプはできる。というよりも、昔はレイプといえば男がするに決まっていたのだ」
「かりにできるにしても、女を喜ばすだけの結果になりませんか。いや、そもそも向こうが拒否してくれないことには、レイプにならないんじゃないですか」
「ふむ、それはなかなか鋭い指摘だ。だがな、そこはちゃんとできているのだ。昔の男は実に頭がよかったといわねばならない。まず、女が未婚で子どもを産むのは恥ずかしいことだという社会通念をつくる。さらに、女が子どもをかかえて一人で生きていくのがむずかしいように、働き口を狭くし、給料も少なくする。それから、処女を尊重し、性体験のある女を傷もの″と呼び、性体験が多いほど女の値打ちが下がるという考えを広める。こうした仕組みによって、おのずと男は女に対して性的に優位に立つことができ、レイプも可能になるというわけである」
 聴衆はみな、昔の人の知恵に感心して嘆声をもらした。
 今度は別の男が発言した。
「どうやってレイプするのか具体的に説明してください」
「説明するほどのことではない。要するに、女を押さえ込んで、服を脱がせ、ペニスをヴァギナに挿入するだけのことだ」
 ざわめきが起こった。みんなよく理解できないのだ。いさぎもわからなかった。
「どうやって愛撫させるんですか」とさっきの男がいった。
「なんだって」
「ペニスを立てなければ挿入はできないと思いますが」
「あたりまえだ」
「立てるためには、その……」
「そんなのは自分で立てるに決まってるじゃないか」
「自分で? 女を片手で押さえ込むんですか」
「ばかもの。なにを考えておる。自然に立てるということだ」
「ああ、なるほど。でも、必ずとは……」
「それはだな、男性文化の根幹をなすことでもあるのだが、男というのは、女に愛撫されずとも任意のときに勃起させることができなければいかんのだ。当時の男なら当然その男性文化を身につけているわけだ」
 さらに大きなざわめきが起こった。みんなそんなことが可能だろうかという顔をしている。
「ですけども」とさっきから質問していた男はなおも食い下がった。「女が股を閉じればやはり不可能ではないですか。いくら男の力が強いからといって」
「女はそういうことはしないのだ。抵抗するのは最初だけで、やがて抵抗を諦め、挿入を許す。そうなれば、やがて興奮して腰を使うことになる」
 部屋の中はいっせいにざわつき、さまざまな私語が飛びかった。女が腰を使うというのはどういうことか。男ならわかるが。さっきの話と矛盾しているではないか。女は傷もの≠ノなり、妊娠するかもしれないのに、どうして抵抗しないのか。男の急所を攻撃されたらどうするんだ。体の構造からしてやはり男がレイプできるわけがない。
「うるさい。黙れ」と博士はどなった。「お前らはばかにしてるな。やはり通俗小説に書いてあることはおかしいと思っているんだろう。ばかもの。お前らにはわしの研究の値打ちがわからんのだ」
 みんな静かになった。博士はしばらくみんなをにらみつけていたが、やがて怒りが収まったか、またしゃべり始めた。
「男性文化というものは、お前たちが考えている以上に奥深いものなのである。いいか、女が抵抗をやめるのにはちゃんと理由があるのだ。勇気のある男たちが、しつこく抵抗する女をたまに殺すことがある。そのおかげで、たいていの女は、殺される恐怖を感じて抵抗をやめるのだ」
 誰かがいった。
「殺される恐怖を感じた女が、興奮して腰を使いますか」
 聴衆はなるほどといっせいにうなずき、博士は真っ赤になった。頭から湯気が出ているようだった。
 やがて博士は「ばかもん」と一言どなると、大股であっというまに部屋を出ていった。
 聴衆はあっけにとられて見ていた。最初にあいさつした男が博士のあとを追った。
 みんなは黙ってじっと待ち続けた。やがて、あとを追った男が一人で戻ってきて、みんなに向かっていった。
「君たちのさっきの態度はなんだ。博士に対する尊敬が足りん。博士ははなはだしくご立腹で、帰ってしまわれた。ま、こういうことはしばしばあるかたであるから、なんとかわれわれが説得すれば、たぶん次回はまたきてくださるはずである。次回は、来週の同じ時刻であるから、みなは必ずくるように。こういう有意義な機会はめったにあるものではない。そのへんのことをよく考えるように」
 彼はそれから、解放運動における学習の重要性についてひとくさり演説をしてから、散会を宣した。
「いっせいに出ていくと目立つから、出口に近いところから少しずつ順に出ていくように」といわれたので、いさぎと真理子はしばらく待ってから、部屋を出た。
 いさぎは真理子と並んで階段を下りながら、話しかけた。
「博士の話をどう思う」
「よくわからない」
「ぼくはだいたいほんとうのことだと思うな。まあ細かいところで違っていることはあるかもしれないけど。ぼくも昔の本で読んだことがあるんだ。確かに昔は男がレイプしたんだ」
「でも、抵抗すると殺すことがあるなんて」
「うん。まあ、めったにあることじゃないと思うけど」
 いさぎと真理子は、来週またくることを約束して、新宿駅の近くで別れた。

 一週間後、キャバレー・ビル最上階の部屋は、また男たちでいっぱいになった。いさぎは真理子と隣り合って座った。
 講義が始まるのを待っている問、やはりみんなしきりに真理子に視線を向けた。おそらく頭の中で、レイプ型セックスのリハーサルをしているのだろう。
 やがて大杉博士が壇上に姿を現した。いくぶん不機嫌な顔に見えるのは、やはり前回のことがあるからだろう。
 博士はまず、学問をする心構えについて話し出した。謙虚であれ、常識にとらわれるな、といったことだ。それから、また二十世紀末の通俗小説の価値について話し、これは以前とまったく同じ内容だったので、いさぎは聞いていて退屈した。
「今日は非レイプ型セックスの話をする」とようやく本題に入った。
「性行為の本質は所有権の確認にあるとは、前にいったな。レイプ型セックスにおいては、女は男の従属物である、ということが腕力によって確認されるわけである。非レイプ型においても本質はかわらないが、腕力の代わりに経済力が使われるという点で違いがある」
 今日はみんな神妙に聞いている。
「経済力を使うといっても、女に現金を渡すのでは、その女は娼婦だということになってしまう。娼婦というのは客に買われるもので、客は完全な所有権をもつから、セックスにおいて所有権を確認するという意味がなくなってしまう。また、マンションや店を買い与えるという方法もあるが、この場合は女はいわばプライベートな娼婦となり、やはり男が完全な所有権をもつことになる。どちらの場合も、セックスは本来の醍醐味を欠いたつまらないものになるのがつねである。
 したがって、所有しているともしていないともつかない中間の状態をつくり出さなければならない。
 そのために用いられるのが、女の目の前で金を浪費するという方法である。つまり、女を呼び出して、金のかかるところ、たとえば高級レストラン、バー、クラブ、演劇、コンサート、高級ホテルなどで金を使う。あるいは、花や衣類や宝石、貴金属などを贈与する。この場合は、実用的なものを贈らないことが肝心である。たとえば衣類にしても、きわめて装飾的なものが選ばれるのである。
 金を本人に渡さず目の前で浪費していくというのは、一見奇妙なやりかたのようだが、決してそうではない。たとえば北米インディアンのある種族には、ポトラッチといって、みずからの財力を誇示するために、相手の目の前でみずからの財産をどんどん破壊するという風習があった。それとまったく同じである。
 こうして女の目の前で金を浪費することにより、女を半ば所有し半ば所有していない状態をつくり出す。そうしてセックスにもち込むと、セックスは所有権の確認という本来の意味をもったものになるのである。
 さて、これまでのところでなにか質問はないかな」
 博士は聴衆を見回した。
 誰もなにもいわなかった。前回のこともあるが、昔の生活習慣についてほとんど知らないので、信じるしかないからだろう。
「では、いよいよセックス本番に移る。実際の行為は、現在のやりかたが男女逆になったものと考えて、だいたい間違いはない。つまり女がベッドの上に横たわり、男が愛撫するというわけである。その際、男は裸になることをあまり恥ずかしがる必要はない。それは女の役割だからである。
 愛撫のやりかたは、相手によって、その日の気分によって、自由に選択される。ただ、必ず行わなければならない儀式化された行為があるので、説明しておこう。その第一は、男性による女性の乳首の吸引である」
 あちこちから忍び笑いがもれた。赤ん坊みたい、変態じゃないの、という声も聞かれる。だが、博士は気にせず話を続けた。
「乳首の吸引がなぜ行われるのか。ひとつの理由に、そこが男性と同じに性感帯だからだということもあるだろう。だが、それだけでは、必ず行われることの理由としては不十分だ。もっと深い意味があるはずである。
 男がみずからの幼児期の母子関係を回想して行うのだ、という説もある。だが、性行為の最中に母子関係を回想するというのはおかしい。母子相姦はいつの時代も最大のタブーだからだ。それに、それまでずっと女に対して優位に立つべく力を誇示してきた男が、そのときだけ赤ん坊のようなふるまいをするというのも首尾一貫しない。
 こうして乳首吸引は大きな謎であったのだが、わしはついにその意味を解明することに成功したのだ」
 博士は聴衆を悠然と見回した。今日の聴衆はおとなしいので、しごく満足の様子だ。
「きっかけは、失われた男性思想家を研究していたことだった。その中の一人に、ジグムント・フロイトという人がいる。この人の学説を知ったとき、わしは乳首吸引の意味を悟ったのだ。
 フロイト博士は、夫の妻に対する所有権の強さを明確にしたことで、男性文化の確立に大きく貢献した人である。その学説の中にこういう部分がある。幼い息子が母親に執着するのを見た父親は、息子の行為をみずからの所有権に対する侵害と見なし、息子に対しペニスをちょんぎるという強い脅しを加える。そのため将来息子がノイローゼで苦しむことになっても、父親は責任を問われない。それほどに夫の妻に対する所有権は強いものだと、フロイト博士は主張した。当時は誰でも、夫の妻に対する所有権を認めていたが、フロイト博士は初めてそれを、息子と母親の関係以上のものとして位置づけたのである。
 この学説を踏まえれば、当時の男がなぜ乳首吸引をなしたか明らかであろう。夫は妻の全肉体を所有し、誰にも指一本ふれさせない権利をもつが、ただひとつの例外として、乳首だけは子どもと共有することになる。だから、男は将来生まれてくるであろう子どもに対し、優先権を主張する意味合いを込めて、必ず乳首吸引を行うのである」
 いさぎの周りの何人かが、なるほどとうなずいた。大杉博士の学識の広さ、論旨の明快さは、確かに人を納得させるものがある。
 博士はさらに話を続けた。
「そのほかに、もうひとついっておくべきことがある。これは乳首吸引のように必ずではないが、かなりの比率で行われ、しかも描写が克明で力が入っていることからして、その重要さは乳首吸引に優るとも劣らないと察せられる行為である。それは、女性器を詳細に観察するというもので、わしは一応、性器観賞の儀と名づけておる。
 もっとも、それは小説家がみずからの観察眼や描写力を誇って書いただけで、実際にどの程度行われたものか疑問視する向きもある。だが、わしは実際にも行われたものと確信しておる。なぜなら、これは所有権の確認という性行為の本質にもかなっているし、また、わが国の伝統文化とも関連しているからである。
 具体的にやりかたを説明しよう。愛撫によって女の興奮がある程度高まってきたころ、男は顔を女性器のすぐ近くにもってきて、性器の形状や色彩を詳細に観察するのである。形状というのは、わしもよくは知らんが、女によって千差万別であるらしい。だから、その違いというか特徴を観察し、記憶するわけである。色彩に関しても、人さまざまであるらしいのだが、ピンク色をよしとする基準があって、そのピンク色のぐあいを愛でるのである。また、観察眼は毛の生えかたにも及び、毛の集合した形状を分類にあてはめたり、密度を観察したりするのである。
 ここまでいえば、すでに気づいている者も多いだろう。そう、これは明らかにわが国の伝統文化である茶道と華道の影響を受けているのである。女性器を花にたとえたり、道具と呼んだりするのは、当時よく行われたことである。昔の男性の、花や茶器を愛でる心が、性行為においても現れていると考えるべきであろう。もちろん、このように女性を物と見なすことは、所有権の確認ということにもつながってくるわけである」
 博士はそれから、性器結合後の心得について話した。原則的につねに男のほうが運動しなければならない。男は鼻声であえいだりしてはいけない、といったことは目新しかったが、だいたいは、たとえば男性雑誌にこのごろよく載っている「愛される夫の大胆テクニック集」といったものから類推できることだった。
 ということは、ベテラン夫並みのテクニックを駆使するということであり、経験の浅い男はどうするのかという疑問が生じる。だが、いさぎは質問はしなかった。童貞であると、やはりこういうとき気後れを感じる。
 別の質問をする男がいた。
「そういうやりかただと女ばかり歓ばすことになって、男としてはばからしいんじゃありませんか」
「生理的快感という点ではそうだ。だが、男には女を所有したという精神的な快感があるから、決してわりを食っているわけではない」
 別の男がいった。
「性交を繰り返して二人の関係が固定化してくると、所有権を確認する意義が薄れてくるのではないでしょうか」
「うむ、それは確かにある。だから、男は二回目からは、女体の開発という作業に着手するのだ。女の体を開発して価値を高めていけば、それだけ所有権確認の意義も高まるというわけだ」
「女体の開発ですか」と質問した男は首をかしげた。
「つまり、女の体の上に、まだ誰にも知られていない性感帯を発見していくわけだ。鉱山開発のようなものだな。
 そのころは、今のような停滞の時代と違って、地球上のあらゆるところで開発が進められていた時代だ。男たちはみな開拓者精神をもって、果敢に未知のものに挑戦していった。そうした古きよき時代の気分が、女体の開発という言葉には込められているのだ」
 それから博士は、いくつかの質問に答えたのち、「今日はまだ時間があるので、これからバイオレンス小説について話すことにする」といった。
 博士の頭は、熱弁をふるったために汗で光っている。最初は気になったはげ頭だが、見慣れるとむしろ男らしさの象徴のようにも思えてくる。
「昔の男たちは、こよなく暴力を愛した。そうした男たちの姿をもっともよく表しているのがバイオレンス小説である。しかし、諸君は、バイオレンス小説といってもどんなものか、まったく見当がつかないだろうから、最初に簡単に紹介しておこう。
 まず主人公は、平凡な男である場合と、探偵や刑事などの暴力的な稼業に従事している場合とがある。平凡な男の場合は、まずたいてい恋人か妻がレイプされ、さらに殺されるか自殺することで小説は始まる。妻と娘がいっぺんにレイプされるという豪華版もある。暴力的な稼業に従事している男の場合も、クライマックスが近づくと、やはり男の所有物である女がレイプされるなどして、それが日常的暴力を超えた暴力への引き金になる。つまり、バイオレンス小説もまた、一皮めくると、女への所有権という主題が立ち現れてくるのである。なお、つけ加えると、当時はレイプされたことを公表するとさらに女の価値が下がるという事情があるので、男は自分一人で復讐するしかないという仕組みになっている。
 しかし、この復讐のやりかたが普通ではない。本来だと、自分の妻がレイプされたのであれば、犯人を探し出して、犯人の妻をレイプすることが、正当な復讐であろう。目には目を、歯には歯を、というやつだ。だが、バイオレンス小説における論理はそうではない。犯人の男に直接暴力を加えるのである。犯人はグループになっていることが多いので、主人公はグループ全員に制裁を加えていくということになる。これがまあ、一般的なバイオレンス小説の構造である。
 まず、この独特の復讐の論理に注目してみたい。ここからさまざまな意味が読みとれるのである」
 博士は次のようなことをまくし立てた。女に対する所有権の絶対不可侵性。男の暴力衝動はときに性衝動を上回ることがある。正しい暴力と悪い暴力を判定する基準は女子どものため≠ニいう名目があるかどうかだ。バイオレンス小説の源流であるアメリカの西部小説では、家畜泥棒は死刑という掟があり、その影響も考えられる。女を犯すと報いがあると教える点では仏教説話の伝統も受け継いでいる……。
 博士の話は暴力の具体的方法にも及び、話が終わったときには、予定の時間をかなり超過していた。
 博士は最後に次回の予告をした。
「これまでは、男性文化について個人的なレベルでの話をしてきたわけだが、次週は社会的なレベルの話に移ろう。男性優位社会というのは、今は失われてしまったある社会的なシステムによってささえられていたのだ。そのシステムとはなにかを知れば、現在の女社会を打破する方法もおのずと知られるはずである。では、今日はこれまで」
 前回と同じに、受講者は少しずつ部屋を出ていった。いさぎは真理子と並んで薄暗い階段を下りた。今日は特別寒く、足元にはパイプからもれた水が凍っていた。
「それにしても、男らしくなるっていうのはたいへんだな。つねに女をリードしなければならないし、男に対しても競争していくんだから。昔の男なら、生まれたときからそういう文化の中にいて、あたりまえにできたんだろうけど」
「でも、博士の話を聞いて、少しは男の自覚ができてきました?」
「ある程度はね。でも、まだ頭でわかるだけみたいだ。だって、やっぱりセックスをすれば死ぬ可能性があるんだから、それを思うと女性をリードするなんて気にはならないよ」
 実はいさぎはさっきから、階段が滑りそうだから、真理子の手を取ろうかと思ったのだが、やはり肌をふれ合わせることに抵抗があって、できないでいたのだった。
「ワクチンを打ったらどうなるかしら」
「そりゃあ相当かわるだろうね。それだけで考えかただって積極的になるんじゃないかな」
「ワクチンができたの」
「えっ」
「わたしたちのグループに一人分だけ割り当てられてきたの。ちょうど今ごろ兄が受け取っているところだわ」
 いさぎは真理子の顔を見た。ほんとうだろうか。もしほんとうなら、これから大きく時代がかわることになる。
「ほんとう?」
「ええ」
 真理子がそんなうそをいうはずがない。
 いさぎの頭の中をいろいろなことが去来した。半ば予想していたことなのに、いざ直面すると混乱してしまう。
「なぜそのことをぼくに」
 一人分というのは、リーダーのためにということだろう。
「兄は木下さんにそのワクチンを打ってもらいたいって」
「どうして」
「総合医学研究所の秘密プロジェクトを探ってもらうために」
「ああ。でも、ワクチンを打ったからといって、有能なスパイに変身するわけじゃないんだから」
「さあ、変身しないとも限らないんじゃないかしら」
 いさぎは考え込んだ。確かに性と暴力を恐れず、大胆に行動できるようになれば、有能なスパイにだってなれるかもしれない。
 この一人分のワクチンはかなり貴重なもののはずだ。次のワクチンがすぐくるとは思えない。場合によっては、地下研究所が警察に摘発されて、それきりにならないとも限らないのだ。
 いさぎは自分に向けられた期待の重圧を感じたが、この機会を逃す手はないとも思った。
「あまり自信はないけど、なんとかやってみたいな」
「それじゃあ、あした仕事が終わってからうちにきてください。兄と待ってますから」
 いさぎはうなずいた。
 キャバレー・ビルを出てから新宿駅まで歩く間、いさぎの頭の中にあったのは、どうやってスパイをするかということではなく、真理子のことだった。これで真理子を抱けるようになるのだ。だが、どうやって誘うかが問題だ。今の社会では、アベックでいて男が金を払うというわけにはいかないから、レイプ型でやるしかないのだろうか。真理子が同意してくれたらいいのだが。
 新宿駅の近くで真理子と別れた。
 真理子が歩み去るのを見送り、自分は駅へ向かおうとしたとき、いさぎは一人の女に目をとめた。
 背が高く、灰色のコートを着た女。見覚えがある。どこで見たのだったか……。
 いさぎは思い出して、ぎくっとした。今日、家を出るとき、家の近くで見たのだ。いさぎはこのごろ、背の高い女を見るとついアマゾネスではないかと警戒するので、その女のことも記憶に残っているのだ。
 女はいさぎのことなどまったく目に入らない様子で、駅に向かう人ごみの中に消えていった。
 単なる偶然だろうか。あるいは、ただよく似た女を見かけただけかもしれない。
 だが、そうでなかったら……。
 いさぎ自身は地下研究所とかかわっているわけではないので、非合法活動をしているとはいえないのだが、アマゾネスにかかってはそんなことは問題ではない。男性解放運動そのものが許しがたい悪なのだ。このごろは個人に対するテロ行為もふえている。
 いさぎは早くワクチンを打ちたいと思った。ワクチンを打って、あと少し体を鍛えたら、アマゾネスもさして恐れるには足りない。
 ただ問題なのは、いさぎが男性解放運動に関与していることが、研究所に知られてしまうことだ。
 そうなると、もはやスパイはできなくなる。
 もしかしてあの女は武田部長につかわされて、いさぎを尾行していたのではないだろうか。
 いさぎはそれ以上考えるのはやめた。確かなことはなにもわからないのだ。
 家に帰ると、ちょうど夕食の時間だった。
 母と妹と三人そろって食事をとった。
 母は料理がうまい。つくって人に食べさせるのが好きなのだ。
 妹は高校三年生だが、すでに大学へは推薦入学が決まっている。母の勤め先は安定している。遺族年金もあるから、生活水準もまずまずのところが保たれている。
 今、この家で問題なのは、いさぎが二十四歳にもなってまだ結婚しないということだけだ。
 いさぎは、今日の外出はデートだということにしておいた。「デートの誘いはできるだけ断らないことにしたんだ」という理由をつけて。
 母も妹も、ようやくいさぎが本気で結婚を考えるようになったと、一安心しているに違いない。
 そのためか、食卓では話題がはずんだ。いさぎもできるだけ二人に合わせて、楽しそうに話した。
 テレビでは、メンズ・リブのデモ隊がアマゾネスと衝突、デモ隊に多数の負傷者が出たというニュースを報じていた。


   第六章

 いさぎは研究所を出ると、いつもの駅へ向かう道とは反対方向へ歩き、しばらく行ったところでタクシーを拾った。
「新宿歌舞伎町」と行く先を告げ、車が走り出してからもしばらく後ろを見て、あとをつけてくる車のないことを確かめた。
 ようやく安心して前を向くと、運転手が話しかけてきた。
「お客さんは歌舞伎町に勤めてるの?」
「いいえ」
「まだ若いものねえ。歌舞伎町なんかになんの用があるの」
「兄が勤めているんです」
 いさぎは適当に答えておいた。
「ふうん、お兄さんがねえ」
「ええ」
「お兄さんはそうなっちゃったからしかたがないけど、お客さんはちゃんと結婚したほうがいいわよ。やっぱり男の幸せは結婚だからねえ」
 そのとき、追い越していった車が強引に割り込んできて、運転手は舌打ちした。
「ああ、やっぱり男だわ」と運転手はいった。「おかしな運転をするなと思うと、たいてい男なのよね」
「男は運転がへたですか」
「へたというよりも、無意味にスピードを出して、危ない追い越しや割り込みをするの。急用があるってのならしかたがないけどねえ。だいたい道路には車の流れってのがあるじゃない。でも、男ってのは、自分流の走りかたをするの。自己中心的なのね。自分の運転のうまさを見せびらかしたいのかな。なんにしても、迷惑だわ」
「でも、それは男が家庭にいて、社会的な訓練ができていないからじゃないですか」
「へえ、お客さんもメンズ・リブみたいなことをいうのね。ま、このごろのはやりだからね。でもね、あたしは男が社会に出るのは反対だね」
「どうしてですか」
 いさぎはいささかむっとしていった。
「男ってのは、ほどほどというのがわからないから、極端に走りやすいの。あるいは、なんでも杓子定規にやったり。そういうのが入ってくると周りが迷惑するのよね。会議なんかやったら、まとまるものもまとまらなくなるんじゃないかしら。それにね、男ってのは自分で自分はどれほどの人間かっていうのが判断できないから、同僚の出世をねたんだり、上役が自分のことを評価してくれないと陰で不平をいったりするに決まってるわ。ストレスに弱いっていうから、すぐ酒を飲んで、ぐちをいったり荒れたりするんじゃないかしら」
「そんなのわからないでしょう」
「あたしはそうなると思うねえ。男にとっても、今のままのほうがいいんじゃないの。家の中にいれば、お山の大将でいばってられるんだから。社会に出たってろくなことはないわよ」
「でも、昔はそうだったんですよ」
「それで世の中がめちゃくちゃになったから、今みたいになったんでしょ。歌舞伎町のどのへん」
「あ、このあたりでいいです」
 タクシーを降りたいさぎは、大通りを渡って歌舞伎町に入った。
 さっきの運転手の話のせいで、気分がむしゃくしゃする。
 ああいう考えかたをする人は、女ばかりでなく男にもけっこう多い。男は虚勢を張って競争する傾向があるので、社会に無用の混乱を引き起こすというのだ。
 しかし、そんなことはもはやどうでもいい。ワクチンができた以上は、よくても悪くても社会は劇的な変化を迎えざるをえないだろう。
 氷上の部屋に行くと、氷上と真理子が待っていた。
 いさぎは氷上に向かい合って座り、真理子はいわれなくてもお茶の用意をした。
「大杉博士の講義はどうだ」
「とてもためになります。驚くことばかりです」
 氷上はうなずいた。
「録音の複製をメンバーに回せば、そうとうな意識革命ができるな。その上にワクチンを接種すれば、強力な闘争部隊になる。女社会を打ち倒すことも可能だ」
「ワクチンができたそうですね」
「ああ。効力が確かめられた、といったほうが正確だが」
 氷上は黒いバッグから小さなプラスチックケースを取り出し、テーブルの上に置いた。ふたを開けると、注射器と小さなアンプルがひとつ入っていた。
「わざわざ一人前だけもらってきたんだ」
 いさぎの目はアンプルに吸いつけられた。なんの変哲もない、ごく少量の透明な液体。これが性と暴力の恐怖から男を解放するものなのか。
 いさぎはわざとなにげない調子でいった。
「これは量産できるんですか」
「製法は比較的簡単らしい。今、製造工場をあちこちに分散してつくっているところだが、本格的に製造が始まると、おれたち真の解放勢力に行き渡るくらいはすぐらしい。もちろんこれは世界的な規模での話だ」
「あくまで秘密裏に進めていくんですか」
「そうだ。しかし、量産体制ができてワクチンが広く出回り始めると、当然感づかれるだろう。警察やアマゾネスは、ルートをたどって工場をつぶそうとして、おれたちに攻撃をかけてくるはずだ。そこをなんとかもちこたえていけば、ワクチンはどんどん広がり、解放闘争を勝利に導くだけの力を得ることもできるはずだ。ただし、ひとつ問題がある」
「総合医学研究所の秘密プロジェクトですね」
「そうだ。女どもの秘密結社はいよいよそれに力を入れているらしい。アメリカからの情報では、男の長期服役囚が何人も日本へ移送されたという。おそらく人体実験用だろう」
「なぜアメリカから送るんでしょう」
「もちろん、日本の囚人では足りなくなったからさ」
 それほど大規模なものか、といさぎは驚いた。
「なんとかしてその正体を知りたい。それには君の力が必要だ」
 いさぎはうなずいた。
「もちろん、さぐり出すのはそう簡単なことではないだろう。だが、女性優位社会のおかげで、男の肉体には価値がある。それを生かせばなんとか突破口が開けるかもしれん」
「ええ、わかります」
 下っぱ職員のいさぎが秘密に近づこうとすれば、方法はただひとつ、自分の肉体を武器にして、高い地位にある女に接近し、愛人になり、心を許させて秘密を聞き出すしかない。それは、いさぎ自身きのうから考えて、結論としたことだった。
 男は通常、結婚に結びつかないセックスはしない。だから女も、娼夫は別にして、生涯に自分の夫しか知らないということになる。夫以外の男を知りたい――これはすべての女の願望といってよかった。
 それに、男が結婚を前提としないで体を許すということは、死の恐怖にまさるほどの純粋な愛情があるのだということになり、その意味でも女にとっては大きな喜びになった。
 いさぎは特別魅力的でもなかったが、それでもその体はかなりの威力を発揮するに違いなかった。
 ワクチンさえあれば、いくらでも体を許すことができる。
「必要があればおれたちの組織を挙げて協力するつもりだが、どういう作戦でいくか、腹案はあるか」
「一応、誰をターゲットにするかは考えました」
「誰だね」
「高原所長です」
「ふむ、大物だな」
「研究所は、事務部門と研究部門が完全に分けられていますから、研究部門の者に接近するのはむずかしいんです。事務部門でその秘密プロジェクトの内容を確実に知っていそうな者というと、高原所長と、あと武田部長という女くらいです。でも、武田部長とは、前にあのパンフレットを没収されたときにトラブルを起こしているので……」
 それに、高原所長は前からいさぎのあこがれの的でもあったわけだ。
「なるほど。どうせならトップをねらったほうがいいかもしれんな」
「ええ」
「どうやって機会をつかむ」
「それはまだ考えていないんですが」
「とにかく全面的な協力をするからな。真理子も自由に使ってくれ」
 氷上は注射器に手を伸ばした。
「左腕を出してくれ。皮下注射だから簡単だ」
「効力はどうなっているんですか」
「効き出すまでに三日かかる。それからは死ぬまで百パーセントの効力が持続する。変性エイズだけでなくエイズにも有効だ」
 氷上はあまり慣れない手つきだったが、それでも薬液は確実にいさぎの体内に注入された。
「これは魔法の薬のようなもんだな」と氷上は上機嫌でいった。「体に作用するだけでなく心もかえる。スーパーウーマン男性版だ」
 スーパーウーマンというのは、昔あったテレビドラマで、平凡な記者がいざとなると超人的な能力をもったスーパーウーマンに変身して活躍するというものだ。
 だが、魔法の薬≠ニいう言葉を聞いて、いさぎの胸にふと疑念が生じた。この薬はほんものなのだろうか。確かめるすべはないのだ。発病した場合を除いては。
 だが、いさぎは信じることにした。もはや今の世の中で男の幸せ″を求めて生きるつもりはない。
「気分はどうだね」
「別に。副作用でもあるんですか」
「そんなことはない。ワクチンを接種した娼夫もみんな元気だ」
「彼らはどうしているんですか」
「もう死ぬ心配はないとわかって、稼ぎまくっているよ。コンドームなし、ディープキスありというのがいちばん料金が高いんだ。彼らの稼ぎが工場設置の資金にもなっている」
「なるほど。いざとなればぼくも稼げますね」
 いさぎは半ば冗談のつもりでいった。
「君はそんなことをする必要はない。あの連中は男の誇りというものがないからいいんだが。ところで、君は童貞だろう」
「ええ」
 氷上は少し考え込んでからいった。
「あの高原所長というのは、かなりしたたかな女だ。へたをすると、ミイラとりがミイラになってしまう」
「ぼくが寝返るとでもいうんですか」
「そうは思わんが、しかし、十分注意してかかったほうがいい」
 氷上の心配もある程度理解できる。高原所長はなにしろ、結婚したい女ナンバーワンなのだし、それに、今の世の中には、男は童貞を捧げた女から離れられなくなるという常識″があるのだ。
 いさぎは所長に接近する計画をできるだけ早く立て、氷上に報告しながら実行していくこととした。
 帰りはまた真理子に駅まで送ってもらった。
 歩きながらいさぎはいった。
「ワクチンは打ったし、ある程度男性文化も身につけることもできたみたいだけど、ほんとうの男になるには、やっぱり経験を積まなければいけないと思うんだ」
「経験って?」
「博士がいったみたいなことさ。つまり、その、レイプ型とか非レイプ型とかあるじゃない」
「ああ。これからは誰とでもできるからいいですね」
 真理子はまるで人ごとのようにいった。
「でも、普通の女とじゃ意味がないと思うな。やはり男性文化にのっとってやらなければ」
「これからは、そういうことがわかる女もふえてくるんじゃないかしら」
 結局は、はぐらかされたままで、駅で別れた。いさぎは、真理子なら同意してくれるのではないかと思っていたので、いささかめんくらった。
 だが、それはいさぎがまだ受動的な発想をしているからだろう。ほんとうの男なら、相手の女の態度など関係なく、自分の意志を貫いていくはずだ。
 ともかくいさぎは、ワクチンが効力を発揮するのを待った。
 ワクチンを接種した翌日、満員電車の中で体をくっつけてくる女が気になるのは、いつもとそんなにかわりなかった。だが、研究所では、周りの女の言動を余裕をもって観察することができた。尊大な態度をとる女がいても、あと二、三日すれば、いざけんかとなればこちらが勝つのだと、内心見下していられた。
 二日目がすぎ、三日目が終わって、四日目の朝を迎えたとき、いさぎは自分がまるで生まれかわったことに気づいた。全身の筋肉がたくましくなったように思えるし、なにをするにも心がのびのびとしている。逆にいうと、それまでの自分がいかに不安や恐れに支配されていたかということでもある。
 スーパーウーマン男性版というのは、まさしくいいえて妙だった。
 おそらく体の姿勢や顔の表情もかわったに違いない。
 しかしいさぎは、自分の変化を周りの者に気づかれないよう注意した。少しでもあやしまれると、任務にさしつかえる。
 ところが、そう考えるとかえって、それまでいさぎが苦手だった、女に甘える、媚を売るといったことが容易にできるようになるから不思議だった。そして、それはけっこうおもしろいことにいさぎは気づいた。いさぎはそれまでお高くとまっている≠ニ見られていたので、ほんの少し媚を売るだけで、女たちに目立った反応を引き起こすことができた。それはなかなかおもしろいことで、多くの男たちがそうして手練手管を身につけていくのももっともなことに思われた。
 そうした中で、いさぎは書類の中に気にかかる言葉を見つけた。

 Living Hero Project

 例のLH計画の正式名称だ。
 生きている英雄計画――やはりこれが問題の秘密プロジェクトに違いない。
 それにしても、生きている英雄″とはなんだろう。エイズになっても死なないという意味だろうか。
 それ以上のことはわからなかった。
 高原所長に接近する手段についても考えたが、研究所の中で二人きりになる機会をつくるのは、ひじょうにむずかしい。研究所の外で偶然を装って会い、それをきっかけにするしかないのではないかと思えた。そのためには、所長の私生活について調査するところから始めなければならないだろう。
 そして、やはり真理子を抱かなければならない。これは男としての自信を確立するためにも必要なことだ。任務にも役立つのだから、真理子が協力するのは義務ではないだろうか。
 そんなことを考えているうちに日曜日になり、いさぎは大杉博士の講義を聞くためにキャバレー・ビルに出向いた。
 いつもより少し早めに行って、ビルの中を歩いた。客の女や呼び込みの男が奇異の目を向けてきたが、いさぎの、底に自信を秘めた態度に圧されてか、それ以上のことはなかった。
 やがて四十二階で目的のものを見つけた。

   貸し部屋――ベッド・シャワー付き、各種設備有り。

 昔は街のいたるところに、安価なセックス専用ホテルがあったということだが、今は歓楽街の中でもよほどさがさなければ見つからない。それにしても、各種設備とはなんであろう。よけいな想像をかき立てる。いずれにせよ、まともな育ちの男が行くところではない。
 だが、今、いさぎはただの若い男ではない。もしかすると世界でただ一人かもしれない、男性文化を身につけた、心身ともに完全な男なのだ。
 男として誇りをもって行動しなければならない。
 その手始めに、まず真理子を抱くのだ。
 今日の講義が終わってから、なんとかして真理子をここに連れ込むつもりだった。
 いさぎは講義の行われる部屋に行った。すでに真理子はきていて、隣にコートを置いていさぎの席を確保していた。
 黄色いセーターを着た真理子は、きゃしゃで可憐で、いかにも本来の女らしさを感じさせた。周りの男たちはある程度たくましい男が多いだけに、真理子の女らしさがいっそう際立っていた。
 いさぎは周りの男を意識して、真理子を抱きたいという意欲をさらに燃やした。今はただの同志でしかないが、抱くことで「おれの女」にするのだ。
 そしていさぎは、男の女に対する所有欲というのは、あくまでほかの男に対抗心をもつところからきていることに気づいた。もし世界にただ一人の男とただ一人の女しかいないとしたら、男は所有欲をなくし、セックスもつまらないものになるに違いない。
 隣に座ったいさぎは、真理子のセーターの胸のふくらみを見て、乳首吸引を想像し、激しく興奮した。これは、生まれてくる子どもに対する優先権とかには関係なく、むしろ、自分より若く小さい女の乳房を吸うということによる、倒錯的な興奮のように思われた。
 いさぎが座ると、真理子がすぐに話しかけてきた。
「兄が、この講義が終わったら木下さんに家にきてほしいそうです。なんか話があるらしくて」
 いさぎはうなずきながら、がっかりした。それでは真理子を抱けなくなってしまう。せっかく場所までさがしたのに。
 いや、別に講義が終わってすぐ行くこともあるまい。一時間や二時間はいいのではないか。講義が長引いたといって。
 もっとも、真理子が同意してくれたらの話だが。
 いさぎがそうして真理子を抱くことばかり考えていると、 大杉博士が入ってきて、講義が始まった。
「わしはこれまで、きわめて簡略化してだが、男性文化の本質的な部分を諸君に教えてきた。諸君はすでにそれをわがものとしたはずである。その上に、ワクチンによってあのいまわしい死の恐怖から自由になることができるなら――その日はもうすぐなのだが――諸君は必ず立派な男性として女に打ち勝っていくことができる。だが、それはあくまで個人的なレベルでのことである。多くの男性がワクチンを接種し、男性文化を身につけたとしても、果たしてそれだけで男性優位社会が実現できるのかという疑問があるであろう。たとえば、経済的実権を握るのがたいせつだといって、職場進出を進めていったとしても、女たちは既得権を守ろうとするだろうから、そもそも対等に競争するということすらむずかしい。いくら男の能力がまさっているといっても、これでは男が優位に立つまでに何十年かかるかわからないであろう。
 では、どうしたらいいかということになるのだが、わしがうまい方法を教えよう。それは、経済方面はあと回しにしてまず政治を復活させ、政治の実権をにぎる、という方法である」
 会場はかすかにざわついた。顔を見合わせたり、首をかしげたりしている者もいる。
「みんな、政治を知らんようじゃな。知っている者はどれくらいいる? ふむ、少しはいるか。しかし、知っているといっても、どうせ政治とはおろかで無意味な争いだといった程度の知識だろう。決してそうではない。政治こそ男性優位社会をささえたすばらしいシステムなのである。
 さて、政治とはなにかを説明する前に、順序として、男性優位社会の歴史を簡単に説明しておこう。男性優位社会は戦争の発生とともに始まった。刀や槍を使っていたころ、戦争は筋力や敏捷性や闘争心を最高度に発揮して行うすぐれて男性的な行為であった。これは時代が下がって武器が進歩しても、本質的にはかわらない。戦争は男の優越性を示す最高の舞台なのである。それに、戦争に負けると女が殺されたり犯されたりするから、男は女を守ってやることになり、おのずと優位に立ったわけである。
 しかし、戦争は人命や財産の損失を伴う。武器が発達するほど戦争がやりにくくなってきた。そこで男たちは、戦争にかわるものとして政治をつくり出したのである。
 政治のつくりかたはこうである。まず戦争する権利があるのは国家だけとし、ほかの集団や組織が戦争を行うのを禁止する。国家は死刑の権利ももったので、このふたつを合わせて殺人権と考えることもできる。こうして特別の存在となった国家には、おのずと男の暴力衝動や憎悪、復讐心などが集中し、国家の支配権をめぐって陰湿な抗争が起きてくる。さらに、国家の力をもっと強めようという国家主義思想を広め、暴力的すぎて社会に適応できないような男たちにその運動を行わせ、その一方で、国家を廃止しようという運動も起こして、争いをいっそう複雑にする。こうした国家をめぐる争いの総体が政治なのである。
 なお、現在も国家はあることになっているが、これはただ、お国のためといって男を結婚させるために、名目的に存在しているだけである。その実態は、殺人権をもたない、ほんのわずかの行政機構があるだけで、とても国家といえるものではない。
 政治とはしたがって、日常化、俗化した戦争だといえる。男たちは戦争のかわりに日々政治を楽しんだ。一方、女たちはほとんど政治に興味をもたなかった。そうして男は政治を支配し、政治を通じて男性優位社会をゆるぎないものとしたのである。
 政治を維持し、活性化していくポイントは、つねに戦争の危機をつくり出すことである。もし戦争の可能性がまったくなくなったら、政治はたちまち衰亡してしまうのである。当時の男たちは賢明にも、この関係を隠すべく努めた。ある軍人上がりの思想家などは、『戦争は政治の延長である』とまったく逆のことを書いた本を発表したほどである。
 戦争の危機をつくり出す仕事を外交といい、当時、男の仕事の中でももっともたいせつな、花形の分野とされた。外交官は、それとわからないように国家間に緊張をつくり出していく特殊な技術をもったプロフェッショナルであった。
 外交のやりかたは、ごく単純にいえば、最初に仮想敵国と称する相手を定め、お互いに相手を非難中傷することから始める。そして、制裁と報復を繰り返しながら、少しずつエスカレートさせ、ついには戦争にもっていくというものである。もちろん双方の外交官は共通のルールに従って、一種のゲームとしてことを進行させた。たとえば、一方が外交官を追放すれば、もう一方も同数の外交官を追放する。スパイを摘発されれば、こちらも摘発し返す。そのために普段からお互いにスパイを相手国に送り込んでおくわけだ。国境問題や領土問題でも、どんなささいなことでも決して譲らない。寛容や謙譲を完璧に排除する――これが外交の原則なのだ。
 もっとも、あまり大きな戦争をすると損害が大きくなり、戦争や政治に対する不信が起こってくるので、ときどき小さな戦争をするくらいが好ましいとされた。適切な戦争管理が政治を長続きさせるこつなのである」
 博士はさらに政治について語った。政党、選挙、さまざまな政治思想、テロ、革命……。いさぎは聞いていて、目くるめく興奮を覚えた。政治こそ、華やかで力強い、ほんとうの男の世界と思えた。
 今の時代では、男性解放運動の行われかたが若干政治に似ている。だが、今の男性解放運動は社会の枠組みの外にある。昔の政治は、何十万、何百万という人命を奪う戦争と直結していたのだ。
「こうしてつねに戦争の危機をつくり出すことで、長年にわたって政治を維持してきたのだが、二十世紀に入ると二度も戦争管理に失敗し、大きな損害を出してしまった。そのため強力な反戦思想が起きてきたのだ。これには男にも同調する者がいた。このころには、男自身にも戦争と政治の関係がよくわからなくなっていたらしい。そして、この動きは男性優位社会への批判につながった。こうして男性優位社会が揺らいだときにエイズが発生し、それがきっかけで男女逆転へといたるわけである。
 こうして政治の主導権をにぎった女どもは、まっ先に軍備縮小を進め、とうとう全廃させてしまった。死刑も世界的に廃止されたので、実質的に国家が消滅したことになった。そうなると政治の動きなど大した意味をもたなくなった。ちょうどそのころ、経済が停滞し、社会が静止状態になって、利害をめぐる争いもほとんどなくなったので、政治を介して調整する必要もなくなった。こうして誰もが政治に無関心となり、ついに政治という営みは消滅してしまったのだ。今では、ますらお神社のセレモニーにわずかに政治の名残がしのばれるだけである。
 したがって、今なすべきことば、まず戦争を復活させることである。そうすれば国家が生まれ、国家をめぐって政治が行われることになる。そうなれば、男はただ政治を支配するだけで社会全体を支配することができるのだ」
 博士はそれから、実際の運動について考えるのは苦手だといいながら、具体的な手だてについても言及した。戦争は国家間ばかりではない。最初は国内で始めればよい。少数の部隊で爆発物を使ってテロをするという手段もあるし、街頭のデモ隊が強力になって警官隊やアマゾネスとの衝突をエスカレートさせていけば、これも戦争に発展する。なによりも力だ、といったことを、博士は熱を込めてしゃべった。
「最後に、わしがつくったスローガンを紹介しよう。それは『銃声から国家が生まれる』というものだ。街頭で一発の銃声を響かせよ。そうすれば国家が復活するのだ」
 いさぎは、この博士はスローガンをつくるのが好きらしいと思った。
 最終回である来週は、エイズに関して新しい真実を発表するという予告があって、今日の講義は終わりとなった。先週よりは早い時刻だった。
 いつもと同じに、みんなは間隔を開けて部屋を出ていった。いさぎは真理子にあれこれと話しかけて、部屋を出るのが最後になるようにとはかった。
 すると大杉博士が近寄ってきて、真理子に言葉をかけた。
「君が氷上君の妹さんかね」
「はい」
「確かに昔の女そのままだ。実に気をそそるねえ。もしわしがワクチンを接種していたら、もうすぐにでも押し倒して、やってしまうところだがな。はっはっはっ」
 博士は、これも昔の男のやりかたなのだろうか、わざとらしく声高に笑った。
 真理子は黙って顔を伏せていた。
「お兄さんには、例の頼みごとをよろしくといっておいてくれたまえ。ま、ワクチンがわしまで回ってきてからの話じゃから、まだ先が長いがな。わしのようなおいぼれにはすぐには回ってこん。やっぱり任務のある者が先なのはいたしかたないからな」
 いさぎはなんとなく自分へのあてつけのような気もした。博士が氷上と親しいなら、いさぎがワクチンを打ったことも知っているのかもしれない。
 博士はいさぎを無視したまま、あれこれ真理子にしゃべって去っていった。おかげで部屋を出るのは、いさぎと真理子が最後になった。
 階段を下りながら、いさぎはさっきの博士の言葉を反芻した。わしがワクチンを接種していたら、すぐにでも押し倒してやってしまうところだ――。これが昔の男の普通の発想なのだろう。いさぎは勇気づけられる気がした。
「大杉博士のような人がほんとうに男らしい男というんだろうね」
「でしょうね」
「やっぱり魅力を感じる?」
「わたしはあまり好きじゃないわ」
「どうして。男らしいのは好きじゃないの?」
「さあ、よくわからない」
「やっぱりまだ女としての自覚が十分でないんだね。まあ講義を聞いただけですぐ自覚ができるというものじゃないと思うけど、でも、これから真理子さんには、ぼくの任務を手伝ってもらいたいと思うんだ」
「はい」
「そのためには、ぼくたちの二人の息がぴったり合う必要があるんじゃないかな」
 真理子はなにもいわなかった。
「だから、その、ぼくらはセックスをしてみるべきだと思うんだ。そう、これはぼくらの任務の第一歩だと思うな」
 いさぎは真理子の反応をうかがったが、あいかわらずかたい表情で黙っている。いさぎはあせった。
 もうすぐ四十二階だ。
「そうだろう」
「任務だからするんですか」とようやく真理子は口を開いた。
「うん。なにしろ重大な任務だから、万全を期さなければ」
「それだけ?」
「それだけって?」
「わたしのことをどう思っているの」
「そりゃあ、まあ……」
 四十二階へきた。いさぎは真理子の肩に手を回し、廊下へいざなおうとした。
「どこへ行くんですか」
「こちらに適当な場所があるんだ。時間はまだあるからいいだろう」
「ちょっと待ってください」
「そんなこといわずに」
「木下さんは任務のためなら誰でもいいんでしょう」
「そういうわけじゃないよ」といったとき、いさぎはようやく自分がなにをいうべきかを悟った。
「もちろん真理子さんだからだよ」
「どうして」
「今の時代にはめったに見られないほど女らしいし……」
「女らしいだけ?」
「それに、きれいだし」
 いさぎは真理子の肩を抱いて廊下を歩きながら、こうなったらなにがなんでも目的を達成しなければと、しゃべりまくった。
「君はとても魅力的だよ。ほんとにきれいだ。最初に会ったときからそう思ってたんだ。運命的な出会いっていうのかな。そう、ぼくらは世界で最初の正しい男女関係を確立するべく運命づけられていたんだ。君のようなすばらしい女性とめぐり会えたのはほんとうに幸せだよ」
 しゃべりながらいさぎは、昔の男がお金を使ったのはこういう手間を避けるためではないかと思った。
「貸し部屋」の看板のあるところに入ろうとすると、真理子はまた抵抗を示した。
「いいだろう。君が好きなんだ。愛してる」
 しゃべっているうちにどんどん口が軽くなって、なんでもいえるようになっていた。
「こんなところ、いやだわ」
「だって、ここしかないんだから。さ、入ろう」
 入口のドアを開けると、小さな窓口があり、中に老人が一人座っていた。
「部屋はありますか」
「どんな部屋にする」
 いさぎはどういえばいいのかわからず、絶句した。老人はいさぎと真理子の組み合わせを珍しそうにじろじろ見つめ、キーを差し出した。
「この廊下をまっすぐ行って、突き当たりの右側だ」
 いさぎは真理子の肩を抱いたまま、そちらへ行った。
 もとは全体がひとつの大きな部屋だったらしい。それをいくつにも仕切ってある。ボイラーがあり、そこから天井にパイプが走っているのは、たぶんシャワー用のだろう。
 いさぎはいわれた部屋のドアを開け、真理子といっしょに入ってから、明かりをつけた。
 異様な部屋だった。正面に十字架ならぬX字型に木を組んだものがあり、天井からは鎖が下がっている。壁にはロープや鞭、その他わけのわからない革ひもなどがぶら下がっている。
 いさぎはすぐにわけを察した。あの老人は、いさぎが真理子を従えているのを見て、通常の性行為ではないと思い、SMの部屋にしたのだ。
 とにかく、ベッドは普通のものがあるから、用は足りる。
 真理子はこの部屋にショックを受けたのか、かたい表情をしていた。
「ほんと、なに考えたんだろうね」といさぎは努めて明るい声を出した。「ぼくらは変態どころか、男と女の本来の行為をしようとしてるのにね」
 いさぎは両手を真理子の背中に回して抱き締め、キスをした。唇をくっつけるだけのキス。唇をこじ開けようとすると、抵抗がある。安料金の娼夫じゃあるまいし、と思いながらいさぎはしつこく唇と舌で意思表示を続け、ついに歯の奥にまで侵入する。と、真理子はぐったりと体をあずけてきた。
 いさぎは、そのほっそりとした体をさらに強く抱き締めながら、女を所有″する喜びに酔いしれた。
 真理子は処女に違いない(まさか娼夫など買っていないだろう)。いさぎも童貞だが、博士の話によって男はどう行動すべきかだいたいわかっている。この場においては、いさぎのほうが優位に立っているはずだ。そう考えると、体の中に力の感覚がみなぎってきて、いさぎの興奮は一気に高まった。
 いさぎは、ぐったりとなった真理子を運び、ベッドへ横たえた。手荒く、むちゃくちゃに扱いたいという思いをかろうじて抑え、一枚一枚服を脱がせていく。興奮のあまり頭のどこかが無感覚になっている。ようやく乳房があらわになる。いさぎはただちに乳首吸引の儀を行った。真理子が身もだえして、あえぐ。いさぎは真理子をすっかり裸にし、自分も服を脱いだ。改めて抱き合い、キスを交わす。いさぎは真理子の細い体をすっかり押え込み、存分にキスを続ける。恐れずにキスができる、その喜びを味わい尽くしたかった。だが、そのために興奮が高まりすぎた。もう性器観賞の儀もなにもする気になれなかった。いさぎはただちに性器の結合にかかった。右手を添え、それらしいところにねらいをつける。だが、なかなかうまくいかない。いさぎはあせりながら、昔流のやりかたは不合理だ、女が導いたほうがいいのではないか、と思う。ようやく入口をさがしあて、押し込んでいく。真理子は痛そうな声をもらし、体をずり上げて逃げようとする。いさぎは真理子の頭を押さえ、さらに深く侵入した。
 真理子は苦しげに眉をひそめている。いさぎは両手で上体をささえ、上から見下ろしていた。腰は深く結合している。少しでも動くと、あっというまに絶頂に達してしまいそうだった。こうして真理子の顔を見下ろしていると、かつて味わったことのない喜びが湧いてくる。それは、博士が繰り返し強調していた所有権の確認″の喜びに違いない。
 いさぎは肘をつき、真理子の両肩を背中からかかえ、上にずり上がらないようにして、動きを開始した。真理子は苦痛に顔をゆがめる。それがまた、いさぎの所有権の確認≠フ喜びになるのだが、SMの道具は使わなくてもやっていることは同じではないかと思うまもなく、いさぎは精を放っていた。
 いさぎは真理子と並んで上向きに横たわり、荒い息が静まるのを待った。ろくに味わわずに食べ物を呑み下したような気もするが、男としてひとつのことをやりとげたという満足感もある。
「痛かった?」
「少し」
 いさぎはあやまりかけて、やめた。なにも悪いことをしたわけではない。それに、もはや「おれの女」なのだ。
 それにしても、女が最初の性交で痛みを感じることが男の喜びになるとは、いかなるしかけなのだろう。
 今の時代は、この痛みがあることで女は男に恩を着せ、いっそう優位に立つ結果になっている。同じことが、力関係がかわるだけで全然別の意味をもつようになるらしい。
 いさぎは氷上のことを思い出した。
「そうだ、早く君の家に行かなくちゃ」
 真理子はいさぎの肩に頬を押しつけ、甘えた声で「まだいいでしょう」といった。
「そうはいかないさ。お兄さんが待っているんだから」
 いさぎはベッドを抜け出して、真理子の服をまとめて押しつけた。
「さ、早く着ろよ」
 真理子はのろのろと服を着た。
 部屋を出て、受付の老人に料金を払った。時間は少ししかたっていなかった。
 氷上の家まで歩く問、真理子はいさぎの腕にすがって、いろいろと話しかけてきた。今までになく親密な態度だ。やはり女というのは、本来のセックスをすれば、男に従属するようになるものらしい。
 家に着いたが、氷上はいなかった。代わりにテーブルの上に手紙と封筒があった。
 ――急用ができた。今夜は帰れない。封筒は木下君に渡してくれ。秘密の指令が入っている。せっかくきてもらったのだから、真理子はしっかりおもてなしするように。
 真理子はいさぎに封筒を渡しながら、首をひねった。
「急用ってなにかしら」
 いさぎは秘密の指令という言葉に緊張しながら、封筒を開け、中の手紙を読んだ。
 ――任務遂行のためには、男としての自信を確立する必要がある。理論と実践は車の両輪である。
 今夜は真理子を相手に実践に励んでくれたまえ。
 いさぎが手紙をもったままあっけにとられていると、真理子が「なにかたいへんなことなの」といった。
 いさぎはあわてて手紙をポケットにしまい込んだ。
 氷上は、いさぎがいきなり高原所長を攻略するのはむりがあると思ったのだろう。いさぎ自身もそう思うのだからむりもない。
 だが、自分の妹をそのために供するというのは普通ではない。
 いさぎは、氷上のメンズ・リブにかける気持ちの激しさを思った。
 もっとも、いさぎが性急にことを運んだので、氷上の配慮もあまり意味がなくなってしまった。
 しかし、せっかくの機会ではある。
 いさぎは深刻めかしていった。
「研究所内でスパイ活動をするのはきわめて危険だ。また会えるかどうかわからない」
 真理子は心配そうにいさぎを見た。その目には純真な思いが込められている。いさぎはヒロイズムに酔いしれた。
 戦争の危機があった時代、男はいつでもこういう喜びを味わうことができたのだろう。
「せっかく時間があるんだから、もう一回やろうか」
 真理子は反対しなかった。
 二人は寝室に行った。
 いさぎは、今度はあまりがつがつせず、よく味わうように努めた。

   第七章

 いさぎの心は怒りで満たされた。
 女どもへの怒り、女社会への怒り、二百年にわたる女の支配への怒りだった。
 その怒りをもたらしたのは、真理子を抱いた日の一週間後の、大杉博士の最後の講義だった。
 その日の講義は、武士が登場すると男性優位社会になったというような、もっぱら歴史に関する話だったが、最後にまた二十世紀末の通俗小説が取り上げられた。それは、アメリカのスーザン・ウェインという女性作家が一九七三年に発表した『フェミニズム菌』という作品だった。これは当時あったSFといわれるジャンルの小説で、内容は、接触感染で広がる、男だけが死ぬ病気が発生したため、女が男をレイプするようになった近未来社会を描いたものである。この小説はたいして評判にもならずに忘れられた。だが、ある過激派のフェミニスト・グループがこれに目をつけたのだ、と博士はいう。このグループは、男性優位社会をくつがえさなければ戦争によって人類が滅びるという強い危機感によって結束しており、目的のためには手段を選ばない連中だった。このグループは、ニューヨーク市郊外にあったフェミニストばかりの医学研究所を支配下に置いており、そこで研究を始めた。研究のために男を使って人体実験をしたが、その過程である菌が一般社会に広がった。これがエイズなのである。このグループはさらに研究を続け、結局目的のものを開発した。それがあの欠陥ワクチンであった。そうしてねらい通りに女社会が到来し、その過激派グループが中心となって秘密結社〈女の平和〉が結成されて、ずっと女の支配が続いてきたのだ。
 これが博士の最新の研究成果だった。博士はさまざまな資料を挙げて、女どもの陰謀を明らかにしていった。
 いさぎは驚くと同時に、強い憤りを覚えた。全世界に大量の死者を出したあのいまわしいエイズも、女どもの陰謀によるものだったのだ。いさぎは、女社会打倒にさらに情熱を燃やした。
 その講義のあと、いさぎはまた真理子をあの部屋に誘い(といってもSMではない普通の部屋だが)、真理子の体に憤りをぶつけた。真理子の体を一方的に荒々しく扱い、折り曲げ、裏返し、突き上げた。そうしながら心の中で「男はおれだ」と何度も叫んだ。
 仲間である真理子に憤りをぶつけてもしかたがないのだが、しかしいさぎはそうすることで、博士がいったようなほんとうの男になった気がした。
 その講義を聞いて以来、いさぎはいよいよ高原所長の攻略に本腰を入れるようになった。
 と同時に、いさぎの中での所長のイメージが微妙に変化した。それまでむしろ敬意をいだいていたのが、憎しみの対象になったのだ。なにしろ所長は秘密結社の主要なメンバーなのだ。いさぎは空想の中で、何度も所長を荒々しく犯した。そうして所長に男と女の真のありかたをわからせるのだ――。
 だが、それを現実のものにするには、かなりの困難があった。
 まず、所長と二人きりになる機会がない。いろいろ策を練ってみたが、所内で一定以上の時間二人きりになる機会をつくるのは、ほとんど不可能に思われた。
 いさぎは所長の住んでいるところを調べた。これは簡単にわかり、赤坂住宅街の中だった。
 赤坂住宅街というのは、都心にあって郊外と同じように、緑豊かな敷地に住宅が散在する高級住宅地である。もちろん住んでいるのはかなり上の階層のものばかりだが、氷上によると、大部分は〈女の平和〉のメンバーだという。
 所長の家はかなり大きいが、どうやら家族はいなくて、一人で住んでいるらしい。もちろん家政夫は出入りするのだろうが。
 研究所への行き帰りは、運転手つきの車を利用する。白い大型車で、運転手もたくましい女だ。
 いさぎは、真理子の運転する車に乗って、勤務が終わって研究所を出る所長の車を何度かつけてみた。だが、所長の車はいつもどこにも寄らなかった。
 いさぎはそうしたことをする一方、研究所内で所長と顔を合わせるたびに、その目を見つめ、視線が合うと素早くそらせて、恥ずかしそうにうつむくということを繰り返した。こうして気のあるところを示しておけば、いさぎのほうから積極的に出ても不自然でなくなるという計算だ。
 もっとも、すでに男らしさを身につけていたいさぎにとって、いささか屈辱的なことではあった。
 そうした中、いさぎは氷上を介して大杉博士とつき合うようになった。いさぎは博士に、女を攻略するのに参考になるような本を貸してもらえないかと頼み、博士の家までついていった。
 新宿歓楽街から少し離れたところにある古びた五階建てのビルだった。一階は花屋、二階はなにかの会社の事務所になっていて、三階と四階は空き、五階が博士の住まいになっている。亡くなった奥さんから受け継いで、博士が所有するビルだという。
 階段を登りながら博士は、「わしも年じゃから、こうして運動しておかんと、いざというときあれが役に立たんでは困るからのう」といった。
 最初の部屋はリビングルームで、隣の部屋に行くと、そこは本でいっぱいだった。人ひとりが通れるだけの間隔で本棚が並び、古びて色あせた本がぎっしりと詰まっている。古本独特の匂いが漂い、そればかりか本に込められた人々の怨念が立ちのぼっているような気がする。
 その次の部屋は、マイクロフィルムや磁気テープ、磁気盤などだった。キャビネットに収納されているもののほかにも、さまざまな箱に詰め込まれて、乱雑に積み上げてある。情報量はかなりのものだろう。
 三番目の部屋は、写真、画集、フィルムなど視覚関係のものだった。
 いさぎは写真を見せてもらった。さまざまな裸の女――。だが、そのスタイルには共通するものがある。全体に今より細く、とくにウエストが極端にくびれている。胸も尻も大きいのに腰だけ細いのはいかにも不自然だが、その不自然さがエロティックでもある。昔の女はみんなこんな格好だったのだろうか。
 博士は収集品が自慢らしく、いさぎにいろいろと説明した。
 本の収集というのは、男らしい趣味として今の時代も認められているが、普通は妻の許しのもとでのことだから、一部屋いっぱい集めるなどということはまずない。それを考えると、ここの収集品の量は際立っている。博士が自慢するのもむりはない。だが、いさぎはそこに精神のゆがみのようなものも感じた。
 さらにもう一部屋あったので、いさぎがドアに近づいたら、博士があわてていった。
「あ、そこはなにもない。まだ準備中でな」
 いさぎは博士のあわてぶりに、なんとなく不審なものを感じた。
 結局、博士に適当なものを三冊だけ選んでもらった。あまりたくさんもって帰って、妹に見つかっても困る。
 家に帰って読むと、最初の一冊は、身分の低い男がセックスの強さを利用して、つぎつぎと有力者の妻や娘を誘惑し、それによって出世していくというもの。次のは、若い男がやはりつぎつぎと女を誘惑して、それぞれの女の性器の形状や性感帯の違いを把握し、女についての認識を深めていくもの。
 三冊目は若い女が主人公で、男性遍歴を重ねることで開発″されていき、最後に念願だった父親と結ばれるというもの。さすがに通俗小説でも昔のものはちゃんと教養小説の伝統を踏まえていて、いさぎは感心した。
 もっとも、肝心の誘惑のテクニックは、時代が違うためにたいして参考にならなかった。セックスのテクニックに関しては、まあ知識がふえたのは確かだ。
 いさぎはその後も何度か博士の家に行って、本を借りた。
 何冊も読むうちに、博士がいったこととはまた別に、セックスの本質が見えてきた。
 女は、性体験を積むほどに、性感がかわり、また人間性が変化してくる。純情だったのがすれっからしになったり、未熟で狭量だったのが包容力豊かになったりという具合だ。
 男の場合は、そうしたことはまったくなく、ひたすら技術を練磨していくばかりなのだ。そして、技術を発揮することに喜びを見いだす。
 いさぎは、このような男の性質が社会を発展させる原動力になるのだろうと思った。
 そして、女の本性も理解できた。
 女というのは男以上に性的な存在で、男なしではいられないものなのだ。男を拒否しているように見えても実際はそうではないし、ほんとうに拒否している場合があっても、男が強引に迫れば体が心を裏切るものだ。少なくともどの本にもそう書いてある。
 それがわかって、いさぎは大いに自信をつけた。高原所長も所詮は女、本性にかわりのあるはずがない。
 いさぎはまた、真理子とのセックスに励んで、本から学んださまざまなテクニックを試してみた。
 真理子の反応はほとんどいさぎの期待通りで、いさぎはさらに自信を深めた。
 いさぎはいよいよ所長攻略を実行に移すことにした。自信がつくと、大胆な作戦がとれる。出会いの不自然さなどたいした問題ではないと思うようになったのだ。
 三月半ばの日曜日のことだった。昼ごろいさぎは赤坂住宅街に出向いた。
 春めいた暖かい風が吹いていた。もうコートを着ている人は少なく、葉を落とした街路樹も、どことなく次の芽吹きを予感させる。
 あちこちに工事中のところがある。廃ビルを取り壊し、緑地化する工事だ。
 赤坂住宅街には、いくつかの出入口がある。いさぎはそのひとつのところへやってきた。所長が近所で買い物をするなら通るに違いないところだ。
 ここで待っていて、所長がくれば偶然会ったふりをする。この近くのおじさんの家に行ってきたところだというのだ。そして、前に武田部長とのトラブルで助けてもらったことの礼をいい、それをきっかけにこちらから積極的に話しかけて、できれば所長の家に招かれるようにする。それはむりでも、この近くに住んでいるということを聞いておいて、翌週にでも所長の家を訪ねる。手作りのケーキでももって。
 偶然出会ったというのがわざとらしいが、もしあやしまれれば、いさぎが所長に惚れているからだと思わせるようにすればいいだろう。
 この日会えなければ、次の休日にまたくることにする。所長の家の近くで待てば確率はもっと高くなるが、住宅街は常時警察のパトロールがあって危険だ。
 そういう作戦のもと、いさぎはじっと立って待った。通行人が、若い男がなにを待っているのかという奇異の目を向けて通っていった。
 もちろん反対側からくるということもあるだろうから、いさぎは四方に気を配った。車にも注意した。所長は個人で青い小型車をもっていることもわかっている。
 だから、灰色の車が、近づくにつれてスピードを落とし、いさぎのすぐ前に止まったときも、いさぎは安心していた。近くの商店にでも用があるのだろうと思った。
 だが、ドアが開き、中から出てきた人物を見たとき、いさぎは頭が混乱して一瞬事態が把握できなくなった。
 車から出てきたのは武田部長だった。
 武田部長は険しい顔をして、まっすぐに歩いてくる。
 いさぎがとっさに考えたのは、自分の行動はすべて知られていたのではないか、ということだった。
 そういえば、前に背の高い女に尾行されたこともあった。
「こんなところでなにしてるのよ」と部長はいった。
 なんとかごまかさなければと思うが、どういえばいいのかわからない。
「まさか、あたしに会いにきたなんていうんじゃないでしょうね」
 この女も赤坂住宅街に住んでいるのだ、といさぎは判断した。あくまで偶然の出会いで、いさぎの行動が見張られていたわけではなさそうだ。
 いさぎは必死で頭を働かせた。
「ええ、部長さんに会いにきたんです。この前のおわびをいいたくて」
「おわび?」
「ええ。あんなことしてしまって、あとでとても反省したんです。男があんな乱暴なことをするなんて……。とにかく一度あやまっておかなければと」
「あやまるなら研究所でできるじゃない。どうしてここまできたのよ」
 いさぎは思わず言葉につまった。
「どういうわけ」
「そ、それが、実は……」
「実は?」
「じ、実は、あのときから部長さんのことが忘れられなくなったんです」
 いさぎは恥ずかしそうにうつむいて、ちらと上目づかいに部長の顔を見た。部長は不審な表情を浮かべている。
「あたしのことが忘れられないって?」
「ええ。あのとき手をにぎられて耳もとでささやかれたことが毎晩のように思い出されるんです。あのときは、なんて強引なことをする人だろうと思ったのに……」
 部長の不審の表情が少しゆるんだ。
「もう結婚しておられるかただから、諦めなければいけないと思うんですけど……なぜこんな気持ちになるのか、自分でもわけがわからなくて」
 部長の顔に、うれしそうな笑みが広がった。
「わけがわからなくはないわよ」
 いさぎは黙ってうつむいていた。
「男ってのはね、強い女にひかれるものなの」
「そうなんですか」
「今の若い女とばっかり接しているとわからないかもしれないけど」
「あ、ぼく今の若い女の人って、全然魅力感じないんです。ただやさしいばっかりで」
「そうでしょう。男にこびてるのよ」
「部長さんみたいな人初めて」といさぎはまたちらりと部長の顔を見た。
 部長はいやらしい笑みを浮かべながら、「男ってのは欲望に火がつくと抑えられないものだからね」といって一人うなずいた。
 いさぎは苦しまぎれのいい逃れが意外にも奏功したことで、ほっとした。
 だが、部長は周りを見回しながら、なにごとか考えている。
「今、家には亭主がいるから、そうね……ま、とにかく車に乗りなさい」
 いさぎはいきなり腕をひっぱられて、強引に助手席に押し込められた。部長は運転席に座った。
 部長は車を発進させた。Uターンして、赤坂住宅街には入らない。
「どこへ行くんですか」
「いいから、いいから」
 ホテルへ直行する気だろうか。いさぎはあせった。
「今日はあんまり時間がないんです」
「大丈夫よ、気にしなくて」
 強引に運べばうまくいくと思っている様子だ。
 いさぎは、意外な展開にめんくらった。このままではこの女と寝ることになってしまいそうだ。
 もちろんけんかになっても負けない自信はあるから、へんなところに連れ込まれそうになれば、逃げ出すことはできる。だが、それをすると、肝心の任務も果たせなくなるだろう。
 だが、車は赤坂にあるいくつかのホテルを通り越して、永田町にさしかかった。ますらお神社が見えてくる。いったいどこへ行こうというのか。
「普通、男が生きたまま入れないところに連れていってやるわ」と部長は楽しそうにいった。
 車はますらお神社の裏側に回り、小さな門の前で止まった。部長がそこにいた守衛に目くばせすると、守衛はすぐに門を開けた。
 精通のあった男は入れないとされるますらお神社――なぜこんなところへきたのか。いったいなにがあるのか。いさぎは全身を緊張させた。
 車は門をくぐり、神殿の裏側にある入口に横づけになった。
 神子装束の若い女が現れ、車のドアを開ける。部長といさぎは車を下りた。
「ついてきなさい」といって部長は神殿の中に入っていく。
 いさぎは従った。
 部長がここに出入りできるのは、秘密結社〈女の平和〉のメンバーだからに違いない。結社の内情の一端を知ることができるかもしれないという期待が生まれる。
 赤い分厚い絨緞が敷きつめられた廊下を少し歩くと、今度はかなり位の高そうな神官が出迎えた。
 部長に向かって、深々とおじぎをする。
「武田部長さま、ようこそおいでくださいました」
「今日は部屋だけでいいわ」と部長はいった。
 神官はいさぎに視線を走らせ、「ほう、さすが武田部長さまですね」と感心したようにいった。
「軽いものよ」
「では、お部屋へ案内いたします。どうぞこちらへ」
 部長といさぎはその神官に従った。
 どうもいさぎの恐れていた方向へ行っているようだが、ここから逃げ出すわけにもいかない。
 廊下はきわめて暗い。壁も天井も、年代も知れぬほど古びている。あえて改装しないのだろうが、壁から怨念がしみ出してくるようだ。
 神官はひとつの部屋に部長といさぎを入れると、「ごゆっくり」といってドアを閉めた。
 これもまた古色蒼然とした、暗鬱な部屋だ。赤い絨緞、茶色よりも黒に近い木の壁、博物館ぐらいにしかなさそうなべッド、テーブルと椅子。冷蔵庫だけが白く新しい。
 部屋が広いので、よけいよそよそしく感じられる。キャバレー・ビルの貸し部屋の五倍くらいあるだろうか。
「生きているうちにますらお神社の中に入れるなんて思いもしなかったでしょう?」
 部長はそういうと、自分の力を誇示するように笑みを浮かべた。
「ええ。ほんとにびっくりしました」といさぎは驚いてみせた。「でも、どうしてぼくをここへ」
「あたしの好意と思っていいわ。誰でもここへ連れてくるわけじゃないのよ」
 まるでほかにいくらでも男がいるようないいぐさだ。
「神殿の中はこんな部屋がいくつもあるんですか」
「まあね」
 いさぎは大きなダブルベッドを見つめた。この神殿は、昔あったというセックス専用ホテルのようなものではないだろうか。
 いや、部長はさっきあの神官に「今日は部屋だけでいいわ」といった。ということは、いつもは部屋以外になにかを求めているわけだ。
 男か。
 この神殿は大きな娼館になっているのではないだろうか。
「そこでシャワーを浴びていらっしゃい」と部長はいった。
 いさぎは観念して浴室に入った。
 ここまできてじたばたしても始まらない。
 LH計画については部長も知っているだろう。目標を所長から部長に変更したと思えばいいのだ。
 それにしても皮肉なものだ。ねらいをつけた所長のほうはなかなかうまくいかないのに、敬遠していた部長のほうは、あっというまにここまできてしまう。
 いさぎはシャワーを浴びながら、これからの作戦を考えた。
 まず、真の男らしさは絶対に見せないようにし、今の時代の普通の男としてふるまわなければならない。体つきは、まあこれで通るだろう。筋力トレーニングは、任務を与えられてから控えている。
 ベッドの中でのふるまいは、要するに童貞の男らしく、ただ恥ずかしそうにしていればいいのだ――と考えたとき、いさぎははっとした。
 あの部長を相手に勃起するだろうか。
 いさぎは部長に抱かれる場面を脳裏に思い描いた。だが、嫌悪しか感じない。ペニスもちぢこまったままだ。
 部長に気のあるふりは、いくらでも演技できたが、こちらのほうは演技してくれない。
 まったく勃起しないのでは、今までのことが全部うそだとばれてしまうのではないだろうか。
 そんなことを考えていてもしかたがない。いさぎは浴衣を着て浴室を出た。
 入れ替わりに部長が入る。
 いさぎはベッドの中で待った。
 なんとも妙な気分だ。真理子を抱くときとはまるで違う。考えてみれば、自分が真理子の立場になるわけだ。つまり女に――。
 部長が出てきた。腰にバスタオルを巻いている。
 お腹が不格好に突き出ている。反対に乳房はまったく見すぼらしく、垂れている。肩と腕はたくましい。肌は浅黒く、張りがない。真理子のみずみずしい体となにもかも正反対だ。
 ベッドのそばにきて、部長はなんともいやらしい笑みを浮かべた。あえていうなら、ごちそうを前に舌なめずりするときの表情だろうか。
 部長はベッドの中にもぐり込み、いさぎの右側に体を横たえた。そして、唇と唇を合わせてくる。
 いさぎはしっかりと唇を閉じて受けた。男として当然の態度だ。
 部長はいさぎの浴衣をはだけ、耳たぶに息を吹きかけながら胸をなで回す。そしてまたキス。いさぎは今度は少し唇をゆるめてやる。部長のぼってりと肉のついた体が重い。肌もざらついた感じがある。部長は唇を首筋から胸へとはわせ、そしていさぎの右の乳首を吸い上げた。いさぎは思わず、うっと声を出す。確かに敏感なところだ。部長はぴちゃぴちゃと音を立てて、乳首の周りをなめ回す。
 さらに左の乳首へと移る。快感というよりも、くすぐったいというのに近い。唾液で濡れた右の乳首がすうすうする。
 いさぎは浴衣をすっかり脱がされ、さらにパンツも引きずり下ろされる。ふとんはすでにまくられている。いさぎが薄目を開けると、部長はいさぎの股間をしげしげと見ていた。もちろんペニスはちぢこまったままだ。部長はそれを袋ごとむんずとつかんで、また体をかぶせてきてキスをする。いさぎが少しはしおらしいところを見せなければと唇をゆるめると、ざらざらした舌が侵入してきて、口腔の中で生き物のように動き回る。嫌悪感が極点に達し、ガマガエルに犯されている――というイメージがひらめいたとき、ペニスがむっくりとふくらんだ。それはたちまち部長の手の平の包囲を突破し、いっぱいに充実した。
 唇を離した部長は、「ふふ」と満足そうな声をもらし、袋をつかんでもてあそぶ。いさぎの脳裏に、男はたまをにぎられたらおしまいさ、という決まり文句が浮かぶ。そして部長は、手の平にたっぷりと唾をつけると、先端部を包み込み、なで回した。その快感にいさぎは足をつっぱらせ、あえぎをもらす。部長は両手を使って、本格的にペニスと袋を責め始めた。いさぎは身もだえし、声を上げる。
 ひとしきりそうしてもてあそんだあと、部長はいさぎの上にまたがり、ペニスを導き入れた。そうして腰を上下に動かし始める。入口のところがひどく締めつけるので、強くしごかれている感じだ。部長は腰を動かしながら、手でいさぎの胸や腹をなで回す。やがていさぎは、たまりかねて精液を放った。
 部長は動きを止めた。いさぎが薄目を開けると、部長は冷ややかに見下ろしていた。少しも呼吸が乱れていない。
 いさぎはただ茫然としていた。肉体的な絶頂のあとだからではない。ようやく身につけた男らしさが崩壊してしまった気がしたからだ。
 部長はいさぎの右側に横たわると、「どうだった」といった。
 いさぎはしばらくぼんやりしていたが、ようやく「新婚初夜の心得」といったたぐいによく書いてあることを思い出していった。
「とてもよかったです」
「男の歓びがわかった?」
「ええ」
 部長は満足そうな笑みを浮かべた。
「あんたいくつだっけ」
「二十四と六か月です」
「結婚の予定は?」
「ありません」
 部長は人差し指でいさぎの右の乳首の周りに円をかいた。
「どうするの」
「えっ?」
「結婚よ」
「そりゃ、したいと思います。男ですから」
「そうよね。するなとはいわないわ。でも、もしどうしても結婚したいと思うような相手がいなかったら、めかけにしてやってもいいのよ」
 夫以外にめかけをもつのは、多くの女のあこがれである。もちろんそれだけの経済力のある女にして初めてできることだ。
 いさぎが黙っていると、部長はさらにいった。
「あたしのめかけになれば、生活に不自由はさせないわ」
「でも、英雄になれなくなりますから」
「そんなこと気にしなくてもいいのよ。あたしの力で、結婚していなくてもちゃんと英雄としてますらお神社に祭られるようにしてあげるわ。もちろん〈男の花道〉で死んだ場合だけど」
「結婚してなくても〈男の花道〉になるんですか」
「ええ。あら、結婚しないと〈男の花道〉にはならないと思ってたの? まあ純情なのね」
 部長はかすかに笑った。
「どうして結婚しなくてもなるんですか」
 いさぎはわざと知らないふりをして聞いた。
「セックスすればなることがあるの」
「ふうん」といさぎは考え込むまねをした。「でも、それはやはり愛があったからなんでしょうね」
「そりゃそうよ」といいながら部長は笑いをかみ殺している様子だ。
 やがて部長の手がいさぎの下半身へと伸び、ぐんにゃりしたものをもてあそび始めた。
「あたしには特別な力があるのよ。わかったでしょう。悪いようにはしないわ」
「特別な力?」
「ええ。こうして神殿の中にも入れるし、ほかにもいろいろ権限をもっているの」
「どうしてなんですか」
「総合医学研究所というのは、ただ医学を研究するだけじゃなくて、社会を安定させるという役割も担っているの。いわばこの社会の中心のひとつなのよ。そして、あたしはそこのナンバー・ツーというわけ」
 いさぎは必死で頭を働かせた。うまく話をもっていけば研究所の秘密が聞き出せるかもしれない。
「社会を安定させるといっても、十分に安定しているみたいですけど……ああ、メンズ・リブなんかのことですか」
「まあね」
「どうしてあんなこと考えるんでしょうね。結婚して家庭をたいせつにすることが男の幸せなのに」
「あら、もう元気になってきたわ。さすが若さね」
 部長は、そそり立ってきたいさぎのペニスを楽しそうにしごいた。
「でも、ほんとにあんな男がどんどんふえてきたら困りますね。なにか対策はあるんですか」
「あるわ」
 部長はさらに強くしごき立て、いさぎは身もだえしながらいった。
「どんな対策ですか」
 部長は手の動きをぴたりと止めた。
「なぜそんなこと聞くの」
「だ、だって、あんな男がふえたら、世の中がどうなるのかと思って。まじめに結婚してる人が自分の生きかたに自信をなくしたりするんじゃないですか」
「そんな心配は無用よ」
 部長は再び手を動かし始めた。
「高原所長もよくここにこられるんですか」
「所長のことが気になるの」
「いいえ、ぼくは部長さんみたいなたくましい人が好みですから。でも、今の若い男にはあんなのが受けるみたいです。ここへはよく男を連れてくるんでしょうね。ああ」
 部長のたくみな手の動きに、いさぎはたまらず声を上げた。
「ところが、そうじゃないの」
「どうしてですか」
「あの人はちょっとかわっててね。男みたいなところがあるの」
「男みたい?」
 いさぎはあえぎながらいった。
「あんまり男には興味がないのね」
 同性愛ということだろうか。
「それじゃあ、休みの日なんかなにをしてるんでしょう」
「それが、たいていエステティックに行ってるの」
「エステティック?」
「信じられないでしょう。女のくせに全身美容だなんて」
 いさぎは身をよじりながらなんとか射精をこらえ、かろうじていった。
「女性用のエステティック。サロンがあるんですか」
「あるのよ」
 どこですか、と聞くとあやしまれるかもしれないと思い、あえて回り道した。
「どうせ新宿歓楽街かどこか、いかがわしいところでしょうね」
「そうじゃないの。六本木のアドニス・サロンなの」
 高級エステティック。サロンとして有名なところだ。
「一人で行くんですか」
 部長は答えず、ペニスの先端を口に含み、唇と舌で微妙な刺激を与えた。いさぎはあえぎ、もだえた。やがてペニス全体が呑み込まれ、しゃぶられ、吸われた。口の中に射精することに抵抗がある。
 いさぎはなんとかこらえようとした。だが、部長は執拗だった。ついに全身のけいれんとともに射精が起こった。部長はそのほとばしりを、のどを鳴らして飲み込んだ。いさぎがちらっと見ると、飲み込みながらも上目づかいにいさぎの様子をうかがっている。やがて部長は口を離すと、精液をしたたらせながら、満ち足りた吸血鬼のような笑みを浮かべた。
「ずいぶんたっぷり出したこと。おかげでだいぶ若返れるわ」
 部長は唇のしたたりを手の甲でぬぐい、それをぺろりとなめた。
「この調子だともう一回いくわね」
 実際は、もう二回いった。

 いさぎは周りも見ずに、ただ茫然として歩いていた。
 夕方になって急に冷え込んだ。薄着の体に風がしみる。
 さっきのことをなんとか頭からぬぐい去ろうとする。だが、体が覚えている。ペニスはひりひりするし、まるで今も、あの手の平や舌や唇が体をはい回っでいるようだ。そして、身もだえするいさぎを冷ややかに見下ろすあの目。
 いったいどうしてあんなことになったのだろう。
 確かに、今の時代の価値観に合わせて男らしく″ふるまおうと思った。だが、それはあくまで演技としてだ。
 だが、あれは演技ではなかった。ペニスは演技しないのだから。
 とすると、あれが男本来の姿なのか。
 いさぎは、部長がいった言葉を思い出す。
 ――男の体は必ずオーガズムに達するようになってるけど、女はそうじゃないの。だから、女は男が歓ぶのを見て快感を覚えるのね。
 ――男ってのは、一度歓びを知ると、もう女なしではいられなくなるのよ。
 いや、違う。部長の考えは、今の時代の文化からきている。それは、女どもの陰謀によってできた、間違った文化なのだ。
 自分はまだ、間違った文化を払拭しきれていないのだ。
そう考えると一応納得がいく。
 と同時に、なんともいえない寂しさに襲われた。自分はワクチンを打ち、真の男らしさとはなにかを知り、この社会にあっては異物となっている。だが、まだ真の男にはなっていないのだ。ふたつの世界のはざまに放り出され、どちらにも属することができない中途半端な状態。こんな人間は世界でも自分だけではないだろうか。
 そのとき突然、万歳の大音響が聞こえてきて、いさぎは飛び上がった。
 ここは霞が関の結婚式場街だった。
 いさぎはあのあと、部長の車に乗って神社を出たが、部長は急いで家に帰らなければならないということで、ほんの少し走ったところで車から下ろされた。そして、茫然としながらここまで歩いてきたのだ。
 突然の万歳三唱は、すぐ好くの建物の屋上に取り付けられた巨大な拡声器から響いたものだ。かなり大きな音だったから、数キロ四方に響きわたったことだろう。
 こういう式場ができたということは、少し前に新聞で読んだ。式の最後の、つまり結婚の成立を意味する万歳三唱を拡声器で街に響かせるというアイデアが好評で、その式場には予約が殺到しているという記事だった。
 今度はまた少し離れたところから、万歳三唱が響いた。これもまたかなりの大音響だ。別の式場もまねして始めたのたろう。
 この調子では今にすべての式場が拡声器を備え、音の大きさを競い合うことになるかもしれない。
 そうなると、のべつ街じゅうに万歳が響いていることになる。
 いさぎはふと思った。万歳とは本来いつまでもという意味だろう。死へ追い立てながら万歳をいうとは、なんたる皮肉だろう。
 ともかく、男は結婚へ狩り立てられ、ますらお神社に祭られることを名誉としている。だが、その神社の内部は、神聖どころではないのだ。
 いさぎは帰るとき、神殿内の廊下を歩いていて、曲がり角のところでちらりと二人連れの姿を見かけた。一人は地位の高そうな年配の女、もう一人は白いトーガのようなものをまとった、十六、七の少年だった。見たのは一瞬だったが、少年であるのは間違いない。はっとするほど美しい横顔の少年だった。
 また、いくつかの部屋の前を通るとき、やはり少年らしい澄んだ音色のあえぎ声を聞いた。もちろんあの最中の声だ。
 おそらく神殿の中には多くの美少年がいて、神社全体が巨大な娼館となっているに違いない。
 少年たちは、こうすれば確実に英雄になれるとかいわれて、客の相手を勤めさせられているのだろう。おそらく、英雄になることが男の最高の名誉だと信じている、まじめな少年たちなのだ。
 その、中身は娼館であるところの神社を、男たちは崇拝している。なんという悪意に満ちたしかけの世の中だろう。
 いさぎの胸に怒りの炎が燃え上がった。
 だが、現実にはなにもすることができない。証拠もなしにいっても、誰も信じてくれないだろう。
 部長からも、別れぎわにこういわれた。
「神社の中に入ったということは誰にもいわないほうがいいわよ。どうせ信じてもらえないし、アマゾネスにかわいがられるのがおちよ。わかったわね」
 ますらお神社を冒涜するのは、この社会の最大のタブーである。命がけになってしまう。
 男性解放運動をおし進めて、ある程度世の中がかわってくれば、真実を明らかにするときがくるかもしれない。
 いさぎは改めて自分の任務について考えた。
 ますらお神社の内実を知りえたことは、証拠はないとはいえ、ひとつの成果だろう。だが、肝心のLH計画についてはなにも聞き出せなかった。
 武田部長と情交を重ねていけば、聞き出すことはできるかもしれない。だが、それだけはやりたくなかった。あの女に何度も抱かれたら、せっかく築きつつある男らしさが崩壊してしまう。
 結局、高原所長攻略をやり直さなければならないわけだが、こんな自分になにができるだろう。逆に所長に手玉にとられるのがおちではないだろうか。
 考えれば考えるほど、いさぎは自信をなくした。男とはなんなのか、自分はほんとうの男になれるのかという疑問が湧き上がってきて、落ち込むばかりだ。
 いさぎは公衆電話を見つけ、氷上の家に電話した。真理子が出た。
「お兄さんはいる?」
「出かけてるわ」
「いつごろ帰る」
「遅くなると思うけど」
「これから行くよ」
「いいけど、なにかあったの」
 いさぎはなにもいわずに電話を切った。
 タクシーを拾い、新宿へ向かう。休日で道路はすいていて、たちまち到着した。
 真理子は心配そうな顔で出迎えた。
「所長に会えたの?」
 真理子はいさぎが今日所長を待ち伏せしたことを知っている。

 いさぎはなにもいわずに、真理子の腰を抱き寄せた。
「どうしたの」
 不安そうな顔をする真理子を、いさぎは寝室へと連れていった。
「服を脱げ」
「どうしたのよ、いったい」
「うるさい。おれのいう通りにすればいいんだ」
 いさぎは初めて「おれ」という言葉を意識せずに使った。
「なにかあったのね」
「つべこべいうな」
 いさぎはブラウスの上から真理子の胸のふくらみをつかみ、ひねり上げた。
「おれが脱がせてやろうか」
 真理子は鋭い目でいさぎをじっと見つめた。やがてその目に、諦めないしは憐れみの色が現れた。
「わかったわ」
 いさぎは真理子の体を離した。
「明かりを消して」
「このままでだ」
 真理子はしばらくためらっていたが、いさぎの気迫に押されてか脱ぎ始めた。それを見ながらいさぎも脱ぐ。裸になった真理子はベッドにもぐり込んだ。
 自分も裸になったいさぎは、ふとんをはいで真理子の裸を見つめた。真理子は恥ずかしそうに向こうを向く。いさぎは部長のいやらしい目を思い出し、自分は今あんな目をしているに違いないと思う。
 それでいいのだ。
 いさぎは真理子の上におおいかぶさり、キスをする。それから、耳たぶに息を吹きかけながら胸をなで回す。要するに、部長にされたことを真理子にやり返すのだ。
 ひとつひとつ同じ行為をなぞっていけば、男としての自信を取り戻すことができるのではないか。
 いさぎは唇を首筋から胸へとはわせ、そして右の乳首を吸い上げた。真理子は「あっはん」と甘ったるい声をもらす。
 そのときいさぎは、この反応は本物だろうか、という疑問を覚えた。どことなく演技のような気がする。
 乳首吸引が儀式化された行為なら、女の反応も儀式的なものではないか。もともと女の乳首は授乳器官なのだ。赤ん坊に吸われてこんな反応をする女はいない。真理子は昔のセックスのありかたを知っているだけに……。
 いや、そんなはずはない、と思い直して、わざとぴちゃぴちゃと音を立てて乳首を吸う。そして、古典的な表現でいうところの花芯″に手を伸ばし、愛撫する。真理子はさらに声をもらして、身もだえした。いさぎはわざと冷静な目で真理子を観察する。そう、これが本来の男と女の関係なのだ。
 だが、その瞬間いさぎは愕然とした。自分のペニスが勃起していないではないか。
 部長に四回抜かれた″わけだが、それから時間もたっているし、肉体的には不可能なことはないはずだ。相手が真理子なら大丈夫と思っていたのだが――。
 こういう場合はどうすればいいのか。やはりこのやりかたは不合理で、男は愛撫される性なのか。
 いさぎはまた自信をなくし、打ちのめされる思いがした。
 いさぎが動きを止めたので、真理子が目を開けて、けげんそうな顔でいさぎを見た。
 そのときいさぎは、真理子にばかにされるのではないかという強い恐れを感じた。一般の女に見下されるのとは違って、真理子に見下されたら、救いがない。
「たまにはやりかたをかえるか」といさぎはわざと平然という。「フェラチオをやってみろ」
 いさぎはこれまで真理子にフェラチオをやらせたことがない。それをやらせると、男が受け身になる今の時代と同じになってしまうと思ったからだ。
 いさぎは真理子と体の位置を入れ替える。だが、真理子はためらって、なかなかやろうとしない。
 慎み深いのが女らしさだという価値観を身につけているからだ。
 真理子のためらいを見ていると、いさぎはしだいに男としての自信が回復してくるような気がした。
 同じ行為も、二人の関係が違うとまったく別の意味をもつようになる。
 いさぎはこの関係をもっとはっきりさせる手を考えた。
「ベッドから下りて、そこに正座しろ」
 わけがわからずためらっている真理子をむりやりベッドから下ろし正座させる。そして、自分は真理子に向き合う形でベッドのへりに腰をかけた。
「さあするんだ」
 いさぎのそれはすでにかなり力をもってきている。
「なぜこんな格好をさせるの」と真理子はいさぎを見上げて、哀願するようにいった。
「これが男と女の関係を象徴する格好だからだ」といさぎはいったものの、すぐに、こんな説明的なことをいうのは男らしくないと反省した。
「いわれた通りにすればいいんだ」
 いさぎは、なおもためらっている真理子の頭をつかみ、手前に引き寄せる。真理子は諦めて口を開け、自分の鼻先にあるものをくわえた。
 だが、まるっきりへたなのだ。部長とは比べものにならない。いさぎのペニスは勢いを失ってきた。
 いさぎはまた恐れを感じた。ここまでさせてだめでは男の面目が立たない。
 いさぎは真理子の頭をつかみ、前後に動かす。真理子は涙をにじませた。
「へたくそめ」というといさぎは真理子の頭を離し、絨緞の上に押し倒した。
 そして、上にのしかかって、性器を結合させる。
 いさぎのペニスはあまり硬さをもっていない。いさぎは急いで腰を動かす。やがて硬さはついてくるが、それ以上に興奮は高まらない。このままではまたなえてきそうだ。いさぎは腰を動かしながら、「男はおれだ」ととなえ出した。「男は」で突きを入れ、「おれだ」でまた突きを入れる。男は、おれだ、男は、おれだ、男は、おれだ……。ペニスの受ける刺激は単調なものだ。いったいいつになれば射精にいたるのだろう。男は、おれだ、男は、おれだ、男は、おれだ……。
 ようやく射精のときがきた。いさぎは小刻みに激しく腰を動かす。
 終わったあと、いさぎは大きくため息をついた。
 真理子はいさぎの下で、じっと動かない。なんとなく気恥ずかしくなったいさぎは「よかっただろう」といった。
 真理子は身動きせずに答えた。
「ええ、よかったわ」
 いさぎはうなずいた。
 女とはそういうものなのだ。

   第八章

 天井までガラス張りの、温室のようなティールームだった。
 白いテーブルに置かれたブラディー・メアリーのグラスに、正午に近い陽光が降り注いでいる。
 いさぎは、全身をひたす軽い疲労感を心地よく感じながら、椅子の背もたれに体をあずけていた。
 正面のガラスの外には植え込みがあり、その向こうはいかにも六本木らしい落ち着いた街路になっている。この時刻はあまり人通りはないが、夕刻になれば、ちょっと粋な遊び人たちが繰り出してくることだろう。
 性風俗産業を主体とした歓楽街が拡大を続ける中、ここ六本木は、おそらく交通の便が悪いというそれだけの理由によるのだろうが、性風俗店のまったくない盛り場として、伝統と格式を誇っている。
 この町では、男はしとやかで、女は威勢がよい。みなそれぞれ流行とは無縁のおしゃれを楽しんでいる。だが、町の男も遊びにくる女もしだいに高齢化し、このところさびれる一方だった。
 その六本木に数年前、時代の先端をいく高級エステティックをうたうアドニス・サロンができたときは、六本木復興のきっかけになるのではないかと、少しばかり話題になったものだ。だが、ここにくる上流階級の男たちは、みな車できて車で帰っていくので、町の空気をかえるにはいたらなかったようだ。
 アドニス・サロンには女性向けコースもある。女性向けがあるのは、おそらく全国でもここぐらいだろう。
 いさぎは視界の端にティールームの出入口をとらえ、出入りする人に注意をはらっていた。もうそろそろ高原厚絵所長が姿を見せるはずだった。
「早くヤクができないですかねえ」と隣にいる南野おろかがいった。
 ヤクとはエイズワクチンのことだ。
「おれなんか、ヤクを打ったらまっ先に女をやりますね。誰でも弱そうなのを見つけて、むりやりやるんです」
「ここでおれは使うな」といさぎは声をひそめて注意した。
 周りのテーブルには、いかにも金持ちのぼっちゃんといった若い男、家事などしたことがなさそうなたるんだ体の中年男、それに女も少しいる。
「すみません。もうくせになってるもんですから」と雨野は軽く頭を下げた。
 雨野は氷上のグループのメンバーで、二十二歳になる金持ちの息子だ。アドニス・サロンの会員権をもっていることから、いさぎと行動をともにすることになった。ここは会員とその同伴者しか入ることができない。
 アドニス・サロンの会員権が買えるとなると、かなりの金持ちの家である。そんな家に育った男がなぜ過激な男性解放運動に入るようになったのか、いさぎはだいたい想像することができる。
 おろかという名前は、男はおろかなほうがかわいいということからつけられたのに違いない。そして、小さいころから、男らしくあれというきびしいしつけを受けてきたのだろう。そうして二十歳ごろになって、多少の自由が与えられると、それまでの反動がきて、″男らしさ≠ニ正反対の行動をとるようになるのだ。こうしたケースはけっこう多いし、このところふえ続けているようだ。
 だが、いさぎが見るところ、このタイプの男は、よほど恨みがつもっているのだろう、破滅的というか、過激であればなんでもいいといった行動をとりがちだ。確かにメンズ・リブの大きな戦力なのだが、あまりこうした連中がふえると、運動にとってマイナスになりかねないと、いさぎは思う。
「木下さんは真理子さんのことをどう思いますか」
「どうって?」
「おれ――あ、ぼく、あの人を見るともうやりたくてたまらなくなるんですね。木下さんはどうですか」
 雨野は、いさぎがワクチンを打ったことを知らない。だから、いさぎが真理子とやったとも思っていないわけだ。
「まあな」
「やりたいすよねえ。もっとも、矢島さんのほうが先だけど。矢島さんも真理子さんをやるといってるんです」
 雨野があまりやるやると連発するので、いさぎはまた周囲を気にした。
「そんなこといったって、向こうが承知するとは限らないだろう」
 雨野はきょとんとした。
「へえ、そんなことがあるんですか」
「そりゃ、あるさ」
「だったら、レイプすればいいじゃないすか」
 いさぎは絶句した。
 確かに自分も真理子をレイプすることを想像したりした。だが、この男はいとも平然といってのける。良心とか罪悪感といったものはまるでもち合わせていないようだ。
 こんな男でも、親はまだよい結婚をさせようと必死なようだ。ここの会員権を買い与えたのも、結婚に有利になると思ったからに違いない。確かに、アドニス・サロンの会員権をもった男というと、それだけで普通の男よりも美しそうなイメージがある。
 親は当然、息子があやしげな組織に出入りしていることは察しているだろう。だが、この男はどういう理由をつけてか、親から金を引き出してくるのがうまい。そのおかげで、この男はまだ加入して日が浅いのに、氷上や矢島から引き立てられている。
 ともかく、今日こそは所長をうまく誘惑しなければならない。
 所長の家の近くで待ち伏せして、結局武田部長に抱かれるはめになった日から、ちょうど二週間がたっていた。
 氷上からも改めてせかされた。
 ワクチンの製造は順調に進んでおり、ある程度まとまった量になった時点で、一気に送り出す手筈だという。
 ワクチンが出回り、そのことが所長に知られてからでは、体を武器に誘惑することがむずかしくなってしまう。
 武田部長に抱かれたことは、氷上にも真理子にも話していない。話すと、所長の誘惑なんかやめて部長との仲を深めていけと指示されるだろう。いさぎはそれだけはやりたくなかった。
 神社の内部が娼館になっていることは、いずれ機会を見て話すつもりだ。
 武田部長はあれから二度ほどいさぎに誘いをかけてきたが、いさぎは断った。部長は信じられないという顔をした。一度抱かれた男は女から離れられなくなるものと信じ込んでいたのだろう。
 今日は、アドニス・サロンの近くで待っていて、所長の車が中に入るのを確認してから、いさぎと南野も入った。中は、コースは男女別になっているが、ティールームとレストランはいっしょだ。飲み物は無料だから、コースを終えたあとは誰でもティールームにくる。いさぎと雨野は普通より早めに終わらせて、さっきからここで待っていたのだ。
 いさぎはエステティック・サロンにきたのは初めてだ。今日は筋肉とりマッサージと美容体操だけをやって、そのあとサウナに入った。筋肉とりマッサージとは、筋肉組織を分解するという電気刺激つきの機械で体のあちこちをマッサージするものだが、ほんとうに効くのかどうかかなりあやしい。美容体操のほうは、プロポーションをよくし体の柔軟性を高めるというもので、なめらかな全身的な運動は確かに効果がありそうだった。
 視界の隅に人が現れ、いさぎはどきっとした。高原所長だった。所長はちょっと離れたテーブルに座った。いさぎには気づいていない。
 予想通りの進行だというのに、いさぎは急に不安になった。部長との体験がいまだに尾を引いているのだ。あれからいさぎは何度か真理子を抱いて、自信を回復したつもりだったのだが。
 所長とセックスすることになれば、また男としての自信を失ってしまうのではないだろうか。
 今さらそんなことを考えてもしかたがない。いさぎは「男はおれだ」と自分にいい聞かせると、立ち上がり、笑顔をつくって所長のテーブルへと行った。
「こんにちは」
 所長は一瞬警戒する表情になった。いさぎはさらに笑顔を強めた。
「こんなところで所長にお会いできるなんて、びっくりしました。よくここへ見えるんですか」
「ええ、毎週ね。あなたは?」
「ぼくは今日が初めてなんです。友だちに連れてこられて」といさぎは雨野のほうを振り向いた。
 雨野はいかにも育ちのよさそうな男らしい笑顔を見せている。
「この前、武田部長ともめごとを起こしたときは、どうもありがとうございました。こうして勤めを続けていられるのは所長のおかげです」
 所長は、そんなことはたいしたことではないというように、軽くうなずいただけだった。
 いさぎは声をひそめていった。
「そのときのことで、ちょっとお耳に入れておきたいことがあるんです。ここ座っていいですか」
 所長はうなずいたが、まだ気は許していないようだ。
 座ったいさぎは、ちょっと深刻めかしてしゃべり出した。
「あのとき実は、武田部長が妙なことをおっしゃったんです。それがずっと気になっていて……」
 そこへ雨野がやってきた。
「わー、感激だなあ、高原所長にお会いできるなんて。ぼく前から大ファンだったんです。木下先輩がほんとにうらやましい」
 あとはいさぎに向かって、ちょっと声を落としていう。
「ぼくは時間がないんで先に帰ります。エステティックもいいもんでしょ。またつき合ってくださいね。それじゃ、ごゆっくり。お先に失礼しまーす」
 雨野は笑顔をふりまきながら、いさぎにものをいうまも与えず去っていった。
 もちろん予定の行動だが、まったく金持ちのおぼっちゃんとしか見えないことに、いさぎは舌をまいた。
「まったくしょうがないなあ。もう少し待ってくれてもいいのに。それとも、気をきかせたつもりなのかな」
 いさぎは少し恥ずかしそうにして所長と目を見合わせ、さらにつけ加えた。
「あいつの車がないと、帰るのが面倒なんですよね」
 わたしの車で送ってあげるわ、という反応を期待したのだが、所長はなにもいわない。
 いさぎは気をとり直して話を続ける。
「さっきの話ですけど、あのとき武田部長にホテルのロビーへこいといわれて、ぼくがいやがっていると、部長はこんなことをいったんです。つまり、わたしの男になれば、どんなことでもさせてやる。たとえば、生きたままますらお神杜の中へ入れてやることもできるんだと」
 所長は少し眉をひそめた。所長が示した初めての反応だ。いさぎは内心勢いづいて、話を続けた。
「もちろんそんなことできるわけがないと思いました。だから、所長にも黙っていたんです。でも、あとになるとだんだん気になってきて……。なぜあんな、すぐうそとわかることをいったんだろう、もしかするとほんとうなのだろうか、とか」
「そのことは誰かにいった」
「いいえ。人に話すのは今が初めてです」
「誰にもいわないほうがいいわよ。まるっきりのでたらめだから」
「やっぱり」
「武田部長はね、男というのは一度寝れば自分の思い通りになると信じているの。だから、その場でどんなことでもいうのよ」
 いさぎはいかにも納得したように、深くうなずいた。
「だから、忘れることね。武田部長には、機会を見て注意しておくわ」
「わかりました」
 それで一件落着ということだ。いさぎは次の話題をさぐった。
 沈黙の中で、所長のいさぎを見る目が微妙に変化していた。性的関心を帯びているのだ。
 いさぎはそれに気づいたとき、今自分は、肌はつややかになり、目はうるんであやしく光っているに違いないと思った。
 所長の視線と自分の体が交感している――そんな感覚が生まれた。それは歓びだった。いさぎは自信をもって、いきいきとした表情でしゃべり出した。
「所長の家はこの近くなんですか」
「近くといえば近くね」
「どのあたりです」
「赤坂住宅街なの」
「えー」いさぎはオーバーに驚いた。「ほんとですかあ。すごいなあ。ぼくあそこ大好きなんです。あそこの家は一軒一軒特徴があって、どれもすばらしいでしょう。何年か前、友だちといっしょに、こんなところに住めたらいいねって話しながら一軒ずつ見て歩いたことがあるんです。でも、警官に職務質問されて!」
「あそこは警備がきびしいの」
「ええ。だから、あれから行ってないんです。所長の家はどんな家ですか」
 いさぎは所長の家について根掘り葉掘り質問し、いちいち驚き、感心した。そして、とうとう所長に「家にくる?」といわせたのだった。
 いさぎが経理課に移ってから仕事上の接触がないことが幸いした。上司と部下という感じにはならない。
 いさぎは所長について地下駐車場に行き、所長の青い小型車に乗り込んだ。
 助手席から見ると、所長の体はより美しく見える。茶色のセーターを押し上げる胸のふくらみ、腰から太股へかけての肉感的な曲線。スカートから膝小僧が出ている。それらがすぐさわれるところにあるのだ。
 いさぎの股間がうずいた。
 アドニス・サロンを出て少し行ったところで、メンズ・リブのデモ隊に出会った。百人くらいだが、人数の割に威勢がよい。ワクチン完成のうわさが聞こえているのかもしれない。
「男の値打ちは美しさだけではない」と書かれたプラカードがある。このごろは「たくましい男は美しい」というスローガンはさっぱり使われない。これはまだ女社会の論理を引きずっていると批判されたからだ。
「近代へ返れ」というプラカードもあったので、いさぎはどきっとする。これは実質的に、男性優位社会を復活させようという意味なのだ。
 いさぎはデモには無関心を装い、関係ないことをしゃべり続けた。
 車はまもなく赤坂住宅街に入り、所長の家についた。
 所長の家は、ヒノキをふんだんに使った木造の平家で、素朴な味わいがある。いさぎはもちろん前に見て知っていたが、初めて見たことにして感嘆の声をもらした。
 内部の調度は豪華で、配慮が行き届いている。いさぎはいちいち大げさに感心した。そして、家の中をひと通り見せてもらったとき、いさぎはいった。
「あのう、ご家族は」
「わたし一人よ」
 いさぎは当惑したふりをした。男が女と二人きりになるのは、なにより避けるべきこととされるからだ。
「ぼく、てっきりご両親か誰かといっしょにお住みだと思ったものですから……」
「両親はアメリカよ。知らなかった?」
 所長はかすかな笑みを浮かべた。いさぎの演技を見すかしているのだ。
 だが、いさぎは気にしなかった。これぐらいの演技は、今の時代、よい女をつかまえるためにたいていの男がするのだ。
「お茶をいれるわね。それとも、お酒にする?」
「お酒にします」
 育ちのよい男としては好ましくないが、酒のほうが親密感をますのに役立つだろうと思った。
 所長は部屋の隅のホームバーへ行った。
「あ、ぼくがつくりましょうか」
「いいわよ。あなたは普段、家のことはなにもしないんでしょう」
「ええ」といさぎは恥ずかしそうにいった。
 前に二人で話したとき、いさぎは女のように育てられたという話をした。それを所長は覚えている。
 だからベッドの中で、興奮するに従ってわれを忘れ、積極的にふるまったってそうおかしくないわけだ、といさぎは心の中で確認した。
 いさぎは部屋の中央のソファーに座り、周りを見回した。
 最近はやりの多目的リビングルームである。大型の音響映像機器、くつろげるソファーとテーブル、食事用のテーブル、ライティングデスクがゆったりとした間隔で配置されている。壁に小さなガラス窓があり、床の間が見える。
 床の間とは、家の中心に設けられた小さな部屋のことで、床が少し高くなっていて、掛け軸や置物が飾られる。書斎や寝室、子ども部屋などともガラスの小窓を通じて結ばれている。家を安定させる霊的な機能をもつとされるが、床の間を通して、ほかの部屋の明かりや人影の動きを見ることができ、ある種のコミュニケーションの機能も果たしている。独立した部屋を設ける余裕のない場合は、部屋の隅に床を高くしたところを設け、これを床の間と称することもある。
 ガラス戸を通して広い庭が見える。テラスがあり、芝生が広がり、さらに立ち木が繁っている。隣の家はかなり離れているし、立ち木があるのでのぞかれる心配はない。たくさんの小鳥が遊び回っているのが見える。リスも住みついているに違いない。風が吹いて、閉めきった部屋の中にも葉ずれの音が響いてくる。
 芝生の上に落ち葉がたまっている。これだけ広いと手入れがたいへんだろうといさぎは思う。
 所長がグラスに氷をほうり込む音を立てる。まっすぐに伸びた背筋、形のいいお尻、なんていい女だろう――。
 そのときいさぎの心の中に、雲が割れて日が差すようにして、幸福感が広がってきた。いい家、広い庭、いい女……そう、この女と結婚して一家の主として、炊事、洗濯、掃除をし、子どもの世話をする。まさに男の幸せというものではないか。自分は今なにをしようとしているのだろう。こんな幸福が手の届きそうなところにあるというのに――。
 いさぎはすぐにわれに返った。女のみにくい支配の実態を知ってしまった以上、もはや自分は″男の幸せ″に安住することはできないのだ。
 所長が飲み物をふたつもってきた。いさぎの向かいに座る。
 いさぎはグラスに口をつける。バーボンの水割りだ。
 いさぎは作戦を練った。これまでは男のかわいらしさでなんとかここまで運んできた。だが、それではベッドまではたどりつけない。これからは色気で迫らなければ。
 所長はすました顔でグラスを口に運んでいる。
「所長はどんなタイプの男が好みなんですか」
「そうねえ‥‥‥」
「意外と女っぽいタイプにひかれたりしませんか」
「そういうところもあるかもね」といいながら所長は、どこか皮肉な笑みを浮かべた。
 どうもまだるっこしい。いさぎはもっと直接的にいくことにした。
「この部屋暑くありません?」
「そんなことないわよ」
「なんだか暑いな」といいながらいさぎはワイシャツのボタンを外して、アンダーシャツが見えるように胸をはだけた。
「このお酒、強いですね。もう酔ったみたい」
 グラス半分を飲んだだけなのだが、いさぎはぐったりとした様子をした。
「でも、所長ぐらいになると、結婚を前提としなくても、いくらでも男の人が寄ってくるんでしょうね」
 所長は相変わらず皮肉な笑みを浮かべたままだ。
「所長が相手なら、ぼくだってどうなってもいいと思いますもの」
 いさぎは色っぽい目で所長を見た。そのつもりだった。だが、所長は突然声を立てて笑い出した。
「もうやめなさい。ちっとも似合わないじゃない」
「えっ?」
「最初からみんなわかってるのよ」
 いさぎは冷水を浴びせられたような気がした。
「ど、どういうことですか」
「あなたが過激派組織に属していて、目的をもってわたしに近づいてきたっていうこと」
 いさぎの頭はめまぐるしく働いた。どうしてばれたのだろう。いつか尾行された気がしたことがあったが、あれは所長の手配によるものだったのか。武田部長がいさぎを簡単に信じた以上、そうなるのは理の当然だ。
 最初から警戒するような様子だったのは、そのためだったのか。
 いや、すべて知っているとは限らない。ここは慎重に対処しなければ。

「決死隊に選ばれるのも苦労するわね」
 決死隊とは、なんとまた古色蒼然たる言葉であることか。昔の男性文化についてもよく知っているということを示したつもりなのだろう。だが、この言葉を使う以上、いさぎがワクチンを打ったことは知らないようだ。
「そんなふうに思っているなら、どうしてぼくをここまで連れてきたんですか」
 いさぎは、所長の言葉を認めたことにならないよう慎重ないい回しをした。
「あなたの勢いに押されたとでもいうのかしら。それに、どんな目的でわたしに近づいてきたのかという興味もあったし」
「だったら、なぜそのまま知らないふりを続けないんです」
「まだるっこしくなったのよ、お互い演技を続けているのが。わたしを誘惑しにきたんでしょう。早くすれば?」
 所長はいさぎを蠱惑するように艶然と笑った。
 こうなっては、いさぎも態度をはっきりさせることにした。
「どうしてぼくが過激派に属しているとわかったんですか」
「あなたのことを調べたの」
「ぼくが武田部長といざこざを起こしたあのあと?」
「ええ」
 なんと油断のならない女だ。武田部長はむしろあっさりいさぎを信じたというのに。
「あのとき、あなたはぼくを信じるといいましたね」
「ええ。あ、誤解しないでちょうだい。あのときはほんとうに信じたのよ。調べたのは、別の理由があったから」
「別の理由?」
「ええ。わたしはあなたに興味をもったの。好意といったほうがいいかしら。所長としてではなく、一人の女として」
「調べたって、どんなふうに調べたんですか」
 どこまで知られているのか、はっきりさせておかなければならない。
「家族のこととか、あなたの行動とか……。そうすると、あなたは歴史や文学に首をつっこみ出して、やがて過激派の集会に参加したことがわかったの。それで一応あなたのことは諦めることにしたわけ」
 過激派の集会とは、キャバレー・ビルで行われた講義のことだろう。
「それがわかったときに、どうしてぼくを研究所から辞めさせなかったんです」
「わたしは武田部長に対して、あなたは過激派じゃないって見えをきったのよ。立場がなくなるじゃない」
 なるほど。だから、部長はなにも知らなかったのだ。
「あなたの立場では研究所にいてもなにもできないと思って、そのままにしておいたの。ところが、なんと今日わたしの前に現れて、かわいこぶって誘惑しようとするじゃない」
 所長はおかしそうに笑った。いさぎもいっしょに笑いたい気分だった。
「でも、いいのよ、誘惑して」
「いいんですか、ぼくが過激派でも」
「男にかわりはないでしょう。ほしくなったのよ」というと所長は立ち上がって、いさぎの横にきて座った。
「あなたは、男のくせによく上司につっぱったりしていたでしょう。わたし、ああいうの好きなのよ」
 所長はいさぎの肩に腕を回し、もう一方の手をいさぎの胸にはわせた。その日には欲情の炎がちらちらしている。
 いさぎは希望を見いだす。案外悪い事態ではないのかもしれない。
「ぼくもずっと前から所長のことが好きだったんです」
 それはかなり本心に近かった。
「ええ、わかっていたわ」
 所長はいさぎの目をじっと見つめ、そして抱き締めると、唇を重ねてきた。いさぎは夢中でその唇を吸い、舌をからめた。かつてない歓びが身内を駆け抜ける。
 そうしてしばらく唇と舌をからませたあと、所長は荒い息づかいでいった。
「ワクチンを打ったの?」
 いさぎはどきっとしながらも、意外なことを聞かれたという様子で答えた。
「えっ? いいえ」
「そう……。まあどちらでもいいけど。寝室へ行きましょうか」
 どちらでもいいとはどういうことだろうと、いさぎは少し気にかかったが、この問題にはこれ以上ふれたくない。
 二人は寝室へ行った。
 いさぎはベッドの上に寝かされ、所長に一枚ずつ服を脱がされる。所長の手つきは、あせりをこらえるようにふるえている。いさぎはそれがうれしい。所長は自分も裸になり、そして、ベッドの中で抱き合う。
 所長の体は、乳房が形よくつき出し、胴は細くくびれていた。大杉博士のところで見せてもらった写真の女みたいだ。そして、肌はなめらかだった。抱き締めると、豊かで、柔らかで、よく弾んだ。
 キスをしながらお互いの体をまさぐっていると、いさぎの中に、しだいに男としての自信が芽生えてきた。こうして裸になれば、社会的地位も人生経験も関係ない。性的な力があるのみだ。
 武田部長に抱かれたときのように、今の時代の童貞の男を装う必要はない。ある程度本来の男らしさを出してもかまわないだろう。この女に、真理子のように女本来の歓びを教えてやるのだ。
 女性優位社会の存続をはかる側と、それの打倒を目指す側とでは、本質的に折り合いのつくはずがない。いさぎは闘争心をかき立てた。これは、愛を装った、あるいは愛を武器にした闘争なのだ。
 所長はいさぎの首から肩、そして乳首へと唇を移動させていく。そのやりかたは武田部長とはまるで違う。いさぎの体をいつくしんで愛撫し、唇をはわせていることがわかる。所長の息づかいが荒い。
 いさぎはちょうど自分の腹のところにある所長の乳房を下から受けるように手の平で包み、もみしだく。所長がいさぎの乳首を歯でかむ。いさぎは負けじと所長の乳首を指でつまみ、ひねるようにしてもてあそぶ。所長がなにか声をもらす。いさぎは所長の背中に両手を回して抱くと、ゆっくりと体を入れ替え、自分が上になる。そして、乳首を口に含み、もう&の乳房を手でもむ。所長はまた声をもらし、背中を反らせる。所長の手がいさぎの頭をかかえ、髪の毛をなでる。いさぎは乳房をもんでいた手を腹から腰へとすべらせる。胴のくびれを確かめるように二、三度さすってから、その手を太股の外側へ、そして内側へと伸ばし、猛る気持ちを抑えて、内股を何度もなで上げる。そして、いよいよ性器本体へと指を進め、繊毛をかき分けて割れ目に指を走らす。所長の息づかいと身もだえが激しくなる。
 そして、割れ目の上のクリトリスを二本指ではさんだとき、所長はいさぎの体を引き上げて、キスをする。そして、所長の手がいさぎのペニスをつかむ。すでにそれは充実しきっていたので、つかまれた瞬間、快感がいさぎの全身を駆けめぐる。いさぎがクリトリスを責めれば、同じだけのものがペニスに返ってくる。そうか、勝負する気だな、と思う。主導権をどちらが奪うかだ。
 いさぎは、みずからを冷静に保つことに努めた。そうして機械的に手を動かす。単調な動きではだめだ。いろいろ変化をつけ、ときにはまるで興奮して行っているように、激しさも加える。このへんの呼吸は、真理子を相手にして身につけている。だが、所長のペニスへの愛撫も巧妙をきわめる。いさぎはしだいに絶頂へと追い上げられていく。いさぎは気をそらすために考えごとをする……今の時代は不当だ。男はしいたげられている。近代へ返るのだ。近代はすばらしい時代だった……。
 そうしていさぎが必死でこらえていると、所長はペニスから手を離した。興奮のきわみに達して、それどころではなくなったのだ。勝った、といさぎは思った。
 所長は興奮の中に没入していく。いさぎは、今となっては余裕をもって、所長の快感の源泉を操作する。所長の興奮ぶりは、真理子とはかなり違う。激しく、あけすけだ。
 いさぎは体を下にずらし、鼻先を所長の股間にもってきて、クリトリスをくわえる。両手を所長の太股の下に回して、へその上あたりで組み合わせる。そのまま唇と舌で刺激を与え続ける。所長の反応はさらに激しくなる。体をよじって逃げようとするが、いさぎはがっちりと押さえ込んで離さない。のどの奥からしぼり出されるような、人間離れした声が、切迫した調子となったまま、際限なく続く。
 勝利の喜びがこみ上げる。相手は一匹の雌と化しているのに、自分はまだ理性を保持している。これが男と女の本来の関係なのだ。
 だが、所長の興奮がいさぎに伝染してくる。唇と舌も疲れてくる。そろそろ挿入したくなる。だが、いさぎはがまんする。この関係をできる限りひっぱるのだ。
 いさぎはクリトリスをくわえたまま、壁の時計を見る。少なくともあともう五分。それぐらいはがまんできるだろう。
 だが、実際は一分程度だったろうか。いさぎは所長に体を重ねて、ペニスを挿入した。目をつむった所長の顔が目の前にある。なにも考えていない、飾りもなにもない顔。いさぎは腰を動かす。所長をこうして押さえ込んで、みずからの快楽の道具にしている。そう思いながら腰を動かすと、快感はさらに高度なものになる。
 だが、その時問はおそらく三十秒もなかったろう。いさぎはたちまち射精のときを迎えた。所長の体の奥深くに射ち込むように、背中を反らせながら、腰を打ちつける。
 いさぎはそのままの姿勢で二度三度と深呼吸をしてから、所長の脇にあおむけに横たわる。所長の体は汗にまみれ、まだ燃えるように熱い。手の甲を目の上に乗せたまま、じっとしている。しばらくは口もきけないだろう。
 いさぎの胸にひそやかな喜びがひろがる。優越感、征服感、男としての自信……。
 やがて呼吸も静まった所長は、少し身じろぎし、大きなため息をついてからいった。
「どうしてかしら。こんなになることめったにないのに」
 おれが本物の男だからさ、といさぎは胸の中で答える。
「きっとこのところごぶさただったからね」と所長は一人で納得している。
 いさぎは沈黙を守って、所長の次の反応を待つ。さっきの乱れっぶりをどうつくろうのか、女としての、所長としてのプライドをどう回復するのか――。
 所長は上体をもたげて、いさぎの顔をのぞき込んだ。
「ありがとう。とてもよかったわ」
 屈託のない、満足げな笑み。いさぎは意外に思う。
「今はついわれを忘れてしまったから、今度はわたしがしてあげるわね」
「別にそんな――」といいかけるが、キスで口をふさがれる。目の上に所長の髪がかかり、胸にたっぷりとした乳房の先端がふれる。
 唇を合わせ、舌の先をふれ合わせるだけのキス。
「素敵な体ね。肌もすべすべして」
 所長はいさぎの体をなで回すが、いつくしんでいる感じなので、いさぎも悪い気はしない。
 そして、所長は体をずらして、いさぎの腰のところへ顔をもってくる。ペニスはすでに半ば回復している。所長は、半乾きの粘液が付着しているそれをしげしげと見ながら顔を近づけ、口に含む。温かで、やわらかい、不思議な感触。春風に吹かれて、とろけていくような――。
 いさぎのペニスは所長の口の中で成長し、いっぱいに硬くなる。ゆったりした快感がペニスから全身に広がっていく。テクニックが達う――が、それだけではない。いったいなにが違うのか。
 武田部長のときは「された」と思い、真理子には「させた」のだ。
 今は、「してもらっている」?
 いさぎは右肘をついて上体を少し起こし、所長の作業を見守る。所長はひたすら熱中している。いさぎは左手を伸ばして、所長の髪を耳の後ろへかき上げ、顔がよく見えるようにする。所長は気にせず、顔を上下に動かし続ける。
 全身がリラックスし、ペニスに感覚が集中する。まさに至福の時間。
 それにしても、胸に温かいものが満ちてくる。これはいったいなんだろう。
 所長はペニスを口から離すと、いさぎの腰の上にまたがり、挿入する。そうしてしばらく所長は、上下運動を続ける。これも、武田部長のときとはまるで適う。部長はいさぎのペニスをしごき、もてあそんだのだ。所長はみずからの興奮を高めるために動いているらしい。所長の息づかいがしだいに荒くなる。いさぎはできる限りゆっくり呼吸して、今以上に興奮が高まらないようにする。所長はいさぎの首の後ろに手を回し、上体を引き起こした。いさぎの顔が乳房に押しつけられる。いさぎはそれを吸ったあと、背筋を伸ばして、唇と唇を合わせる。荒い息づかいの中で、お互い抱き合い、唇と舌をからめるが、その間も所長の腰はリズミカルに動き続けて、いさぎの快感を維持する。
 こういうことでいいのか、といさぎは頭の隅で考える。男はおれだ――。
 いさぎは伸ばしていた足をあぐらに組み、所長を向こうへ倒して、自分が上になる。そして、激しく腰を動かし始める。やはり男はこうあらねば。
 だが、所長はまるで反応しない。真理子ならたちまちあえぎ声を出すのに。いさぎはさらに強く突きを入れるが、一人で力んでばからしい気もする。射精の瞬間が近づく。そのとき所長は、いさぎの腰を両手で強く引きつけるように抱いて、動きを止めた。
 いさぎはいぶかりながらも、そのままじっとしていると、やがて射精の瞬間は遠のいていく。
「横になって」と所長はいう。
 いさぎと所長は結合して向き合ったまま横になる。所長は足をからませ、腹と胸を密着させ、再び自分から動き出す。
 所長の行動は、主導権を奪い返そうとかいうものではなさそうだ。いったいいかなる原理によっているのか。いさぎはそれが知りたくて、所長に合わせることにする。
 それからまた何度か体位をかえる。腰を動かしやすいほうが動かす。いさぎの動きがつい激しくなると、所長が抑えろというサインを出す。所長はどうやら、いさぎが射精しそうになるのがわかるらしい。そのため、いさぎは射精寸前の状態を持続することになる。それは悪い感じではない。もてあそばれている気もしない。所長も同じくらい興奮しているからだ。
 そのうち、全身が発熱し、汗を吹き、頭の中がからっぽになり、生理的な快感がすべてとなる。そして、制御ができなくなって、射精の瞬間がきた。体のけいれんとともに知らず叫びがもれる――。
 いさぎは頭の中が焼ききれたようになり、そのままぐったりとしてしまった。所長はいさぎの下にいた。いさぎは所長に体重をあずけたまま、指一本動かす気にならず、じっとしていた。
 やがて自分がまるで死体のように所長の上におおいかぶさっていることに気づき、やっと体を半回転させて、所長の横にあおむけになる。
 そのまま茫然としている。まだなにも考える気にならない。快い疲労が全身を満たしている。
 所長がいさぎの手を握る。そのまま二人でじっとしている。暗い寝室。いさぎは目をつむり、奇妙な夢想をつむぎ出す。
 ベッドがボートにかわって、大海原を漂っている。春霞のような光が満ちていて、舟べりから外を見ると、小さな波がきらめいている。見渡す限りの海原に所長と二人……。
 所長の声がいさぎの夢想を破った。
「あなたはなかなか感度がいいわ」
「感度?」
「ええ」
 二十世紀末の通俗小説では、感度という言葉は女性に関してしか使われていなかった。
「男でも感度の違いがありますか?」
「もちろんよ」
「感度の悪い男っていうのはどういうものです」
「全然興奮した様子を見せず、平然とした顔をしながら、いきなり射精してしまうの。こんな男とセックスしてもつまらないわ。まあたいていの男は演技をするけどね」
「ふうん」それにしても、今の行為における所長の行動の原理はなんだったのだろう。よくはわからないが、少なくとも所有権の確認とかでないことは確かだ。
 とにかく、武田部長のときのような屈辱感もなく、真理子との間では味わったことのないような、深い満足感がある。
 今となってみれば、最初の行為で、主導権を握ろうとしてあせり、また勝利の喜びに酔いしれたことが、まったくつまらない、貧しいことだったように思えてくる。
「あなたの属している組織は、なんていうスローガンなの」
 所長の言葉で、いさぎは現実に引き戻される。
 そう、二人は大海原の中にいるのではない。所長はこの女性優位社会の中心にいて、いさぎは男性解放運動の先兵として、いわば挿入されたペニスのような位置にいるのだ。
「男はおれだ、です」
 所長はおかしそうに声を立てて笑ったので、いさぎはむきになって説明した。
「おれというのは、今は品が悪いとかいうけど、昔は男らしい男が使う言葉だったんです。だから、今の男もそういう男になろうと――」
「ええ、意味はわかるわよ。でも、やっぱりおかしい」と所長はまた笑ってからいった。「当然、男性優位社会の実現を目指しているわけでしょう」
「ええ」
「あなたも同意見?」
「もちろん」
 こうなっては隠し立てする気もない。
「男女平等社会はどう思う」
「最終的にはそうなるのが理想だと思いますけど、とりあえずはもとに戻そうという考えです」
「それは遠回りだわ。直接男女平等社会を目指したほうがいいじゃない」
 いさぎは言葉につまった。そういう疑問は自分でも前からもっていたのだ。だが、少し考えて反論した。
「今の社会は自然になったものではなくて、エイズと変性エイズという、人為的な、偶然的な要素によってなったものでしょう。ですから、まずもとに戻して、歴史本来の発展段階をたどらなければならないわけです」
「歴史にそういう決まった道筋があるかどうかは、はなはだ疑問だけどね」
「それに、なんといったって、エイズも変性エイズも、もとはといえばあなたたちがつくり出したもので、要するに陰謀の上に築かれた社会なんだから、いったん打ち壊さなければならないのは当然でしょう」
「つくり出したって、どういうこと」
「知らないんですか。エイズは二十世紀末の過激派フェミニスト・グループがつくり出したっていうことを」
「知らないわ」

 いさぎは、大杉博士から聞いた説を話して聞かせた。二十世紀末、アメリカのフェミニスト・グループがニューヨークの研究所において、男だけが死ぬ菌の開発を始め、その実験の過程である菌が一般社会に広まって、それがエイズになった。そののち男だけが死ぬ菌が開発され、それがエイズワクチンとして全人類に接種された――。
「とんでもないでたらめだわ」と所長は語気を強めた。「第一、エイズの発祥地は、ニューヨークではなくてアフリカだわ」
 そういわれていさぎも、百科事典で読んだのを思い出した。
「それに、エイズワクチンが不完全だったのも、誰の陰謀でもなくて、まったくの不運な出来事だったのよ。その当時はまだ男性優位社会だから、女だけでそんな高度なことはできるはずないもの。わたしたちの秘密結社ができたのはそのずっとあと。変性エイズが発生して、男たちがまるでいくじなくなり、これをもう少し維持すれば世界平和が実現できるという展望ができて、その時点で初めて結成されたのよ。どうもあなたたちの運動は、いい加減な知識に基づいているようね」
 そういわれて、いさぎはかなり動揺した。セックスの本質は所有権の確認にあるという説も、今さっきの行為であやしくなったばかりだ。
「でも、あなたたちが長年にわたって、不当に男を支配してきたことはかわりませんよ」
「それは認めるわ」
「ほんとうに?」
「ええ。今わたしたちの中にも、それに対する反省が起きているの。まだ少数派だけど」
「今ごろ反省してもらっても、なんにもなりませんよ」
「だけど、反省しない人たちもいるのよ。彼女らは恐ろしいことを考えているわ。最近のメンズ・リブの高まりに危機感をもって、あることを計画しているの」
 いさぎは、早くもLH計画のことが聞き出せる機会がきたのかと期待をもちながらいった。
「どんな計画なんです」
「新しい菌を全人類に接種して、〈男の花道〉の死亡率を二十パーセントかあるいはそれ以上に高めようというの」
 いさぎはショックを感じながらいった。
「どうしてそれでメンズ・リブが押さえ込めるんです」
「もともと〈男の花道〉の死亡率は二十パーセントぐらいあったの。死亡率が低下するとともにメンズ・リブが盛んになってきたと考えるわけね。あまり危険のない戦場へ出かける軍隊は風紀がゆるむ。だから、危険を高めればいいという理屈」
「そんなばかな」
「でも、きっと効果はあるわよ」
「その菌はすぐに開発できるんですか」
「ずっと前からあるわ。いろいろな死亡率の菌があって、百パーセントのものもあるの」
 前からあるのならLH計画ではない。
 それにしても、そんなにいくつも菌があるなら、解放勢力が開発したワクチンを無効にするのも簡単かもしれない。容易ならざる事態だ。
「計画というのはそれだけですか」
「もうひとつあるわ。男をすべて去勢してしまおうというの」
 いさぎは、より以上のショックを受けた。
「二十歳までに去勢手術を受けさせるの。精液は冷凍保存しておけば、のちに結婚して子どもをつくることができる。去勢すれば男性の闘争性を奪えるというわけだけど、ま、これは実行するのにかなりの困難があるわ。実行できたところで、よい社会になるとは思えないしね」
「あたりまえですよ」といいながらいさぎは、これもLH計画ではなさそうだと思った。
 だが、LH計画よりこちらのほうが恐ろしいかもしれない。
「今、結社内は、そういう強硬派と、わたしたち平等派に分かれているの。もし強硬派が主導権を握って、そうした計画を実行に移そうとしたら、うまくいってもいかなくても世の中はたいへんなことになるわ」
「そんな計画はおれたちが打ち破ってしまいますよ」
「それもまた困るのよね。あなたたちの運動が勝利して、男性優位社会がもし実現したりしたら……。あなたたちは『近代へ返れ』なんていうけど、近代がどんな時代かほんとうに知っているの。大量殺戮が頻繁に行われた最悪の時代だったのよ」
「さあ、それはどうでしょう。暗黒の近代というのは、今の時代を正当化するために、あなたたちがでっち上げた歴史観でしょう。少なくとも男が今のようにしいたげられて、病気の治療もされずに死んでいくということはなかったはずですから」
「そのへんは議論しているときりがないわね。とにかく、ほんとうの解決は、平等社会の実現によるしかないのよ。それはわかるわね」
 ベッドの中に裸でいるにしては、白熱した議論になってきた。
「まあ確かにそれが実現できればいちばんいいでしょう。でも、むずかしいんじゃないですか。男と女ではあらゆる面が違っているし」
「そうなの。でも、今わたしたち平等派は、完全な平等を実現するために、研究所の中においてある計画を推進しているの。これが完成すれば、ほんとうの男女平等が実現するのよ」
「どんな計画ですか」
 所長は少し間を置いていった。
「あなたはそれをさぐりにきたんでしょう」
「たぶんね。それはLH計画というんですか」
「そうよ」
「おれたちはそれがメンズ・リブに対抗する計画だと思ったんです。たとえば、ワクチンの効かない新しい菌の開発であるとか」
「そんな菌はずっと前からあるのよ」
「で、どういう計画なんです、それは」
 しばらく沈黙があった。
「もう少しして研究が完成すればいうわ」
「おれを信用してくれないんですか」
「むりをいわないで。あなたにはすでにしゃべりすぎるくらいにしゃべったわ」
 突然所長は身を起こして、いさぎの上にかぶさってきた。乳房が一瞬冷たい。所長はいさぎの頬に耳と髪の毛をすりつけて、ささやいた。
「今の社会を維持しても、男性優位社会を復活させても、どちらも不毛だわ。平等社会の実現しかないのよ。わたしを信じて協力して」
 いさぎは所長の背中に手を回して、この体なら信じてもいいとへんなことを考えた。
「協力ってどんなことをすればいいんですか」
「いずれいうわ」
 いさぎは手を下のほうへすべらせて所長の尻をなで回しながら考える。ここはできる限りの信頼関係をつくっておくべきだ。
「わかりました。ほんとうに平等が実現できるなら協力します。そのかわり、新しい菌を広めるようなことは絶対にしないでください」
「ええ。わたしが研究所を押さえている限り大丈夫だけど、でも……」
「でも?」
 いさぎはふたつの尻たぶをぎゅっとつかんだ。
「研究所内でも強硬派がいて、わたしを失脚させようとねらっているの」
「武田部長ですか」
「ええ」
 所長はがばと頭をもたげ、いさぎの顔をのぞき込んだ。

「もし彼女が研究所内で主導権を握れば、すぐにも新しい菌を広めるための準備を始めるでしょうね」
 所長の大きな目が、薄暗い中で猫の目のように光った。
 所長の家を出ると、通りにはまったく人影はなかった。
もう日は落ちているが、まださして暗くない。風もなく、日曜日なので、あたりは静まり返っている。
 いさぎは胸を張って歩き出した。まるで雨上がりのように空気が澄んでいる。緑の匂いがかぐわしい。なぜかすべてのものがいきいきと見える。
 心が洗われたようだ。
 所長を誘惑して秘密を探るという任務が一応形を成して、気が楽になったということもある。
 だが、それよりも、所長とのセックスによる影響が大きい。なにかから解放された気がするのだ。
 いったいなにから解放されたのか。
 いさぎは歩きながら、さっきのセックスにおける所長のひとつひとつの行動を回想する。武田部長のとどう本質的に違うのか。どうしてこう解放された気がするのか。
 別に今わかる必要はない。来週の日曜もまた所長の家にくることになっているからだ。
 だが、これでは所長を誘惑したのではなく、誘惑されたことになるのではないだろうか。所長の平等論にも半ば説得されかかっている。
 いさぎは氷上にどう報告するか考えた。
 氷上たちのいわゆる″真の解放勢力″においては、男女平等論に傾斜することは堕落であるとしてきびしく批判され、互いに戒め合っている。所長との話の内容をそのままいうことはとてもできない。
 いさぎが過激派組織に属しているのを所長に知られていたということも、隠しておいたほうがいいだろう。
 いさぎはかなり微妙な立場に立たされたようだった。
 赤坂住宅街を出、コンクリートの街中を歩いているときだ。一台の車がいさぎの横にきてスピードを落としたので、いさぎはひやっとした。武田部長かと思ったのだ。
 だが、乗っていたのは雨野だった。
「うまくいったみたいですね」
「ああ。ずっと待っていたのか」
「ええ」
 もちろん氷上の指示によるのだろう。いさぎはちらりと、自分は信用されていないのではないかと思った。
 いさぎが助手席に乗り込むと、雨野がうきうきした調子でいった。
「ビッグ・ニュースがあるんです。なんだと思います」
「なんだ」
「ワクチンができたんです。さっき氷上さんに電話したとき聞いたんですが、もう届いて、おれの分もあるんですって」
 雨野は有頂天になっている。その分運転が乱暴で、いさぎはひやひやする。
 いったいこれからどうなるのだろうと思う。解放運動が勢いづくのは間違いないが、しかし、アマゾネスとか秘密結社の強硬派もそれに対抗しようとするだろう。新しい菌の問題もある。
 LH計画の正体もまだわからない。
 それに、自分は所長に協力していくのかどうか。
 なにもかもわからないことだらけだ。
 雨野は氷上の家に行く前に、大杉博士のビルに寄って、博士を車に乗せた。博士は雨野から話を聞かされると、「そうか」と一言いっただけだったが、ひどく興奮していることがわかる。
 氷上の家には、矢島とほかに何人かの幹部が集まっていた。もちろん真理子もいる。
 テーブルの上には、一リットルぐらい入りそうな大きなガラスのびんが五つ置かれている。ほかに十CCか二十CCぐらいの小さなびんが無数にあって、みんなはそれに詰め替える作業をしているところだった。注射器もかなりある。
 大杉博士と雨野は、びんの中の透明な液体を真剣な目つきで見つめている。いさぎもワクチンを初めて見たときはあんな顔をしていたのだろう。
「真理子、二人に注射をしてあげなさい」と氷上がいった。
 雨野はすっとんきょうな声を上げ、博士は腕をまくりながら、感激の面持ちでなにやらつぶやく。
 氷上はいさぎに話しかけた。
「どうだった。うまく取り入れたか」
「ええ、ばっちりですよ。セックスまでもちこんで、二回かわいがってやりました」
 いさぎは氷上にうながされ、部屋の隅のソファーに並んで座った。
「それで、なにか聞き出せたことはあるか」
「ええ、いろいろぐちをこぼしましてね。研究所内で勢力争いがあって、苦労しているようです。つまり結社の内部もひとつではないんですね」
「どういう争いなんだ」
「どうやら解放運動の高まりに対する方針をめぐって対立しているみたいなんです。強硬派と穏健派があって、強硬派は〈男の花道〉の死亡率を上げることを計画しているようです。ということは、別の菌があるということだと思うんですけど」
「それがLH計画なのか」
「いえ、それは別のようです。LH計画のことはまだわかりません」
「別の菌があるとすると、やはりこのワクチンも万全ではないな」
「かもしれません。まあ今のところは所長が抑えているみたいですけど」
「所長は穏健派か」
「ええ。LH計画は穏健派が推進しているらしいです」
「ふうん」と氷上はしばらく考え込んでからいった。「そうすると、強硬派のほうにも手を伸ばす必要があるな」
「研究所内の強硬派の頭目は管理部長の武田久子というやつです」
 いさぎは武田部長について知っていることを話した。
「君はそいつを誘惑できるか」
「できなくもないですけど、へたをすると所長のほうまでだめになるかもしれません」
「それもそうだな。そっちのほうは別になんとかするか」
 そこへ大杉博士が歩み寄ってきた。
「いやあ、いつかこの日がくることはわかっとったが、いざくるとやはり感慨無量だな」
「これで世の中が大きくかわりますよ。かなり量産がきくんです。それに、われわれには大きな資金源になりますし」
「やっぱり売るのかね」
「ええ。そのほうがありがたみがありますからね」
「なるほど。そんなものか」
「それから、統一行動デーが正式に決まりました。毎月一日です。男は第一の性であるということから一日になりました。第一回は五月一日です」
「ほう」
「とにかく、いよいよこれからは、女といくらでもできますね。われわれもなんとかお手伝いしますから」
「ぜひ頼むよ」
 氷上はいさぎのほうを向いた。
「その武田って女は、少しはきれいか」
「いえ、まったく。ブルドッグかガマガエルかという女で」
 氷上は苦笑し、なんの意味か博士と皮肉っぽい視線を交わした。
「ま、よろしく頼む」といって博士は離れていった。
 あと少し話したあと氷上も離れていって、いさぎは一人でソファーに座って部屋の様子を見ていた。
 部屋にはさっきから何人もの男が出入りして、熱気が満ちていた。みんな興奮を抑えきれないという顔をしている。それを見ていると、いさぎもなんとなく胸がおどってくるのだった。
 ただ真理子だけは、さっきから台所でなにか食事の用意をしているのだが、なんとなく元気がなく、浮かない顔をしている。
 真理子はいさぎが一人でいるのを見ると、エプロンで手をふきながら歩み寄ってきて、隣に座った。
「よかったですね、うまくいって」と真理子はいう。
「うん、なんとかね。ずいぶんてこずったけど」
 なにげなく真理子の顔を見ると、ひどく険しい表情をしているので、いさぎは驚く。
 なんだろうこれは。嫉妬だろうか。必死で任務を果たそうとしているのに嫉妬されるのは理屈に合わない。それとも、昔風の女はこうなのか。
「木下さんがこういうことをしているのを家族のかたは知っているんですか」
「まだ知らないよ。もっとも、このごろしょっちゅう出歩いているから、おかしいと思っているだろうけど」
「いつまでも家にいられますか」
「いずれは出ることになるかもしれないけど、今のところは、品行方正な研究所職員でいるわけだから」
 真理子はため息をつく。
「どうかしたの」
「わたし、ここを出ようかと思って」
「どうして」
「なんか居づらくて。いろんな人が出入りするし、兄は外に出ていることが多いし」
「ふうん。でも、君が出るとお兄さんが困るんじゃないの」
「そうだけど…‥」
 そのとき、さっきからテーブルに座ってびんづめ作業をしていた南野が、いさぎに向かっていった。
「木下さんはワクチンは打たないんですか」
 いさぎのかわりに、雨野の隣にいた矢島がいった。
「やつはずっと前に打ったんだ」
「へえ、そうなんですか」
「だから、あの二人は仲がいいんだ。うらやましいだろう」
「へえ」
 雨野は単純な声を上げているが、矢島の声や表情には含むところがある。
「どうしても出るの? だったら、引っ越しは手伝うけど」
「ううん、いいわ。やっぱりやめる」
「そう‥‥‥」
 真理子は台所に戻っていった。
 女心というのはよくわからない。
 いさぎはそれからもしばらく、部屋にいる男たちの活気にあふれる様子を見ていた。
 この活気がもうすぐ多くの男たちの間に広がっていくのだ――。
 そう思うと、自分の中の男の血がさわぐような気がした。

   第九章

 ワクチンは確実に社会に浸透しているらしかった。
 氷上たちのグループにおいては、まず構成員に行き渡り、次いで各構成員がかかわっている穏健派グループの幹部へと配られた。これによって、穏健派に対する影響力は格段に強くなった。
 また、新宿歓楽街のハズレ者たちには高値で売られた。これによって資金が潤沢になったのはもちろん、接種したハズレ者は氷上たちのグループとつながりをもって、新たな戦力となった。
 ワクチンの配給量は、氷上のグループにおいてすでに二千人分を超えていた。
 新宿歓楽街で大きな勢力をもつ氷上のグループには、おそらく最優先で配給されたはずだが、それでも、この分では全国的にもかなりの量になるのではないかと思われる。
 それでいて、すべては秘密裏に進行しているようだった。なにしろ男と女の対立であるから、裏切り者は出にくいし、スパイも侵入しにくい。
 社会の表面は、まったく平静だった。
 だが、いさぎの目には、そう思って見るせいか、微妙な変化が見える。
 たとえば、新宿のハズレ者たちだ。以前は、そう自認しているせいか、いかにも日陰者という感じの者がほとんどだったのだが、最近全体に元気がよくなって、背が高く、たくましい男がよく目につくようになった。もちろん体つきが急にかわるはずはなく、気の持ちようがかわったためにそう見えるのだろう。
 また、性風俗店のサービスがよくなったという評判が立った。ワクチンを打った男が女性に接するのに大胆になったからだ。そのため、歓楽街はさらに活況を呈した。
 氷上たちは、五月一日の統一行動デーに向けて忙しく動き回っていた。
 とにかく多くの人数を動員するという方針があるらしく、そのため、男性優位社会の実現といった過激な主張は抑えられて、名称も「自由と権利のための男性行動デー」というあいまいなものになっていた。
 全国主要都市で集会とデモが予定され、都内では何か所かの公園が集合場所になっているが、奇妙なことに、これという主催者が存在せず、情報はどこからともなく伝えられた。長年にわたる地下活動のノウハウが生かされているのだった。
 それらのことも社会の表面にはほとんど現れなかった。
 そうした中で、アマゾネスの動きだけが目立った。彼女らは、男性解放運動の底流に起こっていることをそれとなく察知して危機感を覚えているらしく、街頭での宣伝活動を強化するとともに、組織力の拡充をはかっていた。
 そして、いさぎはというと、毎週高原所長と逢瀬を重ねていた。
 日曜日、所長がエステティック・サロンから帰ったころに、所長の家を訪ねる。たいていはいきなりセックスになる。そのあと、夕方までいろいろな話をした。
 いさぎは所長とセックスするたびに、自分が解き放たれていく感覚を味わった。
 所長の性交時における行動の原理は、双方の肉体的、生理的な快感を最大にすることに集中し、それ以外のものはいっさい排除する、というものだった。
 いさぎは体験を重ねるにつれ、その原理が飲み込めてきて、どちらがリードするかといったことがまったくつまらなく思え、純粋にセックスに没入できるようになってきた。
 もっとも、実際にはだいたい所長にリードされることになった。そうでないと、いさぎはすぐに絶頂を迎えてしまうからだ。
 そうしてしだいに二人の息も合って、双方がぎりぎりの快感をかなりの長時間にわたって味わえるようになってきたとき、いさぎはいまだかつて味わったことのない、ある体験をした。
 ずいぶん長い間、興奮が高原状態となって持続しているときだった。ようやく射精の瞬間がきた。
 だが、いつもと違った。全身の筋肉に、削岩機の響きのようなけいれんが起こり、電撃的な快感が走った――。
 やがて自分を取り戻したとき、なにが起こったのかよくわからなかった。ただぐったりとして、頭の中が真っ白だった。
「やっと男の歓びがわかったようね」と所長がいった。
 いさぎはシーツに顔をつけて、うつぶせになっていた。片手がへんな具合に体の下敷きになっている。
「どんな気分?」と所長は体を添わせて、耳もとでささやく。
 まだしゃべる気がしなくて、黙っていた。
「今までのときと違ったでしょう」
「ええ」
「マルチ・オーガズムというのよ」
「なんです、それ」
「男のオーガズムには二種類あるの。ひとつは、射精すれば必ず味わえるもの。これは歓びとしては低いものなの。もうひとつは、射精寸前の状態を一定時間以上持続して初めて味わえる、より大きなもの。これをマルチ・オーガズムというの、よ。もっとも、男の生理は複雑だから、そう簡単には味わえないみたい。知らないままに一生を終える男がほとんどかもしれないわね」
「そんなの初めて聞いた」
「今の時代は、男の性は神秘化されているから」
「昔はどうだったんでしょう」
「たぶん今以上に知られていなかったでしょうね。男というのは昔から観念的で、相手を支配する歓びをセックスの歓びと勘違いしたりするけど、マルチ・オーガズムというのはもっと肉体的なものだから」
 いさぎはその後も何度かマルチ・オーガズムを迎えたが、確かに複雑な要素がからみ合っているらしく、よほど気の合う相手とでなければむずかしいように思われた。
 それにしても、二人の関係はかなり微妙だった。いさぎは男女平等社会実現のために所長の計画に協力するといったが、これはそういったほうがスパイしやすいだろうという計算もあってのことだ。所長もいさぎに協力を求めながら、肝心の計画の内容については話さない。完全に信頼しているわけではないのだ。
 セックスのあとはさまざまなおしゃべりをした。いさぎが主に聞き手に回った。いさぎは女性優位社会が出現した歴史や秘密結社側の考えかたについてただした。
「あの欠陥ワクチンはほんとうに女の陰謀によるものではないんですか」
「ええ。ワクチンが男にだけ死の可能性を残したのは、まったく信じがたいほどの偶然だったの。でも、これは神さまのおぼしめしだったのかもしれないわ」
「どうしてそんなことが神さまのおぼしめしなんです」
「だって、そのおかげで人類が助かったんだもの。二十世紀末から二十一世紀初めにかけては、人頬は大量の核兵器を保有し、同時に世界各地で武力紛争が頻発していて、まかり間違うと人頬が滅亡しかねない情勢だったのよ。そこに欠陥ワクチンが登場し、男女のありかたがかわって、女性の社会進出が進み始めた。その当時から、女性は平和的なものと思われていたから、もうしばらくこのままの状態が続けば世界は完全に平和になるだろうという判断のもと、完全なワクチンの開発を遅らせようという動きが出てきたの。これがわたしたちの秘密結社〈女の平和〉の始まりよ。だから、当初は平和を願う男性もメンバーになっていたの。そして、ねらい通りに世界平和が実現したんだけど、しだいに結社は変質して理想を忘れ、ただ女性優位社会の維持だけを目的とするものになってしまったのよ」
「もしかしてワクチンはすでに開発されているんじゃありませんか」
「ええ」
 やはり、といさぎは思った。所長と初めてキスをしたとき、所長は、ワクチンを打っていてもいなくてもどちらでもいいということをいった。あれはワクチンがあるからなのだ。
「開発されたのはいつごろです」
「ずっと昔」
 いさぎは怒りを抑えて、むしろ平静にいった。
「そんなにして、たくさんの男の命を犠牲にして成り立ってきたこの社会に、どれほどの価値があるというんです。それは確かに平和だったかもしれないけど、それだけじゃないですか。人々の暮らしはまったく豊かになってないし、科学やテクノロジーもほとんど進歩していない。こんなひどい時代が人類の歴史の中でほかにありますか」
「あら、まるで昔の男みたいな発想をするのね。そんなことはないのよ。これほどなにもかもうまくいった時代は、男の時代にはなかったわ。軍備を全廃しただけじゃない。犯罪はほとんどなくなったし、経済恐慌もなかった。自然保護も行われて、人間は自然と調和して生きられるようになった。物質的な豊かさだけが価値ではないわ」
「そうですかね。おれには沈滞しているとしか思えませんね。昔は――つまり二十世紀末ころは、もっといきいきとしていて、華やかだったでしょう」
「それはうわべだけよ。それに、当時は物質的に豊かだといっても、それは将来の展望を欠いた上でのものなの。資源は有限だし、生態系とも調和していかなければならないから、経済にはおのずと適正規模というものがあるじゃない。ところが、昔の男は目先の成長を追い求めるだけで、そういうことは考えなかったの」
「ほんとうですか」
「ええ。信じられない話だけど、事実よ。近代の男の意識というのは、今のわたしたちにとっては謎ね。とにかく、当時の男が経済運営のセンスを根本的に欠いていたのは事実ね。資本主義の初期、好景気と恐慌が繰り返されたのはまだ不慣れだったからしかたがないとして、何度も繰り返すうちに、しだいに景気の振幅が少なくなってくるかというとそうではなかった。逆に大きくなって、とうとう国家が介入しなくては成り立たなくなってしまったの。まったく信じがたいほどの愚かさだわ。男といぅのは、猫と同じで、なにか動くものがあると本能的にとびかかってしまうのね。
 で、結局男のやったことというのは、すべてを数字で管理しようということだったの。経済活動のあらゆる面を数字で表して、その数字をもとに国家が経済を管理する。そのために膨大な行政機構が必要になってしまった。どうも男というのは、多様な現実を多様なままに認識するということができなくて、抽象的、観念的なものに変換しなければいけないらしいわね。
 その点、女の認識能力は、現実の多様性をそのまま直観的に把握することができるの。なにも世界全体を把握しなくても、みんなが身の回りを把捉すれば、認識のネットワークができて、自然と全体的な調和が保たれることになるわ。こうして女の時代の経済は、地球の生態系に調和し、遠い将来までも保証されたものとなったのよ。
 昔、『夜警国家』という言葉で国家の理想が表現されたことがあったけど、女の時代になってその理想が実現されたわけね」
「それにしては、犠牲が大きすぎます。いったい今までに、死ななくていい男がどれくらい死んできたんです」
「死者の数ということなら、男の時代が続いていた場合とどちらが多いかわからないんじゃないかしら。あのままの時代が続けば、核戦争による人類滅亡の可能性は別にして、戦争でたくさんの人が死んだでしょうし、政治的理由による飢餓や貧困で死ぬ人はもっと多かったでしょう。圧政によって苦しむ人の数もそうとうなものになったはずよ。それに、環境破壊が進んでなにか決定的な災いがもたらされた可能性も大いにあるわ」
 今の時代、男はあまりにしいたげられているといさぎがいうと、所長はこう反論した。
「確かに今は、夫は妻に一方的に尽くし、まったく報われないどころか、しばしばひどい仕打ちを受けているわ。でも、昔の男は国家や企業に自分を捧げて、奴隷のようにして生きていたのよ。そのほうがよかったなんていえるかしら。国家や企業にかしずくよりは、妻にかしずいたほうが、ときには感謝が返ってくることがあるだけましじゃないかしら」
 また所長は、秘密結社〈女の平和〉の本来の理念について、このように語った。
「近代までの人頬は、戦争、犯罪、暴力、圧政といった問題に苦しみながら、これをまったく解決することができなかった。しかし、二十世紀のフェミニズム運動は、それらの問題は実は人類の問題ではなく男性の問題であることを明らかにしたの。戦争や暴力や政治的過激性はもっぱら男のものだし、犯罪や性倒錯については、つねに男性は女性の十倍多かったのよ。それに加えて男性には、力の信仰という問題があるの。男の世界には、平等とか信頼に基づく関係とかはなく、あるのは、ただ力による支配だけ。支配か服従か、主人か奴隷かなの。
 こうした逸脱と暴走、力の信仰という傾向を、わたしたち秘密結社は『男性問題』と名づけ、人類の問題を『男性問題』ととらえ直したわけ。そして、この女の時代は、『男性問題』を一応抑え込むことに成功したのよ。これは人類の歴史において画期的なことだわ」
 所長の話は、いさぎにとってひとつひとつが驚きだったが、いさぎ自身、歴史の知識があまりないので、どこまで信じてよいのかよくわからなかった。とくに男が逸脱と暴走の性だというのは納得いかず、男の性質が女の価値観のわくに収まらないためそう見えるのではないかと思った。
 男の性質についていろいろ議論した末に、いさぎはいった。
「そんなふうに考えるなら、なぜ今になって男女平等社会の実現なんてことをいうんです。今のままの社会を続けていけばいいじゃないですか」
「さっきわたしは、『男性問題』は一応抑え込んだといったでしょう。あくまで一応なの。確かに社会の表面はうまくいっているけど、男の本質はかわらなかった。ただ問題を家庭の中に追い込んだだけだったの。
 男というのは、自分を支配関係の中に置くことしかできないの。二十世紀には、男は戦争か経済戦争に自分を捧げて生きていた。二十一世紀になって、変性エイズのために家庭に関心を向けざるをえない時代がきたけど、結局、男は家族愛に目覚めるということはなかった。それまでとまったく同じに、戦争や経済戦争に出向くようにして家庭に入っていったの。
 あの、日の丸を打ち振り、万歳を三唱する結婚式や、死者を祭るますらお神社といった仕掛けは、もしかして女が男を家庭に追い込むために考え出したと思うかもしれないけれど、そうじゃないのよ。あれはもともと日本の男が自分たちで考え出して、自分たちでやっていたことなの。死を最高の名誉として、国旗の打ち振られる中を死地に向かって行進する。男はみんな昔から、これが男の最高の生き方だと思ってきたのよ。
 日本だけじゃないわ。男を結婚させる方法は、世界中どこでも同じだった。国のためといって名誉を与えてやり、国旗をひらひらさせてやれば、男は簡単に死に向かって行進していったのよ。
 つけ加えていうと、日本男子は素直に女に仕える点で世界一だと評判だけど、これも、国家や企業によく仕えた昔の日本男子の伝統を受け継いでいるからよ」
「さぞかし満足なことでしょう」
「そうもいっていられないのよ。家庭に入った男たちは、確かに夫として、父としての役割をよく果たし、家族に献身的に尽くしたわ。でも、そこに愛はなかった。わかる? 男は、よい夫、よい父としての賞賛を得るために、さらには英雄としての栄誉を得るために、家族に尽くしたの。子どもの世話をするのは、子どもを愛しているからではなく、父親としての義務だから、父親として賞賛されたいからなの。ああ、これではいくら熱心に、完璧に世話をしても、なんにもならないわ。妻に対しても同じことよ。従順なのは、男はそうあるべきだと思っているからなの。
 こうして、部屋にちりひとつなく、栄養を考えた献立が出され、衣類がつねに清潔にそろえられていても、実は家庭は荒廃していたの。これは、あなたの友だちの家を思い浮かべてもわかるでしょう。暖かさや笑いがないのよ。
 まあ、男のせいにばかりはできないわね。妻も、夫が従順なのをいいことにどんどん増長してきたから。今では昔のかなりたちの悪い男と同じくらいに、夫に対して横暴なんじゃないかしら。
 なぜ男が愛情の価値に目覚めなかったのか。この原因にはいろいろ議論があるけど、わたしたちの誤算だったことば事実ね。
 もちろん例外はいるわ。でも、愛情を人生の中心的な価値に考える男というのは、今も昔も同じくらい少数なの。あなたはその例外の一人だと思うわ。
 そうして家庭の内実は荒廃の一途をたどって、今、その悪影響がさまざまな面に出ているわ。最近の子どもたちの問題行動もそのひとつよ。近代特有の現象に少年非行といわれるものがあったけど、最近の問題行動はほとんど近代とかわらないくらいにまでなってきているわ。
 歓楽街の拡大も同じことよ。もともと女というのは、性を恋愛、結婚、出産というつながりの中でとらえて、男のように性の快楽を単独で追求するということはあまりしないものなの。女が家庭の外に慰めを求めるのは、よほど家庭がおもしろくなくなってきているからだわ。
 メンズ・リブの高まりも、そういう流れの一環と理解できるわ。男自身も、よい夫、よい父を演じることのむなしさを感じ始めたのね。
 だから、メンズ・リブを力で抑え込んだり、男の務めを説き聞かせたりしても、もはや解決にはならないわ。家庭の荒廃が解決されない以上、社会は根底からむしばまれていくでしょう」
「そこまでわかっているならワクチンを公表して広めればいいじゃないですか。それですべて解決するんですから」
「とんでもない。そんなことをしたら、男性問題が復活するに決まってるじゃない」
「男性問題なんていうものは信じられませんね。かりに男性優位社会が復活しても、戦争管理さえちゃんとすれば、そんな悪いものじゃないはずです」
「男に戦争管理がうまくやれるはずがないわ。それは過去に実証ずみよ」
「時代が違いますから、そんな昔みたいなことにはなりませんよ」
「あなたは男の本性を知らないからそういうんだわ」
「なんだかわけがわからなくなってきた。そんな男性不信をもっていて、どうして男女平等社会の実現なんてことがいえるんです」
「男の本性をかえることで男女平等社会を実現しようというのよ。原始時代はいざ知らず、文明社会において男女平等が実現したためしはないでしょう。男の本性がかわらない限りむりなのよ」
「男の本性をかえる? 去勢とかそういうことですか」
 いさぎの語気がつい強くなった。
「いえ、そんなんじゃないわ。いいかたが悪かったわね。男というのは本性がゆがめられた存在なの。そのゆがみを正して、本性を取り戻させようというわけ。今は男が弱い性になっているからわからないかもしれないけど、ワクチンによって解き放たれたら、そのゆがみが見えてくるはずだわ」
「信じられませんね。とにかく、どんな計画だかわかりませんけど、協力するとは限りませんよ」
「でも、もうすぐわたしのいったことが正しいとわかるはずだわ」
「どうして」
「もうワクチンができているんでしょう」
 いさぎは答えをためらった。
「アメリカではすでにかなり出回っているし、日本でもそういう情報が入ってきているわ」
「ええ。日本でもかなり出回ってます。おれもすでに打ちました」
「やっぱり。だったら、男がどういうものか、もうすぐわかるわ」
「逸脱と暴走と力の信仰、ですか」
「ええ」
 所長はいやにきっぱりといった。

 二一九九年五月一日。この日は男性解放運動史上に特筆されるべき日となった。
 休日だったので、いさぎは一日家にいた。
 統一行動デーだけあって、それまで散発的に行われていたものとは比較にならない規模の集会とデモになった。テレビはときどき生中継の映像を映し出した。
 いちばん規模が大きいのは日比谷公園の集会らしく、そこがよくテレビにも映った。デモ行進は、日比谷公園から銀座通りを新橋方面へと向かった。午後の銀座通りは買物客でにぎわっていた。
 デモ隊は、スクラムを組んでいる一団もあれば、足を引きずってぞろぞろ歩いている一団もあり、プラカードに書かれたこともシュプレヒコールの文句もばらばらで、まったく統一がとれていないが、しかし、とにかく人数が多いので迫力がある。テレビのレポーターは、「男がこれだけそろって行動するのは前代未聞でしょう。まったく異様な光景です」と興奮して叫んでいる。
 やがてテレビにアマゾネスの集団が映し出された。デモ隊を待ち受けているのだ。カメラがきりかわり、また別の集団。こちらもかなりの数になる。たくましい肩や腕、太股が五月の陽光に照らされて、光り輝いている。半裸体のたくましい女がこれだけ集まっているのも、やはり異様な光景だ。
 デモ隊の通る道には、例によってごく少数の交通整理の警官しかいない。衝突は必至の情勢だった。
 やがて、デモ隊の先頭にアマゾネスが襲いかかるところが映し出された。
 デモ隊は大きく隊列を乱した。すぐにちりぢりになるだろうといさぎは思ったが、そうではなかった。殴りかかるアマゾネスに対して、デモ隊の男も殴り返し、組みついていった。たちまち双方が入り混じる乱闘となった。殴り合いはアマゾネスのほうが優勢のようだが、組みつくと男がアマゾネスを押し倒したりすることもある。アマゾネスの何人かは服を引きちぎられ、ほとんど裸になってしまっている。
 いったいどうなるのかと思って、かたずを飲んで見ていると、警官隊が姿を現した。警官隊は警棒をかざして混乱の中に押し入った。もちろん警棒が振り下ろされるのは、デモ隊の男に対してだけだ。
 男たちは逃げ出し、あっというまに大勢は決した。あとは、逃げ遅れた者が袋だたきにあっているのが映し出されるばかり。
 場面がかわり、また別の隊列にアマゾネスが襲いかかるところが映る。このあたりの男はまるで闘う気がなく、一方的に殴られ、逃げまどう。
 テレビでは全体の状況がどうなっているのかよくわからないが、だいたいはやはりアマゾネスにけちらされたようだ。警官隊につかまって逮捕された者も少なくない。
 アマゾネスの姿が見えなくなると、逃げた男がまた集まってきて、混乱はまだ続きそうだったが、テレビ中継はそこで終わりになった。
 その日、夕方から夜にかけてのテレビニュースは、全国のデモの様子をトップで繰り返し報じた。
 だいたいどこも似たようなぐあいで、部分的にデモ隊が優勢になっても、全体としてはアマゾネスに痛めつけられ、全国でかなりの負傷者と逮捕者を出した。ただしテレビはデモ隊の男がアマゾネスを殴ったり投げたりする場面をことさら強調して映し出した。
 翌日の新聞には、識者の意見と街角の庶民の意見とが満載されていた。それはことごとくデモ隊の男を非難するものだった。
 あれが男のすることか。日本男子の誇りはどこへいったのだろう。リブをやる男って、自分が女にもてないから、女に恨みをもってるんじゃないの。男は群衆心理に引きずられやすいから、もともと集団で行動するのは避けるべきなんですね。女が女らしくなって男に男らしさを教えないからよ。ああいう男と結婚する女がいないことだけは確かよね。まじめに取り組んでいるぼくらにとっても迷惑です。ぼくもうリブはやめます。
 テレビでも、特別番組として座談会などが行われたが、普段メンズ・リブに共感的な発言をしていた評論家も非難する側に回って、これまた非難一色となった。
 マスコミはもともと女が押さえているので、こういう論調はある程度予想されたことだが、それにしてもあまりの非難の激しさにいさぎはたじろいだ。あの場面についていえば、むしろ正当防衛なのだが、そんなことを指摘する者は一人もいない。男が女を殴るということがとにかく心理的にショックなのだろう。
 こういうことではワクチンが少々普及したところで、女性優位社会はまだまだゆるがないのではないかと、いさぎは悲観的な気分になった。
 デモがあった日の三日後、いさぎは氷上に呼ばれて氷上の家に行った。
 氷上と真理子のほかに矢島がいた。
 氷上と矢島はデモの反省をしていた途中らしく、いさぎは少し離れたところに座って、二人の話に耳を傾けた。
「みんな殴るのがあんなにへたくそだとは思わなかったな」と矢島がいった。
「考えてみれば当然さ。おれだって、昔はよく練習したもんなんだ。パンチに腰を入れるっていうのは練習しないとできないからな」
「ウエイト・トレーニングばかりじゃなくて、なにかやらないとだめだな。昔はカラテというのがあったらしいが」
「大杉博士なら知っているかもしれん」二人はいきいきとしてしゃべっている。
 真理子がいさぎの横にきて座った。そして、いさぎの手を握る。
 氷上や矢島の前であまり親密そうにしたくないが、好意を示されるのはやはりうれしい。
 いさぎは高原所長と関係をもってから、真理子とはほとんど会わなくなった。時間がとれないということだけでなく、真理子に物足りなさを覚えてきたからだ。
 だが、こうして隣に寄り添われると安らぎを感じ、やっぱりこれが本物の女らしさなのだと思う。
 こういう感覚は、所長と会っているときには味わえない。
 所長は、セックスのときばかりでなく、基本的に男と対等にふるまうべきだという考えがあるらしい。だから、たとえば話し合いにしても充実したものになるが、その分、気疲れするのも事実だ。二人ともベッドに横たわって天井を見ながら話していても、どこか正面を向き合って対決して話しているような感じになる。
 その点、真理子はなにをしても、いさぎの斜め後ろに従っているという感じになる。以前は、それに対して男らしくあらねばと思って緊張したが、今では男らしさが身についたのか、安らかな気持ちになる。やはりこれが男と女の本来のありかたなのだろう。
「ワクチンを打ったのに、まるで闘う気のないやつがずいぶんいやがった。ああいうのはどうすりゃいいんだろう」
「最初はあんなもんさ。毎月やっていれば、たちまちかわってくる」
 いさぎは口をはさんだ。
「これからもああいう調子でいくんですか」
「だんだんエスカレートさせていくんだ」と氷上は答えた。
「でも、穏健派の連中はついてきますかねえ。ちょっと激しくやりすぎたんじゃないですか」
「そんなことはないさ。君はまだ男というものがよくわかってないようだな。男というのは、過激なほど燃えるもんなんだ」
「そうでしょうか」
「ま、いずれわかるさ。それはそうと、今日きてもらったのは、新しいエイズ菌対策についてなんだ。
 あのデモで、〈女の平和〉の連中にも、おれたちがすでにワクチンを打っていることがわかったはずだ。となると、ワクチンの効かない新しい菌をもち出してこられる恐れがある」いさぎはうなずいた。
「強硬派の元締めは管理部長の武田という女だな」
「全体の元締めかどうかわかりませんが、少なくとも研究所内ではそうです」
「武田部長がいなくなれば、研究所はどうなる」
「高原所長の地位が安泰になるでしょう。所長は自分がこの地位にいる限り新しい菌を使うことはないといっていました」
「信用できるか」
「ええ、まず大丈夫です。LH計画を完成させることしか念頭にないようですから。LH計画というのは、男女平等社会を目指すものらしいです」
「そっちのほうも問題だったな。だが、とりあえず強硬派のほうをなんとかしなければならん。君は武田部長をどこかに誘い出すことはできないか」
「なんとかなると思いますけど、誘い出してどうするんですか」
「つかまえて、結社の内情を吐かせる。場合によっては、ほかの幹部にも手を伸ばして、とにかく新しい菌を広めるのを阻止する。LH計画のことも聞き出せるだろう」
「そう簡単に吐きますかね」
「痛めつけるさ」
「そのあとはどうします。逃がすとおれの立場がなくなりますけど」
「それは大丈夫さ。どこかに監禁しておく」
 そのとき、矢島がうすら笑いを浮かべた。
 おそらく殺すことになるのではないかといさぎは考えた。
 新しい菌を使われたら、またどれだけの男の命が失われるかわからない。それを考えると、少々のことはしかたがないとは思うが……。
「所長からはなにか聞き出していないか」
「ひとつおもしろいことを聞きました。なんでも、ますらお神社の中には若い男がいっぱいいて、秘密結社の連中が利用する娼館になっているんだそうです」
「ほんとうか」
 氷上も矢島も信じられないという顔をしている。
 いさぎは部長に抱かれたことを秘密にしているから、この目で見たとはいえない。
「聞違いないと思います。武田部長もよく行っているようですから、そのことも聞き出してみてください。もし動かぬ証拠をつかんだら、いや、武田部長に公の場で証言させることができたら、世の中はひっくり返りますよ。男はみんな怒って立ち上がるでしょう」
「ふうん。まあほんとうならな」と氷上はまだ半信半疑だ。
 それから、武田部長を誘い出す手筈を打ち合わせた。
 打ち合わせが終わって帰ろうとすると、真理子が送っていくといった。矢島の嫉妬深い視線が気になったが、このところ二人きりになる機会がなかったので、いっしょに家を出た。
 外は相変わらずのにぎわいだ。とくに呼び込みの男の声が威勢よく響く。ワクチンを打って自信をつけた男なのだろうか。
「あんまりあぶないことはしないでくださいね」と真理子がいう。
 女らしい、やさしい心づかいが身にしみる。
「大丈夫さ。それよりも、これからは君のほうが心配だな。昔のことわざで、男はみんな狼よ、というのがあるから」
 いさぎは冗談めかしていったのだが、真理子は険しい目つきでいさぎをにらみつけて、少しも笑わない。どうもこのごろ以前と様子が違う。
 別れぎわに「来週あたり、二人きりで会おうか」というと、やっと笑顔になった。
 翌日、いさぎは研究所内で武田部長と二人きりになる機会をねらい、うまくエレベーターに二人きりで乗り合わせた。
「このごろちっとも誘ってくださらないんですね」といさぎは色っぽくいった。
 部長は意外そうに目を丸くした。いさぎは部長の誘いをずっと断りっぱなしだりたからだ。
「どういう意味なの」
「またそんなこといって。ほんとうにじらすのがうまいんだから。そうやって男心をもてあそぶのが部長の手なんですね」
 部長はたちまちやにさがった。まったく単純なものだ。
「そうか、だったら、今夜会う?」
「今夜はつごうが悪いんです。明日はどうですか」
 部長はもったいをつけて考えた。
「明日か。ま、なんとか時間を空けてみようかしら」
「お願いします。ぼくいいレストランを知ってるんです。そこへ行きませんか」
「いいわよ」
「部長はいつも車ですね」
「ええ」
 いさぎは明日仕事が終わったあと、研究所から少し離れた人目につかないところで待っているから、車で拾ってくれるように頼んだ。
「食事したあと行くところはお任せしますから」というと、部長はうれしそうに笑った。
 翌日、部長の運転する車に乗り込んだいさぎは、行く方向を指示して、レストランの裏の駐車場だといって、まるで人気のない空き地に車を乗り入れさせた。そして、部長が車から外に出たとたん、矢島と雨野ともう一人が現れ、ナイフをつきつけて、簡単に誘拐作戦は成功した。部長は別の車に押し込められるとき、いさぎをうらめしそうな目で見た。
 部長が研究所内の若い男と逢い引きをすることを人にいうはずはない。いさぎが疑われることはまずないだろう。
 武田部長が突然姿を消したことは、表立った問題にならなかった。電話交換室にいる情報通の岡崎ですら、しばらくは知らなかったほどだ。
 武田部長はそうとうきたないことにも手を染めていたはずだ。研究所や秘密結社としても、あまり武田部長のことは表に出したくないのだろう。
 四、五日するといさぎの周りでも、武田部長がなぜかいなくなったらしいとささやかれるようになったが、ただそれだけのことだった。
 いつものように所長と会ったときも、その話題はまったく出なかった。
 まったく出ないというのも、考えてみれば不自然だ。所長は当然、いさぎの関与する過激派がなにかやったのではないかと疑っていいはずだからだ。
 いや、疑うのではなく、確信しているのではないか。だから、なにもいわないのだ。
 いさぎは、もしかして自分は所長に利用されたのではないかと、ふと考えた。所長がいさぎに、結社に内部対立があることを教え、武田部長は新しい菌を使うことを考えているといったのは、部長を抹殺したかったからでは……。
 しかし、いさぎはしだいに深く所長との関係にのめり込んでいった。所長の魅力にはあらがいがたいものがあったし、それに所長は、セックスに関してばかりでなく、いさぎをまったく対等の人間として扱ってくれるのだ。これは、今の時代の女には希有のことだった。
 一方、氷上のほうからはなにも連絡がなかった。
 武田部長からなにも聞き出せなかったのだろうか。あるいは、氷上はなにか大きなことをたくらんでいるのだろうか。
 なにか宙ぶらりんのままに日がすぎて、六月一日、二度目の統一行動デーがきた。
 マスコミの圧倒的な非難にもかかわらず、参加人数は前回よりかなりふえた。そして、アマゾネスや警官隊との衝突もさらに派手なものになった。
 ワクチン接種者がさらにふえたということよりも、前回部分的にでも男が女に打ち勝ちそうになったことが、男たちの自信になったのだろう。
 例によってアマゾネスが殴りかかることで乱闘が始まったが、今度は逃げる男が少ない。もともとデモ隊のほうが人数が多いので、アマゾネスを包み込むような格好になったりする。まだアマゾネスのほうが力が強いし、闘いにも慣れているが、密集の中でもみ合うようになると、あまり力が発揮できない。露出的なコスチュームもマイナスになる。デモ隊のほうが優勢になる状況があちこちで生まれた。
 もっとも、警官隊が出てくると、まだまだたち打ちできない。警官隊は警棒をもっているし、アマゾネスよりも組織的に動くことができる。警官隊はいっそう露骨にアマゾネスと連携して、デモ隊に敵対した。
 コンクリートの舗装を割ったり、付近のビル解体現場から持ち出したりして、石を投げる男たちもいた。しかし、これはまったくの逆効果だった。投げた石は投げ返された。男の投げかたはまったくへたくそなのに、女はみな子どものころから野球などをしていて、比較にならないほど巧みに投げることができたので、デモ隊のほうが逃げ回るはめになった。
 投石のために商店のウインドーが割れたりして、シャッターを閉める店も少なくなかった。通行人も身の危険を覚え、前回のように見物ばかりもしていられなかった。まき込まれてけがをする人も出た。
 結局、あらゆる面で、衝突のエスカレートが印象づけられる結果となった。
 まったく氷上は正しい、といさぎは思った。男は激しければ激しいほど燃えるのだ。その男の性質の前では、マスコミの非難など大した問題ではない。
 とにかく、今回の衝突は、人々の意識に深刻な影響を与えた。女は強く男は弱いという固定観念が大きく揺らぐこととなったのだ。
 マスコミの上だけでなく、男と女のありかたに関する議論がさまざまに行われた。
 そして、統一行動デーから五日後、マスコミはひとつの事件を大々的に報じた。
 それは、〈男の花道〉に効くという薬を高値で売りつけてもうけていた詐欺団が警察に逮捕されたというものだった。その薬はただの砂糖水で、詐欺団は巨利を博していたという。どのマスコミも、善良な男をまどわし英雄を冒涜するもっとも悪質な詐欺事件として、激烈に非難していた。
 果たして実際の事件なのかどうか。でっち上げの可能性が強いように思えるが、かりに実際のことだとしても、それを大々的に報じたというのは、秘密結社や警察、マスコミの上層部がワクチンの普及に危機感をいだき、なんとか妨害しなければならないと考えたからだろう。
 実際これで、ワクチンを高値で売ることはかなりむずかしくなるに違いない。
 だが、この詐欺事件の報道は、まったく別の効果ももたらした。というのは、それまで〈男の花道〉は病気ではないと素直に信じて、死を受け入れる覚悟でいた男たちの胸に、疑いを芽生えさせたのだ。〈男の花道〉はただの病気だ、予防する薬がどこかにあるのだ、といううわさが一般の男たちの問でささやかれ始めた。
 そうした中、いさぎは真理子に会いたくなって、氷上のところに電話した。以前、来週あたり会おうといったのだが、なぜかその気にならず、一か月近くがたっていた。
 氷上が出た。
「真理子さんいますか」
「いないよ」
「いつごろ帰ります」
「死んだんだ」
「なんですって」
「真理子は死んだ。自殺だ」
 ぶっきらぼうないいかたが、真実であることを告げていた。だが、いさぎはしばらく信じられなくて、黙っていた。
「もう二週間ほどになるかな。わざわざ知らせることもないと思って」
「なぜ自殺したんですか」
「別に、たいした理由もないんだ」
「たいした理由がないって、そんなはずはないでしょう」
「まあ、もうすんだことだから」
 いさぎはさらに聞いてみたが、まるで要領を得ない。なにかいいたくないことがあるようだ。
 いさぎは電話をきってから、しばらく茫然としていた。自分の初めての女、それが死んだとは。
 だが、いったいなぜ。前から元気がなかったのは事実だが……。
 いさぎはその日の夕方、雨野の家に行った。雨野なら、知っていることがあれば話すだろうと思ったからだ。
 雨野は、新宿歓楽街のすぐ近くのアパートに住んでいた。かなり高級なところだ。実家から金を出してもらっているのだ。
 部屋の中は、自動車関係のものでいっぱいだった。壁には自動車のポスターが何枚も張られ、模型もいくつもあり、本や映像資料もそうとう収集されている。
 いさぎは雨野に聞いた。
「真理子さんが自殺したんだって」
「ええ、そうなんですよ」
「なにがあったんだ」
「別にたいしたことじゃなかったんですけど」
「いってみろ」
「矢島さんがいい出したんです。みんなで真理子さんをレイプしようって」
「みんなで?」
「ええ、おれと矢島さんと田所の三人です。矢島さんは真理子さんに断られっぱなしで腹を立てて、どうせやるなら輪姦しようって」
「そんなことをやっていいと思ったのか」
「氷上さんが怒るかなと思ったけど、矢島さんがいっしょならいいんじゃないかと」
「そのとき、真理子さんの様子はどうだった」
「それが期待外れなんですよ。矢島さんは、いやがっててもやっちゃえばすぐによがるようになるっていったんですけど、最後までしらけた感じで、でも、おれなんかあんなタイプ初めてだから、すごくよかったです。結局、三人とも二回ずつやったんです」
「そのあとすぐ自殺したのか」
「次の日だったかな。ビルから飛び下りたんです。がっかりですよ。これからいくらでもできると思ってたのに」
「氷上さんは、お前たち三人が輪姦したことは知っているのか」
「ええ」
 いさぎはそれから氷上の家に行った。
 エレベーターに乗ろうとするところで、若い男に呼び止められ、たちまち四人の男に囲まれたが、中の一人がいさぎを知っていたので、上に行くことができた。
 エレベーターを出たところにもまた男がいて、氷上に取り次いでくれて、やっと氷上の部屋にたどりつけた。
 このところ、ワクチンのルートを絶とうと警察やアマゾネスが動き回っている。それに対する警戒だ。
 部屋には、氷上と矢島と、いさぎの知らない男二人がいて、なにか打ち合わせしていた。
 待ちながら話を聞いていると、秘密の工場に工作機械をすえつけるといったことをしゃべっている。
 二人はそういう方面に詳しい男らしい。
 やがて打ち合わせが終わって、矢島と二人の男が帰った。矢島の表情には、特別なものはなにもうかがえなかった。
 いさぎは氷上と向き合った。
「真理子さんは矢島らに輪姦されたそうですね」
「なんだ、聞いたのか」
「どういうつもりなんですか」
「なにが」
「矢島ですよ。どうしてあいつがここにいるんです」
「しかたがないだろう。あいつは有力な幹部なんだ。もし追放したりしたら、組織が分裂しかねない。それだけは絶対に避けねばならん」
「なんとも思わないんですか。自分の妹が犯されて、そのために自殺したんですよ」
「なんとも思わないわけじゃないさ。しかし、そんな私情ははさんでいられない。今が運動にとっていちばんたいせつな時期だからな」
「矢島とか雨野とか、ああいう人間をどう思います」
「どういう意味だね」
「最低の人間じゃないですか。あんな連中とよくいっしょにやっていけますね」
「君はなにをいってるんだ。どんな最低の人間でも、組織にとって有能でありさえすればいいんだ。それが近代の考えかたじゃないか」
 いさぎは絶句した。そうなのだ。それが近代なのだ。
「だけど、あんな連中を抱え込んでいれば、結果的に運動にマイナスになると思いますよ」
「近代人の知恵というのはそんなもんじゃない。ちゃんと対策があるのさ。いずれそれも実行するつもりだ」
「じゃあ、あの連中のやったことはまったく不問にするんですか」
「しかたがない。それに、もとはといえば、やらせなかった真理子も悪いんだ。最初からその予定だったのに、自分の任務を忘れちまいやがって」
「最初からその予定? どういう意味です」
「こっちの話さ。とにかく、今はだいじな時期なんだ。今の話を聞いただろう?」
「なんだかよくわからなかった」
「市谷《いちがや》の戦争博物館を襲う計画を立てているのさ。あそこには秘密の倉庫があって、弾薬も保存しているという信頼すべき情報があるんだ。もっとも、どれくらいあるかはっきりしないから、弾薬製造工場もつくるわけだ。鉄砲の弾自体はごく単純なものだから、いろんなサイズのものをつくれば、博物館にあるたいていの銃器は使えるようになるはずだ」
 戦争博物館というのは、軍備の全廃を記念してつくられたもので、各時代の武器をひと通りそろえて保存しているかなり大きな博物館だ。いさぎも小学校のころ先生に引率されて、一度行ったことがある。
「銃器を使えるようにして、どうするんです」
「考えてみろ。アマゾネスは素手だし、警察は警棒だけだ。銃さえあれば、圧倒できる」
「圧倒してどうなりますか」
「どうもならんよ。ちょっとは溜飲が下がるだけで。アマゾネスや警官隊なんかいくらやっつけてもしかたがない。だけど、大杉博士の言葉を覚えているだろう。銃声から国家が生まれる。街頭で一発の銃声を響かせよ、そうすれば国家ができる――」
「ありましたね」
「まず国家をつくり、しかるのちそれを転覆する。二段階革命論だ。おれたちが力をもてば、女たちも対抗しようとするだろう。そうすれば自然と国家が生まれるわけさ」
「どうもそのへんのことはよくわからないんです」
「まあ国家とか政治とかいわれても、ぴんとこないからな。だが、博士のいうことは正しいはずだ」
 もうそれ以上議論する気にはならなかった。
 いさぎは帰ろうとしてドアのところまできたとき、もうひとつ聞きたかったことを思い出した。
「武田部長はどうなりました。どんなことをしゃべりました」
「いろいろしゃべったよ。結社の内実がある程度わかった。そうたいしたものではない」
「ますらお神社が娼館になっていることは?」
「しゃべったよ」
「どうするんです」
「どうもしない」
「なぜです。神社の実態を世間に暴露すれば、男はみんな目覚めますよ。英雄になって神社に祭られようなんて気はなくなるでしょう」
「それもよし悪しなんだ。ああいう神社はこれからも必要になるから、権威は破壊しないぼうがいい」
 いさぎは首をかしげた。
「どういうことです」
「名誉のために死ねるのは男だけだ。そこに男の優越性がある。だから、男性優位社会を復活させ、維持していくためには、男は名誉のために死に続けなければならん。そのために神社が必要になる」
「よくわかりませんね。LH計画についてもしゃべりましたか」
「ああ」
「どういう計画なんです」
「まったくばかばかしい計画さ。女の考えそうなことだ。男女平等なんてあるわけがないんだ」
「どういう計画なんです」
「問題にするようなもんじゃない。かりに完成されたところで、恐れるに足りん」
「おれに隠すんですか」
「君にそんなことがいえた義理か」
「どういうことです」
「あの女は、君と二人でますらお神社へ行ったといっていたぞ。どうしていわなかった」
「あんな女に抱かれたなんて恥ずかしかったんです」
「なんにしても、秘密をつくるのは困るな。君のほかの報告まで信用できなくなる」
「注意します」
「もうLH計画をさぐる必要はないから、所長にあまり会わないようにしろ。反対に利用されるのがおちだぞ。わかったか」
「わかりました」
 いさぎは部屋を出た。
 夕闇の迫る街を歩いていると、寂しさが身にしみた。
 もう真理子はいない。
 それに、氷上との間にも溝ができた感じがする。男性解放運動のありかたにも疑問が強まってきた。
 ふといって、今さら女社会に適応して男らしく$カきられるものでもない。
 いさぎはこのまま家に帰る気にならなくて、「まろうど」に足を向けた。初めてこの街にきたとき入った店だ。
 店内はあまり混んでいない。前にきたときと同じくらいだろうか。だが、前のときのけだるい空気はない。動物的ともいえる精気が満ちている。
 いさぎはカウンターに座り、ウイスキーを注文した。
 飲みながら、真理子のことをひとつずつ思い出していく。出会い、何度も駅まで送られたこと、キャバレー・ビルでの講義、初体験、そして、あの家を出たいといったこと……そういえば、あれはなんだったのだろう。
 いさぎはあのときのことを思い出す。あれは確かワクチンが初めて供給された日だった。真理子はおそらく、矢島たちがワクチンを打つことに身の危険を感じて、あそこから出ようとしたのだ。そして、いさぎにいっしょに住んでほしかったのだろう。だが、いさぎにはまるでそんな気はなかった。
 だから、真理子もすぐに諦めてしまったのだが、もしあのときいさぎが真理子の気持ちをくんでいたら……。
 真理子のはっそりした可憐な姿、気弱そうなほほ笑みが思い出される。そして矢島や雨野が真理子を犯している場面が……まったくなんてやつらだろうと思ったとき、自分自身のことに思いいたった。
 自分もまたワクチンを打ったとき、すぐに真理子を抱こうとして、場合によってはレイプしてでもと考えたのではなかったか。結果的にレイプにならなかっただけなのだ。
 そんなことを考えていると、肩をたたかれた。
「よっ、久しぶりだな。どうしたんだ、そんなしけた面して」
 中西だった。この店まで案内してもらったのがこの男だ。
 中西は隣に座った。
「大杉博士の講義以来か。最近はどうだ」
「まあな」
 中西は首をかしげた。
「なんかあったのか」
「真理子が死んだんだ」
「ああ、そういえば聞いたな。ビルから飛び下りたんだって」
「ああ」
「どうして」
「まあいろいろあって」
「ふうん」
 中西はそれ以上聞いてこなかったが、いろいろ考えている様子だ。やがてたまりかねたように質問してきた。
「お前、あの子と寝たのか」
「ああ」
「ふうん」
 中西はまたしばらくグラスをもてあそんだりしていた。
「立ち入ったことを聞くけど、どうだった、寝た感じは」
「よかったよ。とにかく女らしいから。今の時代にあれだけ女らしい女はまずいないだろうな」
 中西はいさぎの顔を見つめた。
「お前、あのことを知ってるのか」
「あのことって?」
 いさぎも中西の顔を見た。中西はほとんど顔をくっつけんばかりにして、いさぎの目をじっと見つめる。
「そうか、知らなかったのか」
「なんのことです」
「知らないなら知らないでいいんだ」
「今さらそれはないでしょう。いってください」
 中西はしばらくためらってからいった。
「実はな、彼女はほんとうは男なんだ。性転換したんだ」
「えっ」
「おれはあの兄弟を子どものころから知っている。兄貴はあの通りたくましいが、弟は――本名はたつしというんだが、ほんとうにきれいな少年だった。なぜそんな男がメンズ・リブなんかやるのかわからんが、あの兄弟はとりわけ熱心だった。そして彼らは、今の男にほんとうの男らしさを教えるには、ほんとうの女らしさをもった女がいなければならないと考えたんだ。しかし、今の時代にそんな女はまずいない。いたところで、協力するはずもない。そこで、弟が性転換することにしたんだな。
 真理子とは皮肉な名前をつけたもんさ。だが、氷上のグループがあんなに大きくなったのは、やはり真理子がいたからだろう。みんなの偶像的存在だったからな」
 いさぎはほとんどあっけにとられて聞いていた。自分がこれまで信じてきたことはいったいなんだったのだろう。自分が男らしさのイメージを思い描いて、それに向かって努力してこられたのは、その対極に真理子という存在があったからなのだ。
 そういえば、初めてキスしたとき、真理子の反応は明らかに男のものだった。それに、セックスにおいても、だいたいこちらの期待する通りの――つまり女はこうあってほしいと思う通りの反応だった。所長の反応が複雑多彩で意外性に富んでいるのと比べると、明らかに違う。
「このごろの性転換手術は、見ただけではわからないっていうから、まあむりはないさ」
 中西は慰めるようにいった。
「グループ内のみんなはそのことを知っていたんでしょうか」
「一応隠していたんだろうが、古いメンバーなら知っているさ」
 とすると、雨野はともかく矢島は知っていたはずだ。それでいてどうしても真理子を抱きたかったのか。
「彼女――つまり弟は、運動にプラスになるというだけの理由で性転換したんですか」
「そのへんはおれにもよくわからないんだが、それだけとも思えないからなあ。やっぱりそういう性癖があったんじゃないか。なんにしても、かわった兄弟だよ」
 いさぎは真理子の心中を考える。いさぎのことをどう思っていたのだろう。異性として好きだったのだろうか。
 そのとき、いさぎはあることに思いあたる。真理子は、いさぎと寝た時点でワクチンは打っていないのだから、変性エイズで死ぬ可能性があったのだ。それでいていさぎと寝たということは、いさぎを真剣に愛していたのか。
 考えるほどに、なにか奈落の底に落ち込んでいくような気分になった。真理子にしても矢島にしても氷上にしても、どこか常軌を逸している。これが男というものだろうか。やはり逸脱と暴走の性なのか。
 いさぎは真理子が自殺した理由がわかるような気がした。ただ輪姦されたというだけではないだろぅ。女の立場から、ワクチンを打った男が男らしさを獲得していくのを見て、男らしさそのものに絶望したのではないだろうか。
 いさぎはさらにウイスキーをあおった。酔った頭で真理子のことばかり考えた。いつも控え目でおとなしく、なんとなく影の薄かった真理子は、逆に死後になって、いさぎの脳裏にくっきりと焼き付けられることになった。

   第十章

 路上には、石や砕けたコンクリート片が散乱し、まだあたり一帯に催涙ガスのにおいが漂っている。打ち捨てられたプラカードには「近代に返れ」のスローガン。男ものの靴の片方が転がっている。
 交通規制がとけて、車道を車が走り始めた。歩道にも人が戻ってきて、商店主はシャッターを開け、ワゴンを外に出したりしている。
 人々の表情は一様に固く、どこか不機嫌さを秘めている。
 いさぎは肩をすぼめ、うつむいて、少しでも小さく見えるようにして歩いた。胸を張って堂々としていると、さっきまでいたデモ隊の一員と間違われかねない。
 まだアマゾネスの一団がいた。彼女らは、昔の軍服のような枯れ草色の服を着ている。あの露出的な服は、今はまったく見ることができない。
 十月の空は青い光が散乱し、どこまでも高く澄んで見えるのに、地上は対照的に、どこかまがまがしい影が差しているように思われる。
 いさぎが氷上に出会い、歴史の真相≠知ってからほぼ一年。この一年の間に、世の中は激動し、大きな変化を遂げた。
 とりわけ、ワクチンが普及し始め、五月から毎月一回統一行動デーが行われるようになってからの変化は、目を見張るものがある。
 六月、七月、八月と回を追うごとに、デモや集会の規模は大きくなり、警官隊やアマゾネスとの衝突も激しいものになっていった。そして、九月に入るころから、もはや統一行動デーにかかわりなく頻繁にデモが行われ、乱闘が演じられた。男たちが乱闘そのものを目的とし出したのだ。
 アマゾネスも対抗して動員力を強化し、またコスチュームを、全身をおおう厚手のものにかえ、木の棒などの武器を手にした。
 警察は、いったいどこにしまってあったのか催涙ガス銃をもち出し、警棒を重いものにかえた。また、デモ鎮圧専用に、特別に訓練された部隊を編成した。人員増強のために、街の各所に警察官募集のポスターが張られた。
 いさぎは、こうしたことが国家誕生の萌芽なのかもしれないと思った。
 またそのころ、政治制度の痕跡が現代にもあることが発見された。
 ますらお神社のセレモニーに列席する総理大臣や各大臣は、行政監視員の中から選ばれる。行政監視員というのは、行政機構の不正や怠慢を監視するのが主な役割で、数年に一度、一般人による選挙で全国で五十人程度が選ばれる。このことは、たまに公報で選挙のことが知らされるので、いさぎも知っていた。だが、行政監視員の会議は国会と呼ばれ、それに、行政監視員には法律の制定や改正に承認を与える役割もあることが明らかになったのだ。つまり、行政監視員とは、昔の政治で重要な役割を果たした国会議員にあたるものらしかった。
 これまで、法律の制定や改正という地味な仕事のことなど、誰も見向きもしなかったのでわからなかったのだ。
 そして、十月に行われる行政監視員の選挙に、何人ものリブ派の男が立候補の届出をしたために、
 これを受理すべきかどうかで世間は大騒ぎになった。彼らは、男性が行政監視員になるのを禁止する法律はないと主張したが、これはまったく盲点をついたものだった。それまで行政監視員は、ますらお神社に連なる宗教的な存在だと思われていたのだ。
 法律で禁止されていないというだけの理由で立候補を認めてよいものかどうか、もし認めると将来ますらお神社に男が立ち入るという事態も起こりうるのではないかと、議論が沸騰した。社会についての深い見識が求められる行政監視員に、男が立候補すること自体言語道断だという意見もあった。
 結局、立候補届は受理されなかったのだが、男性解放運動は、立候補を認めよという新たなスローガンを見いだした。
 一方、保守派の男たちも、男性解放運動に反対する声を上げ始めた。解放運動を取り締まる新しい法律を制定せよという運動も起きた。今の法律では、デモで逮捕されてもすぐに釈放されるからだった。法律制定運動の指導者はテレビのインタビューで、「ぼくはほんとうは家族のために尽くしているときがいちばん幸せなんです」と前置きをしてから、解放運動を攻撃する激しい言葉を並べ立てた。
 いつのまにか人々は、社会問題に関して議論する習慣をもち始めていた。政治がよみがえろうとしているのかもしれなかった。
 いさぎは赤坂住宅街の入口のところで、検問していた警官に止められた。二、三か月前から検問所が設けられ、常時検問が行われている。
 いさぎは警官に自分の名前を告げ、高原所長の家を訪ねるところだといった。警官は所長の家に電話して確かめてから、いさぎを通した。
 いさぎが高原所長の愛人になっていることは、最近研究所の中でも一部の者に知られている。もっとも、いさぎが過激派のメンバーであることまでは知られていないはずだ。
 家に行くと、幸い所長一人だった。このごろは休日でも誰かと仕事の打ち合わせをしていることがときどきある。
 だが、所長は「ごめんなさい。せっかくきてくれたけど、わたし、もうすぐ出かけなければいけないの」といった。
 いさぎは正直なところがっかりした。二人で逢瀬をもつ機会は、この先それほどないのではないかという気がしているからだ。
「もう少しかたづけることがあるから、ちょっと待ってて。車で行くから、いっしょに出ましょう」
 いさぎと所長は居間に入った。
 ほんの少しの間、二人は向き合う。所長の表情には疲れが感じられる。いや、疲れというより、あせりといったほうがいいだろう。
 いさぎには、所長がこのごろあせりを感じているのがよくわかる。
 LH計画がなかなか完成しないのに、メンズ・リブが予想以上の急展開を見せているからだ。
 所長は「音楽でも聞いてて」というと、居間にある書き物机に向かった。
 いさぎは音楽ではなくてテレビをつけた。
 ニュースで、さっきいさぎがそのあとに通りがかったところのデモの様子を報じていた。
 その次は、〈男の花道〉に効くという偽ワクチン販売の詐欺が摘発され、多量の偽ワクチンが押収されたというニュースだった。最近、このたぐいのニュースがよくある。これは、本物のワクチンを偽ワクチンとして報道しているのだった。
 ただし、摘発されるのは末端ばかりで、製造元にまでは及んでいない。
 こうしたニュースの影響で、人々は〈男の花道〉とはなんなのかという疑問をいだくようになり、そうしたところへ、〈男の花道〉とはエイズのことだといううわさが広まっていった。そのため性交を拒否する夫が現れてきた。また、激しいデモの影響で、妻の暴力に対して暴力で対抗する夫もふえつつあった。
 その一方で、伝統的な男らしさをたいせつにせよという声も強くなった。未婚の男に対する圧力はさらに強くなり、結婚式はますます豪華に派手になった。どこの式場も屋上に大型スピーカーを備えつけ、万歳三唱を街に響かせた。ますらお神社のセレモニーもさらに盛大に厳粛に取り行われた。
 ふたつの方向からの力がぶつかり合い、社会に緊張と混乱をつくり出していた。
 そして、最近よくいわれるのが、総合医学研究所こそがこうした事態を収拾する役割を担うべきではないか、ということだった。
 この混乱のもとは、〈男の花道〉はただの病気ではないかという疑問にある。だから、〈男の花道〉とはなにかということを、みんなが納得するように研究所がわかりやすく説明すればいいのではないか。さらに、男は生まれつき社会性が乏しいということも、研究所なら科学的に示すことができるのではないか。そうすればおのずと男性解放運動も鎮静化するだろう、という考えだった。
 総合医学研究所は医学界の最高権威として広く信頼されており、それだけに期待も大きかった。
 しかし、研究所は沈黙を守り、高原所長はばったりマスコミに姿を現さなくなった。
 それでも、研究所に対する一般の期待は高まる一方で、今ではむしろいらだちに近いものになっている。
 そして、最近では、研究所は〈男の花道〉の治療法をまもなく発表するのだといった、根拠の定かでないうわさまで流れ始めた。
 テレビの街頭インタビューで、中年女性が「男が暴力をふるうなんて、よっぽど家庭のしつけがなってないんでしょうね」としゃべっているとき、所長は仕事をすませたのか、立ち上がっていさぎのほうへきた。
「お待たせ。行きましょうか」
 テレビを消す寸前、中年女性は「男とはどういうものかということを誰かが教えてやらなくっちゃいけないんです。総合医学研究所はなにをしているんでしょう」といった。
「あんなこといっていますよ」といさぎはいった。「なんかしなくていいんですか」
「もうしばらくしたらね」
「手遅れになりますよ」

「手遅れになったらどうなるの」
「さあねえ……」
 いさぎは戦争博物館襲撃計画のことは所長にいっていなかった。所長はLH計画のことを秘密にしているから、お互いさまだ。
「そろそろあなたにも、男のほんとうの姿が見えてきたんじゃない」
「まあいろいろありますけど、これまで男はずいぶん抑圧されてきましたから」
「でも、男性優位社会でも、戦争や暴力は日常茶飯事だったのよ」
「戦争ねえ。人類はずっと戦争をしてきたんだから、ある程度戦争もしかたないんじゃないですか」
「ある程度ですめばいいんだけど」所長は少し眉をひそめた。
 いさぎは家を出て、所長の車に乗り込んだ。
 検問は簡単に通過した。所長は研究所に行くということで、いさぎは四ッ谷駅の近くで下りた。
「来週はたぶん大丈夫だから、また来週ね」
「ええ」
 走り去る車を見送ったいさぎは、これからどうするか考えた。
 今日の夕方、新宿近くのアジトで会合があり、出席することになっているのだが、まだかなり時間がある。
 いさぎは戦争博物館を見ようと思いついた。市谷だからすぐ近くだ。
 いさぎは歩いて向かった。やがて博物館の建物が見えてきた。
 実に広大な敷地の中に博物館はある。建物はいくつもあって、それが通路でつながれている。全部をゆっくり見ていけば、どれだけ時間がかかるかわからない。
 入場は無料だ。だが、わざわざ見にこようという人はまずいない。歴史教育のために先生に引率されて子どもたちがくるくらいだ。
 今日は日曜だから、子どもたちもいない。いさぎが入っていくと、まるで人影はなく、不気味に静まり返っていた。
 入ったところは古代のものが陳列され、あと順路に従って時代が下がっていき、近代で終わりとなる。だが、実質的に展示の大部分を占めるのは、近代のものだった。
 刀剣、槍、弓矢、鎧兜、馬に引かせる戦車、投石器など、さまざまなものが陳列されている。合戦絵巻があり、城の模型があり、戦士の蝋人形がある。
 いさぎはそれらを横目で見ながら、早足で歩いた。目的は近代兵器だ。
 やがて銃が現れ、そして近代となった。
 近代でも前期はまだ素朴な武器が多いが、たちまち多様化し、複雑高度になり、巨大化する。
 そして、この博物館には膨大な魔の近代兵器が収められていた。
 近代兵器は、確かに武器の頂点を極めたものといえる。軍備が全廃されたとき、当時の人々は、それらを人類の文化遺産として残しておかなければならないと考えたのだろう。
 ひとつの部屋には同じ種類のものが並べられていた。たとえば小銃ばかりの部屋、機関銃ばかりの部屋、といったぐあいだ。小銃だけでも数百挺あり、いさぎの目にはどれもほとんど同じに見えるが、少しずつ違っているらしい。軍服もあるし、水筒、シャベルなど戦争と直接関係ないものもある。
 大砲などはさまざまな大きさのものがあり、いくつもの部屋に分かれて収められている。戦車、装甲車、戦闘機も、いくつもの種類のものが展示されている。ミサイルの最大のものは、地球の裏側までも飛ぶという。
 いさぎはそれらのものを比較的注意深く見ていったが、しだいに気分が悪くなってきた。近代兵器のぎっしり詰まった部屋は際限もなく続き、まるで悪夢の世界に迷い込んだようだった。
 近代兵器というのはまったく異様だ。近代以前のものには、鎧兜はもとより刀や槍にも装飾が施され、その時代の美意識が反映しているのに、近代兵器にはいっさい装飾というものがない。いさぎは小銃や機関銃が大量に並べられているのを見たとき、どこかに彫刻が施してあるに違いないと思って目を凝らして見ていったのに、たったひとつも見つけられなかった。軍服も、まったく美しくない泥のような色を使っている。どこを見ても金属光沢と無彩色ばかり。緑色に塗られた戦車を見つけたときは救われた気がしたものだが、説明を読むと、装飾ではなくてジャングルの中で目立たなくするものだという。近代人には、兵器に装飾をすることがタブーだったのだろうか。
 二十世紀の戦争の映像資料を見ることもできた。それぞれの兵器がどういう機能をもっているのかがよくわかる。
 いさぎはそれを見て、近代人の狂気を感じた。人を殺すということに関してこれほど合理主義を貫けるというのは、とてもまともな精神のなしうるわざではない。
 大量生産と大量殺教――近代がそういわれるのはもっともだと思われた。
 やっと博物館の外に出たときは、悪夢から覚めたようにほっとした。
 いさぎは「近代に返れ」というスローガンに疑問を感じた。それから、博物館襲撃計画にも。
 この博物館は、いわばパンドラの箱だ。たとえ小銃と機関銃だけでも、銃弾とともにこの世に解き放たれたら、恐ろしい災厄がもたらされるのではないか。
 それにしても、この博物館は盲点に入っているらしい。警備もほとんどないようなものだ。
 いさぎは新宿近くのアジトへ向かった。
 アジトは八階建ての廃ビルの中にある。ここは会議専用のアジトで、万一警察に踏み込まれても、
 隣のビルに渡れるようになっている。ワクチンを集配するところは別にある。
 入口あたりに見張りの男が何人かたむろしていた。彼らは二十世紀の音楽家をまねて、ジーンズや革の服を着、長靴をはき、金属のとげが生えたベルトや鎖をまとっている。
 八階まで歩いて登った。
 会合の行われる部屋には、すでにかなりの人数が集まっていて、熱気が満ちていた。
 みんなが口々に話しているのは、武器の操作方法についてだった。古い文献のコピーを見ながら議論している者、木でつくった小銃の模型をもって動作を示している者など、みんななにかにつかれたように夢中になっている。
 いさぎはさっき見た近代兵器を思い出し、どうしてみんなはこんなことに興奮できるのだろうと思った。
 まもなく会議が始まった。参加者は、氷上のグループの幹部が中心だが、ほかのグループの代表らしい人物もかなりきている。
 氷上の存在は、このところ解放勢力の中において急に重みをましている。もちろん彼自身の指導者としての資質もあるが、大杉博士がバックにいて理論面でリードしていることが大きいようだ。
 戦争博物館襲撃計画も、氷上が最高責任者になっている。これがうまくいけば、氷上はさらに重きをなすだろう。
 まず矢島が立って、計画について説明した。
 博物館の倉庫には、量は少ないが銃弾も砲弾もひと通りそろっていることが確認された。火薬は、抜かれていなかったとしても、変質して効力が失われている可能性が高い。だから、われわれは火薬と雷管を用意している。博物館に侵入すればまず銃弾に火薬を詰め、雷管を取り替える。そして、銃弾のサイズはいろいろあり、サイズは同じでも製造会社が違うと合わなかったりするから、よく確認して合う銃に装填する。それらの作業を迅速に行えなければいけない。ただし、いくつかの基本的なサイズの銃弾は現在秘密工場でつくっているから、それはすぐに装填することができる。砲弾も場合によっては使用可能かもしれない。銃の操作はあらかじめ頭にたたきこんでおくこと。以上のことが、しておくべき準備である。襲撃の手順と日時はあとで連絡する。
 それから、それぞれの分担が決められ、質疑応答が行われた。
 かなりたってからやっと、「銃で武装したあとはどうするんですか」という質問が出た。
 みんな襲撃と銃の操作のことで頭がいっぱいで、そこまで考えていないのだ。
 矢島が答えた。
「外に出て街頭のデモ隊と一体になり、とりあえず総合医学研究所へと向かい、そこを占拠する」
「どうして総合医学研究所なんかを占拠するんですか」
かわって氷上が答えた。
「ここは女社会をつくり出した元凶だからだ。最悪の場合は破壊するし、もし占拠が続けられたらそこのデータや設備をわれわれが利用する。ワクチンの製造も行えるはずだ」
 それから、議題がかわった。氷上が演説を始めた。
「諸君、われわれは今、重大な転機を迎えつつある。われわれは長年地下活動を行い、弾圧に耐える柔軟な組織形態をつくり上げてきた。しかし今、われわれは地下から地上へ出ようとしている。それに合わせて組織もまたかわらねばならない。いったいどのような組織形態にするのか。これもまたわれわれは近代人の知恵に学ばなければならない。
 昔、政治があったころ、政党という組織があった。これは人類がつくり出した組織の中でも、軍隊と並んで最高の形態である」
 氷上は政党とはどんなものであるかを説明し、今こそ政党を結成しなければならないと主張した。これは当然、大杉博士の知恵によるものだろう。
 そして、この場で政党結成準備委員会が設けられることになった。みんなもうひとつ政党というものがよくわからないようだが、とにかく賛成した。
 会議が終わると、いさぎは氷上に呼び止められ、研究所の建物の構造や警備の状況について質問された。
 いさぎは研究部門には行ったことはないし、あまりよくわからないが、だいたいのことを説明した。
「研究所を襲うときは、内部から手引きしてもらうことになるからな」と氷上はいった。
 いさぎはうなずいた。
「それにしても、あの政党というのはなんですか。よくわかりませんでした」
 氷上はにやりとした。
「あれがつまり、構成員の人格にかかわりなくちゃんと機能する組織なのさ。統制のとりやすいピラミッド型にして、上の命令に従わない者は、除名するか懲罰にかける。そして、なにが善でなにが悪か、誰が敵で誰が味方かということも、すべて上が決定する。こうすれば、どんなに人格的にだめな人間でも、一人前の働きをすることができるわけだ。今後は政党に限らず、こういう組織がふえていくだろう」
 いさぎは、なるほどと思いつつも、なにか直感的に好ましくない気がした。少なくとも自分は、あまりそういう組織に入りたいとは思わない。
 そこへ雨野がやってきた。
「すみません。木下さん、ちょっと手伝ってもらえませんか」
「なんだ」
「大杉博士のところに届けるものがあるんです。おれ一人ではちょっと重いもんで」
「いいよ」
 いさぎは氷上にあいさつし、雨野について部屋を出た。
 七階の小さな部屋に入る。明かりをつけると、隅に裸の女が横たわっていた。
「アマゾネスなんです。きのう仲間の一人をつけてきましてね」
 女は後ろに回した両手首と両足首を縛られ、口にさるぐつわをかまされている。体中に傷がついている。
「小さい女じゃないか」
「このごろはこんなのが多いんです。下っぱですよ」
 女は救いを求めるように、弱々しい目でいさぎと雨野を見上げた。
「ちぇっ、生きがよくないな。水でも飲ませておくか」
 雨野は部屋を出るところで振り返り、いさぎにいった。
「今のうちに一発やってもいいですよ」
 もう相当数の男にやられた″のだろう。恥毛のあたりに痕跡がうかがえる。
 水の入ったコップをもってきた雨野は、女の上体を起こし、さるぐつわを外した。
「飲みたいか」
 女はうなずいた。
「そうだろう。きのうから飲まず食わずだからな。お願いしますといってみろ」
 女は口がしびれているのか、いいたくないのか、ほんの少し唇を動かしただけだ。その瞬間、雨野は女の頬を激しく平手打ちした。
「なんだ、それは」
 雨野の声は怒気を含んでいる。
「すみません」
 雨野は、倒れた女の髪をつかんで引き起こすと、また頬を打った。
「すみませんじゃないだろう。ありがとうございましただ」
「ありがとうございました」
 女は涙を流しながら、かろうじていう。
「今度はお願いしますだ」
「お願いします」
 雨野はコップを女の口もとにもっていって、飲ませた。
女が飲み終わると、雨野は、
「なんていうんだ」
「ありがとうございました」
「そうだ。それを忘れるな」
「お前、なにやってるんだ」といさぎはいらだっていった。
「女らしさを教えてやってるんです。これでもだいぶ聞きわけがよくなったんですよ」
 雨野は女にさるぐつわをかませると、かたわらにあった大きな布の袋をとった。
「これから別のところへ連れていってやるが、長生きしたかったら、女らしさを忘れるんじゃないぞ」
 雨野は女を袋に入れ、口を縛る。
「博士のところへもっていってどうするんだ」といさぎはいった。
「あの人も好きなんですよね。そっちをもってもらえますか」
 二人して袋をかついで一階まで下ろした。雨野が車を回してきて、トランクに入れる。
 いさぎは助手席に乗り込んだ。雨野は運転しながら、いさぎに話しかける。
「戦車って知ってますか」
「大砲のついた建設機械みたいなやつだろう」
「ええ。おれ、あれを動かしてみようと思うんです」
「動くかな」
「やってみないとわからないけど、あれが街に出てきたらみんなびっくりしますよ。大砲は撃てるかどうかわからないけど、機関銃がついてますからね」
 いさぎは博物館の映像資料で見た、戦車が建物を突き破って進んでいく場面を思い出した。
 博士の家はそんなに遠くない。すぐに着いた。
 近くに人影がないのを確かめて、トランクから袋を出す。
 歓楽街を少しでも離れたところは、暗くなるとまず人通りはない。
 また二人して袋を五階まで運び上げた。
出迎えた大杉博士の顔を見たいさぎは、一瞬ぎょっとした。以前のような豪放な感じがなくなって、目の奥にどこか病的な光があるのだ。そして、博士は袋に気づくと、さらに不気味な笑いを浮かべた。
「ほう、待っておったところだ。今度はどんな女かね」
「これは絶対博士のお好みですよ」と雨野がいった。
「奥の部屋まで運んでくれ」
 いさぎと雨野は袋をかついだまま奥へと行った。本の詰まった部屋があり、マイクロフィルム、磁気媒体の部屋があり、次に視覚関係の部屋がある。その奥の部屋には、いさぎはまだ入ったことがない。
 博士はそこの扉を開けた。
 中は――いわば拷問室だった。以前真理子といっしょに行った貸し部屋に似ている。人体を拘束するさまざまな器具、鞭、刃物まである。そして、よく見ると、部屋のあちこちに血のあとのような黒いしみが……。
 雨野は袋を開けて女を出した。女は不安そうな目で周りを見回す。
「ふむ、なかなかいいじゃないか。ちょっと傷がつきすぎだが」
「これでも、きのうつかまえてすぐにもってきたんですよ。でも、丸一日なにも食わせてませんから、ちょっと弱ってますけど」
「そうか。じゃ、最初になにか食わせておくか。やっぱりある程度生きがよくないとな」
「逃がさないようにしてください。アジトを知っているんですから」
「ぬかりはないさ」
 博士は、食事の用意のためだろう、部屋を出ていった。
いさぎは雨野にいった。
「もう何人もここへ連れてきているのか」.
「おれの知ってるだけで四、五人になりますかね」
 女をそのままにして二人は部屋を出た。雨野は扉を閉めてからいった。
「まったく、すぐ殺しちまうんですよ。それもだんだん早くなってきましてね。そんなに次から次へとかわりの女がつかまるわけないんですから」
 そこは視覚関係の部屋だった。雨野はひとつのキャビネットを指差した。
「みんなビデオに撮ってあるんです。最初の女は、木下さんが誘い出した女ですよ」
「武田部長か」
「それです。聞き出すだけ聞き出したあと、おれがここへもってきたんです。あれはひどい女だったけど、博士は大喜びでね。いたぶりかたもそうとうしつこかったようですよ。見てみますか」
「いいよ」
「おれなんかも、なにも殺さなくてもいいと思うんですがね」
 そこで雨野は声を低くした。
「博士が奥さんと死に別れたのは、殺したからだという話があるんです。ほんとみたいですね」
 二人は居間に行った。博士は台所でなにかしながら、声をかけた。
「今日、氷上君は政党結成の話をしたかね」
「ええ」と雨野はいった。「でも、なんだか面倒くさそうな組織ですね」
「そんなことはないさ。善悪を考えなくてもよくなるから、かえって楽だ」
「そんなもんですか。じゃ、おれたちは帰りますから」
「そうか。ゆっくりしていけばいいのに」というが、あまりその気のなさそうな声だ。
 玄関まで送りにきた博士は、「博物館襲撃はいつごろになりそうかね」といった。
「はっきりはしなかったけど、あと一、二か月ってとこじゃないですか」
「そうか。まあがんばるんだな。君らは歴史的な瞬間に参加するんだ。これは二十二世紀のバスチーユだ」
「なんですか、それ」
「知らんのか。大量殺戮のあと、よりいっそうの男性優位社会をつくるきっかけになった歴史的な出来事だ」
「はあ、そうですか。じゃあ、失礼します」
 いさぎと雨野は薄暗い階段を下りた。
 ビルの外に出て車に乗るとき、雨野がいった。
「女の死体をどう処理してるか知ってますか。屋上に出しておくんですって。そうすると、カラスがきて食べるんです。毎朝、かなりの数のカラスが集まるっていってましたよ」
 いさぎはビルの上を見上げた。もちろん今は闇夜で、カラスなどいるわけがない。五階の窓だけ明かりがついている。
 だが、なぜかいさぎは、闇の中にたくさんのカラスが乱舞しているイメージを思い描いた。

   第十一章

 世の中はいっそう騒然としてきた。
 それは、ふたつの潮の流れがぶつかり、大きな渦を巻くのにも似ていた。
 男性解放運動は加速度的に力をました。それは街頭ばかりでなく、さまざまなところに影響を及ぼした。家庭で、夫と妻の力関係が微妙に変化した。職場で、若い男たちがつまらない仕事ばかり押しっけられることに不平をいい始めた。また、近代のファッションや生活様式が流行としてもてはやされるようになった。
 街頭では、別に信念もなく、ただ暴力をふるって騒ぐのが好きというような男がふえて、ますます力で警察やアマゾネスを圧倒し始めた。
 対抗して警察予備隊なるものが創設されることになったが、どういう実態のものか、まだ明らかにされていない。
警察やアマゾネスより、むしろ保守派の男たちの動きが目立ち始めた。
 彼らは、死刑復活を含む男性暴力禁止法を制定せよと主張するなど、きわめて過激な論議を展開した。また、組織的に実力行使にも出始め、解放派の男たちと乱闘を演じることもあった。もちろん保守派の男はワクチンを打っていないので、死の恐怖を感じたに違いない。彼らは、日本の伝統に従わない男との戦いは正義の戦いだから、万一死者が出れば、英雄としてますらお神社に祭れと主張した。
 男のやることや主張することはとかく過激で、派手に見える。そのため、男対女の戦いだったのが、いつのまにか男対男の戦いに見えるという奇妙な状況になってきていた。
 いさぎはそうした状況を見ると、高原所長のいった男性問題という言葉を思い出した。確かに男は、逸脱と暴走の性かもしれなかった。
 そうした混乱の中で、総合医学研究所は依然沈黙を守っていた。高原所長もまったく社会の表面に姿を現さない。
 にもかかわらず――というよりむしろそのためか、研究所は〈男の花道〉の画期的な治療法を開発し、まもなく発表するのだといううわさがいっそう広まっていった。
 そしていさぎは、所長との逢瀬にだけ慰めを見いだす日々を送っていた。
 男性解放運動には疑問がつのるばかりで、このごろは連絡があって呼ばれても、用事があることにして行かないようにしている。
 氷上、矢島、雨野、大杉博士……ああした人間が中心になっている運動が勝利して、世の中を動かすようになったとして、それで世の中がよくなるとは思えない。いや、むしろ悪くなる気さえする。
 かといって、このまま女性優位社会が続くことがいいわけではない。
 いさぎは、どちらに行っても行き止まりの別れ道に立たされた気がした。
 ただ、所長の進めるLH計画が成功して、男女平等社会が実現する可能性があるのなら、それがひとつの希望になる。
 もしかして所長がこれまでLH計画のことを明かさなかったのは、いさぎがそういう心境になるのを待っていたからかもしれない。
 だが、ここまできては、かりに実現可能なことだったとしても、もはや手遅れかもしれなかった。
 そんな中でいさぎは、男の幸せということをこのごろよく考えるようになった。
 男というのは、もともと局所的専門的なことに力を集中する動物で、あまり社会的な活動をすることには向いていないのではないかという気がしてきた。たとえば氷上にしても、男性解放運動のリーダーとしてはきわめて優秀だが、男性解放運動以外のことはまったく考えていないのだ。
 どうせ局所的なことしかできないのなら、まず女を愛すること、家族に尽くすことにこそ集中しなければならないのではないだろうか。
 それに、いさぎも九月で二十五歳になって、母と妹からいよいよ結婚を急がされているという事情もあった。いさぎがメンズ・リブの活動をしていることはすでにばれていた。だからこそ結婚してまともにならなければならないというわけだ。
 そんなふうにして、十一月も終わりに近づいたある日のことだった。
 仕事に没頭していたいさぎは、課長から、所長室へ行くようにと告げられた。
 二人の関係はこれまで職場にもち込んだことがないから、いさぎは意外な気がした。
 課長はそれ以上に意外そうな顔をしている。
 いさぎは机の上をおおざっぱにかたづけて、立ち上がった。
 若林はすでに六月に結婚のため退職していた。経理課の男性はいさぎ一人なので、雑用を一手に引き受けて、このところ割と忙しい。
 いさぎが所長室に入ると、所長は一人で机の向こうに座っていた。
 いつかここへきたときと同じに、午後のやわらかい光が、所長に降り注いでいる。
 所長と職員の関係なのか、それともいつもの二人でいいのか。いさぎは中途半端な表情のまま、歩み寄っていった。
 所長は立ち上がり、机の横を回る。
 ここで見ると、所長の姿はさっそうとして、威厳を帯びている。
 所長はいさぎと向かい合った。
 所長はなにかをいいかける。いさぎは軽くほほえんだ。
だが、所長は言葉をなかなか発しない。空気が奇妙に緊張し、周りが輝きを増したように思える。
「結婚しましょう」
 その瞬間は、不意のように必然のようにやってくる。
 いさぎは、ほんの少しの、それでいてまったく適切な間合いを置いてから、未知の世界に一歩を踏み出す思いで、「はい」といってうなずいた。
 所長の顔に安心と喜びの笑みが浮かぶのを、いさぎはむしろ意外な思いで見た。
 二人はどちらからともなく抱き合い、しばらくそうして濃密な時間をすごす。
 抱擁をといて、再び向かい合ったときは、もう日常の時間が戻っていて、いさぎは、なぜ所長は急にこんなところでプロポーズしたのだろうと考えた。
 だが、それをそのまま質問するのは散文的にすぎる。どういおうかと考えていると、所長のほうが口を開いた。
「そのかわり、というわけじゃないんだけど、ひとつお願いがあるの」
「なんですか」
「前にもいったけど、LH計画に協力してほしいの」
 いさぎはうなずいた。
「それは男女平等社会の実現に役立つものなんですね」
「ええ」
「どういうものなんです」
「うまく説明できないから、あしたすべてを見せるわ」
「あしたですか」
「いろいろ準備があるの。あした九時すぎにこの部屋にきて」
「わかりました」
 いさぎが帰りかけたとき、所長は唐突にいった。
「子どもができたの」
 いさぎはドアの前で振り返った。
「三か月よ」
 いさぎは所長のお腹のあたりを見た。
「ほんとうですか」
「もちろんよ」
 所長の目は真剣だった。
 セックスすれば妊娠する。当然のことだ。考えてみれば、意外に思う自分のほうがどうかしている。
 だが、いさぎは不意討ちをくらったような気持ちで、うわの空のまま廊下に出て、雲の上を歩くようにして自分の席に戻った。
 いさぎは自分が父親になるということが信じられなかった。それに、あの所長の夫になるということも――。
 しかし、しばらくじっと考えていると、しだいに事態を受け止める覚悟ができてきて、それとともに喜びがわいてきた。これは男の幸せとしても最高の部類ではないだろうか。
 それからはろくに仕事ができなかった。
 いさぎは定時に研究所を出た。
 いつもの道を駅に向かって歩いていると、街の様子がなんとなく騒がしい。警察の車が何台も通り、新聞社やテレビ局の革も見える。
 そのわけは、家に帰ってテレビを見てわかった。ついに戦争博物館が襲われたのだ。
 襲撃は昼すぎだったらしい。入館者を装った男たちが館員を人質にとって館内に立てこもり、そこへさらにトラック五台が入って、かなりの数の男が内部に入ったという。
 男たちは、近づくと人質を殺すぞと叫び、屋上に見張りを立てているので、ぐるりを取り巻いた警官隊も手を出すことができない。
 内部でなにが起こっているのかわからないまま、時間が経過していた。
 テレビのレポ一夕ーは、「館内には刀や槍など危険なものがあるだけに、人質の安全が憂慮されます」と見当外れな心配をしていた。
 夜遅くに、いさぎに電話がかかってきた。氷上ではなく、岩田という男だ。すでに実質的に政党組織ができていて、いさぎはすべて岩田の命令に従って動くことになっていた。
「あしたは仕事を休んで、博物館の周辺で待機しろ。中と呼応するんだ」
「前に氷上さんから、研究所の内部から侵入を手引きしろといわれましたが」
「ばかもん。おれのいう通りにすればいいんだ」
「はい」
「情勢はきびしい。予想したより多くの警官隊が出動している。こっちも力を集中しないといかん。わかったか」
「わかりました」とはいったものの、命令に従う気はまるでなかった。
 いさぎははっきりと男性解放運動から身を引く決心をした。
 所長からプロポーズされたからというだけではない。現在の男性解放運動の方向が間違っていると思うからだ。
 このまま運動が進展していけば、なにか恐ろしい世の中になるような気がする。
 しかし、いったん解き放たれた男の力を、今から抑えることができるだろうか。
 LH計画とはなんだろう。
 深夜になっても博物館にはなんの動きもなく、いさぎはテレビを見るのを諦めて寝てしまった。


   終章

 いさぎはいつものように四ッ谷駅の改札を出た。
 だが、朝日を浴びた街はいつもとは様子が違った。
いたるところに紺色の制服を着た警官が固まって立っている。
 それに、通行人も今日に限っていやに男が多い。指令を受けてきた男に加え、単に騒ぎを期待して集まってきた野次馬も多いのだろう。
 毎朝ここを通る勤め人たちも、いつもと勝手が違って、周りをきょろきょろ見ている。
 昨日から戦争博物館を占拠している男たちは、今朝にいたってもなんの動きも示さない。警官隊も包囲したままだ。
 だが、いずれなにかが起こるはずだという予測のもとに、野次馬が集まり、警官が周辺にも配備されている。
 いさぎの前に、総合医学研究所の建物が姿を見せた。純白のそれは、朝日を浴びて燦然としてそびえ立っている。
 今日は、あの奥深くに入っていくことになるのだろう。考えてみればいさぎは、そこに勤めているとはいえ、その内実はほとんど知らないのだ。
 研究所の周りにも、かなりの数の警官が配置されている。
 いさぎは中に入り、九時少しすぎに所長室に行った。
 所長と顔を合わせたいさぎは、愛人から婚約者に昇格したばかりで、なんとなくきまりの悪い思いがした。
 だが、所長はいつもと同じ感じで話しかけてきた。
「外はものものしい雰囲気だったでしょう」
「ええ」
「博物館の中の男たちは、なにをねらっているのかしら」
「近代の銃を使えるようにするつもりなんです」
「やっぱりね。同じようなことを考えるものね」
「どういう意味です」
「警察予備隊も銃を装備しているの。近代の銃とまったく同じものを製造してね」
 いさぎは重苦しい気持ちになった。時代は最悪の方向へ展開していっている気がする。
 いさぎは所長と顔を見合わせた。所長も同じ気持ちでいることがわかる。
「でも、まだひとつだけ希望があるわ。男性問題を解決して、究極の男女平等社会を実現する方法があるの」
「ほんとうにそんな方法があるんですか」
「ええ。これから教えるわ」
 いさぎは所長といっしょに部屋を出た。廊下を少し歩くと、事務部門と研究部門をつなぐ通路がある。
 通路の入口はひとつの部屋になっていて、警備員と専任の職員がいる。
 いさぎは服の上に白衣を着せられ、胸のところに「見学」と書かれた小さなプラスチックの札をつけられた。所長の胸のには、その地位を示すらしい記号がある。
 次に滅菌室に入る。光線とガスで体の外側についた菌を殺す仕組みになっているようだ。
 滅菌室でしばらくじっとしている。
「今日の夕方、わたしたちの婚約発表をする手筈になっているの」
「急ですね」
「ええ。しかも、全世界にテレビ中継されるのよ」
 いさぎはびっくりした。
「なんでまた」
「同時に、〈男の花道〉の画期的予防法が完成されたと発表するの」
「ワクチンじゃないんですか」
「もうすぐわかるわ」
 二人は滅菌室を出て、通路を歩く。また警備員のいる部屋があって、そこを出ると研究部門だった。
 廊下はかなり広く、壁も天井も真っ白だ。そこを白衣を着た人間が何人も歩いているのは、どこか現実離れした光景に見える。
 エレベーターで十五階に上がった。
 エレベーターを出ると、いさぎは所長と並んで歩く。廊下は複雑に入り組んでいる。ガラス張りで中の見える部屋もあって、いろいろな設備のある中で何人もの人が動き回っている。
「やっぱりちゃんと研究しているんですね」
「あたりまえじゃないの」
「だって、この研究所は規模とかお金をかけている割に、ほとんど成果が上がっていないでしょう」
「あら、気がついていたの」
「なんかわけがあるんですか」
「ええ。この研究所は、研究の成果を外に出さないためにつくられたものなの」
「なんですって」
「最初から説明しないとわからないわね。二十世紀の終わりから二十一世紀にかけては、医学や生物工学という分野が急速に進歩して、生命についての認識をかえるような大きな成果がつぎつぎと産み出された時代なの。こんな中では、変性エイズの神秘化はできないでしょう。そこで、研究はしても成果を外に発表しないというシステムをつくることになって、この研究所が設立されたの。全世界の優秀な研究者を集め、成果が上がると、公表しない代償に多額の金を支払うというシステムになっているわけ。日本に設立されたのは、当時日本が金持ち国だったからよ。だから、成果は上がってないようでも、内部の水準はかなりのものなの」
「そんなことのためにずっと大金を注ぎ込んできたんですか。研究そのものをやめてしまえばいいじゃないですか」
「それでは研究者が簡単には納得しないし、それに、またエイズのような新しい病気が発生したりして、人類が危機に瀕したときに困るでしょう。だから、内部でだけ進歩させていくことにしたの」
「まるで神学の研究をしている中世の修道院ですね」
「でも、思いもかけない効用もあったのよ。当時もっとも活気をもっていた分野を押さえ込んだことで、科学とテクノロジーの全体が沈滞化してきたの。人類が末長く地球で生きていくためにはいいことだったわ」
 いさぎは、ここもまたパンドラの箱だったのだ、と思った。内部に科学とテクノロジーの進歩が封じ込められている。
 廊下は複雑に折れ曲がりながらどこまでも続いている。ときどきすれ違う者は、必ず驚いたようにいさぎを見る。男が入ってくるのはよほど珍しいのだろう。
 やがて廊下が防火扉のようなもので行き止まりになったところに出た。扉に「特別区画」と書かれ、両側に警備員が立っている。
 所長が警備員にカードのようなものを呈示すると、警備員は扉を押し開いた。
 内部も同じように廊下が続いているが、所長は右側にある最初の部屋に入った。
 そこは集中管理室といった感じの部屋で、奥のほうにいくつも端末機が並んでいて、壁には多数のランプがついた表示盤がある。部屋の手前は長いテーブルと椅子があって、控え室のようになっている。そこに、やはり白衣を着た女が五、六人いた。
 中でいちばん年配と思われる女が、所長に向かっていった。
「お待ちしていました。すぐにでも手術できるようになっています」
「その前に、彼に被験者を見せておきたいの。二十一号と三十号がいいわ」
「わかりました。では、わたしが先に行っています」
 年配の女はそういうと、部屋の中にあるひとつのドアへ足早に歩いた。
 いさぎは所長に小声でいった。
「手術ってなんです」
「これから説明するわ」
 所長といさぎは、女のあとについてドアをくぐる。今度はいくらか狭い廊下が続いている。
 所長はゆっくりと歩きながら話した。
「わたしたちは男性問題を根本から解決し、同時に究極の男女平等社会をつくる画期的な方法を開発したの。それをこれから説明するわ。
 男性間題の根本原因は、男が自分の男らしさに自信がもてないことにあるの。どういうことかわかるかしら。あなたは前に『男はおれだ』というスローガンをいったわね。あのときわたしが笑ったのは、二十世紀に『おれは男だ』というスローガンがあったのを思い出して、男の本質はかわらないなと思ったからなの。昔の男も自分を奮い立たせるために、そのスローガンを唱えたのよ。でも、よく考えてみて。おれという言葉は男しか使わないのよ。だから、『おれは男だ』も『男はおれだ』も無意味な同義反復だわ。そんな言葉で自分を奮い立たせなければいけないのは、自分が男だということによほど自信がないからなのね。
 なぜ男は自分の男らしさに自信がもてないのかというと、男が母親という女に育てられるからなの。
 つまり男も女も、生まれてまもないころは、母親から乳を吸い、母親と肌をふれ合わせながら育っていく。女はそのまま母親をモデルに人間形成をしていけばいいけど、男はある時点で、モデルを父親に変更しなければならないの。そのため、男の人格は二重構造になって、深層には女らしさが隠されているわけ。
 そうして、自分の男らしさに深いところで自信がもてなくなった男は、男らしさとはこうだという概念をうち立て、それにそって生きていくしかないの。その男らしさの概念は、自信のなさを補うため、見せかけの強さへと傾斜するわけね。自信のない者の強がり、これがつまり男らしさの正体なの。
 まったく、この強がりのために、人類はいったいどれほどの災厄に見舞われてきたことかしら。でも、もう大丈夫だわ」
 所長はひとつの小さなドアを開けて入った。いさぎも続く。
 かなり小さな部屋で、ドアを閉めるとずいぶん薄暗い。壁のひとつにガラスがはまっていて、隣の部屋が見える。いさぎは所長と並んで、それをのぞき込んだ。
 病室のような感じの、白い清潔な部屋だ。ベッドがあって、男が寝ている。そこへ、さっきの年配の女が赤ん坊を抱いて入ってきた。
「授乳の時間よ」と女はいった。
 いさぎの部屋には、マイクを通した声となって響く。おそらく向こうからはいさぎたちの姿は見えないようになっているのだろう。
 男はベッドから上半身を起こした。
 かなり大柄なたくましい男だ。いかつい顔をしていて、ひげのそりあとが青々としている。
 男はパジャマのボタンを外し、胸をはだけた。いさぎはわが目を疑った。男の乳房がぽっかりととび出したのだ。肩に筋肉がつき、胸毛さえ生えている中に、乳房だけが女のようにふくらんでいる。
 男は面倒くさそうに赤ん坊を抱きかかえると、赤ん坊の口にみずからの乳首を含ませた。赤ん坊は気持ちよさそうに乳首を吸い出した。
「男に乳を分泌させるのは簡単なことよ」と所長はいった。「注意してほしいのは、乳房以外は、体つきは男らしいままだということね。それに、授乳期間がすぎると、すぐに乳房をもとに戻すことができるの」
「いったい、なんです。こんなことをしてなんになるんです」
「もうひとつ見せるわ」
 所長はその部屋を出た。そして、しばらく廊下を歩いてから、また別の部屋に入る。ここも同じように、隣がのぞけるようになっていた。
 やはりベッドがあって、男が寝ていた。顔が見えるから男だとわかった。これもごつごつした、どことなく凶悪そうな顔だ。
「これは苦労したの。結局、これのためにこんなに時間がかかってしまったのよ。男性科の医者なら誰にでもできるような簡単な手術でなければいけなかったから」
 そこへ、さっきの年配の女が入ってきた。
「ちょっと起き上がって、服を脱いで」
 男はいわれた通りにした。男が寝ていたときからわかっていたことだとはいえ、いさぎははっきりと目で確かめて、なにか自分のはらわたがねじくれるような気分を味わった。
 男の腹は、今にもはじけんばかりに大きくせり出している。
「臨月よ。予定日まであと十日かそこらだわ」
「ほんとうにあの中に……」
「もちろん赤ちゃんがいるのよ。妊娠初期の胎児を女の体から取り出して、人工子宮とともに男の体内にうめ込むの。ごく簡単な手術よ。出産のときは切開するけど、女が出産するのとそんなに違うわけじゃないわ。それに、ペニスもこうがんもまったく損傷を受けないの。もちろんすでに出産も成功しているわ。前に見せた男は、あの赤ん坊を自分で産んだのよ」
「こんなことをしていったいなんになるんです」
 いさぎはほとんど叫ぶようにいった。
「これで男性問題が解決するのよ。妻が妊娠すると、すぐに胎児の性別を判定して、胎児が男だとわかると、人工子宮とともに夫の体にうめ込む。そうして男の子は父親が産み、授乳も父親がする。つまり、男の子は父親が一貫して育て、女の子は母親が一貫して育てるわけ。こうして育てられた男は、強がりなんかいらない、ほんとうに男らしい男になるわ。
 と同時に、女は出産授乳というハンデから解放され、究極の男女平等社会が実現することになるの。
 これまで、男女平等を実現しようとしたどんな理論も、女だけが出産授乳をするということからくる不公平を解決することはできなかったのよ」
 所長は自信たっぷりの笑顔を見せた。
「そ、それじゃ、これを全世界の男に?」
「ええ。これを〈男の花道〉の画期的な予防法として発表するの。体内に人工子宮をうめ込んだ男は〈男の花道〉にはならない、といってね。もちろん手術するときにワクチンを注射するわけ。
 当面は、子どもを産む男にだけ手術するけど、いずれは男はみな十八歳くらいで人工子宮をうめ込むことにするの。そうすれば、男は完全にエイズの恐怖から解放されることになるわ。
 それに、これで男も家庭の中での役割に自信がもてるようになるわ。これまで父親というのは、そもそも父親であるという根拠も定かでないし、子どもにとってほんとうに必要なのかどうかもはっきりしない存在だったの。それも男性間題のひとつの原因になっていたのよ。
 ただ、どう発表するかが問題だったの。ここの被験者は凶悪犯罪を犯した長期服役囚で、減刑を条件に協力してもらっているんだけど、愛情をもって子どもを育てるということでは難点があるし、男らしさについてもゆがんだイメージをもっているの。その点、あなたなら大丈夫だわ。あなたはかなり本来の男らしさをもっているし、愛情をもって子どもを育てることもできるはずよ。今、わたしのお腹にいる子どもは男なの。もちろんあなたの子よ。これから手術して、この子をあなたのお腹の中に入れるの。そして、六時から記者会見をして、〈男の花道〉の予防法と同時にわたしたちの婚約を発表し、あなたを生きている英雄″として紹介するのよ」
「生きている英雄?」
「ええ、人工子宮を体内にうめ込むのは、最初は心理的な抵抗があるでしょう。だから、奨励する方法として、手術を受けた男は、生きながら英雄としてますらお神社に祭られることにするの。でも、次の世代になれば、男の体から生まれた男は、自分も男を産むことを当然のこととして受け入れるはずよ。
 まずわたしたち夫婦が見本を示すの。わたしたちの姿は、新しい理想の家庭の第一号として全世界に知らされ、あなたのお腹が大きくなっていくところ、子どもを産んで、育てていくところが逐一報道される。世界の人々はみなそれにならうようになるでしょう。あなたの育てた子どもが、強がりなどいらないほんとうの男になっていくのを見れば、みんな納得して真似をするようになるわ。それに、これが真の男女平等への道だということがわかれば、リブ派の男たちも同意するでしょう。あなたがもと過激派だということも、むしろいい宣伝材料だわ。さあ、結婚して、『おれは男だ』とも『男はおれだ』ともいう必要のない、最初のほんとうの男をわたしたちの手で育てましょう」
 いさぎは所長に腕をとられ、その部屋を出た。だが、いさぎの脳裏には、大きくふくらんだ男の腹が焼きついている。
 所長はいさぎの腕をとったまま歩き出した。
「ちょっと待ってください。こんなのおかしいですよ」
「なにが」
 いさぎは考えた。いったいこれで男女平等といえるのだろうか。
「男の体にだけ人工的に手を加えるんじゃ、男女平等とはいえないでしょう」
「ごく簡単な手術なのよ。もう夕方には歩けるようになるんだから」
「そんな問題じゃないんです」
「よく考えて。これしか解決策はないのよ。このままだとどうなると思う。力と力がぶつかり合い、政治が生まれ、人々は圧政に苦しむようになるわ。そして、戦争よ。戦争の復活だけは許してはならないわ。それには、もうこれしか方法はないのよ」
「そうとは限りませんよ。男だってそんなにばかじゃありません。なんとか正しい道を見つけ出しますよ」
「今さらなにをいっているの。もうあなたにも十分男のほんとうの姿がわかったはずよ」
 いさぎは迷った。所長はいさぎの肩に手を回し、抱き寄せた。
「冷静になって考えてみて。女はみんなやっていることなのよ」
 そして、さらに耳もとでささやいた。
「戦争か愛か、どちらをとるの」
 決心したつもりはなかった。ずっと迷い続けていた。手術台にのぼったときもまだ迷っていた。隣の手術台に所長が横たわり、カーテンが引かれた。手術が始まった。意識ははっきりしていたが、すべてが悪夢のようだった。ほんとうにこれが正しいのだろうか。計画がうまくいったとすれば、人類発祥以来の男の文化が完全に途絶えてしまう。自分はユダになってしまった。男をすべて売り渡してしまった。戦争か愛かというが、これがいったい愛だろうか。所長は最初から自分を利用していただけではないのか。
 手術はまったく簡単に終わった。いさぎはそれからもずっと寝ていた。先に所長が起き上がって、部屋を出ていった。
 しばらくして、ずっと付き添っていた初老の女が、立ち上がっていさぎの横にきた。そして、手術したところにかぶせてあったガーゼをとり、ぬれた脱脂綿でふいた。
「もう起き上がっていいわよ」
 いさぎは上半身を起こして、自分の下腹を見た。へそとペニスのちょうど中間あたりに、四、五センチくらいの跡がある。すでに皮膚は接合していて、縫ったあともなく、そう思って見ないと手術跡とはわからないくらいだ。しかし、心なしか盛り上がっているように思える。異物感はないが、まだ麻酔が効いているのかもしれない。
 いさぎは手術台を降り、もと通りパンツとズボンをはいた。
「今日一日激しい運動をしないようにね。走ったりするのもだめよ。手術したところの口が開くということはないけど、胎児に悪影響があるの。もっとも、今日に限らず、これからは決してむりをしないようにね。もうあなた一人の体じゃないんだから」
 そういわれると、妙な気分になってきた。お腹の中のものがしだいに大きくなっていくのを想像すると、吐き気がこみ上げてきた。
 そこへ所長が二、三人を従えて戻ってきて、いさぎの顔を見るなりいった。
「もう歩けるわね。行きましょう。これから記者会見よ」
「これから? 六時からじゃないんですか」
「三時に繰り上がったの」
 いさぎは、とても記者会見に出る気などしなかった。まだこの事態を受け止めかねているというのに。
「気分が悪いんです」
「ああ、それは心理的なものなの。すぐ治るわ。ほんとうはもう少し時間があればいいんだけどね。でも、記者会見といっても、あなたはただわたしの横にいて、顔だけでも元気そうにしていればいいの。まあ少しは質問されるけど……そうね、あらかじめ打ち合わせしておいたほうがいいかしら。とにかく、歩きながら考えましょう」
 いさぎは所長に腕をとられ、部屋を出た。そこへ、一人の女が血相をかえて走ってきた。
「所長、たいへんです。テレビ局の中継用の車が破壊されました。中継ができません」
「テレビ局にいって、すぐ代わりの車を回させなさい」
「いいました。でも、テレビ局も群衆に囲まれていて、車は出せないと」
「なにいってるの。じやあ、こっちから行くわ」
「とてもむりです。そんな状況じゃありません」
 そのとき、どーんという衝撃音がして、床が揺らいだ。
 その場にいた五、六人は互いに顔を見合わせた。
「なんなの、あれは」
「爆発だわ。かなりの規模よ」
 鼓膜がへんなぐあいになって、声が小さく聞こえる。
 廊下の向こうから、一人の女がよろめきながら歩いてきた。頭から血を流し、白衣が赤く染まっている。そして、天井に白い煙が漂い始め、火薬のにおいがした。
 みんなそちらに向かって走り出した。所長は一瞬いさぎのことを気にしたが、すぐにみんなのあとを追った。
 いさぎも走りたかったが、さっきいわれたことを思い出し、むしろゆっくりと歩いた。
 お腹の子どもに悪影響があると思えば、はやる気持ちも自然に抑えられた。
 そうしてゆっくり歩いていると、いさぎは男の本質がまたわかった気がした。男はなぜ弱いものをいたわることができないのか。なぜすべてのものを競争の対象としてしまうのか。
 男にとって、自分以外の命はすべて外なるものなのだ。
 ほんとうは、命は命の中から生まれ、無限に連鎖していくものなのに、男はそれを理解することができない。男は切り離された生、一回限りの生を生きているのだ。そのため男は、死を名誉で飾らないではいられない。これまで男がつくり出してきたどんな思想も、決して輝かしい未来を目指すものではなかった。その深層には、名誉の中で死ぬという目的が秘められていたのだ。
 そのとき、スピーカーからの声が廊下に流れた。
「東の入口が破られました。男たちが侵入しています。すぐに階段の扉を閉めて、施錠してください。エレベーターは止まっています。すべての階で階段の扉を閉め……」
 壁にひび割れが走り、床に細かいガラス片とコンクリートのかたまりが散乱していた。何人かが廊下の床に横たえられていた。さっき走っていった女が、けが人を運び出してくる。うめき声と叱咤の声が飛び交う。
 部屋の入口のドアがもげていた。かなり大きい部屋だった。いさぎは中に入った。右側の壁に大きな穴が開き、ロッカーがいくつも倒れている。机の上はほとんどなぎ払われ、窓ガラスもすべて割れている。床の上に何人もの女が倒れていた。下半身がロッカーの下敷きになっている者、不自然に手足が折れ曲がってまったく動かない者、弱々しく動いている者……痛みを訴えて泣き叫ぶ声がずっと続いている。
 いさぎは心を閉ざしてそれらを見、聞いた。激しい感情はお腹の子に悪影響を与えるだろう。
 窓の外から、遠い記憶を呼びさますような、懐かしい音が聞こえる。いったいなんの音だろう。
 いさぎは窓に向かって歩いた。鉛色の空と遠い街並が見える。
 スピーカーが切迫した調子で叫び立てる。
「男たちは扉を爆破しています。すでに五階まで上がってきました。階段にロッカーや机を投げ落として封鎖してください。できる限りの手段で階段を封鎖して……」
 しだいに眼下の街路が見えてきた。群衆があふれていた。その喚声が海鳴りのように響き上がってくる。あちこちで車が燃えて、黒煙を吹き上げていた。はじけるような銃声が続けさまに起こる。街路には警官やアマゾネスが何人も倒れている。そして、正面の道路から、砲身を高く上げた戦車が、キャタピラの音を響かせながらこちらに向かってきていた。よく見ると、はるか遠くの街路にも男たちがあふれて、陸続とこちらに向かってくる。男たちの乱舞が一大パノラマとなって繰り広げられていた。
 そのとき、戦車の砲口が煙を発し、ほとんど同時に、いさぎの左下の部屋で爆発が起き、煙とともにコンクリートやガラス片が噴き出し、落下していった。
 男たちの中から歓声がわき上がった。
 手遅れだった、といさぎは思った。起死回生の計画は実現しない。ここは男たちに占拠され、すべては失われてしまうだろう。
 これからどうなるのか。
 世界で初めてのほんとうの男になるはずだったこの子の運命は――。
 なにもわからない。
 ただひとつ、いさぎは理解した。
 今まさに暗黒の近代が返ってきたのだ。



底本:「フェミニズムの帝国」早川書房
   1988(昭和63)年11月15日初版発行
   1989(平成1)年7月15日第3版発行